2017年9月1日金曜日

般若心経の解説 その8

無無明亦無無明尽

「明かりが無いという事も無いし、明かりが尽きてしまうという事も無い」という訳になる。亦はまたと言う意味。あとは漢字と訳を照らして欲しい。般若心経で書いてあった通り不生不滅なのだから当然だし、質量保存の法則から当然の事。空という概念の確認となる。



乃至無老死 亦無老死尽

「老いて死ぬという事も無いし、老いて死に尽きてしまう事もまた無いのである」という訳になる。人間は老いるし死ぬが、それは人間から見た視点である。空から見れば、人間の老いや死という概念は無く、それによって尽きてしまう事も無い。ありとあらゆる物は元々は空だったわけで、空だったものが形を得て、そしてその形を失って空に戻るというルールから外れるわけでは無い。老死、尽きるという概念が空に存在しないのである。



無苦集滅道

「苦しみを集めて滅する道というものも無ければ」と訳せる。苦集滅道とは、お釈迦様が悟りに至る過程で通った段階を4つに分けて説明したもの。だが、般若心経ではそれすら無いと言っている。皆、空なのだから、悟りへ至る道というものすら無いと言っているのだろう。

自分の悩みが他人からどう見えるだろう?他人の悩みを聞いた時、悩んでいる理由に心から共感できるだろうか?それを考えて見て欲しい。恐らくは客観視された悩みは、悩む価値の分からないものになっている場合が多いはず。人間は無い処に勝手に悩みを作り苦しむ事が多いのである。何と愚かな事だろう。



無智亦無得

「正しい行いをするという知恵もなければ、何かを得られるという話でも無い」という事。智とは暗に正しい行いという言葉が隠れている。馬鹿な行いをする者を知恵者とは言わないのだから。だが、空を前にして正しい、間違っているとは何だろうか?正しい、間違ってるは人から見たときの基準に過ぎない。

また、何かを得られる話でも無いのは空なれば当然。もともと空だった人間が、時を得て空に帰るだけ。空という視点では、それ以上の話でも、それ以下の話でも無いのである。



以無所得故 菩提薩埵

「所得無きを以っての故に、菩提薩埵」と書いてあるが、分かりづらいので意訳する。つまり、「自分のものに出来る物なんて無いと気づく事で、悟りへの道が開かれるのである」」という事。菩提薩埵は、インドの言葉でボーディ・サットヴァと言い、それを漢字で当て字したもの。意味はお釈迦様が悟りを開かれる前の身分を指し、それが転じてか悟りへ向け修行中の者をさしたりするようだ。

人は何も持たない裸の姿でこの世に生を受ける。そして、お金を得て色々なものを自分の物にして行くが、結局はその大事なお金すら持って死んでいく事はできない。人は裸で生まれ裸で死んでいくのだ。

だとするなら人生の意味とは何か?それは結局は心である。良い事をして、悪い事をしない。そして心を清らかに保っていく。それしか無いのである。あの世に持っていけるのは、心しかないのだから。3歳児でも知っているこの話は、80歳になってもするのは難しく、それ故に人生の命題となるのである。

お金はあの世に持っていけないのに、良い事をせずお金に終始する人生になっては、何と愚かな事だろう?お金は空であるのに、お金に執着し何と愚かな事だろう?本質的な意味で、自分のものにできる物は何一つ無いのだと気づく事が悟りへの道なのである。何かを得ようとするのではなく、得る事は出来ない事を知る事が大切なのだ。

以無所得故・菩提薩埵は色即是空に並ぶ、般若心経の核だと思う。





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