2017年9月17日日曜日

孫子の兵法 軍形編

1、敵の崩れを待つ。

孫子曰く。「昔の戦上手は自軍に負けない態勢を築き、敵が崩れるのを待った。不敗かどうかは自軍の態勢にかかっているが、勝利できるかは相手の態勢にかかっている。故にどんな戦上手も、不敗の態勢は態勢は作れても、絶対に勝てるという保証までは作れぬもの。勝利は予見はできるが、必ず勝てるとはまでは言えない。」

敵の崩れた時を撃った例として、最もイメージしやすいのは不意打ちでは無かろうか?例えば、出っ張りがあるの気づかずに頭がぶつけた経験はないだろうか?誰しも一度はあると思うが、とても痛かったはず。これが不意打ちの威力だ。普段、頭をぶつけたことを不意撃ちとは言わないと思うが、不意であることに変わりはない。意識していない時の攻撃はとても効果が高いというイメージを持ってほしい。そして、孫子の言う「敵が崩れるのを待つ」とは、この不意撃ちを意図的にできるのが戦上手という話となる。

スポーツの試合のように、お互いが万全の態勢を整えてから戦っても、戦上手は勝つ事だろう。しかし、それではコストの視点が抜け落ちている。戦争はただ勝てば良いものではないのだ。国と国との戦争では、自国が他国との戦争で弱った処を狙われるという事もあるのだから、戦争に勝つだけでは足りず、如何にコストをかけずに勝てるかが大切なのである。

最もコストがかからない勝ち方こそ、至上であることを知ろう。そう考えて見れば、敵が万全の態勢の時に攻めるのは、例え勝てるとしても脇が甘いと言え、敵の態勢が崩れた時に不意を打つ事こそが良い戦い方である事が分かる。だから孫子は、まずは守りを固め負けにくい状態を作り、相手が崩れた時を狙えと言っているのである。

とは言え実際は、相手が崩れるのをただ待つのではなく、そう仕向けて行く事になる。戦争をテーマにした物語を見れば、挑発行為をしたり、相手に偽の情報を流し騙したところを攻めたりする描写がなされたりするだろう。

例えば、三国志では諸葛孔明が司馬仲達と相対した時、司馬仲達に女の首飾りを送り挑発する描写があるが、これは諸葛孔明が司馬仲達を挑発して、司馬仲達の不敗の態勢を崩そうとしたという事だ。一向に戦おうとしない司馬仲達に対し、諸葛孔明がお前は女のような女々しい奴だと言ったのである。血気に盛る武将ならば、言わせておけばと挑発にのってしまうわけだが、司馬仲達は再三の挑発にも乗る事は無かった。そうしている内に諸葛孔明が病死してしまい戦いの幕は閉じる事になる。このエピソードも孫子の兵法に則った心理戦だった事を感じ取れる。

なお、孫子は「勝利は予見できても、必ず勝てるとは言えない」と言っているが、未来が分かる人間がいるわけでは無いのだから当然である。従って、この部分は油断せず慢心することなく、勝つまでは慎重な姿勢を崩すなという教えとして受け取るのが妥当だろう。優勢だから勝てると気を緩めると、思わぬミスをするもの。それを戒めているのだろう。

さて、今回は相手の崩れを待つという事で、柔道の話をしよう。柔道と言えば投げが華やかだが、相手を投げると言っても、相手だって動かない訳では無い。物を持ち上げるように、ヨイショと言うわけにはいかない。そこで大切になるのが崩しというテクニックだ。素人目には相手を単に担いで投げているように見えても、実際は投げる前に必ず崩しというテクニックが入っている。

では、崩しとは何か?それは相手をつま先立ちにする事である。つま先立ちにする事が何故崩すことになるのかイメージが付かない方は、つま先立ちになってみて欲しい。重心がふらつかないだろうか?足が地面にべたっとついている時より、重心が不安定になるはず。人間はつま先だちにされると、上手く堪えられないのである。だから、その時に技に入れば相手は堪えられず投げられてしまうのだ。幾ら力があっても、それを出せなければ意味が無い。だから、柔道では相手を崩すことで力を出せない状態に追い込み、その上で投げているのである。これも孫子の兵法どおりの闘い方なのだ。




0 件のコメント:

コメントを投稿