2017年9月30日土曜日

孫子の兵法 虚実編その7

7、実を避けて虚を撃つ。

孫子曰く。「その兵の形は水に象る。水の形は高きを避けて低きに赴く。兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢なく、水に常形なし。よく散によりて変化し、而して勝を取る者、これを神と謂う。故に五行に常勝なく、四時に常位なく、日に短長あり、月に死生あり。」



【解説】

孫子曰く。「そもそも、兵の態勢とは水のようなものである。水は高きを避け低きに流れていく。兵の態勢は実をさけて虚を撃つ。水は地形により流れを変え、用兵は敵に合わせて変化する事で勝ちを制する。故に用兵に常に決まったやり方は無く、水に常に決まった形は無い。

敵に合わせて良く変化し(散っては集まる)、当然のように勝利する様を神業と言うのである。故に陰陽五行に常に優位なものはなく、季節は巡り、それに応じて日の長さも変わり、月が満ち欠けするのと同様である。」




10万の大軍をイメージして欲しい。それを上から眺めた時、まるで水のようだと言っている。水は普段は静かだが、一度氾濫すれば全てを壊す力を持っている。水は地形にそって流れを変え、地形の弱い処を壊しながら流れていく。優れた用兵も斯くの如し。軍は普段は静かだが、一度攻めに転じれば一気呵成に敵を葬る勢いを持つ。敵の態勢に合わせて良く変化し、敵の守りの薄い処から食い破っていく。

とは言え、実際は難しい作業となる。地形は動かないが、相手の守りの堅い場所は此方に合わせて動く。相手が有能ならば、守りの堅い場所だけを攻めさせられる事にもなる。そのため、守りの薄い場所を的確に捉え攻撃できる事は、高いレベルの指揮官である事の証明となるのだ。故に、難なく当然のようにこなせる様を、人は神がかりと言うのである。神がかり的な用兵を上から眺めれば、まるで濁流が堤防の弱い処を食い破るように、敵の実を避けて虚を撃つ。上善は水の如しである。

世を見渡してみれば、陰陽5行に絶対優位はなく、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は火を生じる。季節も春夏秋冬と巡るし、季節の巡るのに合わせ日照時間も変わる。空では、月も満ち欠けをしながら巡っているではないか。この世のものは変化するのである。用兵も同様となろう。

孫子の言う「実を避けて虚を撃つ」は、ある種の冷徹な教えとなる。言い替えれば「どんな組織や人間でも弱点はある。その弱点を迷わずにつきなさい。」と言う事だ。そのためには、兎にも角にも相手を知る事。「彼を知り己を知れば百戦危うからず」とセットにして抑えておきたい。

仕事で考えて見よう。よく中小企業は大企業に勝てないと思っている人がいるが、本当にそうだろうか?その常識を疑って欲しい。そもそも良い会社とは何か?それは利益の大きな会社である。この大前提を忘れてはいけない。孫子に言わせれば、「幾ら兵が多かろうと、それは勝利には何ら益しない。」という事だ。

大企業はその分コストがかかっている。中小企業より社員の待遇も良いし、人数が多い分運転資金もかかる。操縦を間違えば途端に潰れて身売りする羽目になる。よくよく考えて見れば、コストの低い中小企業の方が有利な面があるのである。利益とは売上からコストを引いた余りであるのだから、コストの低い中小企業は相当に有利なのである。(勿論、大企業が有利な面もある)

良い会社とは利益の上がる会社。そういう視点で会社を評価しなおして見れば、今まで違う視点で会社を見れるのでは無いだろうか?その上で実を避けて虚を撃つのだ。大企業にだって、必ず弱点はある。勝敗は兵の数では無く、戦う前の準備で決まる事を肝に銘じたい。大企業に勝てないのは、一重に準備不足なのだ。この考え方こそが、孫子の兵法である。


----- 以下、余談 -----

陰陽五行説について

http://www.geocities.jp/mishimagoyomi/inyo5gyo/inyo5gyo.htm

2017年9月29日金曜日

孫子の兵法 虚実編その6

6、兵を形するの極は無形に至る。

孫子曰く。「故にこれを策して得失の計を知り、これを作して動静の理を知り、これを形して死生の地を知り、これを角れて有余不足の処を知る。故に兵を形するの極は、無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず。智者も謀ること能わず。形に因りて勝を衆に錯くも、衆、知ること能わず。人みなわが勝つ所以の形を知るも、わが勝ちを制する所以の形を知ることなし。故にその戦い勝つや復びせずして、形に無窮に応ず。」



【解説】

(勝敗は兵の数ではなく、事前準備で決定するとして)

孫子曰く。「故に先ずは相手を知る事である。戦う事で何が得られ、何を失うのか?相手は何を基準にして動き、又は動かないのか?兵の生き死にが決まる地形上の急所は何処か?敵の守りの堅い処(有余)と、薄い処(不足)は何処か?

こう考えてみれば、兵の態勢(形)の極みは敵が知る事のできない態勢(形)、つまり無形という事になる。無形ならば、スパイ(深間)がのぞき見る事もでき無いし、どんな智恵者も謀というわけにもいかない。態勢(形)によって勝利を得るのだが、多くの者はそれを知る事もできない。

誰しも自分が勝ちに至った態勢(形)は分かるだろう。だが、どのように勝ちに至ったのかは分からない。そして、無形こそ極みなのだから、一度戦いに勝てば同じ態勢は2度と採用せず、相手に応じて無限の変化(無窮)をさせるのである。」





事前準備にこそ勝利の秘訣があるのだから、まずは相手を知りなさいという話をしている。孫子があげている知るべきポイントは以下の4つだ。



    孫子のチェックポイント

    • 戦いよって何が得られ、何を失うのか? ⇔ 戦いの損得
    • 相手は何を動機として動くのか? ⇔ 相手の価値観
    • 地形上の急所は何処か? ⇔ 山の上は有利に戦えるなど
    • 守りの堅い場所と薄い場所は何処か? ⇔ 兵の練度・多寡など



    敵の情報は大いに越したことは無い。情報を得るためには、時にはスパイを送り、時には小競り合いで実際に戦い、時には戦う場所に実際にいってみる。このようにあの手この手で敵を入念に調べるのである。そうあってこそ、勝利への道筋を予め想定する事ができるのだ。

    しかし、逆に言えば、敵に此方の情報を渡すと同じ事をされてしまう事になる。得た情報を基に、敵が詰み将棋のような手順で攻めてきては、勝利など叶わぬ夢となろう。そう考えて見れば、敵は全く情報が無い状態にするのが望ましいのである。よって、兵の態勢の究極を考えるに、相手に何も知られる事の無い、無形にこそあろうと孫子は言うのである。

    無形ならば、敵が例えスパイを送り込んでも、何をどうしていいか分からない。何せ調べようにも、無形ゆえ実態が分からないのだ。敵にどんな知恵者がいたとしても、情報もなしに作戦は練れないし、机上の空論となる。勝利は綿密な計算の上で得られるのだが、そもそも我が軍の実態を掴ませないのだから、何故私が勝利するのかを多くの者は知る事はないだろう。

    実際に戦えば、私が採用した陣形なりを知る事はできる。だが、何故その陣形を採用したのか?実際にどう用兵をして勝利に達したのか?最も肝心となる部分を知る事はでき無い。戦いは勝敗の戦う前に決するのだから、私の採用した陣形だけを知っても何ら意味が無いのである。どういった事前準備をし、どういう狙いでその陣形になり、どういう計算から用兵したのかが、本当の意味での勝利の秘訣なのだ。

    それ故、一度採用した態勢は2度採用しない。理由は2つある。一つは、相手に知られてしまった態勢は、無形足りえないから。相手に与える情報は少ないに越したことは無い。一度採用し、相手が入念に対策を立てられる態勢を2度使っては、絶対不敗とはいくまい。もう一つは、この世には同じ状況は2つと無い故である。戦う相手も違うし、地形、相手の準備など何一つ同じとはなりえない。勝利への手順は、相手の情報を基に作り上げるある種のオーダーメイドなのだ。それが、同じものになるはずもなく、結果として相手に応じて無限に変化する。

    さて、今回はマニュアルについて考えて見よう。俗にマニュアル人間と言えば、言われた事しかできない応用の効かない人間を指し、褒められた言葉では無い。では、何故応用が利かないのだろうか?それはマニュアルが、何故そういうマニュアルになるのかを知らないからである。

    例えば、挨拶一つとってもマニュアルを作った人は、お客様に対する印象をしっかり計算しているものである。声の高さは?話す速度は?と。それなのに、作った人の狙いをまったく理解しないで、マニュアルをこなしても、本来マニュアルをこなした事にならない。作った人の狙いを知らないから、どんな時も同じ対応となり、結果として上司を怒らせたりするわけだ。作った人の狙いを理解していれば、状況に応じて対応が取れるようになる。例えば、今回はマニュアル通りにはいかないと気づけ、自分で考える事の出来る人間になっていくのである。

    今回、孫子はこういう事を説明していて、故に無形である自分の狙いは悟られる事が無いとは、マニュアルの話の逆説となる。そして、周りは自分の作戦をマニュアルとして学ぶのだから、マニュアル人間が自分に勝てるはずが無い。なぜなら、そのマニュアルは2度と使われる事が無いと読みかえても良いだろう。

    マニュアル人間とは、マニュアルの理解不足と意味するのだから、作った人の狙いも合わせて理解すると良い。そして、教える側もマニュアルを渡して終わるのではなく、狙いも伝える事を意識して教育すると、マニュアルを作った甲斐もあるのでは無いだろうか?マニュアル人間と言う場合、教わる側の理解不足もあるが、教える側の啓蒙不足もあるように思う。両面から抑えておきたい。

    2017年9月28日木曜日

    孫子の兵法 虚実編その5

    5、戦いの日、戦いの時は知らざれば・・。

    孫子曰く。「故に戦いの地を知り、戦いの日を知れば、即ち千里にして会戦すべし。戦いの地を知らず、戦いの日を知らざれば、即ち左、右を救う能わず、右、左を救う能わず、前、後を救う能わず、後、前を救う能わず。然るを況や遠きは数十里、近きは数里なるおや。

    吾を以ってこれを度るに、越人の兵多しといえども、また何ぞ勝敗に益せんや。故に曰く。勝は為すべきなり。敵多しといえども、戦う事なからしむべし。」



    【解説】

    (敵が十分に分散され、少なき状態になっているとして)

    孫子曰く。「故に戦うべき場所、時間が分かるならば、例え千里先でも会戦するべきである。逆に、戦うべき場所も時間も分からないとすれば、左軍が右軍を救う事も、右軍が左軍を救う事も、前衛が後衛を救う事も、後衛が前衛を救う事もできない。それぞれが遠くは数十里、近くて数里離れた状況なら尚更である。

    吾が考えるに、越国の兵が如何に多かろうとも、勝敗には何ら影響を与えない。故に言うのである。勝ちは為すべき事だと。敵が多いならば、戦えないようにしてしまえば良い。」




    逆から読むとこうなる。相手が大軍だからといって負ける理由にならない。相手が大軍ならば、それを分散させるなど大軍として機能しなくすれば良いのだから。勝敗の行方は、兵の数ではなく、戦う前の情報戦によって決まるのである。

    情報戦の結果、敵が十分な情報を得られなかったために兵力を分散したなら、後は勝機を探るだけである。その結果、もし勝機を見出せるなら、どんなに遠くの敵であろうと会戦に踏み切るべきだ。だが、逆に勝機を見出せないなら、絶対に戦線を開いてはならない。勝機も無いのに戦っては無駄な犠牲を払うだけであるし、むやみに戦線を開かれては友軍が援軍に駆けつける事も難しい。友軍とは言え、近くて数里、遠ければ数十里の距離があるのだ。


    情報戦の勝利 ⇒ 敵の兵力分散 ⇒ 勝機を探る ⇒ 会戦


    プロセスを書けば上の順序となる。ここで注目すべきは、会戦に踏み切るまでの準備こそが勝敗の行方を左右すると、孫子が言っている点である。誰でも勝てる状況を作った上で会戦すれば勝てるのは当然だ。ならば、まずは誰がやっても勝てる状況を作りだす。

    戦争はまずは情報戦から始まる。情報戦で勝利した場合、つまり相手に情報を与えず相手の情報を一方的に得るならば、相手は四方八方に備えるために兵力分散する事になる。兵力分散をもって情報戦の勝利を確認できるのだ。ただ、兵力分散したからと言って、浮かれてはいけない。ここで浮かれて攻め急いでは、情報戦の勝利が水の泡となってしまう。

    敵の兵力が分散された事を確認したら、次は綿密に勝機を探るのである。戦うべき時間はいつか?戦うべき場所は何処か?全ての条件をみて勝機を探るのだ。そして、勝機に確からしさを感じた時、そこで会戦に踏み切ると孫子は言っているのである。

    ここで学ばねばならない事は、一つ一つのプロセスをしっかり踏めば、勝利は約束されるという構図である。初心の内は会戦でどうこうして勝利をもぎ取ろうと考えるものだが、孫子はそういう事をしてはいけないと言っている。勝敗は会戦に踏み切る前に決しているのだから、会戦に踏み切る前の準備をしっかりすれば、自ずと勝ちは転がってくると彼は説いているのである。そのため、勝機を探っても見つからないなら、会戦に踏み切るべきでは無い。そう援軍のくだりで説明しているのである。大切なのは情報戦の勝利が全てをもたらすという構図で理解する事だ。

    将棋の話を紹介する。故・大山康晴永世名人は、一度目のチャンスは見送ると言う言葉を残している。名人の真意は自分には計りかねるが、恐らくチャンスに見える局面は、同時に罠である可能性も高いと言っているのだろう。ここが勝負の難しい処だ。

    自分ではチャンスと思っても、それは相手がそう見せかけているだけかも知れない。何せ相手は日々研究に余念のない百戦錬磨なのだ。そこで、大山名人は一度目は見送って相手の様子をみるわけだが、こういった勝負巧者の技も見習いたいものだ。孫子は勝機を見出してから戦えと言っているが、勝機が本当に勝機なのかの判断もまた大変となるのである。

    2017年9月27日水曜日

    孫子の兵法 虚実編その4

    4、十をもって一を攻める。

    孫子曰く。「故に人を形せしめて我に形なければ、我は専にして敵は分かる。我は専にして一となり敵は分かれて十とならば、これ十をもってその一を攻むるなり。即ち我は衆にして敵は寡なり。よく衆をもって寡を討てば、我ともに戦う所の者は約なり。

    我ともに戦う所の地は知るべからず。知るべからざれば、敵の備うる所の者多し。敵の備うる所の者多ければ、我ともに戦う所の者は寡なし。故に前に備うれば後寡く、後ろに備うれば前寡く、左に備うれば右寡く、右に備うれば左寡し。備えざるところ無ければ、寡なからざる所無し。寡きは人に備うるものなり。衆きは人をして己に備えしむるものなり。


    【解説】

    孫子曰く。「敵を把握し、敵からは把握できないなら、此方からは敵の様子が分かるが、敵からは動きが察知できない。自軍は固まって一つとなり、敵は分散し10に分かれれば、敵は分散した部隊ごとに戦う事になる。即ち、わが軍と対する敵は、分散した分兵が少なくなるのである。敵全軍と戦うのではなく、分散した部隊と個別に戦えるからこそ、わが軍の労も少なくなるのである。

    わが軍の戦う位置を敵に知られてはならない。敵が知らないからこそ、その分防衛に兵を分散してくれるからだ。敵が兵を分散してくれるほど、一度に戦う敵兵は少なくて済む。前に備えれば後ろが少なく、後ろに備えれば前が少なく、左に備えれば右が少なく、右に備えれば左が少なくなるもの。備えない場所が無いならば、必ず兵が少ない場所ができるのである。少なきは備えるために兵を分散するという事であり、多きは相手に己の備えをさせるという事なのだ。」





    まず最初に驚いたのが、孫子と自分の言葉への感覚の差である。十をもって一を攻めると言うからには、圧倒的多数によって敵を包囲撃滅すると思った。しかし、孫子の言っている事は全く逆である。敵を10に分けてしまえば、敵の総数が多かろうが戦う数は少なくなる。敵を分散したうえで、各個に撃破せよと説いている。

    また、それを実現するための情報戦の重要性も見逃してはいけない。敵に己を知らせず、己は敵を知るからこそ、敵は戦力分散の愚を犯す他ないのである。言わば情報戦の勝利が、敵の戦力分散につながり、後の各個撃破につながっていくのだ。


    情報戦の勝利 ⇒ 敵が戦力分散 ⇒ 各個撃破


    今回の孫子の教えのプロセスを簡単に示すと上になるが、如何にして敵を戦力分散に持っていくかが本当のポイントとなる。敵が戦力分散すれば、後は兵を集めて戦えば有利な戦いをできるのだから、結局、情報戦の勝利によって最終的な各個撃破という勝利が得られるのである。この構図をしっかりと肝に銘じたい。全体を広く捉える事が重要なのだ。

    仕事で考えて見よう。ただ、戦力分散から各個に撃破と言ってもイメージが付かないため、身近な例として人付き合いを考えて見よう。例えば、上司に気に入られたいとする。何をするのが近道かと言えば、実は上司の猿真似をするのが良い。口癖、服装の趣味、ブランド、髪形とありとあらゆるものを真似するのだ。人間は自分と似ている人に好感をもつものである。上司が部下が自分の真似をするのを嫌がるはずもなく、可愛い奴と思ってくれるだろう。これが言わば情報戦の勝利である。こうなれば多少失敗しても大目に見てもらえるし、何かと気にかけてもらえよう。

    経営者も情報戦が大事なのは言うまでもない。政商と呼ばれる方が何故儲かるのか?それは政治に口出しできるから、言い換えれば、情報戦で他より先んじているからである。ただ、今回は政商の良し悪しを言いたいのではなく、政商になれと言うのでもない。情報戦で勝利すれば、後はついてくるという構図で経営をとらえると良いという話を紹介している。参考になれば。

    孫子の兵法 虚実編その3

    3、虚を衝く。

    孫子曰く。「進みて防ぐべからざるは、その虚を衝けばなり。退きて追うべからざるは、速かにして及ぶべからざればなり。故に我戦わんと欲すれば、敵、塁を高くし溝を深くすといえども、我と戦わざるを得ざるは、その必ず救う所を攻むればなり。我戦いを欲せざれば、地に画してこれを守るも、敵、我と戦うを得ざるは、その行く所に背けばなり。」


    【解説】

    進軍を防げないのは、その無防備な状態(=虚)をつけばこそ。退却して追いつかれないのは、速さにて勝るからこそ。用意周到な準備の結果である。故に我の前で敵の意思など関係なくなる。

    我が戦いを欲すれば、敵が塁を高くし溝を深くしようとも、そこから出てこざる得ない。我が敵の必ず救う所を攻めるからである。我が戦いを欲しないなら、地に線を引いて守っていても、敵は攻めてはこれない。敵の進功目標を他にずらすからである。




    この部分で大切なのは、用意周到に戦う前に不敗の態勢を築いている点だろう。敵の虚を衝けと言っても、準備無しで実現は出来ない。退却が成功するのは速さ故と言っても、予め逃げ道を確保していなければ無理である。事前準備にこそ、成功の秘訣があるのである。

    また、相手の狙いをはずす事が勝利の秘訣であるという教えを、徹底して守っているのが後段の部分となる。考えてもみて欲しい。敵の首を獲るという指令を受け、敵のもとに駆けつけたら塁や溝があり、野戦用の即席の城が出来上がっていた。普通の人間なら、どう攻めたら良いかと頭を抱える事だろう。そして、考えたあげく、指令だからと城ごと攻略に入り、甚大な被害を被るのが常である。

    しかし、孫子にかかれば、相手が城を作ったなら、城から出てきて貰えば良いと相手の必ず救う所に矛先を変えてしまうのである。これは実際には凄い事である。敵の立場になって考えて見れば、何て戦いにくい相手だと思うに違いない。

    守る場合も、敵が攻めてくるのは何か狙いがあるのだから、その狙いを他にずらせば攻められる道理が無いと言っている。実際の中国の歴史を見てみよう。例えば、単に攻める意思をくじくというケースがある。諸葛亮の空城の計が有名で、三国志ファンならご存知だろう。

    諸葛亮が2千あまりの手勢である城にとどまっている時、司馬仲達が15万の大軍を率いてやってきた。流石に兵力差がありすぎて勝負にならないと、みんな慌てたのだが、諸葛亮と来たら良い考えがあると言った動じないでは無いか。諸葛亮は数人選び、司馬仲達に分かるように城の掃除をさせた。そして、自分はやはり見えるように、優雅に琴をひき始めたのだ。

    見えるようにしたのだから、勿論、司馬仲達の目に入る事になる。それを見た司馬仲達は、驚いた行動に出る事になる。2千弱対15万の闘いで、何と15万側の司馬仲達が撤退をしてしまったのだ。司馬仲達から見れば、こうだ。諸葛亮は大変用心深い男である。その用心深い男が、15万の手勢を目の前にして優雅に琴を弾いているではないか。これは何か罠が仕掛けてあるのか?石橋と叩いても渡らない司馬仲達の性格からすれば、状況が分からない中で無理して損害を被る必要は無いと撤退するのである。

    諸葛亮は司馬仲達の性格なら、自分が琴を弾いて挑発するなら、必ずやそれを疑問に思い攻めれないだろうと確信していたのである。それは自分の常勝というイメージや、司馬仲達の性格、恐らくは司馬仲達のおかれている政治的な状況をも計算していたと推測する。何にせよ、2千弱の兵で15万を撤退させたわけだから、その智謀にみんな驚嘆し、空城の計として今に伝わっているのだ。

    将棋に棋は会話なりと言う言葉があるが、熟練者になると、将棋を指せば相手の性格がなんとなく伝わってくるもの。諸葛亮と司馬仲達も、相手の用兵を通して会話していたに違いない。だからこそ、こういった大胆に見え、計算ずくの計略が浮かぶのである。

    仕事でも、虚を衝く事は大切だ。よくオンリーワンになれと言われるが、オンリーワンはつまり相手の無防備な場所を攻める事に他ならない。何も相手の得意な土俵で勝つ必要は無い。相手が得意ならば相手にやってもらうのが合理的なのだから、君が其処が得意なら僕は此処を抑えるくらいの感覚が良い。

    仕事で大切なのは、集団としての勢である。集団としての勢を出す時に、何も同じ人間だけが集まる必要は無い。お互いの不得意な分野を補いあってこそ、状況によって左右されない真の勢いが出る事だろう。得意な人がいれば、その人にやってもらい、自分はその人を活かすように、またはその人に足りない部分で腕を磨く。こういう利他の精神こそが、結局は重宝されるのである。

    2017年9月26日火曜日

    孫子の兵法 虚実編その2

    2、守らざる所を攻める。

    孫子曰く。「その必ず赴く所に出て、その意わざる所に赴く。行く事千里にして労せざるは、無人の地を行けばなり。攻めて必ずとるは、その守らざる所を攻むればなり。守りて必ず固きは、その攻めざる所を守ればなり。故に善く攻むる者には、敵、その守る所を知らず。善く守る者には、敵、その攻むる処を知らず。微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。故に敵の司命たり。」


    【解説】

    敵の赴く所には必ず駆けつけ、敵の思いもよらない所を行軍する。千里の道を行軍しても疲れないのは、無人の地を行けばこそ。攻めて必ず勝つは、守りの薄い場所を攻めればこそ。守りが必ず破られないとすれば、敵が攻めにくい場所で守るからこそである。

    攻め上手は、敵の守らざる所を攻めるが故に、敵はどう守って良いか分からなくなる。守り上手は、敵が攻めにくい所で守るが故に、敵はどう攻めて良いか分からなくなる。相手に狙いを悟らせぬ事に用兵の妙があり、姿も見えず、音も聞こえぬなら、まさに神がかりと言えよう。その時、敵の命運は自在自由となるのである。




    一見して、当たり前の事が書いてある。守らざる所を攻めれば勝ちやすいだろうし、攻めにくい場所で守れば負ける可能性は低くなる。そして、それが出来るのが戦上手である。それはそうだろう。言わずもがなである。しかし、それはそうだよねと流してはいけない事は注意して欲しい。なぜなら、実際にこれを徹底して守れているうか?この点をしっかり見直しておきたい話となるからだ。

    勝ち安きに勝つのが勝負の鉄則である事は知っていても、実際にそれが出来ているかは別の問題だ。当たり前だからこそ真理であり、当たり前だからこそ難しさがあり、当たり前だからこそ言うや安しとなりがちである。そのため、どうしたら守らざる所を攻めれるのか?どうしたら攻めにくい所で守れるのか?脳みそに汗をかくつもりで存分に考えろと言うのが、言葉の裏に隠れた大切な教えとなる。

    仕事でも、当たり前の事はたくさんあるだろう。例えば、愚痴は言わないほうが良いとか、笑顔が良いとか。愚痴を言わない、笑顔が良いと言えば当然の話だが、貴方は飲み屋で愚痴を言っていないだろうか?常に笑顔を心がけて、場の雰囲気を良くしているだろうか?当たり前は難しいのである。

    孫子に言わせれば、この当たり前を徹底してこなせる人が優れた人材という事になる。当たり前の事を当たり前にこなせる人間こそ、優れた人材なのである。そして、欲を言えば、無形で無声、つまり誰にも気づかれることなくだ。本当にいい仕事は轍すら残さない。

    孫子の兵法 虚実編

    1、人を致して人に致されず。

    孫子曰く。「およそ先に戦地に処りて敵を待つ者は有利であり、遅れて戦地に処りて戦いに赴く者は労する。故に善く戦う者は、人を致して人に致されず。善く敵人をして自ら至らしむるは、これを利すればなり。善く敵人をして至るを得ざらしむるは、これを害すればなり。故に敵、佚すれば労し、飽けば飢えさせ、安ければ動かす。」


    【解説】

    およそ先に戦地に着き、敵を待つ者は有利となる。理由は、それだけ準備ができるからである。地形から有利なポジションに陣取る事が可能だし、逃げ道の確保、砦の増設など、余裕をもって万全の態勢を築く事ができる。そのため、遅れて戦地に着くという事は、その分苦労する事を意味するのである。故に戦上手は、人に致される事を良しとせず、常に相手より有利なポジションをとる事を心がけるのだ。

    また、戦争の勝利は敵の不敗の態勢を崩す事で得られるのだから、計略により敵自ら不敗の態勢を崩すように仕向けるのが得策となろう。例えば、敵が作戦行動をとったほうが有利と錯覚させることができれば、敵を動かす事ができる。逆に敵に害を示す事で、敵に作戦行動を断念させることもできる。害を示すことで、敵の動かない事の利が強調されるからである。

    故に、敵が休息十分なら疲れさせるように、食料十分なら飢えるように、態勢が十分なら態勢を崩すように仕向けるのである。






    孫子の根底にある考え方

    1. 不敗の態勢は作れるが、必勝の態勢は作れない。
    2. 戦いは戦う前に勝敗は決している。


    これを踏まえて読めば、何故孫子が「人を致して人に致されず」と言っているのかの理解の助けになるだろう。勝利は自ら勝ち取ると言うニュアンスよりは、相手の崩れによって得られるもの。そのため、相手の利を操作することで、相手の崩れを誘うのである。時には利を示し敵を誘い、時には害を示し敵を束縛する。敵に主導権を渡さぬ事が肝要という教えとなる。

    仕事でも、昔から上司の先回りして動けと言うが、上司のやりたい事を察し予め準備しておいたり、躓きそうな石があれば拾っておく事はとても大切である。と言うのも、人が人を評価する時、気が利くかどうかに大きなウエイトがあるもの。

    自分に与えられた仕事が幾ら出来ても、他人のフォローが出来ない人は仕事ができないというレッテルを貼られる事もある。かと言えば、実際の実力がそれほどでも無いにも関わらず、周りのフォローをしっかりし、常に笑っているだけで高評価になってしまうのが人情だ。人に致して人に致されず。常に相手の風上を心掛けていきたい。


    2017年9月24日日曜日

    孫子の兵法 兵勢編その6

    6、勢に求めて人に責めず。

    孫子曰く。「善く戦う者は、勢いに求めて人に責めず。故に善く人を択び勢に任ず。勢に任ずる者の闘いは、その人を戦わしむるは木石を転がすが如し。木石の性は、安ならば静、危ならば動、方ならば止、円ならば行。故に善く戦わしむるの勢、円石の千仭の山を転がるが如きは、勢なり。」


    【解説】

    戦上手は、戦いの帰趨は勢いで決まる事を良く知っていて、個人に過度の期待をしたりはしない。故にしっかり人選をした上で適材適所を心がけ、万全の態勢をもって何時でも勢いをだせる状態を作り上げる。勢いの重要さを知っている者の用兵は、まるで木石を転がす如し。平地では静かであるし、傾斜では動き出す。木石が角ばっているなら止まるし、円いなら転がる。戦上手はその状況に合わせ軍を自在に操り、ひとたび攻めに転じるならば、その勢いは円い石が千仭の山を転がすが如くなる。これを勢と言うのである。




    上の画像は千仭の山だ。孫子の言う勢は、この山から円い石を落とすが如しという事になる。凄い勢いを言っている事がイメージできるだろう。石は円ければ勢いを出すのに役立つが、角があるなら止まるのに役立つ。要は使いようである。用兵もかくのごとし。AにはAに、BにはBに適したやり方というものがある。戦上手とは、その時々に適したやり方を選べる者を言い、適材適所で万全の態勢を築ける者を言うのだ。万全の態勢で相手を待ち、チャンスが来たら一気呵成に攻めあげる。さすれば、敵の被害の甚大な事この上ないのである。

    孫子は「勢に求めて人に責めず」と言っているが、少人数の闘いならいざ知らず、10万対10万の闘いである。個より全体の流れに重きを置くのは当然である。日本刀も斬れるのは3人限界説が唱えられる事があるが、それと同じでどんな強い人間も、個では数に対抗できない。ならば集団としての勢に求める他、勝機はあるまいと言っている。

    仕事で言うなら、会社全体のモチベーションが勢だ。会社全体のモチベーションの高低で、自ずと会社の業績も変わってくる。孫子の提言どおり、適材適所に人材を割り当て、その上で万全の態勢を整えるのが良いだろう。

    とは言え、何も特別な事は必要ない。具体的には、自分の近くの人に気持ちよく働いてもらうにはどうしたら良いか考えるだけだ。どんな人間も本気で面倒みれるのは、良い処10人だ。会社全体のモチベーションと言っても、どんな立場でも出来る事は自分の近くの人間の世話をする事くらいな事には触れて置く。

    会社全体だからと、自分と直接は接した事のない人ばかり気にする人がいるが、接した事のない人は名前すら知らないだろう。自分の部下も満足してないのに、名前も知らない接した事もない人を満足させることが出来ようか。貴方の周りの部下が満足して働けるようになると、その部下も貴方がやってくれたように自分の部下に接するものである。そうすると、部下の部下も、また同じようにその部下に接してくれる。こうして会社全体のモチベーションが醸成されていくのだ。

    自分の回りの人間は、仕事に楽しみを見出しているだろうか?それが結局は全体のモチベーションにつながって行く事を意識したい。商売の基本は、昔も今も目の前の客に喜んでもらう事と言われるが、つまりそう言う事である。

    2017年9月23日土曜日

    孫子の兵法 兵勢編その5

    5、利をもって動かし、卒をもって待つ。

    身近なところで、釣りを想像すると良いかも知れない。釣りの名人ともなれば、ルアーがルアーでなくなり、魚から見れば本物の餌に化ける。しかし、そこには釣り針がしこんであるわけだ。つまり、利をもって魚の目を欺き、食いついた処を釣り上げるのが釣りとなる。これが孫子の言う「利をもって動かし、卒をもって待つ」のイメージだ。では、以下説明に入る。

    孫子曰く。「乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず。乱を治むるは数なり。勇怯は勢いの如何であり、強弱は態勢による。故によく敵を動かす者は、これに形すれば、敵は必ずこれに従い、何かを予えれば、敵必ずこれを取る。利をもって敵を動かし、卒をもって敵を待つ。」



    【解説】

    乱は治の中に生じ、一度乱戦になってしまえば勝敗は単純な数の勝負となってしまう。混戦・乱戦では、いくら将が有能でも指揮はとりづらいのだから、そういう状態になる事だけは避けるべきだろう。将たる者も乱戦・混戦になっては力が発揮できない。だから、そうならぬよう、又はなっても立て直せるよう、しっかり軍を統率できるようしておくことだ。

    怯は勇から生じ、それは勢いの有無で決まる。どれほど勇猛な人間でも、味方が逃げているような状況で逃げずにいられるだろうか?戦う気持は折れ、犬死にを避けるために逃げる他ない。逆に、どんなに臆病な者でも、相手が逃げている姿を見れば勇ましく戦えるものである。勝ち戦なら、手柄を立て報奨に預かりたいという欲目がでるのだから。そのため、将たる者は勢いで勝敗が決する事を肝に銘じなければならない。

    弱は強から生じ、それは態勢の如何による。精強な軍と呼ぶには、当然の事ながら将軍の命令を下が周知徹底する必要がある。例えば、将軍が進軍を命令しているのに、軍が動かないなら軍が軍として機能しない。仮に将軍が殺され、指揮命令系統が混乱する事態になった事を想像して欲しい。精強な軍もまとまりを欠き、ただの烏合の衆になり下がるはずだ。軍が強足りえるのは、しっかり態勢が維持されている故なのである。一度、態勢にほころびが出れば、軍は弱となり得るのだ。そのため、将たる者は態勢の状態に気を使わねばならない。

    故に、用兵に長けた者は、自軍が最も力が発揮できる状態を作り出すために、敵を罠に誘うのだ。優れた将ともなれば敵を思うがままに操り、利をもって敵の目を欺く。そして、万全の態勢で敵を討つのである。




    仕事でも、利によって誘い出されて、手痛い損害を出す例はたくさんある。例えば、株式投資である。ある日、会社に証券マンが訪ねて来て、社長に株式投資のお誘いの話をする。株式投資も一般的になった今はさておき、まだバブルで日本が騒いでいたころなどは、有名企業の社長でも警戒感なく話を乗ってしまう事があった。

    社長が「みんな、いくらくらいでやってるの?」なんて聞こうものなら、証券マンが「社長さんクラスの会社なら、まずは一億くらいが相場です。この株など如何でしょう?」などと言い、社長も警戒感が無い物だから、試しにやって見ようかと話に乗ってしまったものだ。

    しばらくすると、証券マンがまたやってきて、社長に言う。「この前の株なんですが、実は2倍になりました。売りませんか?」と。そうすると、社長は驚いてしまう。会社を営業して1億稼ごうと思ったら大変なのに、株と来たら預けてるだけで1億円儲かってしまったじゃないか。

    こうなると社長の欲望に火がつくものである。今度は自分から証券会社に行き、「実は自分2回目なんですけど・・・。」と言ったりする。応対した証券マンも、「2回目なら、もう常連も同じですよ。ささ、此方へ。」と調子のよい事を言うのである。証券マンが「今回は何を買われるんでしょう?」と聞けば、社長は答える。「お薦めは無いか?資金は2億だ。」と。証券マンが「こちらは如何ですか?」と言うものなら、社長はそれを買おうとお金を置いていくのだ。

    また、しばらくすると、証券マンが社長の元に訪れるのである。そして、「社長この前の株なんですが、実は4億になってます。売りませんか?」と言う。こうなると、たいていの社長は参ってしまう。そして思うのだ。これからは株だと。自分で一生懸命働いて稼ぐより、株式に投資したほうが楽でしかも儲かるでは無いか。こんな凄いお金の稼ぎ方があったとはと。

    だが、良い話には裏があるものである。社長さんは喜ぶあまり気づかないのだが、プロ筋は虎視眈々と社長さんからお金を奪う機会を待っているもの。連戦連勝中の社長さんは必ず3回目も投資してしまう。しかも、今度は株はもう分かったとばかりに、10億で勝負しようと言い出す。これで終わりである。プロ筋はその瞬間を見逃さず、売りぬいて社長さんは大損してしまうのだ。

    当たり前の話だが、1億がすぐ2億になって、2億がすぐ4億になるような話を人に教えるはずが無い。そのあり得ない事が起きたという事は、孫子に言わせれば、利によって動かされているから注意せよとなる。冷静になれば分かるのだが、難なく数億を稼いでしまった者は聞く耳すら持たないもの。そして、最後は万全の態勢をもったプロ筋(=卒)によって討たれるのだ。

    松下幸之助は「経営と人生は博打では無い。」と言ったが、その言葉からは利に警戒せよという孫子の兵法が見え隠れしている。しっかりと胸に刻みたい。


    2017年9月22日金曜日

    孫子の兵法 兵勢編その4

    4、激水の石を漂わすに至るは勢なり。

    孫子曰く。「激水が岩をも漂わすに至るは、その勢いによるが故である。猛禽が獲物を捉えるは、その節によるが故である。このように勢い険しく、節を短くするが戦上手の戦い方である。勢は弓の弦を引くがごとし。節は弓を放つがごとし。」

    「激水の石を漂わすに至るは勢いなり」の言葉通りの意味だ。そのまま勢いが大事と説いている。加えるなら、節というタイミングの事も指摘している。節を短くとは、静から動へ変わるタイミングを短くという意味で、猛禽のように瞬発的に攻めるのが大切と言っている。下のダムの放水の画像を見て欲しい。要はタイミングを計って、一息にこのような勢いで攻めろと言っているわけだ。目の前で放水されたなら、その勢いを防ぐ手段があろうか?戦もかくのごとし。如何なる知恵も勢いには及ばない。



    また、画像の放水は何故勢いを得たのかも考えて欲しい。それは、水を溜めてから放水したからである。本当なら川となって下に流れていくであろう水を、ダムを作りとどめた。ダムという準備があってこその勢いと言える。つまり、孫子は事前準備の大切さをも説いているのである。以上、まとめると、「激水の石を漂わすに至るは勢いなり」は、万全の態勢を整えて、タイミングを見て勢いに乗れという教えとなる。

    仕事で考えて見よう。仕事でもチャンスが無いと嘆くばかりの人がいる。だが、しっかり万全の態勢は整えているだろうか?今チャンスが回ってきたとして、貴方はそのチャンスに一気に乗れるだろうか?

    チャンスが無いと嘆く必要はない。どんな人間にもチャンスはいずれ回ってくる。嘆く人には信じれないかも知れないが、人生は長い。会社の落ちこぼれが、一気にトップランナーに変わる話を聞いた事がないだろうか?腐らなければ、時代の変化でどんな人間にもチャンスが回ってくるものだ。だから、「腐るなよ。腐ったら終わりだから。」と言われる。

    チャンスに関しては、来たかどうかより、チャンスが来た時に勢いよく乗れるかどうかが肝要となるのである。日々自己研鑽に励み、チャンスが回ってきたときに一気に勢いづけられるようにしたいものだ。(人でも会社でも同じ)

    何故勢いが大事か?それは目立つからである。人の印象に残るからである。印象に残ると、次頼みやすい。単純に考えて行こう。会社で言えば、商品のライフサイクルが数年と短いのに、勢いなしでどうやって捌くのか?言わずもがなである。

    孫子の兵法 兵勢編その3

    3、奇正の変は、勝げて窮むべからず。

    孫子曰く。「音色は5音を基とするが、その変化は限りが無い。色は5色を基とするが、その変化は限りが無い。味は5味を基とするが、その変化は限りが無い。奇正も同じである。戦勢は奇正を基として作られるが、奇は正となり正は奇となり、まるで円環さながらに限りがない。故に、その変化を誰も知りつくすことは出来ないのである。」

    解説すると、書いてある通り、奇正の変化は無限という事だ。教えとしては、大きく2つあろう。守りにおいては行住坐臥気を抜かない事が大切と言う教えとなる。特に油断こそが大敵であることを見直しておきたい。勝ったと思っていると、奇の入る余地が生まれ負けてしまう事があるのだから。人間は勝ったと思うと、急に自分に都合の良い展開しか見えなくなる。そして、自分で足を踏み外す生き物なのである。

    攻めにおいては、奇と正の両方を駆使し、正から奇、奇から正と攻めを繋げろという教えとなる。孫子は「奇正は円環さながらに限りなし」と言っているが、要はそのように攻めろという事だ。正で戦っている時に奇の機会をうかがい、奇で戦っている時に正の機会をうかがう。将棋で言えば、詰み将棋のような深い読みをもとにした戦い方が大切だ。




    将棋の話を紹介しよう。将棋では盤面を宇宙になぞらえ、その変化の膨大さを訴える事があるが、そんな将棋もコンピュータソフトによって変化がもたらされた。ある開発者が言う。将棋は変化こそ無限に近いものがあるが、良い攻め方にこだわるなら選択肢は多くは無い。強い人の指す手は同じ傾向があると。

    それでも戦況を深く読もうとすれば大変な事に変わりはないが、取り得る選択肢の中には悪手と呼べるものも多分に含まれる。良手にこだわるなら、その時々2つか、3つにまで選択肢が絞られるのが実際となる。よって、変化の総数は無限なれど、実際はいくつかのパターンの組み合わせで指しているに過ぎないのだ。

    また、将棋では故・大山康晴永世名人を尊び「読むのは5手先まで良い。その代わり、盤面全体を広く見ろ。」と教えられるが、これを合わせて考えるとどうだろうか?その時々3つまでの選択肢があり、それを5手先までなのだから、自分の手は1手目と3手目だけになる。感覚としては3×3で9通りの選択肢の中で最良を選ぶゲームが将棋という事になる。

    これが名人の感覚なのである。プロにとって30手先を読むことも雑作も無い事だが、実際は9通りの選択のなかで、どれが最良か選んでいるのだ。こう考えて見ると、将棋と言うゲームの見え方が変わるのでは無いだろうか?このどの手を最良と判断する感覚を大局観と言い、実力がさほど変わらない棋士の中にあって、棋士の差は大局観の差とも言えるのである。

    孫子は戦勢は奇正により作られ無限の変化と言っているが、良い手と限定するなら、実際はいくつかのパターンの組み合わせとなる。その時々3つの方策をあげ、その後の展開を予想し例えば9通りで物事を判断すると良い参謀と言えるかも知れない。特に上に報告する際は説得力が増すのではないか?ざっくばらんにとらえるより、具体的に考えて見ると見え方が変わるだろう。

    2017年9月20日水曜日

    孫子の兵法 兵勢編その2

    2、戦いは奇をもって勝つ。

    孫子曰く。「およそ戦いは正をもって対し、奇をもって勝つ。奇を得意とする将軍の戦い方は、終わりなきこと天地の如し。尽きぬこと大河の如し。終わりて始まること月日の如し。死してまた生ずること四季の如し。」

    正とは正攻法など一般的の事であり、奇とは奇襲攻撃や遊撃部隊など特殊な事の総称である。「戦いは奇をもって勝つ」のイメージのつかない方は、例えば、正面の敵と戦っている最中、いきなり後ろから斬られた事を想像して欲しい。どう思うだろうか?混乱して、一瞬でも正面の敵との闘いに集中できなくなるだろう。その隙に恐らくは正面の敵にも斬られる。単純にはこういうイメージだ。こう言った状況を軍単位で作り出す事を、奇と言っている。

    およそ戦いというものは、相手の予想を外す事で勝利を得られやすい。考えてもみて欲しい。一般的な兵法は、将軍ならば皆知っている。これは逆に言えば、将軍は相手がどう攻めてくるかも把握している事になるため、その対応もしっかりされているのが普通だ。

    軍の力に大きな差があり、大人と子供のような差があるならいざ知らず、相手も自分と同程度の実力はあるとすれば、相手の防御を正面から切って落とすのは難しい。出来ても、被害も相当でるためコストの視点からも好ましい作戦とも言えない。そこで、相手の予想を裏切る奇が大切になる。予想できる範囲は備える事ができるが、予想できない事までは備える事は出来ない。命のやり取りの最中、予想できない奇によって大きな損害を被ったりすれば、相手の心は乱れよう。

    予想できぬが故に相手もミスをしやすくなり、何をやってくるか分からないと考えてしまうと、人は精神的に追い込まれていくのである。そして、精神的に余裕がなくなるからこそ、通常しないミスをし始める。よって、大よその戦いは奇によって勝つのである。

    将棋の羽生善治の言葉を借りれば、戦いは他力本願である。相手が崩れぬことには勝つ事もままならぬ。その崩れはミスから生じるのだから、相手のミスを誘発させる奇はとても大事である。孫子が不敗の態勢は築けるが、必勝の態勢は作れぬと言っていた事を思い出して欲しい。






    奇正の話という事で、今回は型破りと型無しの話をしよう。良く型破りという言葉を誤解している人がいる。新しい事を試す事が、型破りと誤解している輩だ。しかし、型のしっかり定まっていない人が、どう型を破るというのだろうか?型破りとは、出来上がった型を破るものであり、型を作らない事では無い。人と違ければ良いというのは、型なしと言うのである。

    例えば、会社に入ったら、先ずは先輩の言う事をしっかり守る。まずはその会社の文化をしっかり身につけなければならない。それがこの場合の型だ。この型ができあがってこそ、一人前となり型を破るチャンスが回ってくるのである。新人の方は努々忘れぬようにすると良いだろう。何せ、そのほうが可愛がられる。

    と、基本が大切と戒める話を書いたが、奇正についても同じである。奇によって勝つと言われると、奇ばかり考える人がいるだろう。だが、しっかりした正があるからこそ、相手は正に気をはらい奇が入る余地が生じるのである。しっかりとした正が無いなら、相手に奇の入る余地は生まれない。奇をてらうという言葉はいい意味で使われるだろうか?そう言う事である。正があればこそ奇、奇があればこそ正。どちららも大切なのである。

    孫子の兵法 兵勢編 

    1、軍の編成、指揮、奇正、虚実

    孫子曰く。「大軍団を小部隊のように統制するには、分数これなり。大軍団を小部隊のように戦わすには、形名これなり。敵を受けて絶対不敗なるは、奇正これなり。卵を石で割るがごとく敵を撃破するには、虚実これなり。」

    例えば、貴方に2人の部下がついて、3人で戦う事を考えて欲しい。貴方はどうするだろうか?3人のチームで戦うなら、貴方は1人1人に命令できるし、特にルールを決めなくても部下をまるで両腕のように扱う事はできると思わないだろうか?

    では、部下の数を増やして、10倍の30人にしたらどうだろうか?今度は3人のチームのようにはいかないので、役割分担なり副リーダーを選出するなりしなければ、チームをまとめにくくなってくる。チームの簡単なルールくらいは取り決めるはず。

    では、さらに部下の数を増やして、300人にしたらどうだろうか?もう一人では個人個人を管理しきれない。この人数になると名前を覚えるのも一苦労だし、何かしら全体を管理する方法を考えなくてはならない。つまり、孫子はこういう話をしている。

    中国の戦争を見れば、兵は10万にもなるわけで、その軍を自分の手足のように動かしたいなら、しっかり軍編制をし、指揮命令系統を確立しなけらばならない。大軍を小分けするという事で分数。形名とは臣下の言葉と実績の事だが、転じて小部隊(=臣下)の動きを管理する事を指す。つまり、指揮命令系統と伝達手段を指すわけだが、孫子の時代は旗や音などを利用していたようだ。

    奇正は次回説明するが、正は一般的なもの、奇はそこから外れた特殊なものと言うイメージだ。「敵を受けて絶対不敗なるは、奇正これなり」とは、正に気をとられるから奇が活き、奇に気をとられるから正が活きるという事。奇正を駆使するなら、絶対不敗であると言っている。

    虚実は虚実編で紹介する。虚を突くという言葉があるように、虚は相手の無防備な部分というイメージとなる。実は逆で防備のある部分だ。「卵を石で割るがごとく敵を撃破するには、虚実これなり」とは、敵の無防備の部分を突けば簡単に倒せると言っている。ただ、敵だって守っているわけだから、現実に無防備を突くためには、実に目を向けさせる必要がある。虚実これなりとなるわけだ。




    会社で言えば、どういう組織にするが良いかと言う組織論の話となる。やる気のある社員が増える組織形態は何だろう?頭を悩ませる課題である。組織を考える上で有名な法則が2:6:2の法則だ。どんな組織も利益を稼ぐ人間が2割、可もなく不可もない人間が6割、お荷物が2割でる。

    特に株式会社の場合、営利団体という性質上、利益を稼ぐ2割の人に如何に気持ちよく働いてもらうかが大事と考えられてきた。しかし、最近はお荷物だと思われていた2割の人が、他の人のモチベーションを高めていると言う意見もあり、利益を稼ぐ2割の人はお荷物の人と比べて自信を得るわけだし、可もなく不可もない人がいるから安心して休暇をとり英気を養う事が出来るとも言われている。

    どんな組織形態にしようとも、2:6:2の原則が成り立ってしまうのだし、特にお荷物2割を首にして切り捨てるような事に意味があるのかは検討の余地があろう。出来る人だけ入社させれば全員が出来る人になるかと言えば、何故かお荷物となる人が自然発生してしまう所に組織作りの難しい面があるのだ。少人数チームを複数作るのが良いとは言われている様子だが、実際はどうだろうか?要は堂々巡りなのだ。

    また、組織の運用面においてスムーズに事を運ぶには、社員教育を徹底しなければならない。ルールを決めても社員が理解徹底しなければ、全く意味が無いのだから。社員教育も頭を悩ませる問題かも知れないが、結局は自分の背中を見せる事が肝要だろう。

    部下は上司の真似をするものである。上司がさぼって会社の金で遊んでいれば、部下が上司になった時に必ず真似をする。それを注意しても説得力がでないし、徹底させようとすれば不公平感から忠誠心がなくなってしまう。では、どうしたら良いか?それは上司の背中を見て部下が育つ事を肝に銘じる事である。

    例えば、部下が上役になった時は、下の者には懇切丁寧に説明するようにして欲しいとする。ならば、先ずは自分が部下にそういう姿勢で教えるのだ。部下は一度教えても出来ないかも知れない。出来ないと怒る人間もいるが、そもそも一度いって出来れば苦労はしないわけで、そうそう怒ってはいけない。そうではなく、「俺の言い方が悪かった。俺は教えるのが仕事だから、もう一度教えるな。」と言うのである。

    2回教えても出来ないかも知れないが、その時は「俺の教え方が悪いだけだ。俺の仕事だから気にしないでくれ。出来るまで付き合うよ。良いか、よく聞いてくれ。」と根気を持って部下に付き合うのである。そうやって育てられて部下が上司になった時、同じように部下に接してくれるのだ。子は親の背中を見て育つと言うが、部下も上司の背中を見て育つのである。

    孫子の兵法 軍形編その6

    今回は孫子の兵法の具体的な例として、孫子の言う「勝ち安きに勝つ」を実践した例を紹介しよう。

    恋愛を考えて欲しい。例えば、好きな子がいたとしよう。どうしたら良いだろうか?誰しも悩む問題であるが、答えから言えば、笑顔でいるだけで良い。言葉はいらない事を覚えておくと良いだろう。どう会話したら良いだろうと考えるより、ひたすら笑顔で生活する事を心がけて欲しい。

    とは言え、笑顔でいるだけでは、好きな子に自分の気持は全く伝わらない。そこで、気持ちは目線で送るようにする。他の子より1秒だけ長く好きな子を見るようにする。1回では気づかれないかも知れないが、何回かするうちに必ず相手に気持ちが伝わる。ここで注意して欲しいのは、1秒より長くは目線を合わせない事だ。あまりにじーっと見つめたら、何だろうと不信がられるだけ(笑)。

    相手が目線によって気持ちに気づいたら、それから貴方に興味を持ち、貴方はどういう人間かとか、恋人としてはどうか等を検討し始めるだろう。そして、恋人として考えても良いなら、その子から直接声をかけてくるか又は何らかのサインを送ってくるだろう。好きな子との会話は、それからすれば良いのである。

    人間は結局好きか嫌いかだ。好きならば失敗してもしょうがないとなるし、嫌いならば結果をだしても忌々しいとなる。好きな子から会話など好意的なサインが返ってくるなら、すでに好ましく思われているのだから、例え会話がたどたどしくても何の問題にもならない。照れて上手く話せないと思われるだけだ。これを孫子は「勝ち安きに勝つ」と言っているのである。

    いきなり好きな子と会話するのではなく、好きな子が自分に興味を抱くのをじっと待つ。興味をもってくれたなら、多少の失敗は問題とならないのだから、その後の成功率は格段にあがるのである。好きな子に興味をもってもらうには、貴方が魅力的な人間に見えなくてはいけない。つまり、笑顔である。

    人が一番魅力的に見えるのは、笑っている時だ。何時も笑っていると、明るい人だなって思われるし、何がそんなに楽しいのと聞きたくもなる。それを好きな子とどう話すべきか悩んでいたらどうだ?顔が深刻にもなるし、暗く見えてしまう事だろう。それでは悩んでそうだからと気を使われてしまい逆効果なのだ。

    全体像はつかめただろうか?貴方の魅力を一番引き立てるのは笑顔という事を忘れずに、常に笑顔を心がける事。そうすると、その魅力につられた好きな子とも上手く行きやすくなる。これが孫子の兵法である。



    2017年9月18日月曜日

    孫子の兵法 軍形編その5

    5、勝兵は鎰をもって、銖を称るがごとし。

    鎰と銖という見慣れない漢字があるが、これは重さを計る時の単位の事で、鎰は銖の500倍となる。見慣れない漢字で理解しづらいかも知れないが、要は敵の500倍の戦力を集めて戦えば安全に勝てるという事を孫子は言っている。そういう誰が指揮しても勝てる状況を作るよう心がけよと言う話だ。具体的には、以下にあげる5つのチェックポイントを基に戦力を分析し比較していたようだ。


    孫子のチェックポイント

    • 国土の広狭
    • 資源の多寡
    • 人口の多少
    • 戦力の強弱
    • 勝敗の帰趨


    国土の広さを比べれば、資源の量を予想できる。資源が分かれば、人口を推察でき、人口は兵となるのだから戦力も把握できる。戦力を比べれば勝敗の行方も予見できると孫子は言っている。今は孫子の時代とは変わり無人機が活躍している時代のため、孫子の時代と戦力の把握方法も変わるだろうが、戦力を比べて勝算を検討する姿勢は大いに学ぶべきと思う。

    彼を知り己を知り、その上で出来うる可能性をシミュレーションする。その上で戦わずして勝つ方法を模索する。例えば、圧倒的有利な状況だと思うなら、戦争した場合のシミュレーションを映像化し、それを相手のエスタブリッシュメントに見せてみるとかどうだろうか?そのシミュレーションが確かなものならば、脅しの効果も抜群となろう。また、戦力が拮抗しているなら、こういった映像技術が抑止力を発揮すると思ったりする。

    と、想像の話はともかくとしても、彼を知り己を知れば百戦危うからずの格言どおりに動くには、まず情報を集める必要がある。情報の大切さ、並びに安全に勝てる状況を作る事の大切さを確認したい。




    人間関係で考えて見る。例えば、好きな子に振り向いて欲しいと思った事は無いだろうか?誰しも一度は悩む事だと思う。この問題の良い解決策は、好きな子のほうから近づいてくるようにする事である。孫子は「勝兵は鎰をもって、銖を称るがごとし」と言っているが、この視点に立てば、自分が魅力的な人間になれば、後は安全に落とせるという事になる。如何に口説くかを考えるより、自分が魅力的な人間になる方が効果的だという事だ。

    今好きな子とうまく行かないなら、単純に魅力が足りないのである。孫子に言わせれば、それは明らかな戦力不足となる。ならば孫子で言う所の戦力、つまり貴方の魅力をあげるのが明快な解決策となる。好きな子を口説こうと思うより、心を磨き人間的成長を得られるよう頑張るのが一番良いのである。そうすると、好きな子から近寄ってくるし、その子が無理でも自分の魅力にあった別の子が現れる。

    好きな子と上手くいかないなら、好きな子のほうに近寄るのを止め、自分はひたすら上に向かって進めば良いだけなのである。「勝兵は溢をもって、銖を称るがごとし」とは、つまりそういう教えだ。孫子は相手の500倍の戦力なら安全に勝てるのは道理と言っているわけだが、言い換えれば、魅力あふれる人ならば安全に口説けるのは道理。孫子の兵法は恋愛でも使えるのだ。

    今回は恋愛を例にとったが、社内であれ、友人であれ人間関係は全て同じ理屈である。悩んでいる暇があったら、心を磨く。そう単純に考えたほうが、結果もついてくるだろう。少なくとも孫子はそう言っているようだ。



    孫子の兵法から見た恋愛

    • 自分の魅力をあげる = 戦略上の勝利
    • 口説くテクニック  = 戦術上の勝利

    戦略上の勝利を戦術上では覆しづらい。
    戦略上の勝利を得れば、相手から近寄ってくるのだから。

    孫子の兵法 軍形編その4

    4、先ず勝ちて、後に戦う。

    孫子曰く。「実際の戦闘が始まってから、勝利を模索する者は勝てない。予め勝利への準備を整えている者だけが勝利を得る。最初から負けている者と戦えば、勝てるのは道理である。だから、優れた君主は政治を革新し、法令を整備し、勝利への道筋を整えるのである。」

    これは戦術上の勝利は、戦略上の勝利でほぼ決まるという教えである。だから、戦略面で勝利を決めてから、実際の闘いをすると言っている。これまで勝敗は勝負の前に決まっていると度々説明してきたが、今回もその確認となる。

    孫子の兵法を理解する時、コスト管理が焦点となっている事を知っておくと良いかも知れない。戦争に何故スピードが大事なのか?何故戦わずして勝つべきなのか?何故勝ち安きに勝つのか?答えは全て同じで、コストを掛けないためである。孫子は戦争にコストを掛けるのは愚策と考えている。そして、それを具体化するためにどうしたら良いかを考え兵法書にまとめた。それが孫子の兵法である。このイメージを知っておくと、彼の言っている事は当たり前の連続になる。

    コストを省きたいと考えた時、強い相手と戦うべきだろうか?絶対に勝てるであろう敵と戦うべきだろうか?答えは勿論後者である。だから、先ず勝ちて後に戦うのである。戦略上の勝利は、戦術上ではほぼ覆せないと言った視点の他に、コストにこだわるから故にという視点も持つと理解の助けになるだろう。孫子に言わせれば、戦争はコスト管理なのだ。

    また、絶対に勝てる相手と戦うべきとは言え、絶対に勝てる相手ばかりでは無いのだから、現実には先ず勝ちてを実践するための努力を怠るなとなる。絶対に勝てる相手がいない若しくは増やさない事には、絶対に勝てる相手と戦えという教えは、つまり戦わないという事になってしまうのだから。だから、優れた君主は政治を革新し、法を整備するわけだ。

    具体的な例として、火事を考えて見る。例えば、何処かで火事があれば、消防車が駆けつけて消火してくれるだろう。そして、その事を近くの住民は感謝するに違いない。大変ありがたい事である。しかし、消防士の仕事が火を消す事ではない。勿論それも含まれるが、本来の消防士の仕事は火事による損害を無くすことである。こう考えて見れば、火事を消火する事だけでなく、火事自体を起こさない事も消防士の担う大切な仕事なのである。

    火事が起きなければ、人々は消防士に感謝を伝えないだろう。だが、火事が起きていない状態こそ本来消防士が立派に仕事している事を意味し、実際は感謝して然るべきなのだ。消防士は火事による損害を無くすことが使命なのだから、火事が無いに越したことは無いのである。

    さて、この話が孫子とどう関係するかと言うと、火事を起こさない努力が戦略上の勝利で、火事を消火する事が戦術上の勝利となる。火事が起きさえしなければ、消火を頑張る必要はい。火事を起こさせないと言う戦略上の勝利は、火事を消火すると言う戦術上の勝利より大きいのである。孫子に言わせれば、優れた政治家はこの事を良く知っているため、火事自体が起きない法整備に尽力するという事になる。

    火を消すのがいくら上手くても、火事自体の絶対数を減らすのとでは、損害の影響は比べようがない。火事が起きれば、大なり小なり損害は出ているのだから。損害を考えれば、火事自体が無いのが一番に決まっている。戦略上の勝利は、戦術上の勝利では覆しづらいのである。(実際は火事の規模にもよるが、大抵は火事の件数が損害と比例する。)






    仕事では、人の印象をよくするとか、嫌われない努力を考えても良い。人は結局のところ好きか嫌いかである。好きならば失敗してもしょうがないとなるが、嫌いだと失敗もしてないのに怒られたりする。褒められた話では無いが、現実はこんなものである。では、どうしたら良いか?それは、まずは好かれる事である。嫌われない事である。これが戦略上の勝利だ。

    逆に、嫌われた者がいくら仕事を頑張っても、認めてもらうのは難しく、結果を出しても誰でも出来ると言われてしまうのが常だろう。仕事で結果を出すという戦術上の勝利は、好かれるという戦略上の勝利に遠く及ばないのだ。本当は公正に評価を下すべきなのだが、そうはならないのも現実。好かれる努力、嫌われない努力をしているか見直すキッカケとなれば嬉しい。


    2017年9月17日日曜日

    孫子の兵法 軍形編その3

    3、勝ち安きに勝つ。

    孫子曰く。「誰にでもそれと分かる勝ち方は最善では無い。世間でもてはやされる勝ち方も最善では無い。例えば、髪の毛1本を持ち上げて誰が褒めようか?太陽や月が見えるからと言って、誰がもてはやすか?雷鳴が聞こえると言って、有難がられるか?しかし、最善とはそのような勝ち方の中にあるのである。誰にとっても当たり前のごとく、無理なく自然に勝てるが戦上手と知れ。故に人目につかず、その智謀や勇猛さが目立つ事はないのである。」

    野球の解説者が、TVなどでファインプレーが多い選手は上手いとは言えないと言う事がある。それはファインプレーになってしまった事自体、守る場所を間違えている証拠でもあるからだ。野球の守備は相手のバッターの打つ場所をしっかり想定し、ピッチャーの投げる球に合わせ自分の守備位置を変えていくもの。それなのにファインプレーになってしまったのは、自分の読みを打者に外されたのだから褒められた話ではない。本当の名選手と言うのは、いる場所に打球が飛んできて、あたかもキャッチボールのように打球を処理できる人を言うのだ。

    孫子はこの事を言っている。目の前に来たボールをキャッチし、例えばファーストに投げてアウトにする。小学生でもできるこの行為では、あまりにも普通で誰も驚かない。しかし、現実にそうするには入念な準備が必要だ。野球の例で言えば、打者だって守備がいる場所に打ちたいわけでは無い。プロの打者ともなれば、守備の狙いを外すつもりで打つだろう。それなのに、守備のいる所に打球が飛んでしまうのだ。余りに平凡のため誰も気づかないが、実際は驚くべき事なのである。

    このように無理なく自然にと言う言葉に、相手がそう分かっていてもと言う部分が含まれている。「分かっていても、そうせざる得ないでしょう?」と、相手に問いかけるという事でもあるのだ。深い洞察があってこそ、無理なく自然になる事を知っておきたい。これが勝負は勝負をする前に終わっていると言われる所以である。

    では最後に、何故人目については最善と言えないのかに触れておこう。結論から言えば、能ある鷹は爪を隠すという事だ。何故鷹が爪を隠すかと言えば、爪を出しては狙っている事が見え見えで、獲物が逃げてしまうからである。これを人間に当てはめて見よう。自分がどんな人間で、どんな作戦を好むという事を相手に知れてしまえば、相手は警戒し対応策を練る事だろう。それでは勝てないとまでは言わないまでも、わざわざ教えてやる必要もない。戦争は詭道なのだ。

    孫子の兵法の大切なキーワードは、戦争のコスト管理である。そう考えれば、もっとも損害がない勝ちを得るためには、相手には情報を与えぬ方が良い。不意を突く事が大事なのは先述した通りである。こう考えて見ると、「勝ち安きに勝つ」は、真に孫子らしい教えでは無いだろうか?良い仕事は轍すら残さないと知ろう。轍が残っては爪を隠せないからである。






    仕事でも、当たり前の事を当たり前にこなす事が最も大切だ。たまに大きな仕事ばかり目指す人がいるが、実際の仕事は瑣事が9割である。仕事の信用とは、基本的に瑣事をどれだけ安定してこなせるかにあるのだ。当たり前の事ばかりするので目立たないが、実際にいなくなると困る。そういう人間こそ得難い人材であり、最も欲しい人材となるのである。

    得難い人材になるにはどうしたら良いか悩む人もいるだろうが、その答えは明快だ。目の前の事をしっかりこなしさえすれば良い。ただし、誰よりも上手くを忘れずに。得難い人材になるのに、特別なスキルなどは必要ない。瑣事を誰よりも上手くこなせる人間こそが出世するのである。会社は瑣事で回っているのだから。自分を見直すキッカケになれば幸いだ。

    孫子の兵法 軍形編その2

    2、攻めと守り

    孫子曰く。「勝つべからざるは守るなり。勝つべきは攻めるなり。守り上手は兵を隠し、敵につけ入る隙を与えず。攻め上手は敵に守る隙を与えず。故に自らを保ちて、勝ちを全うするなり。」

    これは攻め時と守り時を的確に選べるのが名将という話。攻める時と守り時を選ぶのは当然と思えるが、結局の所、そこが人の差となるのも事実である。人は往々にして攻めるべきを攻めれず、守るべきに攻め失敗してしまう。的確に状況を判断しろと言う孫子の教えは、当然の事にして極意なのである。

    状況を判断するに十分な情報を持っているか?心に引っかかる事など、自分の判断を惑わす事はないか?そう言う事をしっかり見直すキッカケとしたい。情報が無い時を除けば、人間がミスを犯しやすいのは見栄、私欲、恨み、焦り等で心が曇っている時である。そういった気持に思い当たる節があるなら、失敗する可能性を高めるだけだ。平常心を保つ努力をして欲しい。

    将棋の話を紹介しよう。一般的には、年を取ると若い時より我慢強くなると思われているが、事将棋の世界ではそうでも無いようだ。逆に年をとると我慢できなくなると言われているようで、年をとると攻め時を間違って攻め急ぐようになるらしい。脳は20代がもっとも回転が良いため、年をとり脳の老化すると若い時のようには読めなくなる。そのため、読む量を直観で補う他なく、直観は無駄を省く技術とは言え、感覚ゆえに状況判断を間違う事も多くなるわけだ。

    年をとり幾ら経験をつめども、攻め時と守り時を選ぶのは難しい作業だ。色々な事を考えられるようになり、判断材料が増えるからこそ難しくなっていく側面もある。当たり前にこそ極意がある事を確認したい。

    なお、「戦上手は相手が崩れるのを待つ」という話を前回書いたが、心の乱れは相手から見れば崩れに他ならない。心を修練する事を通じ、心を強くしていきたいもの。ここら辺が禅寺を名経営者が好む所以と推察する。







    孫子の兵法 軍形編

    1、敵の崩れを待つ。

    孫子曰く。「昔の戦上手は自軍に負けない態勢を築き、敵が崩れるのを待った。不敗かどうかは自軍の態勢にかかっているが、勝利できるかは相手の態勢にかかっている。故にどんな戦上手も、不敗の態勢は態勢は作れても、絶対に勝てるという保証までは作れぬもの。勝利は予見はできるが、必ず勝てるとはまでは言えない。」

    敵の崩れた時を撃った例として、最もイメージしやすいのは不意打ちでは無かろうか?例えば、出っ張りがあるの気づかずに頭がぶつけた経験はないだろうか?誰しも一度はあると思うが、とても痛かったはず。これが不意打ちの威力だ。普段、頭をぶつけたことを不意撃ちとは言わないと思うが、不意であることに変わりはない。意識していない時の攻撃はとても効果が高いというイメージを持ってほしい。そして、孫子の言う「敵が崩れるのを待つ」とは、この不意撃ちを意図的にできるのが戦上手という話となる。

    スポーツの試合のように、お互いが万全の態勢を整えてから戦っても、戦上手は勝つ事だろう。しかし、それではコストの視点が抜け落ちている。戦争はただ勝てば良いものではないのだ。国と国との戦争では、自国が他国との戦争で弱った処を狙われるという事もあるのだから、戦争に勝つだけでは足りず、如何にコストをかけずに勝てるかが大切なのである。

    最もコストがかからない勝ち方こそ、至上であることを知ろう。そう考えて見れば、敵が万全の態勢の時に攻めるのは、例え勝てるとしても脇が甘いと言え、敵の態勢が崩れた時に不意を打つ事こそが良い戦い方である事が分かる。だから孫子は、まずは守りを固め負けにくい状態を作り、相手が崩れた時を狙えと言っているのである。

    とは言え実際は、相手が崩れるのをただ待つのではなく、そう仕向けて行く事になる。戦争をテーマにした物語を見れば、挑発行為をしたり、相手に偽の情報を流し騙したところを攻めたりする描写がなされたりするだろう。

    例えば、三国志では諸葛孔明が司馬仲達と相対した時、司馬仲達に女の首飾りを送り挑発する描写があるが、これは諸葛孔明が司馬仲達を挑発して、司馬仲達の不敗の態勢を崩そうとしたという事だ。一向に戦おうとしない司馬仲達に対し、諸葛孔明がお前は女のような女々しい奴だと言ったのである。血気に盛る武将ならば、言わせておけばと挑発にのってしまうわけだが、司馬仲達は再三の挑発にも乗る事は無かった。そうしている内に諸葛孔明が病死してしまい戦いの幕は閉じる事になる。このエピソードも孫子の兵法に則った心理戦だった事を感じ取れる。

    なお、孫子は「勝利は予見できても、必ず勝てるとは言えない」と言っているが、未来が分かる人間がいるわけでは無いのだから当然である。従って、この部分は油断せず慢心することなく、勝つまでは慎重な姿勢を崩すなという教えとして受け取るのが妥当だろう。優勢だから勝てると気を緩めると、思わぬミスをするもの。それを戒めているのだろう。

    さて、今回は相手の崩れを待つという事で、柔道の話をしよう。柔道と言えば投げが華やかだが、相手を投げると言っても、相手だって動かない訳では無い。物を持ち上げるように、ヨイショと言うわけにはいかない。そこで大切になるのが崩しというテクニックだ。素人目には相手を単に担いで投げているように見えても、実際は投げる前に必ず崩しというテクニックが入っている。

    では、崩しとは何か?それは相手をつま先立ちにする事である。つま先立ちにする事が何故崩すことになるのかイメージが付かない方は、つま先立ちになってみて欲しい。重心がふらつかないだろうか?足が地面にべたっとついている時より、重心が不安定になるはず。人間はつま先だちにされると、上手く堪えられないのである。だから、その時に技に入れば相手は堪えられず投げられてしまうのだ。幾ら力があっても、それを出せなければ意味が無い。だから、柔道では相手を崩すことで力を出せない状態に追い込み、その上で投げているのである。これも孫子の兵法どおりの闘い方なのだ。




    2017年9月14日木曜日

    孫子の兵法 謀攻編その4

    6、彼を知り己を知れば、百戦して危うからず。

    彼を知り己を知れば、百戦して危うからず。己を知り彼を知らなければ、勝敗は5分となる。己をも知らず彼も知らないなら、必敗す。

    情報の大切さを謳った言葉で、相手の強み弱み、自分の強み弱みをまず把握して、話はそれからという意味となる。相手の方が強いなら戦争するべきではないのだから、国力の差を縮める事を考えるべきだろう。相手より強いなら、戦争を含めた選択肢を考えても良いだろう。

    孫子は「百戦して危うからず」と言うが、孫子の性格を考えれば、これは百戦もすることは無いというニュアンスで受け取って良い。国力の差を把握し、それをもとに知恵によって戦わずして勝つ。勝算がないなら戦わない。戦火はコストが増すばかりなのだから、戦火を交えるのは極力避けようという前提を踏まえて理解していきたい。こう解釈するならば、「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」は血気に盛り戦火を交える事を戒めた言葉ともなるのである。

    外交交渉の甲斐なく戦火を交える場合も、相手の5倍の戦力を確保し、圧倒的攻勢から損害を少なくする事が大切なのは先述した通りである。故に100戦危うからずなのだ。



    孫子の5つのチェックポイント

    • 彼我の戦力を検討し、戦うか否か検討出来る事。
    • 兵力に応じた戦いができる事。
    • 君主と国民がまとまっている事。
    • 万全の態勢を踏まえて、敵の不備をつける事。
    • 将が有能で、君主が口出しをしない事。



    最後に将棋の故・米永邦雄永世棋聖の話を紹介しよう。彼は言う。どんな棋士もプロであるからには、負けた時に何故負けたかくらいは考える。しかし、勝った時に何故勝てたのかを考える棋士が少ない。ここが棋士の差となるのであると。

    彼を知り己を知るとは、良きも悪きも須く把握すべきという事。反省を怠らない事はとても大切だが、自画自賛も同様に大切なのである。自分の何が悪くて失敗したのかに加えて、自分の何が良かったから結果がついてきたのかも、しっかり把握すると良いだろう。結果が付いてきたのは、自分の良い処が故だ。それが分からなくては、安定した勝率は望めまい。結果がでたのは、自分の悪い処を補って余りある良い処があるから。その事を忘れずにしたい。

    「勝って不思議の勝ちあり。負けて不思議の負けなし。」反省の大切さを伝える江戸時代から伝わる言葉だが、よく見ると負けた理由の他に、何故勝ったのかもしっかり分析している事に気づきたい。





    孫子の兵法 謀功編その3

    4、勝算がなければ戦わない。

    孫子曰く。

    • 10倍の兵力ならば、包囲する。
    • 5倍の兵力ならば、攻撃する。
    • 2倍の兵力ならば、分断する。
    • 互角の兵力ならば、勇戦する。
    • 劣勢の兵力ならば、退却する。
    • 勝算がなければ、戦わない。


    この目安で、孫子は判断していたようだ。戦わずして勝つことに重きを置く孫子であるから、劣勢なら退却する事、勝算が無ければ戦わない事が特に大切となる。

    日本でも逃げるが勝ちと言うが、逃げる事は恥ずかしい事では無い。戦国武将の例をとって見ても、徳川家康だって逃げの名人だったし、織田信長だって逃げの名人であった。有名な武将は逃げるのも上手いものなのだ。勝負事は最後に勝つ事が大事だ。意地をはらずに状況を見るのが良いだろう。死んでしまっては意味がないのだから。

    また孫子は攻撃をするタイミングで5倍と言っているが、これは現在のアメリカと北朝鮮の姿にも見て取れる。アメリカは圧倒的飽和攻撃によって、反撃を許さない攻撃を考えていると言われる。孫子はこれを5倍の兵力と言っているのである。孫子はその性格上、5倍用意して攻めると言うのではなく、5倍という状況を利用し外交による勝利を目指す事だろう。これもアメリカの対話と圧力に見て取れる。アメリカの行動は孫子の兵法からも妥当なのである。

    仕事で考えて見よう。日本では石の上にも3年と言ったり、逃げない事を尊ぶ傾向がある気がする。勿論、それはそれで素晴らしい価値観なのだが、逃げる事は悪い事と決めつけてしまうのは良くない。どんな人間も100戦して100勝とはいかない。ならば、負けた時どう損害を少なくするかも極めて大切なのである。逃げるが勝ちとは良く言ったもので、名人と呼ばれる方は逃げるのも上手いものである。逃げてはいけないと単純に考えてしまっては、自分の選択肢を狭めるだけなので注意して欲しい。

    そして、より大切となるのは、逃げた後にそれを前向きにとらえられるようにする事だ。逃げた事を心の傷として落ち込んでしまってはいけない。逃げた事を良い経験を得たと前向きにとらえられるなら、逃げる事は悪い事ですら無いと知っておきたい。シェイクスピアは、世の中に良いものも悪いものもなく、それを決めているのは自分だと言ったが、この話を参考にして逃げる事への意識を変えてはどうだろうか?逃げる事が悪いのは、貴方がそう考えているから。それ以上でもそれ以下でも無いのである。



    5、君主の口出しについて

    結論から言うと、孫子は軍への君主の口出しは害悪で自殺行為と考えていたようだ。君主を補佐するために将軍がいる。君主と君主が良い関係を築ければ国は栄えるが、関係が乱れれば国は弱体化してしまう。君主たる者は自らの行為に注意を払わねばならない。なお、孫子が指摘するミスは3つある。

    1. 進べきでない時に進軍を命令し、退くべきでない時に退却を命じる。
    2. 軍の指揮系統を無視して命令し、軍に不信の種をまく。
    3. 軍内部の事情も知らずに、軍に口出しをし軍を混乱させる。


    軍事の素人である君主が、軍事に口を出せばどうなるかは想像に容易い。自分より知恵のある者の前では話すべからずの格言を胸に刻みたい。王は自分より優秀だから雇っているくらいの気持ちで構えているのが、将軍も信頼されている事を実感し、結果として国が安定する事だろう。

    この点でもアメリカはしっかりやっている。アメリカのトランプ大統領は国防はマティス長官に任せているという。アメリカ経営学の基本は、部下に権限の委譲をして、部下のやる気を引き出す事だと思うため、有能なアメリカ人経営者でもある彼はその通りやっているだけかも知れないが、孫子の兵法からしても正しい事は知っておきたい。

    なお、この話を逆から考えると、攻める糸口となる。君主と将軍の関係が強固なものになるほど国が安定するのだから、攻める時は君主と将軍を離反させれば良い事になる。君主が軍に口出しをすれば軍が弱体化するのなら、君主の虚栄心をうまく刺激することで軍に口出しをさせるのが良い。孫子は戦争の学問のため、両面からどうぞ。

    仕事でも、部下を信頼し任せる事はとても大切だ。心配で部下に口をだしてしまう経営者の方もいるだろうが、考えても見て欲しい。自分が口をだしていられるのは、会社の規模が小さいからだ。会社の規模が大きくなるにつれ、部下に仕事を委任しなければならない。松下幸之助も生前、自分の仕事は祈る事くらいと言っていた。だからこそ、部下がやる気になり尊敬されたのである。




    2017年9月12日火曜日

    孫子の兵法 謀攻編その2

    2、上兵は謀を討つ。

    相手の狙いを外すと勝ちやすいという事。相手の意図を読み取り、その上で邪魔をする。成功すると、邪魔された相手はやりにくさを感じるもので、心理的に劣位に立つ。将棋などボードゲームの経験があれば、相手の狙いを外すと勝ちやすい事は実感できるのでは無いだろうか?

    相手の狙いには、それ相応の準備がしてあるものである。それに乗ってでも勝つのは漫画の主人公的でカッコいいかも知れないが、現実には愚かな行為となる。如何に被害を少なく勝てるかが、将の腕の見せ所と考えよう。相手が用意周到に準備している所に攻めては、相手はミスはしてくれない。何せ日々訓練だってしているのだ。相手にとって未知の領域だからこそ、見落としからミスをしてくれると知れ。

    だから孫子は言う。城攻めは愚かな行為であると。城を攻めるための攻城兵器の準備に3か月かかる。土塁を築けばさらに3か月。その間に現場の将軍が血気に盛り兵を大きく失いかねない。そのコストを考えれば、城攻めは褒められた攻め方ではなく最終手段であると。

    まずは相手を知り、同盟があればそれを分裂するべきだし、国内がまとまっているなら国内を割くべきである。歴史的にはキリスト教の宣教師がこれを上手くやってきた。キリスト教の布教は工作員の現地雇用の意味合いがあり、国への忠誠心をキリスト教への忠誠に変えさせる狙いがある。その後、キリスト教徒に謀反を起こさせ国内を分裂し、その間に正規軍を送り攻めるのだ。

    例えば、今ハワイはアメリカの一部だが、そうなった背景にキリスト教宣教師の暗躍があった。他にも、つい先日、中国でキリスト教への弾圧があったようだが、中国が何故新しい教会の新設を認めないのか。其処ら辺を感じ取れるだろう。中国はバチカンによる内部侵略に警戒しているのである。中国のキリスト教徒は1億人前後とみられ、弾圧を受けながら信者が増加している模様。日本では目立たないが、中国共産党の戦いはここにも見てとれるのである。先日のキリスト教弾圧も、上兵は謀を討つという観点で押さえると見方が変わってくるだろう。

    ビジネスで言えば、コストリーダーシップ戦略にしても、差別化戦略にしても、相手の狙いを外すという部分はあるだろう。ニッチ市場で勝負するのも、大手の狙いを外したとも言えるし、相手の企業と同じ路線で競争するだけが能では無いという事を確認しておきたい。

    人間関係で言えば、単純に悪口の場にはいないのも狙いを外すと言える。悪口の場で一緒に悪口を言ってると、後で陰口されたり良い事は無い。一番良いのはそういう場に居合わせないことで、悪口を言っている所を見た事がない人間になる事である。例え陰口されても、それが嘘に聞こえるような人格を作り上げたい。



    3、戦わずして勝つ。

    戦わずして勝つことが最良なのは言うまでもない。戦えば損害は必ずでる。損害が一切でない戦わずして勝つ事の何と素晴らしい事か。戦いは戦う前に勝負がついている事を意識し、相手には知恵を以って勝つ事を心がけよう。

    なお、戦わずして勝つ時に最上となるのは、相手の戦う意思すら無くす事である。それには心を磨かねばならない。悪い奴では、こいつは許せないという理由で戦いが起きる。良い奴だからこそ、戦う理由がなくなり、戦う意思が薄れていくのである。これに強さが備わると、文字通り敵がいない無敗の境地となる。戦う理由もないのに、相手が強いと分かると人間は戦う気にならないのだ。ある名門の家が「まずは雄たれ。その後、心を磨け」と教える所以である。

    ビジネスで考えて見よう。会社は末端の社員を見れば、その会社の姿が分かると言われる。良くも悪くも、末端の社員に会社の倫理観や、教育の度合いがでてしまうからだ。自社の社員は周りからどう見えるか?恥ずかしくないか?会社の姿は末端の社員という話を見返しておきたい。会社が社会で受け入れられるためには、こういった部分こそ大切なのだから。






    孫子の兵法 謀攻編

    1、百戦百勝は、善の善なるものに非ず。

    そのまま訳せば、百戦して百勝よりも素晴らしい事があると言っている。孫子は戦わずして勝つ事を尊ぶ人物であるから、つまり戦ってしまった事自体が善とは言わないという事だろう。百戦百勝は一見すると素晴らしいが、次負けないとも限らない。無敗を貫きたければ、戦わない事こそ肝要だ。我戦わず。ゆえに負ける事なし。屁理屈のようだが、これは真実にして嘘では無い。

    とは言え、現実の敵は攻めてくるわけで、全く戦わないのも現実では無理がある。自分が戦わなければ平和になるのなら、人類の歴史が戦争で彩られていないだろうし、イジメだってなくなるだろう。現実では今この時も戦争は行われているわけで、イジメも行われている。では、孫子は何と言わんとしているのか?どうしたら戦わぬ故に負けることなしができると言うのか?その答えは、戦火を交える前に勝利する事にあると言うのである。

    孫子が言うには、敵と相対する時はまず知恵を以って勝ち、知恵で無理なら軍による威圧による勝ちを狙い、それでも無理なら人脈から相手に戦争のデメリットを刷り込んで勝つ。それでも無理なときに戦火を交えるのだ。あらゆる戦いは戦う前に勝敗が決っしている事を肝に銘じるべし。この視点に立てば、百戦百勝と言うが、百戦した事自体が褒められた事では無いという事になるわけだ。

    ビジネスの例を紹介しよう。最近は自動運転という言葉を耳にするようになり、アメリカではすでに自動運転の車が走っている地域があるわけだが、この自動運転が自動車業界の姿を変える事になる。今までは車と言えば車メーカー同士の闘いだったわけだが、これにグーグルが参戦してきたのだ。自動運転を現実に行うには、交通のルールと言うか、自動運転をつかさどる共通のシステムが必要となる。このシステムをグーグルが担おうとしているのだ。

    今トヨタはグーグルと提携し自動運転を進めているようだが、これはグーグルの下にトヨタが入る事を意味する。検索企業であったグーグルは、今や世界の自動車業界自体を傘下におさめつつあるというイメージを掴んで欲しい。これからはグーグルにそっぽを向かれて自動運転の車の販売はできなくなりつつあるわけで、自動車メーカーはグーグルにライセンス料を支払って、自動車販売するようになっていくと見られる。

    まだ自動運転システムは実験の段階だが、2050年には世界的に自動運転になると見られている。このまま行けば、2050年に自動車メーカーを支配するのはグーグルになっているかも知れない。これを孫子は知恵によって勝てと言っているのである。知恵によって勝てるならば、あとは相手がどう動こうと大勢に影響は与えない。グーグルの例を参考にして欲しい。

    この例に限らず、日本企業は下流でのみ頑張る傾向があると言われる。上流で勝敗が決してしまうのに、日本企業は何故か上流にこない傾向があるのだ。実際はこの揶揄も多少無理があり、軍事力がない日本がどうやって上流に行けばいいのか、アメリカが上流で戦っていられるのは軍事力があるからという部分を見逃して論じているわけだが、今のままなら日本に頼らないと良い物は作れないとまで腕を磨くのも良いかも知れない。その国の軍事力が企業経営に影響を与える事も、孫子の兵法という事で触れて置く。幾ら理屈を言っても、最後は拳固で終わり。それだけの話である。





    孫子の兵法 作戦編その2

    3、智将は敵を食む。

    知恵のある将は敵の物資も利用するという事。戦争では補給物資の輸送が大変だ。路が長くなれば敵に狙われやすくなるし、それを守るために兵も必要となる。かと言って、補給しなければ前線の兵は戦えない。戦争における補給は最も重要な部類のテーマなのだ。

    その補給で最も理想的となる手段は何だろうか?それは敵の物資を利用する事である。自軍のコストは大幅に減り、加えて相手は大きな無駄をした事になるのだから一石二鳥と言える。だからこそ、智将は敵の物資も利用できないか思慮すると、孫子は言うのである。彼曰く、敵地で得た米1升は、輸送して補給する米20升に相当するそうだ。人件費や襲われて失うリスクなどを考えれば、補給が如何にコストかはイメージしやすいだろう。

    補給を戦争として考えた場合、補給路を断つ事は戦争に勝つ有効な手段になる。補給の失敗は前線の部隊の士気に影響を与えるし、補給されないのでは撤退も考慮しなければならない。兵と兵が銃撃戦をする事を戦争と思いがちだが、それは戦争の一つの形態にすぎず、補給を主眼に置いた戦い方もあると知っておきたい。

    なお、敵に物資を利用されるくらいなら、逃げる時に物資を使えなくするのも一つの手となる。装備なら壊しておくとか、使った時に暴発するように仕組んでおくとか、食料には毒を含ませるとか。敵の物資を得たからと喜んでいると、そこに罠が仕込まれていたりする可能性は高いため、注意されたし。

    ビジネスで言えば、M&Aなどをイメージしても良いかも知れない。何かを始める時、全て一からやる必要は無い。すでにある会社を買い、その会社の持つのれんを始めとした資源を利用するのも手である。

    これは少し違うかも知れないが、特許をオープンにする手がある。自分のいる業界を大きくしたい時、何も一人で頑張るだけが能では無い。独占は美味しい状態だが、小さな業界で独占したほうが良いか、大きな業界にしてシェア5割もったほうが利益がでるかは検討の価値があるのだ。シャープの創業者である早川徳次などは、人に真似される商品を作れと言っているくらいだ。競合相手の力を利用する事で、てこの原理というやり方も知っておきたい。



    4、勝ってますます強くなる。

    勝って弱くなっては仕方ない。勝つ事でますます強くなるよう心がけよと言う話。信賞必罰は武門のよって立つところだが、何故かと言えば、それが分かりやすいからである。兵は見返りを求める。手柄を立てても見返りがないのなら、命をかけてくれる兵などいなくなるのは道理だ。手柄を立てれば報われるからこそ、兵はやる気になり命を懸けて戦ってくれるのである。

    罰も大事だ。軍規違反を罰しなければ、誰も言う事を聞かなくなってしまう。戦場では命が懸かるのだから、軍規違反も正せないようでは、戦場で兵が逃げだし作戦どころの話ではなくなる。軍を弱体化させないためには、賞と罰が車の両輪ようのようなものなのだ。

    また、敵軍の処遇も大事だ。敵はすべて殺すというのも一つの手であるが、出来れば味方に併合したほうが良い。有能な得難い指揮官なら猶更である。豊臣秀吉などは、織田信長に斬られそうになった武将をわざと逃がし、後で自分の軍の武将として迎え入れたという逸話が残っているくらいだ。戦争は勝って終わりでは無い。勝てば次の戦争への準備が始まるだけであり、平和は戦争と戦争の合間の休息に過ぎないという現実を確認しておきたい。

    なお、勝ってますます強くするように心がけるのは、勝つ事で生じる慢心を制御する意味合いでも押さえて欲しい。人間が一番ミスしやすいのは、慢心して油断している時である。気が抜けて普段なら考えられないミスが生じたりする。日本でも勝って兜の緒を締めよという言葉があるが、勝ったと思った時が一番危ない時間帯という意味でも思い返しておきたい。

    ビジネスで言えば、会社に適正な評価基準が備わっているか見返したい。軍で信賞必罰が尊ばれるのは、それが軍にとって適正な評価基準だからである。人が一所懸命と頑張るのは、それが報われるからであり、この当たり前を無視して組織は成立しえない。必ずや離職率となって現れる事だろう。

    特に最近は、上司は部下に好かれないといけないと言われる。昔の部下は仕事だからと言えば黙ってついてきたものだが、今はそうはいかない。一度嫌われると、この会社はブラックと言って他社に行ってしまうのだ。せっかく育てた部下に辞められては掛けたコストが全く無駄になるのだから、上司には部下に嫌われない努力が求められるのだが、結局これは部下を正当に評価しろという部分がある。

    会社組織の都合上、特に上から2割の利益をあげてくれる社員の評価はとても大事で、少なくとも其処から不満がでないように心がけるのは経営者の大きな仕事の一つとなる。常日頃から褒めて評価し、お金や地位で報いるようなシステムを構築したい。会社を発展させるには社員の力が欠かせないのだから、人材から人財へ認識を変え、社員に喜ばれる会社づくりをしていきたい。

    社員に喜ばれる会社と言う意味では、アメリカのサウスウエスト航空が手本になるかも知れない。決して給料が高い会社では無いが、入社希望者は絶える事が無く、ずっと黒字の素晴らしい会社である。参考までに。





    2017年9月8日金曜日

    孫子の兵法 作戦編

    1、戦争には莫大な費用がかかる。

    孫子曰く。「およそ戦争というものは、戦車1000台、輸送車1000台、兵卒10万、千里の遠方へ糧を送る必要がある。内外の経費、外交使節団を接待、補給と一日1000金かかるものである。」

    戦争にはコストがかかるものである。これを無視して戦争は出来ない。ここの所ずっと北朝鮮問題が大きく報じられているが、何故北朝鮮の行動をアメリカが制止できないかと言えば、一つはこのコストの問題がある。アメリカは世界最強とは言え、2か所同時には戦争出来ない。コストがかかりすぎ、今調子のよいアメリカ景気を後退させかねないからだ。アメリカ兵が一人死ぬと8千万からのコストとなり、アメリカ景気にこそ使命を持っているトランプ大統領は、これを無視して陸軍を送りづらいのである。

    先日、アフガニスタン増兵が発表されたが、その後に北朝鮮の核実験が行われた事を抑えておきたい。アメリカの兵も無尽蔵では無い。このタイミングでアフガニスタンに増兵するという事は、アメリカは北朝鮮との戦争は考えておらず、対話による核容認に動く事を示唆している。だからこそ、北朝鮮は核実験に踏み切れたのだ。勿論、こんな単純な話ではなく、ワシントンDCの状況、中国の状況その他諸々を考慮してなのだが、アメリカがコストの面も気にしている側面も抑えておきたい。

    これを積極的に捉えれば、コストを突く攻撃はとても有効である事を意味し、北朝鮮はアメリカをコスト面で攻めているとも言える。危ない橋を渡っている事に変わりはないが、どうも適格のように見受けられる。

    ビジネスで考えれば、ビジネスもコスト無視では成立しない。最近は価格からコストを決めるため、下請け側が価格を上げづらく、それがデフレの原因の一つとなってるという議論もあるようだが、兎にも角にもコストは無視できない。シビアなコスト管理は大切なのは言うまでも無いだろう。コストに無駄がないか見直すキッカケにしたい。他社の低価格戦略に対抗するにも、より利益をあげるためにも、このコスト管理が肝となるのは言うまでもない。



    2、兵は拙速を聞く。

    戦争はスピードが大事だという事。戦争には大きなコストがかかるのだから、長引けば国は疲弊するばかりである。最悪、戦争には勝ったけど、他の国に攻められ国を失うという事もあろう。それでは本末転倒である。戦争は始めるタイミングも大事だが、止めるタイミングも大事なのだ。早期講和の重要性が説かれる所以である。

    悪しき前例として、大日本帝国がある。大日本帝国が何故負けたのか?それは中国に戦線を拡大した事も大きい。実は当時、アメリカから満州を諦めれば他の権益はそのままで良いと講和の話が来ていたのだが、それを大日本帝国は受け入れず中国に戦線を拡大した。結果は敗戦し今に至るわけだ。歴史にもしは栓無き事だが、今そういう議論がされる事はある。

    当時の状況としては、尾崎秀実などソ連のスパイが大日本帝国に深く入りこんでいたわけで、ソ連からすれば大日本帝国が中国側に攻め入れば、ソ連側には攻めてこれない事を考えれば、スターリンの意を組んだスパイにまんまと嵌められたのだろう。コミンテルンの敗戦革命という計画から、大日本帝国は中国に傾倒して滅びの道を進んだのだ。

    ビジネスでもスピードは大事だ。昔の営業は一つのものを比較的長く売る事ができたが、今は商品がすぐ古くなり売れなくなる場合がある。こうなると、ゆっくり自社で営業を育てる事自体が時代にあわなくって来ている。これは特にIT業界など顕著だ。

    では、どうしたら良いか?その一つの答えをアメリカにある。アメリカでは、速やかに集合し物を売ったら解散するような営業集団があると聞く。物がすぐ売れなくなるなら、物を売るだけに特化し、様々な商品を売る会社があれば良い。一気に売って利益を出したら、すぐ次の商品に移る。何ともスピード感のある話である。

    この例に限らず、時代は速度を求めている。そう言う事を見直すキッカケにしたい。



    孫子の兵法 始計編その2

    4、仕える条件の逸話

    孫子曰く、「王が自らの策を用いるならば戦に勝ち、用いぬならば例え自分が軍師でも負ける。そして、用いぬなら自分がいる意味が無いので、王のもとから去ろう。」

    さもあらん。日本人としてみると、王に対し凄い事言うと思うかも知れない。だが、2倍、3倍の高値を吹っ掛ける文化のある中国人らしい交渉だと思う。現代の中国人の交渉術が、2500年前の孫子の姿にすでに見れる事が興味深い。時をえてなお土着した文化なのだろう。こう言った後、孫子は女官を兵に育てよと王に試される逸話があるが、逸話自体はあったとも無かったとも言われている様子。動画があったので、逸話の中身は動画をご覧あれ。





    ビジネスで言えば、転職は3回はすると言われる時代になった今、彼の強気な交渉術は見習うべきだろう。面接は会社が誰を雇うか決めるものと思っている人がいるが、同時にそれは雇われる側が会社を選ぶ場でもある。面接と言う場は、お互いの選考の場であるのだ。孫子はその事をよく踏まえているように見えないか?

    終身雇用的な文化はすでに失われ、何よりこれからは企業が10年で潰れる時代になると言われる。終身雇用も何も企業自体が無くなってしまう事を踏まえておきたい。そして、平均寿命が100歳を超えるようになると言われる中、自分の働く年数も生涯現役に根差したものになっていくのは自然の摂理。AIによる劇的な社会変化も恐らく15年と待たずくるわけで、予想ではその時までに今存在する企業の半分はなくなるとみられる。

    サラリーマンという意識から、プロのサラリーマンという意識へ自分を変えねばならない事を見返したい。



    5、基本は大事だが、過信するべからず。

    孫子曰く、「先述した7つの基本条件に照らし、もし有利と判断したなら、その基本条件の補強に努めよ。その際、勢を意識する事が何より肝要である。」

    自分が有利なら有利な状況を広げる、若しくはしっかり守るという事。有利な状況を覆させてはならないという話となる。勢とは臨機応変にという意味で、過去の例に固執しすぎず、その時々の状況で最も良い策を考えよという教えとなる。

    勢を無視し手痛い失態を犯した例に馬謖がある。泣いて馬謖を切るという話は有名なため、ご存知の方も多いだろう。ある時、敵と対した馬謖は副官の制止も聞かずに山の上に布陣した。これは山の上は山の下より有利という基本に則った行為だったのだが、それを敵に利用され水ならび補給を断たれてしまった。水がなければ戦えないという事で、結局有利な山をおりるはめになり、待ち構えている敵へ無謀な特攻をして馬謖は大失態を犯してしまう。そして、軍規を正すために、諸葛亮が可愛がっていた馬謖を泣いて切るのである。

    ビジネスで考えて見よう。よく経済学者はあてにならないと言われるが、それを孫子が勢が大事と説いている。世の中に同じ状況というものは無いはずなのに、それを経済学者が過去の経験になぞらえて判断するため、結果として経済学者はよく外れるのだ。彼らの大半は言わば馬謖なのである。

    この話から、何時だってその時に最も適した案は、自分で考えなければならないという事を見直しておきたい。過去の事案が参考になることはあっても、それがピッタリくるかは良く考えねばならない。何時だって解答は自分でひねり出す癖を身に着けたい。

    穿った見方をすれば、経済学に詳しいとはその人の考えるパターンも読みやすいという事だ。何故なら経済学の枠をでないのだから。これは罠を作りやすいという話にもなるのだから、学んだことは一旦忘れるくらいの心がけが大切では無かろうか?孫子が戦争の学問という事で、罠と言う観点からも勢を意識しておきたい。



    6、兵は詭道なり。

    戦争は騙し合いという事。強いのに弱いと見せかけ、困ってないのに困ってるふりをし、逆に弱いのに強く見せかけ、困ってるのに困ってないふりをする。相手に正しい情報を与えない事はとても大切である。

    相手の状況を正確に知るほど、作戦も立てやすい。相手の状況が分からなければ、作戦の立てようがない。兵は詭道なりとは、相手の状況をよく知る事という教えともなるし、相手に正確な情報を与えるなという教えともなる。情報戦の大切さを謳っていると同時に、相手の行動は罠かも知れないと疑う癖を養う事を通じ、より慎重な姿勢にこそ名将の名将たる所以がある事を知れとも受け取れる。

    ビジネスにおいては、騙されるなという事で取引相手の素性は良く知ってから取引する事、情報の大切さ特に情報は死ぬ前にさばく事、情報をしっかり得ている事を見直したい。ビジネスは詭道とまでは言わないが、詐欺も多いのは事実であるし、情報をどれだけ持っているかで成績が変わってくるのも確かだろう。業界のトップセールスともなれば、自分の仕事で一冊の本が書けるものだ。そういう観点で見ても良いかも知れない。

    情報が大切と言われれば、否定する者もいない。だが、情報の扱い方は人によって変わるようだ。特に注意して欲しいのは、死んだ情報を教えて得意がる人になるなという事。情報は生きているからこそ意味があるもので、死んだ情報を教えてもらって喜ぶ人間はいない。生きた情報を教えるからこそ、その情報で喜んだ相手が自分にも生きた情報を教えてくれるようになり、そういう付き合いこそが生きた人脈となる事を覚えておきたい。

    人間は出入口と言われる。出すからこそ、入ってくる。出す事を惜しんでは、入ってくるものも入ってこないと知れ。



    7、勝算が無ければ戦わない。

    そのまま受け取っても良いが、裏がえし、勝算が得られるよう情報収集・準備が大切とするというのが現実的な教えとなる。勝負は勝負をする前に決まっている事がほとんどだ。日本の選挙ですら投票日に結果が分かるわけでは無く、投票日前の調査で分かってしまっている。投票は単なる形式にすぎないのだ。

    勝算が得られるのは、勝利する条件がそろっているから。勝算が得られないのは、勝利する条件がそろっていないから。勝利する条件もなしに戦うのは、全くの無謀である。戦いは戦う前に結果が決まっている事を知り、準備を怠るなかれ。

    ビジネスで言えば、綿密な現地調査のもとで商品を発表しろという事か?商品の発表前の予約販売の重要性を謳っているとも取れるし、大きく販売する前に商品への反応をよく知っておくべきという事になるかも知れない。

    いい商品とはお客が選ぶものである。当然の事のようだが、これが守れてない人は意外に多いものだ。例えば料理店なら、俺が作る料理は旨いと固執し、お客を無視し売上が上がらない店主などがいる。旨ければ売り上げにつながる。売上にならないなら、お客の好みでは無い可能性が高いのである。

    お客が欲しい物と、自分が良いと思っている物は違う。見直すキッカケにしたい。





    2017年9月6日水曜日

    孫子の兵法 始計編

    孫子の兵法は有名だが、自分は学んだことが無かったため、一通り目を通して見る事にした。守屋洋の孫子の兵法が家にあったので、これを参考にし、ネットで知識を補完しながら、孫子の兵法を自分なりに考え解説してみたいと思う。




    まず始計編を読んで見て、当たり前と言えば当たり前の事を書いてあるという印象だが、何故孫子が有名なのかを考えて見た時、恐らく2000数百年前に戦争を様々な要素に分けて分析する手法を思いついたからであろう。

    戦争して勝てるかを考える時、初心者なほどざっくばらんに成りがちである。勝ちそうだとか、やって見なければ分からないとか、逆に相手のほうが強そうだとか、根拠の薄い空を掴むような話になる。孫子の凄かったのは、此処に優れた分析的なアプローチを施した事だろう。

    ざっくばらんだった相手の国と自分の国の国力を、分野ごとに分け計ることで国力をより具体化した。また、過去の経験を洗い出し、国はどのような状態に陥ると負けるとか、どのような状態の時は勝てるとか、人が陥りやすい落とし穴は何かとか、戦争に対し今の言葉で言うマニュアル的なものを人類で最初に作り上げた事に孫子の偉大さを感じる。以下、孫子曰くの部分は水色で、その下に解説を加えていく。



    1、兵は国の大事である。

    この場合の兵とは戦争となる。戦争は国の一大事であるから、慎重な判断が求められるという事のようだ。当然と言えば当然の話に見える。少し穿った味方をすれば、相手の慎重な判断を邪魔する事が良い攻めという事だし、自らの君主が若しくは政治システム、政治家が優れていなければ国は亡ぶという警告ともなる。

    ビジネスに当たっては、経営者自らの責任の重さを確認するとともに、社内の内部統制を見直すキッカケにしたい。



    2、戦力には5つの基本問題がある。

    5つの基本問題とは道、天、地、将、法になる。道は君主と民衆の気持を一体化させるものらしいので、今でいう宗教観のようなものだろう。要は善悪の価値基準を統一する事が全体の士気に影響を与えるのは当然の事なのだから、道をしっかり教育すべしと言うのだろう。日本では騙す人が悪いが、中国では騙されるほうが悪いと言われる。どちらが良いかは置いておいても、これを統一しないと国は一丸になれない。何を言っても国民の意見が割れてしまうのだから。そういうイメージと思う。

    天は天候の事。実際に戦う場合、天候の問題はとても大切だ。雪が降っているか、晴れているかで大分違う。特に昔は陸戦だけだったのだから、より影響をうけたと思われる。地はそのまま地理の条件の事。戦場までの距離、戦地の広さ、山の上か下かなど当然知らなければならない情報になるだろう。将は将軍の事で、人材の有能さ、誠実さなどが大事なのは当然。法は軍政に関する事で、軍規が腐敗せず機能しているか等の諸問題を指す。

    自分がリーダーとなって戦争すると思って考えて欲しい。軍隊の士気や連帯感は高いか?天候はどうだ?地理的な条件は問題ないか?人材はそろっているか?軍の作戦実行能力に不備はなさそうか?これくらいは当然考えるだろう。それを道天地将法と言っている。孫子から教わろうとするのではなく、自分ならどうすると考えれば当たり前の事を言っているだけである。

    ビジネスで言えば、社長の考えや経営方針が末端の社員まで浸透しているか、有能な人材が育っているか、会社へのアクセスの利便性はいいか、盗みや空出張など社内の腐敗をチェックする機能はしっかり運営されているか言う事になる。



    3、戦力の7つの基本条件を比較せよ。

    • 君主はどちらが立派か
    • 将帥はとちらが有能か
    • 天の時、地の利はどちらが優利か
    • 法令はどちらが徹底しているか
    • 軍隊はどちらが精強か
    • 兵卒はとちらが屈強か
    • 賞罰はどちらが公正か


    5つの基本問題をより具体的に比較してみるという話になる。戦争は政治が決定するが、その政治は自分と相手の何方が優れているか?政治の腐敗はどうだ?篭絡できる政治家はいるか?また、自らの陣営はどうだ?すでに篭絡されていないか?こう言った事をしっかり把握する事は大切である。戦争は政治がはじめ、政治が終わらせる。戦争は所詮政治の一部なのだから。

    天の利、地の利がどちらにあるかは当然把握したい処だし、どちらの軍隊の装備が優れていて、兵の訓練度の差なども戦力分析に欠かせない。兵の賞罰が公正に行われているかは、軍隊の士気に影響がでるから何方がしっかり行われているか見るのでは無いか?戦争として考える場合は、この7つのポイントごとに調略戦が行われるとも言え、自らはされて無いかというチェックポイントともなる。

    ビジネスで考えるなら、他社との比較検討の上、他社の素晴らしい点を把握するのに利用したい。あの会社が業績が良いのは、こういう良い処があるからだと思えるようになれば、自分の会社も上向きになる事だろう。よく悪い処ばかり指摘する人がいるが、他社が業績いいのは悪い処ではなく、良い処が故である。悪い処を見つけても全く意味が無い事にも触れて置く。業績をあげたいなら、相手の良い処を盗むことを心がけ、賛美するくらいが調度良い。随喜功徳を忘れずに。






    ---- 以下、余談 ----


    2017年9月1日金曜日

    般若心経の解説 その11 全訳




    偉大なる知恵にたどり着くための心の教え

    観自在菩薩曰く。般若波羅密多を深く知るならば、ありとあらゆる空である事がわかり、一切の苦厄から解き放たれる。舎利子よ。よく聞きなさい。色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ちこれ空なり。空は即ちこれ色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。

    舎利子よ。この世の諸法には空の相がある。生ぜず、滅せず。垢つかず、浄からず。増さず、減らず。この故に、全ては空の中に存在するのである。そう考えて見れば、色は無いとも言え、受想常識も無いとも言える。眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も有るようで無いのである。限界という概念も無く、そして意識界すら無い。明かりが無いという事も無いし、明かりが尽きてしまう事も無い。老死という概念があるわけでも無く、老いて死に尽きてしまうという事も無い。苦しみを集めて滅する道があるわけでも無く、正しい行いをする知恵があるわけでも、何かを得られるという話ですら無いのである。

    そして、この世には自分の物にできる物は何一つ無いと知るからこそ、悟りへの道が開かれるのだ。般若波羅密多知るならば、心に罣礙がなくなる。罣礙がないのだから、恐怖する事も無い。ひっくり返った物の考え方や、夢物語を言っているのではないぞ。こうして涅槃に達するのだ。

    過去、現在、未来に仏と呼ばれる方は、般若波羅密多によるがゆえに最も理想的な最高の悟りを開かれる。ゆえに知る。般若波羅密は神の言葉なのである。人々の心に明かりを灯す言葉なのである。この上の言葉は無く、並ぶ言葉も無い。これは本当の話で嘘では無い。ゆえに教えよう。般若波羅密の言葉を。今から言うぞ。

    羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆詞。般若心経。






    般若心経の解説 その10

    故知般若波羅密多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

    「ゆえに知る。般若波羅は、これ神の言葉なのである。これ人々の心に明かりを灯す言葉なのである。この上の言葉は無く、並ぶ言葉すらない。」訳から漢字を見れば分かるはず。呪は呪文というイメージがあるが、ここでは言葉と訳してと思う。要は般若波羅密多は最高の教えだと言うことだ。



    能徐一切苦 真実不嘘

    「一切の苦しみをよく除き、真実で嘘では無い」訳から漢字をみて理解して欲しい。



    故説般若波羅密多呪 即説呪曰

    「ゆえに説こう。般若波羅密多の言葉を。今から言うぞ」という訳だ。



    羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆詞

    ここもサンスクリッド語の当て字であるため、漢字には意味がない。意味は「行く者よ、行く者よ。向こう岸に行く者よ。悟りに幸あれ。」だそうだ。この部分が有難いからと、子供が叫びながら暗い夜道を行く事もあるらしいが、意味を知ると魔を払う効力なんて無い事が分かる。



    般若心経

    知恵に至る心の教え







    般若心経の解釈 その9

    衣般若波羅密多故 心無罣礙

    「般若波羅密多によるがゆえに、心に罣礙が無し」と訳せる。罣礙とは心にひっかかる事で、悩みや苦しみの事。要は般若波羅密多という知恵を知れば、心に引っかかる事など無くなると言っている。人間が悩み苦しむのは、般若波羅密多を知らぬが故だったのだという事。



    無罣礙故 無有恐怖

    意訳すれば「心に悩み苦しみがが無いのだから、恐怖すらなくなるのである」と言う事。全ては空であるのに、何を恐れる事が有ろうか?恐怖もすべて自らの心が作っているのだという事に気づこう。



    遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

    「一切の顛倒夢想から遠く離れて、涅槃を究竟す」と訳せる。顛倒とは、聞きなれない言葉だが、ひっくり返った物の観方や考え方の事だ。一切の顛倒夢想から遠く離れるとは、ひっくり返った物の考え方をしているのではなく、夢や想像の話をしているのではないという意味となる。そこから遠く離れて、涅槃にたどり着くのであるというイメージになる。

    涅槃とは、ニルヴァーナを指す。ニルヴァーナとは炎が鎮火した様を言い、煩悩の炎がなくなったという事で悟りの境地を意味する。人間は何でも欲しがる。お金が欲しい、宝石が欲しい、食べ物が欲しいと。そういった欲望を炎になぞらえ、その炎が消えた様のことだ。欲望がなければ悩みも生まれない。よって、悩みからも解放されるわけだ。

    お坊さんの一番偉い人の位を究竟位と言うらしく、究竟涅槃とは要は悟りを開いたというイメージでは無いだろうか?般若心経の流れからも涅槃にたどり着くと言うイメージでピッタリくる。



    三世諸仏 衣般若波羅密多故 得阿耨多羅三藐三菩提

    三世とは過去世、現世、来世の事。三世諸仏は、過去世において仏と呼ばれた方、現世において仏となられた方、来世に仏と呼ばれる方という意味となる。訳すと、「三世諸仏は般若波羅密多によるが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得るのである」と書いてある。

    阿耨多羅三藐三菩提は、サンスクリッド語のアヌッタラ・サンミャク・サンボーディの当て字なため漢字には意味が無い。そう聞こえるように漢字を当てはめただけである。意味は、色々な事を経験した上で辿り着く、最高の理想的な悟りを指す。般若心経を知る事でそこに辿りつくのだから、般若心経は大変ありがたいお経と言うわけだ。





    般若心経の解説 その8

    無無明亦無無明尽

    「明かりが無いという事も無いし、明かりが尽きてしまうという事も無い」という訳になる。亦はまたと言う意味。あとは漢字と訳を照らして欲しい。般若心経で書いてあった通り不生不滅なのだから当然だし、質量保存の法則から当然の事。空という概念の確認となる。



    乃至無老死 亦無老死尽

    「老いて死ぬという事も無いし、老いて死に尽きてしまう事もまた無いのである」という訳になる。人間は老いるし死ぬが、それは人間から見た視点である。空から見れば、人間の老いや死という概念は無く、それによって尽きてしまう事も無い。ありとあらゆる物は元々は空だったわけで、空だったものが形を得て、そしてその形を失って空に戻るというルールから外れるわけでは無い。老死、尽きるという概念が空に存在しないのである。



    無苦集滅道

    「苦しみを集めて滅する道というものも無ければ」と訳せる。苦集滅道とは、お釈迦様が悟りに至る過程で通った段階を4つに分けて説明したもの。だが、般若心経ではそれすら無いと言っている。皆、空なのだから、悟りへ至る道というものすら無いと言っているのだろう。

    自分の悩みが他人からどう見えるだろう?他人の悩みを聞いた時、悩んでいる理由に心から共感できるだろうか?それを考えて見て欲しい。恐らくは客観視された悩みは、悩む価値の分からないものになっている場合が多いはず。人間は無い処に勝手に悩みを作り苦しむ事が多いのである。何と愚かな事だろう。



    無智亦無得

    「正しい行いをするという知恵もなければ、何かを得られるという話でも無い」という事。智とは暗に正しい行いという言葉が隠れている。馬鹿な行いをする者を知恵者とは言わないのだから。だが、空を前にして正しい、間違っているとは何だろうか?正しい、間違ってるは人から見たときの基準に過ぎない。

    また、何かを得られる話でも無いのは空なれば当然。もともと空だった人間が、時を得て空に帰るだけ。空という視点では、それ以上の話でも、それ以下の話でも無いのである。



    以無所得故 菩提薩埵

    「所得無きを以っての故に、菩提薩埵」と書いてあるが、分かりづらいので意訳する。つまり、「自分のものに出来る物なんて無いと気づく事で、悟りへの道が開かれるのである」」という事。菩提薩埵は、インドの言葉でボーディ・サットヴァと言い、それを漢字で当て字したもの。意味はお釈迦様が悟りを開かれる前の身分を指し、それが転じてか悟りへ向け修行中の者をさしたりするようだ。

    人は何も持たない裸の姿でこの世に生を受ける。そして、お金を得て色々なものを自分の物にして行くが、結局はその大事なお金すら持って死んでいく事はできない。人は裸で生まれ裸で死んでいくのだ。

    だとするなら人生の意味とは何か?それは結局は心である。良い事をして、悪い事をしない。そして心を清らかに保っていく。それしか無いのである。あの世に持っていけるのは、心しかないのだから。3歳児でも知っているこの話は、80歳になってもするのは難しく、それ故に人生の命題となるのである。

    お金はあの世に持っていけないのに、良い事をせずお金に終始する人生になっては、何と愚かな事だろう?お金は空であるのに、お金に執着し何と愚かな事だろう?本質的な意味で、自分のものにできる物は何一つ無いのだと気づく事が悟りへの道なのである。何かを得ようとするのではなく、得る事は出来ない事を知る事が大切なのだ。

    以無所得故・菩提薩埵は色即是空に並ぶ、般若心経の核だと思う。





    般若心経の解説 その7

    無色無受想行識

    訳は「色も無く、受想行識も無く」。ここは人によっては大変疑問を持つ場所のようだ。今まで色即是空と話していたのに、急に色は無いとはどういう事だ?と。だが、書いてある通りに理解していけば良いと思う。

    空は有るようで無いものだ。普段、空気に対し、お邪魔にならないようにと生活してはいないが、みんな空気がある事は知っている。有るようで無く、無いようで全てを含むのが空なのである。色即是空なのであるから、色も空の性質を持ち、無いとも言えるのだ。普段あると思っている色は、実は無いとも言えるのだと言ってるのだろう。

    受想行識は人間存在が色であり、それが空で無いとも言えるのだから、勿論受想行識も無いとも言える。自分たちはあると思っている物が、実は無いとも言えるという感覚を語っているのだろう。



    無眼耳鼻舌身意

    所謂、六根が無いと言っている。六根とは、人間を悩み苦しませる原因は六つあるし、その六つの原因から悩み苦しみが育つため、植物が根っこから養分を得て育つ事にならえて、悩み苦しみを育てる六つの根っこという事で六根と言う。

    嫌なものを見るから悩む、嫌な話を聞いたから苦しむ、嫌な臭いを嗅いだから、嫌な味がした又は悪口を言ったから、嫌なものに触れた、嫉妬や恨みが頭に浮かんだからと、人間を悩み苦しませるのは六つに集約されるという事。

    無眼耳鼻舌身意とは、それすら無いのだという事。勿論、人間自体が無いとも言えるからだ。人間の器官である六根も無いのは当然となる。



    無色声香味触法

    漢字のままである。眼が無いのだから色を見る事はなく、舌がないのだから声を出すことも、味わう事もない。鼻が無いのだから香を感じる事はできないし、身が無いのだから触るという事もない。意(こころ)が無いのだから、自然の有りようを味わう事もできないと言っている。例えば、紅葉を楽しめるのも、意が有ればこそという事。

    法 = 自然のありようの事で、紅葉、草花、雪などをイメージして欲しい。



    無限界乃至無意識界

    「限界も無ければ、意識界すら無いのである」と言っている。自分からすれば、勿論限界もあるし、意識界もある。だが、空と言う観点で見ればと言う事。空と言う観点で見れば、すべてが空の一部であり、その中で何か変化が起きても、それは空が一時姿を変えただけに過ぎない。そのため、限界という概念すらないのだという事だと思う。意識の世界は人間が空ゆえに無とも言えるのだから、意識も当然無となる。

    乃至は、4kgないし5kgと言う時のないしで、またはと言う意味。





    空の概念を、懇切丁寧に確認していると思って見ていくと良いと思う。

    般若心経の解説 その6

    是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中

    まず訳から言うと、「諸々の法は空相にして、生ぜず、滅せず。垢つかず、浄からず。増さず、減らず。この故に空の中にすべては存在するのだ。」となる。訳を見て字を見ると、漢字のまま訳せば良い事が分かるだろう。

    法は法律のイメージが強いせいか、人間の作った決まり事というイメージが浮かぶと思うが、この場合は自然現象を指す。昔は法と言えば、自然の摂理と言うか、自然現象の事だった。空相も聞きなれない言葉だが、人相は聞いた事があるだろう。良い人相は分からないが、悪い人相だけは誰でも分かるなんて言ったりするが、その人相である。それを空にしたものが空相だ。是諸法空相は、諸法は空の外見を持つと言っている。



    Q.なぜ不生不滅なのか?
    質量保存の法則が成り立つのだから、当然である。新しく生じたり、滅したりしては質量が変わってしまう。しかし、現実は質量保存が成立するのだから、不生不滅は当然となる。


    Q.なぜ不垢不浄なのか?
    人間は垢は汚いものだと思い、風呂で体を洗ってスッキリする。だが、垢は本当に汚いものだろうか?空と言う視点に立てば、人間も空が一時形を得た姿であるし、垢も空が一時形を得ただけなのである。空からすれば、垢に汚いという概念すらなく、人間と同じ空の一部なのである。垢を汚いのは、人間がそう感じているから。空からすれば人間が無い処に勝手に悩みを作ってるとも言える。

    垢に汚いという概念が無いのだから、当然逆の浄まるという概念もないという話となる。


    Q.なぜ不増不減なのか?
    これも質量保存が成立するゆえ。


    Q.是故空中とは?
    空という概念の確認となる。空は無いようで、すべてを含んだものだ。すべてを含んでいるから、空が一時形を得る事があり、それが色と呼ばれる。例えば、人間は自分の体は自分のものと考えているが、空という概念からは、体は借り物というイメージがそぐわしく、神様からの貸衣装などと表現されたりする。

    空は形なきがゆえに、一時形を得る事がある。しかし、元々形が無いのだから、また空にもどる。世の中に存在する全ての物は仮の姿なのであるというイメージを、是故空中といって確認してると思えば良いのではと思う。