6、此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ 國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと
大祓祝詞を奏上するならば、天上の神は天の岩戸と押し開き、空に厚い雲がかかろうとも掻き分けて願いを聞いてくれるだろう。地上の神は高い山の上や、低い山の上に登り、山にかかる霧を掻き分けて願いを聞いてくれるだろう。そうして神々が願いを聞いてくれるなら、罪という罪はなくなってしまうだろう。
【解説】
天の岩戸開きは天照大神が笑い声につられ岩の戸を開く話だが、ここでは見て見ぬふりをする心の比喩となる。人間は悪いと分かっていても、見て見ぬをふりをする生き物だ。「天の磐門(岩戸)を押し披きて」はそういう気持ちを振り払って、神々が聞き耳をたててくれるというニュアンスとなる。
天つ神、國つ神は、天上の神と地上の神を言うが、自分は何方も太陽を意識している。天の神が話を聞いてくれるは、雲の隙間から光が差し込む姿をイメージし、地上の神が大小様々な山の上から話を聞いてくれるとは、山に登る朝日をイメージする。朝にかかる霧が朝日によって消えていく様を、伊褒理(霧)を掻き分けると表現している気がする。そして、朝日の美しさの前に立てば、感動して悩みなど忘れてしまうだろう。だから、罪という罪はなくなってしまうのだ。
7、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと
科度の風が空にある雲を吹き飛ばすように、朝夕の霧が風によって払われるように、大きな港にある大船の船首船尾を解き放ち、大海原に押し放つように、生い茂る草むらを鎌で刈り取るように、罪という罪はなくなってしまうだろう。
【解説】
自分は綺麗さっぱり人間の悩み苦しみが取り払われると言う話と解釈している。綺麗さっぱりを4つの例え話で表現していると思えば良い。
その1、科戸の風
科戸の風は罪汚れを祓う性質がある風らしいが、要は空をみて雲が流れる様を言っているのだろう。どんより雲に覆われる日もあれば、雲ひとつない晴天の日もある。この移り変わりは気にもとめないほど当たり前の日常だが、この日常を自分はイメージしている。昨日はあった雲が今日はなくなっている。風によって運ばれたのだろう。
その2、朝夕の霧
朝夕は霧がかかりやすが、時間がたつと霧はいつの間にか無くなっている。特に朝5時頃にかかる霧は昼にはまず間違いなくない。朝日と風が霧を取り払うからだ。この様を自分はイメージしている。
その3、大船
大津辺は大きな港を言い、舳は船首の事で、艫は船尾となる。だから、「大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く」の意味合いとしては、大きな船を大海原に出したという情景となる。
大きな船が人々の悩み苦しみだとすれば、それを港(人間)から切り離し、海へ流したととれる。自分は自衛隊の誇る護衛艦「かが」をイメージしている。
その4、彼方の繁木
繁木は腰ほどまで生い茂った草木を言うため、「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く」は草刈りをして綺麗にしたという意味になる。草を刈り終われば、清々しい気分になるだろう。自分は、そのまま草刈りをイメージしている。
8、祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと
祓い清めた後は高い山や低い山から滝に流すのだ。そして、滝の下を流れる速川にいる川の神様に海まで運んでもらおう。海についたなら今度は荒潮にいる海の神様に飲み込んでもらおう。そうして飲み込んでもらったなら、次は風の神様にお願いして黄泉の国まで吹き飛ばしてもらおう。黄泉の国についたなら、黄泉の神様にお願いして無くなるまでさすらってもらおう。そうすれば罪と言う罪はなくなってしまうさ。
【解説】
草刈りで言えば、草が罪汚れの例えとなる。草刈りをして綺麗になっても、刈り取った草は残るだろう。たき火をしたりして、燃やすはずだ。このたき火にあたる話を壮大な規模でしていると思えば良い。人間から罪汚れがきれいに取り払われたとしても、罪汚れは無くなりはしない。だから、罪汚れ自体を無くすために、草刈りのたき火にあたる行為をするのである。
まずは人の罪汚れを佐久那太理から流す。佐久那太理は滝の事だから、自分は奏上する時は大きな滝をイメージしている。そして、滝の下には川が流れ、川は海へつながる。だから、そう言う順番で祝詞が書かれている。滝から流した罪汚れは、瀬織津比賣(せおりつひめ)という川の神にお願いして海へ運んでもらおう。海へ着いたなら、次は速開都比賣(はやあきつひめ)という海の神にお願いして飲み込んでもらうのだ。それぞれ川や、海をイメージして奏上すればよいだろう。
なお、海の神に飲み込んでもらうという表現は、海の深淵な深さを言っているのでは無いだろうか?自分は海をみると畏怖を感じるため、恐らくこの畏怖をもって強大な力を表現しているのだと思う。
海の神様の次は、気吹戸主(いぶきどぬし)という風の神様である。風の神に罪汚れを黄泉の国まで吹き飛ばしてもらう。自分は普段ふいている風を感じながら奏上する。ここまで滝、川、海と日本の自然をリレーしてきた。ならば、普段吹いている風を想像するのが自然だと思う。
そして、最後は黄泉の国にいる速佐須良比賣(はやさすらひめ)だ。「根國 底國」は黄泉の国を言い、死人の世界となる。そこにいる神様にお願いして罪汚れを無くしてもらおうという訳だ。死人の世界のため、罪汚れにも死が訪れると祝詞は言いたいのだと思う。
ただ、自分が奏上する時は、死の国では無く四季をイメージしている。春に新緑だった葉は、夏は生命力に溢れ、秋には紅葉し、冬になれば枯れて落ちる。季節の移り変わりによって、自然は生まれて死ぬ。この姿を速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言っていると思うのだ。だから、死ぬまでさすらってもらおうと祝詞はつづると。滝から流れされた罪汚れが、川を下り、海へ行き、風に運ばれ、四季の力によってなくなって行く。まさに日本という国を表現していよう。
9、祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す
このように祓い清めようと思っています。天上の神よ、地上の神よ、八百万の神達よ。どうかお聞き届けください。
---- 以下、余談 ----
奏上する回数が増えてくると、誇張されたイメージをもって奏上するのではなく、極ありふれた日常の情景をもって奏上したほうが良いと思うようになった。自分が想像をふくらませる必要はなく、日常の景色に祝詞の言葉が重なってくるのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿