2017年11月4日土曜日

孫子の兵法 地形編その4

4、卒を視ること嬰児のごとし

孫子曰く。「卒を視ること嬰児のごとし、故にこれと深谿に赴くべし。卒を視ること愛子のごとし、故にこれと倶に死すべし。厚くして使うこと能わず、愛して令すること能わず、乱れて治むること能わざれば、譬えば驕子のごとく、用うべからざるなり。」



【解説】

孫子曰く。「兵(卒)は赤子(嬰児)にするように目(視)をかけてやると良い。そうすると、深い谷底であっても行動を共にしてくれる(赴)。兵(卒)は最愛の子のように目(視)をかけてやると良い。そうすると、共(俱)に死んでくれる。

厚遇しても使う事が出来ず、愛情をもって接するも命令出来ない。軍規を乱しても従(治)わせられないのであれば、例えて言うなら(譬)付けあがった子供(驕子)のようなものである。使い物にならなくなる。」






この世は鏡のようなものと言われるが、人の世は全くもって不思議なもので、映し鏡と思って良い。自分が悲しければ、景色も何処か悲し気に見えるし、自分が楽しければ、普段は嫌な雨さえも陽気な彩を放つ。自分が誰かの悪口を言えば、相手も大概は悪口を言っているし、自分が好ましく思っていれば、相手も大概は好ましく思ってくれる。世界は鏡なのである。

では、将が兵を親身になって育てたらどうだろう?どんな危険な処へも共に行ってくれるようになるし、一緒に死線を超えてくれると孫子は言うのである。まるで自分の子のように手塩にかけられた兵は、将を親父と思うようになる。さもあらんだろう。厳しく愛情を持って育てられるほど、後々になって世話になったと思うものである。

ただ、甘やかしてはいけない。躾のされない子供を想像して欲しい。動物と同じである。兵もかくのごとし。甘やかして育てれば、言う事を聞かなくても良いと勘違いするようになり、兵としては役に立たなくなってしまう。躾とは、裁縫で縫い目が狂わないようにするために、仮に荒く縫い合わせる事である。躾るとは、甘やかす事では無く、痛くてもある状態に固定する事を言うのだ。可愛い我が子と思えばこそ、例え痛くても、親は子共を躾けるのだ。

仕事で考えてみよう。最近は怒ってはいけないとか言われている様子だが、怒らないとは要は躾の放棄である。躾をすれば痛いに決まっている。それをしてはいけないとは、会社が若者を育てる事を放棄したという事だ。時代遅れと言われそうな感覚かも知れないが、昔から伝わってきた躾の在り方をしっかり見直すべきだろう。

何故、怒られると若者が続かないのか?それは、この手の話をちゃんと教えないからだ。そんな手取り足取りと思う人もいるだろうが、孫子ですら赤子に接するようにと言っているでは無いか?育てるとは、何時の時代もそういうものなのである。

余談だが、厳しく育てられるほど、人は後々になってから世話になったと思うもの。親子で言えば、一番出来の悪い子と思っていた子が、一番世話をしてくれる。逆に出来が良いからと、手のかからなかった子は最後に世話はしてくれない。世話になった記憶が無いからだ。怒られた回数が、世話になった回数と思うのが人情なのである。躾は痛いものだが、痛いからこそ記憶に残る。

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