2017年11月28日火曜日

大祓祝詞(中臣祓詞) その3

あくまでも自分の解釈だが、自然の神々に人々を悩み苦しみを取り除くことをお願いすると説明してきた。科学が発達し夜も足元に困る事がなくなったせいか、現代では自然を恐れ敬う風潮がなくなったため、自然にお願いすると言うと変な話に見えるかも知れない。ただ、一概にそうとも言え無い節があるのだ。

本来、人間と自然は一体である。人間の吐くに二酸化炭素を木々は必要とし、木々の作る酸素がなくては人間は立ち行かない。木々に酸素を作らせるのは太陽のエネルギーであるから、昔の人が太陽、言い換えれば天照大神の恵みに感謝をしたのは、なんら不思議はないのである。太陽の光によって草が生え、草をたべる草食動物が生きる事ができる。草食動物が生きれるから、それを食べる肉食動物が生存を許され、その全ての過程をもって人間が生かされる。

無償の愛を知りたければ太陽を見ろと言われるが、まさにその通りだろう。お金を一切受け取ることなく、何よりも優れた恩恵をもたらし、文句ひとつ言わないのだから。太陽を人口で作るとなったら、天文学的数字の費用をかけても無理だ。どんなに苦しい状況であっても、すでに貴方は恵まれている。当たり前に感謝せよとは、これを言うのである。

人間が病気になる時は、血が酸化して黒ずんでいるという話を知っているだろうか?人間の不調は、血の色にでるのである。人間は血なのだ。そして、これを逆に見て考えて欲しい。血が黒ずむと病気になるのだから、黒ずんだ血を中和して元の赤色にもどせば調子も良くなるとも考えられないか?何せ原因を取り除いている。

では、どうしたら血を中和できるだろうか?結論を言うと、植物がとても有効な手段となる。病院に行かなくては病気は治らないと考えやすい現代に生きてると気づきづらいのだが、血の中和に植物は大きな役割を果たす。植物の近くにいるだけで、植物が出しているマイナスイオンによって血は中和されるものなのだ。だから、体の調子が悪いとか、鬱病などで気持ちがどんよりする時は、とりあえず森に行けと言われる。

特に樹齢数百年の巨木の近くが良く、巨木は長生きするだけあって生命力が強い。猫などを見ても分かるが、母猫が子猫を捨ててしまう事があろう。人間だったら、お前の子だろと言われるだろうが、猫の場合は母猫が特に冷たいのではない。この子は体が弱いから生き残れないと思ったら、平然とすてて次の子を作るのが自然界なのだ。生存力の弱い子を助けようにも、母猫には病院に連れて行く等の助ける手段がない。どうせ死ぬ子なら、次の子のために早い方が良いとDNAに刻まれているのだろう。

猫の例を見ても分かる通り、自然界は生命力のない生物が生き残れるように作られていない。長生きしてるならば、それだけ生命力が強い。そのエネルギーを体に取り込むのである。1時間から2時間くらい巨木の近くに座っていれば、それだけで血が中和され人間は上向く。酸素と二酸化炭素の例を見ても、人間と植物は互いに補う合う関係にあるが、体の健康状態をみても植物は人間を補ってくれている。我々人間が生きるために植物を大事にするように、植物も我々人間を補助しなければ生きづらい。だから、自然と共存関係ができあがったのでは無いだろうか?

自分は大祓祝詞を奏上する時、天地自然にお願いするようなイメージを持っていると説明してきたが、理由は人間が自然に生かされている側面を考えれば当然のように思うからだ。この事を肌で感じていたからこそ、1000年前の先祖は自然を八百万の神として讃えた気がする。当時の人に理由は分からなかっただろう。だが、科学が発達し色々解明された今だからこそ感じる合理性もあるのである。






---- 以下、余談 ----

樹齢数百年の巨木は、神社や寺にいけば珍しくない。

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