2017年11月2日木曜日

孫子の兵法 地形編その2

2、敗北を招く六つの状態

孫子曰く。「故に兵には、走なる者あり、弛なる者あり、陥なる者あり、崩なる者あり、乱なる者あり、北なる者あり。およそこの六者は、天の災に非ず、将の過ちなり。それ勢い均しきとき、一を以て十を撃つを走と曰う。卒強くして吏弱きを弛と曰う。吏強くして卒弱きを陥と曰う。

大吏怒りて服さず、敵に遭えばうらみて自ら戦い、将は其の能を知らざるを崩と曰う。将弱くして厳ならず、教道も明かならずして、吏卒常なく、兵を陳ぬること縦横なるを乱と曰う。将、敵を料ること能わず、小を以て衆に合い、弱を以て強を撃ち、兵に選鋒なきを北と曰う。およそこの六者は敗の道なり。将の至任にして、察せざるべからざるなり。」



【解説】

孫子曰く。「そして、兵には走、弛、陥、崩、乱、北と言う敗北につながる六つの状態がある。およそこの六つは、天の災いという訳では無く、将の犯す過ちとなる。敵味方の勢力が拮抗(均)している時に、十倍の敵を攻撃する状態になると逃げだす兵が出てくることから、これを走と言う。兵(卒)が強く士官(吏)が弱いと、兵に舐められるか、兵を使いこなせず軍が弛む事から、これを弛と言う。

逆に、士官(吏)が強く兵(卒)が弱すぎる場合、士官に兵がついてこれないため、士官の能力を発揮できない状態に陥る。そこで、これを陥と言う。地位の高い士官(大吏)が怒りから命令に服従せず、敵に遭遇すれば恨みから独断で戦ってしまう。そして、将軍がその事を知らなかった場合、軍の編成の意味がなくなる。則ち軍は崩壊する事から、これを崩と言う。

将が弱く威厳に欠け、教えるべき義理や道徳(道)、例えば軍規が明らかでないために、士官(吏)も兵も自由気ままであり(常無)、兵の配列(陳)にも決まった物が無い状態(縦横)は乱れた状態であるから、これを乱と言う。将に敵状を計(料)る能力が無く、少人数で大勢(衆)の敵を攻撃したり(合)、自軍の弱い部隊で敵の強い部隊を攻撃したり、兵から先鋒となるべき精鋭を選べない状態は敗北濃厚であるから、これを北と言う。およそこの六つの状態になってしまうと、敗北するのは道理である。将はこういった状態に陥らないよう配慮するのが任務であり、良く考えない事があってはならない(察)。」






前回は地形ごとの注意点を紹介した孫子が、今回は敗北につながる軍の状態を六つ紹介している。孫子が言うには、走、弛、陥、崩、乱、北という敗北につながる状態があり、これは天災では無く、将による人災であるそうだ。努々注意すべしと言う事だろう。



その1、走

走とは敗走であるとか、逃げ出すというイメージの状態である。例えば、十倍の敵と戦うとしよう。将の意気はさておき、負ける事がほぼ決まった戦いであろう。そうなると、ついて行けないと兵が逃げ出すのである。これを走と言う。


その2、弛

弛は字の通り弛んだ状態をイメージすれば良い。例えば、兵が士官よりも各段に強い場合、どうしても士官は舐められる。それは良い事では無いが、人情として自分より弱い者の下で働こうとは思わないものだ。子供の指揮で大人が戦うだろうか?つまりそう言う事だ。ましてや命を預けるのだから尚更である。結果、士官が軽視され軍に締まりがなくなるのである。だから、これを弛と言う。


その3、陥

陥は、能力制限に陥ると言うイメージとなる。如何に優れた士官でも、初心者を指揮するのと、古強者を指揮するのでは勝手が違ってくる。初心者ではやる気があっても出来る事は限られるし、やる気自体が無い事もある。やる気の無い部隊を用いたなら、どうして勝てようか?そもそも戦ってすらくれないかも知れない。士官の能力を発揮するには、それに見合った兵が必要となるのである。士官と兵に力の差があまりにもある場合、士官の能力が制限に陥るため、これを陥と言う。


その4、崩

崩は、軍が総崩れになる状態をイメージすれば良い。当然のことながら、軍の各部隊が将の手足のように動けて初めて強い軍となる。その手足となる部隊が勝手に動き始めたらどうだろうか?それは貴方の手足が貴方の言う事を聞かないのと同じである。非常に困った事になるはずだ。

各部隊を預かる士官は、通常は将の命令に服従するが、恨みから命令を無視する事がある。それでも、将がすぐ気づければまだ対応も取れるのだが、気づかぬ場合は将が味方によって裏をかかれる事になってしまうだろう。動いているはずの部隊が動いていなかったり、待機しているはずの部隊が攻撃しているのだ。将はまさかの落とし穴に落ち、軍が崩れるのである。よって、これを崩と言う。


その5、乱

乱は、そのまま乱れた状態の事だ。例えば、服装が乱れると言えばどういう状態だろうか?髪形が乱れるとはどういう状態だろうか?それが軍だったらと言うイメージとなる。軍をまとめるのは規律や道徳である。規律や道徳が無ければ、兵はそれぞれ自由気ままに振る舞うし、命令を守る義務もない。これでは乱れた髪のように収拾がつかない。

軍の配列を考えても、例えば、騎兵の前に輸送部隊の貨物があったらどうだろう?騎兵が動くスペースがなくなってしまい、そのスピードを活かせない。これは例えば、散らかった部屋(乱)のイメージだ。配列のされない軍は、言わば足の踏み場の無い部屋なのである。よって、こういった状態を乱と言う。


その6、北

北と言うと東西南北の北を連想するが、北と書いて「逃げる」と読む場合がある。ここでの北は逃げるほうの北で、そのまま敗走や敗北と言ったイメージとなる。例えば、少数で多勢を相手にしたら負けるだろう。不慣れな者の多い部隊で、敵の精鋭部隊と戦えば負けるだろう。敵の部隊を強襲するにも、不慣れな兵で強襲と呼べるものになるだろうか?

強襲の字が示す通りになるためには、精鋭の兵でなくてはならない。その精鋭もいないのでは、強襲もままならない。当たり前の事だが、将が敵状を計る能力に乏しい場合、こういった愚を犯す。そして、当然のように敗北することから、これを北と言う。



仕事で考えて見よう。孫子は将の至任と言う言葉を使っているが、日本的には背負うという事だろう。数字を背負って歩く。その責任感、その矜持を得た時、初めてプロフェッショナルとして一人前と言えるかも知れない。

さて、学ぶことが大切として、前回に引き続き読書に触れて見よう。同じ本を何回読んだら良いだろう?こんな疑問を持った事がないだろうか?誰しも一度は考える事だと思う。ただ、その答えは明快で、身に付くまでである。

初めて本を読んだ時、良い事が書いてあるとか、勉強になったと思うだろう。2回目、3回目と読んで見ると、書いてる事を知ってると思うようになる。「それ知ってる」と言う感覚だ。4回目、5回目になると、俺もそう思うとか、実は自分もそうしてると共感になって行く。6回目、7回目にまでなれば、当たり前の事ばかり書いてると感じるようになる。初めは勉強になると思っていた本が、7回目には当たり前と思うようになるのだ。これにて身に付いたと言う。回数は個人差があると思うが、参考になればと思う。

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