2、臨機応変の運用
孫子曰く。「およそ火攻は、必ず五火の変に因りてこれに応ず。火、内に発すれば、則ち早くこれに外に応ず。火発してその兵静かなるは、待ちて攻むることなかれ。その火力を極め、従うべくしてこれに従い、従うべからずして止む。
火、外に発すべくんば、内に待つことなく、時を以ってこれを発せよ。火、上風に発すれば、下風を攻むることなかれ。昼風は久しく、夜風は止む。およそ軍は必ず五火の変あるを知り、数を以ってこれを守る。」
【解説】
火攻めの5つの変化
孫子曰く。「およそ火攻めは必ず5つの変化に起因し、状況に応じた臨機応変な対応が必要となる。火の手が敵陣内から上がった時は(発)、速やかに呼応して外からも攻める。ただ、火の手が敵陣内から上がっているにも関わらず、敵陣が静かであるならば、ひとまず待って攻めてはならない。その火力を見極め、火勢に従い攻めたほうが良さそうなら攻め、火勢に従うのが危ないなら攻めるのを止める。
火攻めが外から可能ならば(発)、敵陣内の動きを待つまでも無く、機会を探って実行すべきである。火の手が風上で上がったなら、風下から攻めてはならない。昼の風は長くつづくが(久)、夜の風は止まりやすい。およそ軍は火攻めの5つの変化を知り、これら火攻めの注意点を守らねばらない。」
今回は火攻めをする時の注意点を孫子が説いている。火は風の影響を強くうけるため、火攻めは風に注意しないと自分が焼かれる事にもなりかねない。そこで、まず火攻めの大前提となる風を考えて見たい。とは言え、要は火の風下は危ないという事だけだ。風下から攻撃すると、風によって火が自軍に迫ってくるように燃えあがるため、何方が火攻めをしたのか分からない状況になる。言わば自爆防止の観点から、孫子は風下に警告している。
加えて、風は昼にふくと長く続くが、夜の風は続かない事が多いそうだ。こういった時間的な視点も抑えておくと、質の高い作戦を立案できる。昼に火攻めをするべきか、夜に火攻めをするべきかはその時々で変わるが、続くと思った風が急に止んだり、止むと思った風が止まないのでは作戦が失敗しかねない。
例えば、火は風がなければ上にあがるだけなため、風が吹かないと燃え広がりづらい。風が止みやすい夜に火攻めをすると、思った以上に燃え広がらないかも知れない。風が長く続きやすい昼に火攻めをすると、逆に思った以上に火が燃え広がってしまい収拾がつかなくなる恐れがある。相手を全焼させるときと、降伏を促すときでは何方の状況が良いかも違うだろう。
このように風だけで考えても、その時々の目的や状況によって、好ましい火攻めは変わるのである。孫子は火攻めの5つの変化を知り、火攻めの注意点をしっかり守らねばならないと言っているが、その言わんとする事も何となく伝わっただろうか?実際は風の変化に、他の要因が重なり複雑な変化となるのである。
さて、話を続けよう。火攻めと一言に言っても、敵陣内の中から火の手をあげるか、敵陣の外から火矢などによって火の手をあげるかの大きく2つある。
その1、敵陣内から火の手があがる
敵陣内から火の手が上がった場合、此方の工作が成功したか、若しくは謀反なり敵に良からぬ事が起きたはずだ。どちらにせよ火事で敵は慌てている事が容易に想像できるため、絶好の攻め時となる。敵は火に気をとられ、とても強く戦える心理状態にないはずだ。
ただ、火の手が上がっても、敵が静かな時がある。これは妙な状況で、普通は逃げるなり、消火なりで騒がしくなるはずだ。それが静まり返っているという事は、罠の可能性も疑わねばならない。そこで、それを見極めるために、一先ず攻めるのを止めたほうが無難となる。とは言え、火の手が上がってる事には違いない。絶好のチャンスの可能性もあるのだから、火の勢いを見て攻めるかどうか再考すると孫子は言っている。
典型的な罠としては、敵がすでに陣内にいない場合だ。敵を攻めさせるために火の手を上げて誘われた場合、攻め入ると逆に閉じ込められ火攻めを食らってしまう。火事の最中に敵が静なのは、それくらい可笑しい事だ。例えチャンスに見えても、用心深く攻め入らないほうが良い事はある。大戦果をあげるより損害を出さない事を念頭におき、確実に勝てる時だけに勝つ。それが名将と言うものだろう。
その2、敵陣の外から火攻めをする
そもそもの話、敵陣の外から火攻め出来るなら、敵陣内への工作は必要ない。敵陣内から火の手があがらずとも、外から機会を見て火攻めをするのは当然だ。この場合、敵陣内への工作したなら目くらましの意味が強くなるだろう。外から火攻め出来ないから、中へ工作を仕掛けるのに、中から上がる火の手を待っては本末転倒となる。
仕事で考えて見よう。孫子は火攻めの注意点をあげているため、今回は仕事の注意点を紹介したい。仕事の注意点は様々あるだろうが、感覚の基礎は先憂後楽の精神であろう。先憂後楽は後楽園の語源になった言葉だが、人より先に憂いて、後に楽しむという意味となる。人が心配してない事を先に心配し、人が楽しんだ後に自分は楽しむ。そういう人間にこそ最後に福が来るものだ。
人より先に楽しんだもの勝ちという風潮があるが、やっかみの対象となって恐らく長くは続かない。人より後に楽しむと一見損するようだが、そんな事はない。理由は単純で、人より後に楽しめば良いという人間にはストレスがないのだ。人より先にという人間は、一見上手くやっているようだが、意外とストレスにあふれていたりする。人より先に楽しみたいのに、周りに邪魔をされてしまうのだから、心は穏やかになれないのである。見た目とは裏腹なのだ。
天国と地獄と言う法話を紹介しよう。地獄は厳しいというイメージがあると思うが、そんな地獄も食事だけは豪勢だったりする。意外な事に、地獄は食事だけは自分の好きな食べ物を食べれるのだ。ラーメンが食べたければラーメンがでてくるし、高級コース料理が食べたければ高級コース料理がテーブルに並べられる。はっきりと羨ましい状況となる。
ただ、そこは地獄、自由には食べさせてはもらえない。何と身の丈もある箸を手にくくりつけられ、それで食べなさいと言うのである。もし手づかみで食べようとしたり、口を近づけて食べようとすれば、鬼が出てきて金棒で殴られる。しょうがないから地獄の住民は身の丈もある箸で、どうにか料理を口に運ぼうとする事になる。だが、長さが身の丈もあって口に運べるだろうか?
やはり地獄は地獄なのである。自分の前には食べたいご馳走が並べられ、腹もすいている。なのに料理は食べられずに、手の届く範囲にある料理を見ているだけ。地獄の住人は欲が深いことを考えれば、想像しただけで恐ろしい仕打ちだ。焦らされすぎて、身を焼かれる思いだろう。そのため、地獄ではうめき声が止まないのだ。食事もとれないから、地獄の住民は手足はガリガリになり、腹だけがでた栄養失調の姿となりはてる。常に空腹のなかで、食べられそうで絶対食べれないご馳走を目の前にして暮らすしかないのである。
では、天国はどうかと言うと、流石に天国である。住民はふくよかだし、笑い声に絶えない。さぞ良い処だろうと思ってしまうが、実はそうでも無い。なんと地獄と同じ場所である。地獄と同じで身の丈もある箸を渡されるし、手づかみや口を近づけて料理を食べようとすれば鬼に殴られる。どうして天国の住民は笑っていられるのだろう?
それは、自分の箸では他人に食べさせるからだ。身の丈もある箸では自分の口には運べないが、他人の口に運ぶなら調度良い長さとなる。だから天国の住人は、自分の箸で他人の食べたい料理を他人の口に運んでいたのだ。好きな料理を食べると、美味しさのあまりご返杯という心境になるものだ。だから、自分もご返杯で好きな料理を食べさせてもらえる。これが笑顔の秘密である。
同じ場所で食事をしておきながら、地獄の住民は自分の事ばかり考えるために飢え苦しみ、天国の住民は福を分け与える事を知るために、食べたいものを腹いっぱい食べ幸福に過ごせる。これが先憂後楽の心である。
---- 以下、余談 ----
孫子の言う「数を以ってこれを守る」の部分が良く分からなかった。火攻めの注意点を一つではなく、全て網羅するという事で数という表現を使ったと予想して訳文を書いた。実際の火攻めを考えれば、その目的も状況に応じて5種類の組み合わせとなるわけだし、注意点も組み合わせの中で存在する。
孫子曰く。「およそ火攻は、必ず五火の変に因りてこれに応ず。火、内に発すれば、則ち早くこれに外に応ず。火発してその兵静かなるは、待ちて攻むることなかれ。その火力を極め、従うべくしてこれに従い、従うべからずして止む。
火、外に発すべくんば、内に待つことなく、時を以ってこれを発せよ。火、上風に発すれば、下風を攻むることなかれ。昼風は久しく、夜風は止む。およそ軍は必ず五火の変あるを知り、数を以ってこれを守る。」
【解説】
火攻めの5つの変化
- 人民を焼く
- 食料などの積み荷を焼く
- 輸送部隊を焼く
- 倉庫を焼く
- 頓営を焼く
孫子曰く。「およそ火攻めは必ず5つの変化に起因し、状況に応じた臨機応変な対応が必要となる。火の手が敵陣内から上がった時は(発)、速やかに呼応して外からも攻める。ただ、火の手が敵陣内から上がっているにも関わらず、敵陣が静かであるならば、ひとまず待って攻めてはならない。その火力を見極め、火勢に従い攻めたほうが良さそうなら攻め、火勢に従うのが危ないなら攻めるのを止める。
火攻めが外から可能ならば(発)、敵陣内の動きを待つまでも無く、機会を探って実行すべきである。火の手が風上で上がったなら、風下から攻めてはならない。昼の風は長くつづくが(久)、夜の風は止まりやすい。およそ軍は火攻めの5つの変化を知り、これら火攻めの注意点を守らねばらない。」
今回は火攻めをする時の注意点を孫子が説いている。火は風の影響を強くうけるため、火攻めは風に注意しないと自分が焼かれる事にもなりかねない。そこで、まず火攻めの大前提となる風を考えて見たい。とは言え、要は火の風下は危ないという事だけだ。風下から攻撃すると、風によって火が自軍に迫ってくるように燃えあがるため、何方が火攻めをしたのか分からない状況になる。言わば自爆防止の観点から、孫子は風下に警告している。
加えて、風は昼にふくと長く続くが、夜の風は続かない事が多いそうだ。こういった時間的な視点も抑えておくと、質の高い作戦を立案できる。昼に火攻めをするべきか、夜に火攻めをするべきかはその時々で変わるが、続くと思った風が急に止んだり、止むと思った風が止まないのでは作戦が失敗しかねない。
例えば、火は風がなければ上にあがるだけなため、風が吹かないと燃え広がりづらい。風が止みやすい夜に火攻めをすると、思った以上に燃え広がらないかも知れない。風が長く続きやすい昼に火攻めをすると、逆に思った以上に火が燃え広がってしまい収拾がつかなくなる恐れがある。相手を全焼させるときと、降伏を促すときでは何方の状況が良いかも違うだろう。
このように風だけで考えても、その時々の目的や状況によって、好ましい火攻めは変わるのである。孫子は火攻めの5つの変化を知り、火攻めの注意点をしっかり守らねばならないと言っているが、その言わんとする事も何となく伝わっただろうか?実際は風の変化に、他の要因が重なり複雑な変化となるのである。
さて、話を続けよう。火攻めと一言に言っても、敵陣内の中から火の手をあげるか、敵陣の外から火矢などによって火の手をあげるかの大きく2つある。
その1、敵陣内から火の手があがる
敵陣内から火の手が上がった場合、此方の工作が成功したか、若しくは謀反なり敵に良からぬ事が起きたはずだ。どちらにせよ火事で敵は慌てている事が容易に想像できるため、絶好の攻め時となる。敵は火に気をとられ、とても強く戦える心理状態にないはずだ。
ただ、火の手が上がっても、敵が静かな時がある。これは妙な状況で、普通は逃げるなり、消火なりで騒がしくなるはずだ。それが静まり返っているという事は、罠の可能性も疑わねばならない。そこで、それを見極めるために、一先ず攻めるのを止めたほうが無難となる。とは言え、火の手が上がってる事には違いない。絶好のチャンスの可能性もあるのだから、火の勢いを見て攻めるかどうか再考すると孫子は言っている。
典型的な罠としては、敵がすでに陣内にいない場合だ。敵を攻めさせるために火の手を上げて誘われた場合、攻め入ると逆に閉じ込められ火攻めを食らってしまう。火事の最中に敵が静なのは、それくらい可笑しい事だ。例えチャンスに見えても、用心深く攻め入らないほうが良い事はある。大戦果をあげるより損害を出さない事を念頭におき、確実に勝てる時だけに勝つ。それが名将と言うものだろう。
その2、敵陣の外から火攻めをする
そもそもの話、敵陣の外から火攻め出来るなら、敵陣内への工作は必要ない。敵陣内から火の手があがらずとも、外から機会を見て火攻めをするのは当然だ。この場合、敵陣内への工作したなら目くらましの意味が強くなるだろう。外から火攻め出来ないから、中へ工作を仕掛けるのに、中から上がる火の手を待っては本末転倒となる。
仕事で考えて見よう。孫子は火攻めの注意点をあげているため、今回は仕事の注意点を紹介したい。仕事の注意点は様々あるだろうが、感覚の基礎は先憂後楽の精神であろう。先憂後楽は後楽園の語源になった言葉だが、人より先に憂いて、後に楽しむという意味となる。人が心配してない事を先に心配し、人が楽しんだ後に自分は楽しむ。そういう人間にこそ最後に福が来るものだ。
人より先に楽しんだもの勝ちという風潮があるが、やっかみの対象となって恐らく長くは続かない。人より後に楽しむと一見損するようだが、そんな事はない。理由は単純で、人より後に楽しめば良いという人間にはストレスがないのだ。人より先にという人間は、一見上手くやっているようだが、意外とストレスにあふれていたりする。人より先に楽しみたいのに、周りに邪魔をされてしまうのだから、心は穏やかになれないのである。見た目とは裏腹なのだ。
天国と地獄と言う法話を紹介しよう。地獄は厳しいというイメージがあると思うが、そんな地獄も食事だけは豪勢だったりする。意外な事に、地獄は食事だけは自分の好きな食べ物を食べれるのだ。ラーメンが食べたければラーメンがでてくるし、高級コース料理が食べたければ高級コース料理がテーブルに並べられる。はっきりと羨ましい状況となる。
ただ、そこは地獄、自由には食べさせてはもらえない。何と身の丈もある箸を手にくくりつけられ、それで食べなさいと言うのである。もし手づかみで食べようとしたり、口を近づけて食べようとすれば、鬼が出てきて金棒で殴られる。しょうがないから地獄の住民は身の丈もある箸で、どうにか料理を口に運ぼうとする事になる。だが、長さが身の丈もあって口に運べるだろうか?
やはり地獄は地獄なのである。自分の前には食べたいご馳走が並べられ、腹もすいている。なのに料理は食べられずに、手の届く範囲にある料理を見ているだけ。地獄の住人は欲が深いことを考えれば、想像しただけで恐ろしい仕打ちだ。焦らされすぎて、身を焼かれる思いだろう。そのため、地獄ではうめき声が止まないのだ。食事もとれないから、地獄の住民は手足はガリガリになり、腹だけがでた栄養失調の姿となりはてる。常に空腹のなかで、食べられそうで絶対食べれないご馳走を目の前にして暮らすしかないのである。
では、天国はどうかと言うと、流石に天国である。住民はふくよかだし、笑い声に絶えない。さぞ良い処だろうと思ってしまうが、実はそうでも無い。なんと地獄と同じ場所である。地獄と同じで身の丈もある箸を渡されるし、手づかみや口を近づけて料理を食べようとすれば鬼に殴られる。どうして天国の住民は笑っていられるのだろう?
それは、自分の箸では他人に食べさせるからだ。身の丈もある箸では自分の口には運べないが、他人の口に運ぶなら調度良い長さとなる。だから天国の住人は、自分の箸で他人の食べたい料理を他人の口に運んでいたのだ。好きな料理を食べると、美味しさのあまりご返杯という心境になるものだ。だから、自分もご返杯で好きな料理を食べさせてもらえる。これが笑顔の秘密である。
同じ場所で食事をしておきながら、地獄の住民は自分の事ばかり考えるために飢え苦しみ、天国の住民は福を分け与える事を知るために、食べたいものを腹いっぱい食べ幸福に過ごせる。これが先憂後楽の心である。
---- 以下、余談 ----
孫子の言う「数を以ってこれを守る」の部分が良く分からなかった。火攻めの注意点を一つではなく、全て網羅するという事で数という表現を使ったと予想して訳文を書いた。実際の火攻めを考えれば、その目的も状況に応じて5種類の組み合わせとなるわけだし、注意点も組み合わせの中で存在する。
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