2017年12月1日金曜日

六根清争の大祓

自分なりの解釈を書いていく。(ほかの人とは違うようだ。)

水色が原文、下に和訳を書く。



1、天照大神の宣 く。人はすなわち天が下の神物なり。すべからく静まることをつかさどる心は、すなわち神明との本の主たり。心神を傷ましむることなかれ。

天照大神がおっしゃられた。人は天が下における神の依り代である。当然のように静まる役目を担う心は、神明を下さる本の主である。心におわす神を傷つけてはならない。


【解説】

伊勢神道における「命は神からの預かりものである」という考え方を言っているのだろう。自分の和訳は当たっているか分からないが、命は神の一部という考え方を分霊と言い、分霊は心神を意味する。これが伊勢神道の基本であるため、そう思えば良いはずだ。

訳の困るのは「神明との本の主たり」という部分だが、天之御中主という全ての神々の根源となる神の存在を解釈にいれるかで訳が変わると思われる。入れるならば、天之御中主の一部を預かったという事になるから、和訳は「心は天照大神と人の本となった神様」という意味合いとなり、つまり天之御中主を指す事となろう。逆に天之御中主の存在を解釈にいれないとすれば、神明とは天照大神の別名であるから、心は天照大神からの預かりものという意味合いを持つ。

どちらで訳しても良いと思うが、理解するポイントは人間の心には神が宿っているという考え方になる。心神は神から一時的に預かったに過ぎないのだから傷つけてはならないし、預かり物は大切にしないといけないという話となる。

昨今、TVなどで子供の自殺を問題にしたりするが、何故自殺はいけないのか?心神という考え方に立てば、神からの預かり物である命(心神)を勝手に処分していいわけがないからと言えよう。命の大切さを教える教育では、自分の存在が自分の物では無いと気づかせる事が大切だ。自分の中には神が宿っており、存在それ自体が尊い。存在価値がないと思うなら、それは勘違いである。



------ 仏教的追記 -----

自己流だが禅を少し学んだので、その視点でも解説してみる。

神 = 無心 = 心

これが要点と思われる。










2、このゆえに、眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず。鼻に諸々の不浄を嗅ぎて、心に諸々の不浄を嗅がず。口に諸々の不浄を言って、心に諸々の不浄を言わず。身に諸々の不浄を触りて、心に諸々の不浄を触らず。意に諸々の不浄を思うて、心に諸々の不浄を思わず。この時に清く潔きことあり。

このゆえに、眼に諸々の不浄を見ても、心ではその不浄を見てはいけない。耳に諸々の不浄を聞く事があっても、心ではその不浄を聞いてはいけない。口で諸々の不浄を言う事あっても、心ではその不浄を言ってはならない。身に諸々の不浄が触れても、心ではその不浄を触ってはいけない。頭で諸々の不浄を思う事があっても、心ではその不浄を思ってはいけない。こうして心は清らかとなり、不純なものがなくなる。


【解説】

まずは六根の説明をしよう。六根とは、人間の悩み苦しみが発生する六つの原因を言う。人間は何もなく悩んだりはしない。悩むにはそれなりの原因があるもの。例えば、嫌なものを見て、それがトラウマとなって苦しむとか。これが「目に諸々の不浄を見て」のイメージとなる。

他も同じだ。嫌な話を聞いて悩む、愚痴や悪口が災いして悩む、嫌な臭いを嗅いで苦しむ、汚いものに触って苦しむ、嫉妬や妬みを思い浮かべて苦しむ。人の悩み苦しみは目、耳、口、鼻、身、意を原因にして起きているだろう。そこで、これを植物が根から養分を吸収して育つのになぞらえて、人の悩み苦しみが育つ六つの根という意味で、六根と言うのである。

この祝詞は六根清争の大祓という名をもつが、その所以がこの部位に現れている。つまり、六根に不浄が生じても、言い換えれば、嫌な事があっても、それに囚われてはいけない。常に心清らかに保つ事に努めなさいと言うのである。嫌な事があったからと言って、心まで嫌な事に囚われてはいないか?嫌な事があったから、余計に元気が出てきたと言える人間でなくては。みんなの雰囲気が暗いからと言って、自分まで暗くなってはいないか?みんなが暗いなら、自分が明かりを灯してあげようと言える人間でなくては。

とは言え、人間は嫌な事があれば凹むし、周りが暗ければその雰囲気に流されるもの。その事を責められはしない。それが人間である。だからこそ、この祝詞を日々奏上することで日々意識しなおすのだ。嫌な事に囚われそうな心を、自ら意識して心から嫌な事を取り除く。しかし、また嫌な事は起きるだろう。だから、その都度嫌な事を心から取り除き、心を清らかに保っていくのが神道なのである。

しかし、そんな事が本当にできるのか?これが問題となろう。嫌な事に囚われてしまった心から、本当に嫌な事を取り除けるのか?それが何故出来るのかを説明するのが次の部位となる。



---- 仏教的追記 ----

無心なれば分別はなく不浄もなし。

無心を軸に生きれば、自然と祝詞通りになる。







---- 以下、余談 ----

神道は、日々反省して生きる道と言っても良いかも知れない。恨みをもつ心があれば、それを寝る前に取り除いてから寝る。愚痴や不平不満を言ってしまったら、それを寝る前に反省してから寝る。嫉妬してしまったら、それを寝る前に反省して明日に備える。今日一日を暗く過ごしてしまったら、明日は努めて笑顔を心がける。心清らかに保つとは、これを言うのだ。

恨み、愚痴、不平不満、嫉妬はいけない事は分かっている。だが、生理現象ゆえに自然発生してしまう。だから、その都度修正が求められ、簡単では無いが故に歩んだ軌跡が道となる。故に神道と言うのだ。

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