4、利に合して動き、利に合せずして止む
孫子曰く。「それ戦勝攻取してその功を修めざるは凶なり。命づけて費留と曰う。故に曰く、明主はこれを慮り、良将はこれを修む。利にあらざれば動かず、得るにあらざれば用いず、危うきにあらざれば戦わず。
主は怒りて以って師を興すべからず、将は慍りを以って戦いを致すべからず。利に合して動き、利に合せずして止む。怒りは以って復た喜ぶべく、慍りは以って復た悦ぶべきも、亡国は以って復た存すべからず、死者は以って復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり。」
【解説】
孫子曰く。「そもそも、戦に勝ち手柄をたてたにも関わらず(攻取)、その手柄に正当な評価(修)を得られないなら不吉そのものである(凶)。名付けて(命)費留と言う。故に賢明な君主はこれを憂慮し、良将は正当な評価を受ける事ができる(修)。有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。
君主は怒りにまかせて軍(帥)を興してはならないし、将は私憤(慍)から戦ってはならない。戦理(利)に適うなら動き、戦理(利)に反するなら止まるのだ。怒りならば再び喜ぶ事もできよう。憤(慍)りならば再び満足(悦)も得られよう。だが、国が亡べば再び存在する事はなく、死者は再び生き返ることは出来ないのである。故に賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、良将は私憤に警戒する。これが国の平安を保ち、軍の力を発揮する道理、道徳となる。」
まず最初に、孫子が費留について警告している。手柄を立てたにも関わらず見合った褒美をもらえないなら不吉そのものであると。孫子はこれを費留と名付けていて、この言葉は孫子独自の言い回しのようだ。意味は字をそのまま解釈すれば、費用として留まり利益が得られないという事だから、日本の言葉で言えば、骨折り損の草臥れ儲けであろう。では、順次説明していく。
その1、国レベルの費留
戦争には大量の金がかかる。今の金額で言えば、数兆円をかけて戦争して何も得られないとしたらどうだろう?気でも狂ったかと言いたくもなるはず。戦争するならば、戦前より戦後が良くなるのは最低限の条件なのである。
軍は存在するだけで金がかかるものだ。普段は農民をやっている者を10万も集めて連れて行く事を想像して欲しい。食料は農民が作っているのである。戦争で兵として駆り出されれば、耕作放棄地が沢山出る事だろう。そして、兵は飯を食べねば生きれない。今まで食料を作ってくれた農民が、兵として食うだけになるのだ。この負担たるや、相当なものになる。
にもかかわらず、軍を意味も無く何処かに駐留させたらどうなるだろう?得られるものが無いのに、駐留させたらどうなるだろう?国は傾くに違いなく、不吉の前兆となる。だから、賢明な君主はこれを憂慮し、無駄な事はしないと孫子は言うのである。
その2、人的レベルの費留
将兵にしても、命を懸けて戦って褒美が少ないでは納得がいかない。それは必ず不平不満の温床となり、何時か王へ反旗を翻す者がでてくる。人は利によって動くのである。利を与えずに動かせば、それは騙したのと同義だ。騙された者は面従腹背となり、傾国の尖兵となってしまうだろう。
だからこそ賢明な君主は、開戦を考えると同時に褒美の目星もつけるし、褒美への心配がないからこそ将兵が安心して命をはれるのである。戦争は単に勝てば良いものでは無い。戦後に十分な報奨を与えるからこそ国がまとまる事を知らねばならない。なお、君主が将軍の働きに報いるように、将軍も兵の働きに十分に報いねばならない事は言うまでもない。
こう考えて見れば、孫子の言う「有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。」も当然と言えよう。費留は御免だからである。しかし、人間は度し難い生き物だ。理屈は分かっていても、「分かっていたはずなんだけど・・・。」とミスを犯してしまう。それが顕著なのが怒った時である。冷静な時は犯さないミスも、怒れば話は別となる。短気は損気とは良く言ったもので、人間が落とし穴にはまるのは感情が乱れればこそである。だから、孫子は怒りについても警告している。
その3、怒りの制御
戦争は、戦後処理も含めて戦争である。怒りにまかせて戦争するならば、もし得るものが無かった場合、かかったコストはどう回収するのだろう?将兵への報奨はどうするのだろう?国がやせ細るばかりである。
ただ、それでも勝てればまだ良い。だが勝敗は個人の感情とは別の次元に存在する。戦理に適っているから勝てるのであり、怒っているから勝てるのではない。戦利に適っていなければ、怒っていても負けるのが現実である。怒りは時がたてば喜びにもなろう。憤りも時がたてば満足になろう。だが、国は負ければおしまいである。人は死ねば生き返ることは無い。
だからこそ、賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、優れた将は憤りに警戒するのである。怒りで戦争を起こして、良い試しがない事を知っているからだ。これぞ国を平安にし、軍を屈強とする秘訣となる。
豊臣秀吉の逸話を紹介しよう。秀吉は恐ろしく気前の良い男だった言う。ある時、九州征伐で活躍した蒲生氏郷の処に、自分の愛馬を引かせていき、これに乗って本陣まで来いと気前良くプレゼントした事がある。そして、蒲生氏郷が馬にのって本陣に出向くと、今度はその活躍を褒めまくるでは無いか。秀吉の愛馬をもらい、みんなの前で褒められたのである。蒲生氏郷もさぞ鼻が高かったであろう。
だが、秀吉の気前の良さはこんなものではない。何と蒲生氏郷の家来をも呼び寄せて褒めちぎるのである。「お主が四方八方斬り進むのを見ていたぞ。この指物じゃな」と言いながら大喜びし、自分が来ている陣羽織をプレゼントしてしまう。かと思えば、他の家来には「お主も良く働いてたな。見ていたぞ。」と言って、自分の指物を渡して大盤振る舞いである。だからこそ、秀吉は人心を掴むのである。
そして、秀吉は何故こんなに褒美を与える事ができたのか?それも考えるのが孫子の兵法である。秀吉とて、先立つものも無く褒美を与える事はできない。秀吉の気前の良さは、戦争の対する優れたコスト意識の賜物だったはず。秀吉と言えば奴隷の身分からの立身出世だが、その過程は必ず利益が費用に勝っていた。だからこそ、勝てば勝つほど彼は栄え、そして気前良く褒美を取らせることができたのだ。
このように秀吉を数字の面から見て見ると、また違った印象を持てるのでは無いだろうか?彼は誰よりも気前が良かったが、破産していない。普通ならば破産していよう。彼の気前の良さは完璧なコスト管理に裏付けされていたのである。孫子が度々言っている戦争のコスト管理は、秀吉によって体現されているのである。
また、秀吉は怒りの制御も上手かった。私憤を持つどころか、相手を許す達人なのである。信長にどれだけ折檻された事だろう?猿と言われ、はげ鼠と罵られ、叩かれるなんて日常茶飯事である。普通なら嫌がりそうものだが、秀吉は「信長様も彼方此方に敵を抱えて気が休まらないのだろう。俺を怒る事で気が休まるならそれで良い。」と言って満面の笑みである。
次は三木の干殺しのエピソードを紹介しよう。秀吉は城攻めのために、敵方の武将である中村忠滋と内応しようと考えた。その中村忠滋は自分の娘まで人質にだし、秀吉を信用させる。秀吉もそこまでするなら裏切るまいと喜び、手筈どおりに約束の場所へ兵を送ったそうだ。そうしたら、どうだ?中村忠滋にまんまと裏切られ、送った兵を皆殺されてしまったではないか。何と言う失態だろうか。
三木城はその後壮絶な兵糧攻めにより落ちる事となる。中村忠滋は捕まり、秀吉の前に連れだされる事になった。秀吉が何を言うかと思ったら、「嵌めたお前を斬ってやろうと思っていたが、考えて見れば、お前も娘を出してまで忠義を尽くして立派である。」だ。そして、命を助けるばかりか、高禄をもって召し抱えてしまうのだから凄い。中村忠滋は感動して震えたと言う。
孫子は私憤による戦争は、絶対にしてはいけないと説いている。なぜ秀吉が天下人まで上り詰める事ができたのかを考えれば、孫子の言わんとする事の正しさも伺い知れるというものだ。秀吉は誰よりも論功行賞に長け、誰よりも許す達人で私憤と縁遠い男だったのである。
---- 以下、余談 ---
秀吉の三木の干殺し
http://ageofsengoku.net/pc/toyotomi/201605122241.html
孫子曰く。「それ戦勝攻取してその功を修めざるは凶なり。命づけて費留と曰う。故に曰く、明主はこれを慮り、良将はこれを修む。利にあらざれば動かず、得るにあらざれば用いず、危うきにあらざれば戦わず。
主は怒りて以って師を興すべからず、将は慍りを以って戦いを致すべからず。利に合して動き、利に合せずして止む。怒りは以って復た喜ぶべく、慍りは以って復た悦ぶべきも、亡国は以って復た存すべからず、死者は以って復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり。」
【解説】
孫子曰く。「そもそも、戦に勝ち手柄をたてたにも関わらず(攻取)、その手柄に正当な評価(修)を得られないなら不吉そのものである(凶)。名付けて(命)費留と言う。故に賢明な君主はこれを憂慮し、良将は正当な評価を受ける事ができる(修)。有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。
君主は怒りにまかせて軍(帥)を興してはならないし、将は私憤(慍)から戦ってはならない。戦理(利)に適うなら動き、戦理(利)に反するなら止まるのだ。怒りならば再び喜ぶ事もできよう。憤(慍)りならば再び満足(悦)も得られよう。だが、国が亡べば再び存在する事はなく、死者は再び生き返ることは出来ないのである。故に賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、良将は私憤に警戒する。これが国の平安を保ち、軍の力を発揮する道理、道徳となる。」
まず最初に、孫子が費留について警告している。手柄を立てたにも関わらず見合った褒美をもらえないなら不吉そのものであると。孫子はこれを費留と名付けていて、この言葉は孫子独自の言い回しのようだ。意味は字をそのまま解釈すれば、費用として留まり利益が得られないという事だから、日本の言葉で言えば、骨折り損の草臥れ儲けであろう。では、順次説明していく。
その1、国レベルの費留
戦争には大量の金がかかる。今の金額で言えば、数兆円をかけて戦争して何も得られないとしたらどうだろう?気でも狂ったかと言いたくもなるはず。戦争するならば、戦前より戦後が良くなるのは最低限の条件なのである。
軍は存在するだけで金がかかるものだ。普段は農民をやっている者を10万も集めて連れて行く事を想像して欲しい。食料は農民が作っているのである。戦争で兵として駆り出されれば、耕作放棄地が沢山出る事だろう。そして、兵は飯を食べねば生きれない。今まで食料を作ってくれた農民が、兵として食うだけになるのだ。この負担たるや、相当なものになる。
にもかかわらず、軍を意味も無く何処かに駐留させたらどうなるだろう?得られるものが無いのに、駐留させたらどうなるだろう?国は傾くに違いなく、不吉の前兆となる。だから、賢明な君主はこれを憂慮し、無駄な事はしないと孫子は言うのである。
その2、人的レベルの費留
将兵にしても、命を懸けて戦って褒美が少ないでは納得がいかない。それは必ず不平不満の温床となり、何時か王へ反旗を翻す者がでてくる。人は利によって動くのである。利を与えずに動かせば、それは騙したのと同義だ。騙された者は面従腹背となり、傾国の尖兵となってしまうだろう。
だからこそ賢明な君主は、開戦を考えると同時に褒美の目星もつけるし、褒美への心配がないからこそ将兵が安心して命をはれるのである。戦争は単に勝てば良いものでは無い。戦後に十分な報奨を与えるからこそ国がまとまる事を知らねばならない。なお、君主が将軍の働きに報いるように、将軍も兵の働きに十分に報いねばならない事は言うまでもない。
こう考えて見れば、孫子の言う「有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。」も当然と言えよう。費留は御免だからである。しかし、人間は度し難い生き物だ。理屈は分かっていても、「分かっていたはずなんだけど・・・。」とミスを犯してしまう。それが顕著なのが怒った時である。冷静な時は犯さないミスも、怒れば話は別となる。短気は損気とは良く言ったもので、人間が落とし穴にはまるのは感情が乱れればこそである。だから、孫子は怒りについても警告している。
その3、怒りの制御
戦争は、戦後処理も含めて戦争である。怒りにまかせて戦争するならば、もし得るものが無かった場合、かかったコストはどう回収するのだろう?将兵への報奨はどうするのだろう?国がやせ細るばかりである。
ただ、それでも勝てればまだ良い。だが勝敗は個人の感情とは別の次元に存在する。戦理に適っているから勝てるのであり、怒っているから勝てるのではない。戦利に適っていなければ、怒っていても負けるのが現実である。怒りは時がたてば喜びにもなろう。憤りも時がたてば満足になろう。だが、国は負ければおしまいである。人は死ねば生き返ることは無い。
だからこそ、賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、優れた将は憤りに警戒するのである。怒りで戦争を起こして、良い試しがない事を知っているからだ。これぞ国を平安にし、軍を屈強とする秘訣となる。
豊臣秀吉の逸話を紹介しよう。秀吉は恐ろしく気前の良い男だった言う。ある時、九州征伐で活躍した蒲生氏郷の処に、自分の愛馬を引かせていき、これに乗って本陣まで来いと気前良くプレゼントした事がある。そして、蒲生氏郷が馬にのって本陣に出向くと、今度はその活躍を褒めまくるでは無いか。秀吉の愛馬をもらい、みんなの前で褒められたのである。蒲生氏郷もさぞ鼻が高かったであろう。
だが、秀吉の気前の良さはこんなものではない。何と蒲生氏郷の家来をも呼び寄せて褒めちぎるのである。「お主が四方八方斬り進むのを見ていたぞ。この指物じゃな」と言いながら大喜びし、自分が来ている陣羽織をプレゼントしてしまう。かと思えば、他の家来には「お主も良く働いてたな。見ていたぞ。」と言って、自分の指物を渡して大盤振る舞いである。だからこそ、秀吉は人心を掴むのである。
そして、秀吉は何故こんなに褒美を与える事ができたのか?それも考えるのが孫子の兵法である。秀吉とて、先立つものも無く褒美を与える事はできない。秀吉の気前の良さは、戦争の対する優れたコスト意識の賜物だったはず。秀吉と言えば奴隷の身分からの立身出世だが、その過程は必ず利益が費用に勝っていた。だからこそ、勝てば勝つほど彼は栄え、そして気前良く褒美を取らせることができたのだ。
このように秀吉を数字の面から見て見ると、また違った印象を持てるのでは無いだろうか?彼は誰よりも気前が良かったが、破産していない。普通ならば破産していよう。彼の気前の良さは完璧なコスト管理に裏付けされていたのである。孫子が度々言っている戦争のコスト管理は、秀吉によって体現されているのである。
また、秀吉は怒りの制御も上手かった。私憤を持つどころか、相手を許す達人なのである。信長にどれだけ折檻された事だろう?猿と言われ、はげ鼠と罵られ、叩かれるなんて日常茶飯事である。普通なら嫌がりそうものだが、秀吉は「信長様も彼方此方に敵を抱えて気が休まらないのだろう。俺を怒る事で気が休まるならそれで良い。」と言って満面の笑みである。
次は三木の干殺しのエピソードを紹介しよう。秀吉は城攻めのために、敵方の武将である中村忠滋と内応しようと考えた。その中村忠滋は自分の娘まで人質にだし、秀吉を信用させる。秀吉もそこまでするなら裏切るまいと喜び、手筈どおりに約束の場所へ兵を送ったそうだ。そうしたら、どうだ?中村忠滋にまんまと裏切られ、送った兵を皆殺されてしまったではないか。何と言う失態だろうか。
三木城はその後壮絶な兵糧攻めにより落ちる事となる。中村忠滋は捕まり、秀吉の前に連れだされる事になった。秀吉が何を言うかと思ったら、「嵌めたお前を斬ってやろうと思っていたが、考えて見れば、お前も娘を出してまで忠義を尽くして立派である。」だ。そして、命を助けるばかりか、高禄をもって召し抱えてしまうのだから凄い。中村忠滋は感動して震えたと言う。
孫子は私憤による戦争は、絶対にしてはいけないと説いている。なぜ秀吉が天下人まで上り詰める事ができたのかを考えれば、孫子の言わんとする事の正しさも伺い知れるというものだ。秀吉は誰よりも論功行賞に長け、誰よりも許す達人で私憤と縁遠い男だったのである。
---- 以下、余談 ---
秀吉の三木の干殺し
http://ageofsengoku.net/pc/toyotomi/201605122241.html
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