2017年11月7日火曜日

孫子の兵法 九地編

1、戦場の性格に応じた戦い


孫子曰く。「兵を用いるの法に、散地有り、軽地有り、争地有り、交地有り、衢地有り、重地有り、圮地有り、囲地有り、死地有り。諸侯自らその地に戦うを散地となす。人の地に入りて深からざる者を軽地となす。我得れば則ち利あり、彼得るもまた利ある者を争地となす。我以って往くべく、彼以って来たるべき者を交地となす。諸侯の地三属し、先に至れば天下の衆を得べき者を衢地となす。

人の地に入ること深く、城邑を背にすること多き者を重地となす。山林、険阻、沮沢、およそ行き難きの道を行く者を圮地と為す。由りて入る所の者隘く、従りて帰る所の者迂にして、彼寡にして以って吾が衆を撃つべき者を囲地となす。疾く戦えば則ち存し、疾く戦わざれば則ち亡ぶ者を死地となす。

この故に散地には則ち戦うことなかれ。軽地には則ち止まることなかれ。争地には則ち攻むることなかれ。交地には則ち絶つことなかれ。衢地には則ち交わりを合す。重地には則ち掠む。圮地には則ち行く。囲地には則ち謀る。死地には則ち戦う。」



【解説】

孫子曰く。「兵を用いる方法は土地の状況によって変わり、散地、軽地、争地、交地、衢地、重地、圮地、囲地、死地がある。諸侯が自らの領土内で戦う場合を散地と言う。敵領内で戦うも、まだ深くは進軍していない場合を軽地と言う。味方が得れば味方が有利になり、敵が得れば敵が有利となる場所を争地と言う。敵味方ともに往来できる場所を交地と言う。諸侯の地に3方で通じ(属)、先に押さえれば(至)天下の万民(衆)の助けを得られる場所を衢地と言う。

敵領地に深く進攻し、多くの城下町(城邑)を背後にするようになった場合を重地と言う。山林や難所(険阻)、沼沢地(阻沢)など通行の難しい場所を圮地と言う。入ろうにも入口が狭くなっていて(隘)、戻ろうにも迂回をしなければならない。そして、少数(寡)の敵が味方の大軍(衆)を撃破しうる場所を囲地と言う。迅速に戦えば生存できるが、迅速に戦えなければ亡ぶ場所を死地と言う。

したがって、散地では戦ってはならなず、軽地では止まってはならない。争地では敵が先に占有したなら攻めてはならなず、交地では部隊間の連絡を絶ってはならない。衢地では外交を重んじ、重地では掠奪する。圮地は出来るだけ早く通り過ぎ(行)、囲地は奇策謀略を用いる。死地では勇戦あるのみ。」






孫子が地形の種類ごとに対応を説いているため、地形ごとに見ていく。


その1、散地

散地の散のイメージは、徴兵した兵が散って逃げてしまうと言う事のようだ。自国領内で戦いが起きた場合、家が近いし勝手を知っている。そのため、兵が命惜しさに逃げ出してしまう恐れが高く、兵が散り散りになる様を見て散地と言う。

兵が逃げ出しやすい散地では、戦ってはならない。戦う時は命を懸ける踏ん切りが必要と言えば良いか、少なくとも逃げようか迷ってる兵では強く戦えない。兵の気持に2心を抱かせる散地では、戦いは避けるのは自然な成り行きだろう。



その2、軽地

軽地の軽のイメージは、戦う覚悟が軽いというイメージのようだ。敵地に入ったものの、それほど深く進攻していない時は、逆に考えれば自国に近いとも言える。兵は命を懸けて戦うのだから、逃げ出したいと言う気持ちが全くないわけでは無い。自国が近い時はそれが未練となりやすい。そのため、なるべく早く通りすぎるのが良いと孫子は言っている。



その3、争地

獲ったほうが有利になるため、敵味方ともに争う地を争地と言う。獲ったほうが有利になるのだから、敵に先に占有されたなら攻めてはならない。戦争は大逆転勝利を狙うものではなく、有利な態勢を築き何のドラマも無く勝つのが上策だ。そう考えて見れば、相手に有利な態勢を築かれた後に攻めるのは下策以外の何物でもない。



その4、交地

交地の交は、道がいくつも交わる場所と言うイメージだ。敵味方ともに往来しやすい交地は、今の言葉で言えばアクセスが良い場所という事だろう。アクセスが良い場所での注意点は、味方から遠く離れてしまうと、すぐ敵が来るという事だ。そのため、部隊間の連絡を密にし、敵への警戒を怠ってはならない。アクセスが良い分敵の隙もつきやすいが、敵からも隙をつかれやすい。



その5、衢地(くち)

3か国以上の国の利害が交錯する交通の要所を衢地と言い、衢という見慣れない字には、四方に通じると言う意味がある。国の境にある十字路のようなイメージだろう。衢地では様々な国の利害が対立するのだから、無鉄砲に攻めて良い場所では無く、それをすると他の国の連合を相手にしなければならなくなる。そのため、外交で解決を模索するのが自然な成り行きとなる。

外交で勝利するならば、交通の要所という事で援軍を受けやすく優位に立てるが、外交で失敗すると敵に援軍が送られる事になる。良くも悪くもそういう特徴を持つ場所となる。



その6、重地

重地は軽地の反対で、兵の覚悟が重く動きづらくなる、言い換えれば覚悟が決まる場所と言うイメージとなる。何故、兵士の覚悟が決まるのか?それは敵領地内に深く進攻したからである。敵地内では逃げようにも逃げれない。ならば、覚悟を決めるしかない。故郷を思い浮ついていた心が重く沈むのである。

敵地深く進攻した場合に問題となるのは、まずは兵糧である。補給線が伸びるため狙われやすく、補給路が絶たれる事になれば餓死の可能性まである。そこで、孫子は兵糧を現地で調達するようにとアドバイスしているようだ。敵からの掠奪である。出来れば補給線の心配をしなくても良いし、確かに理に適っている。



その7、圮地(ひち)

圮地の圮には、中国語で崩れるという意味合いがある。恐らく、圮地に軍を置くと、軍が崩れるというイメージだろう。山林、絶壁など険しい場所、沼沢地などに布陣したらどうだろう?山林では火攻めの危険があるし、敵も隠れやすい。絶壁など険しい場所では、自ら動きづらくなるようなものだし、沼沢地のような場所は兵が壊疽するし、地盤も悪くて動きづらい。とても長く留まるべき場所では無いのだ。孫子が早く通り過ぎるべきと言っているのも頷けるはず。



その8、囲地

囲地は囲の字が示す通り、囲まれた地と言うイメージとなる。前に進もうにも狭く、後ろに引こうにも険しい難所であったり、河川が邪魔をして引けない。こう言った場所は、敵が少数でも味方の大軍がやられる危険があるため、何か策を講じねば不利となる。例えば、身動きがとれない点を利用して、入口に蓋をされたらどうだろう?狭い入口に弓矢を集中させれば、出るに出られない。出られないと言っても、腹はへる。ならば、輸送部隊を撃滅し兵糧攻めも合わせれば、なお厳しい攻めとなる。やられた側は餓死するかも知れない恐怖と、弓矢の恐怖で参ってしまう。

しかし、背水の陣の逸話にもある通り、絶体絶命と分かると兵は決死の覚悟ができ、普段より良い働きをする。兵のそういった心理を上手く利用し勝利に結びつけた例も実際にあるが、だからこそ囲地では逃げ道を作ってやれという教えもある。ここら辺のせめぎ合いが囲地での頭脳戦になろう。囲地に入ってしまった側は、圧倒的に不利であるため、何か謀をしなければ勝てないのは間違いない。



その9、死地

死地は、そのまま絶対絶命というイメージとなる。万策つき、絶対絶命のピンチにいる時どうしたら良いか?覚悟を決めて勇戦あるのみと、孫子は言っている。絶体絶命なのだから、隠してもしょうがない。先ずは絶体絶命の状況を兵に伝える。そして、ご馳走を食べさせ、炊飯道具を壊し未練を無くす。窮鼠とかせるかどうかが、勝負の分かれ目となる。

日露戦争の折、東郷平八郎元帥が発した「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」と言う言葉が残っているが、これぞ死地における作法だろう。




仕事で考えて見よう。長い人生では貴方にも色々な事が起きる。順風満帆だと思っていたら、急に落とし穴に落ちたり、良い上司に巡り合えたと思ったら、配属が変わり馬の合わない上司に当たったり、時には仕事が嫌になり、または会社が潰れ、他の仕事を探すかも知れない。これが孫子の言う九地であろう。そこで、良い時と悪い時の臨むべき心構えを紹介しよう。


その10、良い時はどうしたら良いか?

うまく行っている時は、勝って兜の緒を締めよの格言どおりに慢心しない事だ。禍福糾える縄の如しと言って、幸せと思っている時に不幸が近寄ってきているもの。これからずっとうまく行くと思っていると、思わぬところで足をすくわれる事になる。では、どうしたら良いか?それは福をみんなに分け与える事である。出し惜しんで貧しくなる者もいれば、与えてなお富む者がいる。喜ばす者が喜ばされるという事を肝に銘じ、うまく行ってるからこそ、みんなにご返杯の気持で過ごすと良いだろう。

そして、今の自分はみんなの助けがあればこそと言う心がけで過ごすと良い。自分がうまく行ってるのは単に運が良かったと言えるような人間になると良い。人はうまく行くと自分は凄いと自慢したくなるものだが、自慢をすると反感を買う。その反感が不幸の温床となるのだ。俺が凄いではなく、みんなのお陰。これが作法となる。



その11、悪い時はどうしたら良いか?

悪い時は、結局のところ、その状況を受け入れる他ない。ただ、我慢しろと言いたいのではないので注意して欲しい。それより、今置かれた状況に対する解釈を変えるのが良い。例えば、転んで擦りむいたとしよう。血が出てしまった。運が悪かったと思う人もいるだろう。だが、これくらいの傷で済んで良かったと思う人もいる。前者は不幸な人で、後者は幸福な人だ。しかし、同じ転んで擦りむいた人である。解釈を変えるとは、つまりこう言う事だ。

また、血が出たことを嘆くかも知れない。だが、血がでなかったらもっと最悪だ。血が何故でるのか?それは傷口にいるばい菌を洗い流すためである。だから、血がひとしきり出たらカサブタができ仮止めをしてくれる。そして、下に皮膚ができれば、カサブタも自然となくなるのだ。分かるだろうか?貴方に悪い事は起きていない。全て最善の処置がなされている。血が出なかったら傷口が膿んでもっと最悪だった事を考えて見れば、血が出たことも気にならなくならないか?要は解釈ひとつなのだ。

仏教では、この世で起きる事は全て自分が決めてきたと言う。今、どんなに最悪な状況にあっても、それは天にいる時自分で決めた事なのである。何故、自分で最悪な状況になるように決めたのか?自分で自分を虐めるはずは無いだろう。今の最悪の状況は、必ず自分のためになるように出来ている。つまり、何かを学ぶために、自分で自分にその最悪な状況を用意したのである。

その事に気づけば、最悪としか捉えられなかった状況を、前向きに捉えられるようになっていく。自分は何故この状況を用意したのか?そう状況を受け入れた時、悪い状況はさほど悪い状況ではなくなる。最悪だと思っていた状況が、実はベストな状況で、ベスト事がベストなタイミングで起きている。そう考えられる癖をつけると良いだろう。人生に悪い事は起きない。これは真実であって、嘘ではない。


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