2017年11月25日土曜日

孫子の兵法 用間編その5

間者との付き合いは人間性が物を言うとしても、間者が裏切っていないかは冷徹に見なければならない。もし偽情報を信じこめば、敵の術中にはまり国が亡ぶ可能性もある。言わば国の命運を背負うのだから、間者との信頼関係だけに頼るのではなく、情報の真偽を確かめるために徹底して裏を取る。間者は愛し子なれど、子供の言う事は子供の言う事と達観した見方も必要なのである。

そして、そこで大切となるのは、人情の機微であると孫子は言う。



その5、人情の機微

間者には親身に接するのだから考えたくは無いが、間者が裏切る事も想定しなければ管理者失格である。国は一度亡べば、それでおしまいである。この現実は重い。では、どうしたら間者の情報の真偽を計れるだろうか?これを考えて見たい。

明らかに虚偽と分かる情報が上がって来れば苦労は無いのだが、間者も情報のプロである。例え裏切っていても、裏切っていない体裁は整えるし、一目には偽物とわからないように細工もする。そこを看破して偽情報だと判断するのだから大変な作業となる。真偽を見抜くポイントは、間者自身の微妙な変化となろう。

間者がいくら装っても、嘘をついている以上、何処かに通常と違う変化が現れる。その微かな変化に気づき、いつもと違う違和感を敏感に感じ取れると良い。違和感を感じ取れれば、情報自体を嘘を意識しながら見れるため、情報の真偽をより疑ってかかれるのである。そうすると自然と嘘の判別もしやすい。だからこそ、孫子は「微妙にあらざれば間の実を得ること能わず」と説くのである。間者に現れる微妙な変化を逃さない事が、間者の虚実を暴くきっかけになるのだ。

この意味でも、愛し子のように接し間者の事を良く知る事が大切と言え、聖智という資質が活きるのである。これはまさに微すかな変化を見逃さない巧みの業となり、文字通り微妙と言えよう。孫子はこれを「微なるかな微なるかな」と賛美しているのだ。間者はプロだから嘘をついても微すかな変化しか出ないと、思い出しながら頷く孫子の姿が浮かぶようだ。

かくも手間がかかり扱いの難しい間者だが、情報を必要としない軍務は無いのだ。間者はどの種の軍務も見ても必ず必要となる。心してかかるようにと孫子は言っているが、間者も大人数を扱うようになれば、残念ながら裏切る間者も出てくる。現実には最初から裏切るつもり間者として雇われる工作員だっているのだ。では、実際に患者の裏切りが判明した場合はどうしたら良いだろうか?勿論、裏切者には死をと孫子は言っているが、兵法として考えた場合、管理者には感情以上の水準が求められる。



その6、口封じの準備

間者を扱う者は秘密は必ず何時かは漏れると言う意識が必要だ。「どんな秘密であれ、全ての人間に隠せる秘密はない」と言う言葉を知っているだろうか?どんなに上手く隠しても、絶対に気づく者はでてくる。昨今のパナマ文書しかり、パラダイス文書しかり、この世の全ての人間に騙し通せる秘密は存在しない事を知る事が肝要である。

そのため、間者の扱う者は信頼関係の構築や厚遇の他に、秘密が漏れた時の対応も予め考えて置く必要がある。そこで孫子が言っているのが、漏らした間者と間者が告げた者の双方を殺す事だ。機密が漏れたと気づいた時、まず気になるのは敵国まで伝わったかだろう。機密が漏れても、敵国まで伝わらなかったのならダメージも少ない。だから、機密を死守するために口を封じるのである。そして、機密を漏らした間者が死ぬ事は、他の間者へのメッセージともなる。自分が機密に触れている事を思い出させ、だからこそ厚遇されている事を確認させるのである。

なお、情報が漏れたと分かれば、TVドラマの定番になっているくらいだ。口封じは誰でも思いつくだろう。だから、孫子の兵法として真に伝えたいのは、漏れたらすぐ殺せる準備をしておく事に尽きる。戦争が戦う前に勝敗が決するように、情報管理も漏れる前に勝敗が決するのである。秘密が漏れる事を予め織り込めるかが、素人とプロを分かつのだ。

孫子の時代は、今のように電子メールですぐ情報が送れたり、飛行機で日帰りできる時代では無いから、敵の間者が機密を入手してから敵国に伝わるまでタイムラグが今より大分ある。そこで、速やかに口封じできれば事なきを得る事も多かったろう。今は漏れたと気づいたら、もう敵国に伝わっているのだから、情報の取り扱いは昔よりシビアになっている。







西郷隆盛の話をしよう。西郷隆盛は明治維新の最大の功労者として人気のある人物だが、彼が20代の頃は庭方役という役職についていたことも良く知られている。庭方役は名前の通りお城の庭を管理仕事だが、それは建前の話である。当時は身分制度が厳しかったため、殿様と直接話すには相応の位が必要だった。そこで庭掃除という理由をつける必要があったわけだ。庭方役とは庭掃除を理由に殿様の側に仕える間者の仮の姿だったのだ。

殿様が何か命ずる時は、命令を紙に書き、それをゴミとして庭に捨てる。それを庭方役が拾い、人目のつかない場所で見るのである。もっとも、西郷隆盛は島津公に大分きにいられたようで、膝を突き合わして話したとか、西郷と話す時は島津公も機嫌が大変良いようだったと言う逸話が残っているが。

知己を得た西郷は島津公の助けによって、色々な人と会う事になり、その見識をさらに広めていく。島津公が急死した時、西郷は殉死しようとした位だから、恩義を感じていたのも伝わってくる。この島津公と間者西郷の関係が、孫子の言う親密、厚遇の良い見本となる。

西郷は明治の英傑であるが、彼は間者だったことを踏まえると、また見え方が変わるのでは無いだろうか?西郷は150年の時を得て人気のある人物であり、彼を悪く言う人を見た事が無い。そんな彼だが僧月照と一緒に船から入水自殺をした事がある。何とか引き上げられたが、月照はすでに絶命し、西郷は息はあったが2日半も生死の境をさまよった。自殺の理由はこうだ。

当時は世上荒れていたというか、幕府は井伊大老が取り仕切るようになり、尊皇攘夷派への弾圧が強くなっていた。そこで京都の近衛家から、尊皇攘夷派の僧として有名な月照を世話して欲しいと西郷は頼まれた。だが間が悪く、鹿児島では西郷を可愛がってくれた島津斉彬が急死しており、変わって斉彬の政敵であった島津久光が政権を取っていた。島津久光は尊皇攘夷どころか幕府よりの人間である。尊皇攘夷派の月照の保護するわけもなく、月照は日向へ追放との決定がされる。

追放と言えば国から追い出される事だけを思いがちだが、日向では幕府方の役人が待っている。幕府方に身柄を拘束されれば、月照はその場で斬られるだろう。追放と言うが、要は罪人の引き渡しだったのだ。西郷は月照の命を救えなかったのである。それが申し訳なかったのだろう。日向へ向かう船の上で最後の宴をもよおし、詩を吟じた後、月照を抱きかかえて海に飛び込んだ。しかも、夜の暗い海へである。捜索は難航した。結果的には2日半生死をさまよって命をとりとめたが、その覚悟の度合いは伝わってこよう。月照の命を助けられなかった変わりに自分がお供をいたそうと、西郷は近衛家に詫びたのである。何という誠実さであろうか。

江戸城開城後、西郷は鹿児島に戻ると、頭を坊主にし犬5匹と悠々自適な生活をしていた。だが、明治政府としても最大の功労者である西郷に隠居されてはという思いがある。西郷の人気もさることながら、信賞必罰は武門のよって立つ所なのだから、最大の功労者には高い地位にいてもらわないと示しがつかないのだ。そこで、どうにか西郷を呼び戻そうとする。親友である大久保利通や岩倉具視を鹿児島までやり、再三の説得をした。これで西郷はようやく重い腰を上げる事になるのだが、上京した西郷が言う言葉が凄い。

政府の高官となった戦友が、賄賂づけの上に尊大、かと言って仕事はしていない姿をみて「悪く言えば、泥棒」と言い放つのだ。そして、征韓論で敗れたのを理由に、鹿児島へ帰ってしまうのである。西郷ほどの活躍を見せれば、地位も金も思いのままだったろう。普通の人間なら有難く頂戴するものだが、西郷と来たらまるで執着がない。最大の功労をあげて、なお全て入らぬと言いのける。この姿に人は惚れるのでは無いだろうか?無償の奉仕(愛)ほど人の心を動かすものはないのだから。

この後、親友であった大久保利通の策略から西南戦争になり、西郷は死ぬ事となる。「もう、ここらでよか」が西郷最後の言葉として残っている。西郷を下した大久保利通だったが、彼も西南戦争の翌年襲われ命を失う。襲った島田一郎は西郷の崇拝者であった。

孫子は、間者を扱う者は聖智と仁義の資質を持ち、人情の機微に長けた人間が良いと言っている。西郷が20代は庭方役をやっていたことを考えると、間者西郷は孫子の兵法の良いお手本なのかも知れない。西郷は孫子の推奨する全ての要素を兼ね備え、そして今なお悪くいう者がいない傑物である。



---- 以下、余談 ----

無償の愛が人の心を動かす理由は単純だ。金を払うと、奉仕は金の対価になるからだ。金のためにやったのだから、普通の仕事と同じになる。無償に人は心動かさる事が多い。金の性質を抑えると、役に立つ事もあるだろう。

良く金にならない事をする者は馬鹿と言う輩がいるが、本当にそうだろうか?それは倫理的な意味もあるが、こういった金の性質からも言えるのである。金は道具である。この道具はもらわないという選択をもって、一番輝く場合もある事も知らねば、金を十分に使いこなしたとは言えない。

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