2017年12月28日木曜日
2017年12月18日月曜日
ハリネズミのジレンマ
寒い夜、仲間と暖を取りたいハリネズミ。
でも、体から生えてるハリが邪魔してね。
くっつくと互いを傷つけちゃう。
くっつくと痛い。
離れると凍える。
だから、くっつかず、離れず。
適度な距離が生命線。
---- 以下、余談 ----
ハリネズミのジレンマは男女、上下、横とどの種の人間関係でも同じ事が言える。人間は誰しも触られたくない部分がある。そこにベタベタと触れば、ハリネズミのごとくハリで反撃を受ける事だろう。かと言って、離れすぎては疎遠になり人間関係が途絶えてしまう。故に、君子の交わりは淡き水の如しである。
そして、特に仕事では、自分だけしかできない分野を大切にすると良い。自分の仕事を他人に全て把握されると、その相手に操作されるようになるし、軽く扱われやすい。相手に踏み込ませない領域を確保する事が自分の価値を維持し、ハリネズミのハリを持つに至るという意味でも抑えると良いだろう。
でも、体から生えてるハリが邪魔してね。
くっつくと互いを傷つけちゃう。
くっつくと痛い。
離れると凍える。
だから、くっつかず、離れず。
適度な距離が生命線。
---- 以下、余談 ----
ハリネズミのジレンマは男女、上下、横とどの種の人間関係でも同じ事が言える。人間は誰しも触られたくない部分がある。そこにベタベタと触れば、ハリネズミのごとくハリで反撃を受ける事だろう。かと言って、離れすぎては疎遠になり人間関係が途絶えてしまう。故に、君子の交わりは淡き水の如しである。
そして、特に仕事では、自分だけしかできない分野を大切にすると良い。自分の仕事を他人に全て把握されると、その相手に操作されるようになるし、軽く扱われやすい。相手に踏み込ませない領域を確保する事が自分の価値を維持し、ハリネズミのハリを持つに至るという意味でも抑えると良いだろう。
2017年12月16日土曜日
こんな人間は信用するな その4
努力しているという人は、
案外と努力していない。
本当に努力している人は、
努力していると言わないもの。
努力しているとして、
何故ことさら強調するのだろう?
結果がでてないからである。
---- 以下、余談 ----
プロフェッショナルにとって、努力とは一体なんだろうか?楽してても、結果を出せばよいのがプロフェッショナルというものである。結果を出せる人は、意外と遊んでるように見えたりする。頑張ってる風に見えないのだが、結果が量産される。悪戦苦闘している時は、なかなか結果がついてこないのが仕事というものである。
実際、努力って何だろうか?素人ではないわけだから、努力って何だろう?そういう感買では無いだろうか?プロは24時間プロである。そこに努力という概念は無いように思う。あるとすれば、周りが努力していると評価する時だけだ。
案外と努力していない。
本当に努力している人は、
努力していると言わないもの。
努力しているとして、
何故ことさら強調するのだろう?
結果がでてないからである。
---- 以下、余談 ----
プロフェッショナルにとって、努力とは一体なんだろうか?楽してても、結果を出せばよいのがプロフェッショナルというものである。結果を出せる人は、意外と遊んでるように見えたりする。頑張ってる風に見えないのだが、結果が量産される。悪戦苦闘している時は、なかなか結果がついてこないのが仕事というものである。
実際、努力って何だろうか?素人ではないわけだから、努力って何だろう?そういう感買では無いだろうか?プロは24時間プロである。そこに努力という概念は無いように思う。あるとすれば、周りが努力していると評価する時だけだ。
2017年12月15日金曜日
こんな人間は信用するな その3
大言壮語の格言どおり、
大言を吐く者は小量、
壮語する者は怯懦である事が多い。
弱い犬ほど良く吠えると言うが、
何故吠えるのか?
怖いからであろう。
---- 以下、余談 ----
一概にこう言えるものでは無いが、その人の言う事を間引きして考える癖を持った方が良い。特に海外との交渉では、相手は2倍3倍と吹っ掛けて自分を大きく見せてくる事が多いため、その数字を鵜呑みにしない事が求められる。
現在はマスコミが発達したせいか、言葉が軽く扱われる印象がある。レジェンド、カリスマ、ミラクルなど、本来の意味からすれば通常使われないはずの言葉をよく耳にする。これは表現の誇張であり、一種の遊び心とも言えるが、見ようによっては大言壮語である。ミラクルが頻発すれば、それは普通と言うのである。そのままでは普通過ぎて面白くないからこそ、ミラクルなどの誇張をしなければならないという作り手の心理を読むと、大言壮語の格言を実感できるのでは無いだろうか?
本当に凄いものに、言葉はいらない。見ればわかる。
大言を吐く者は小量、
壮語する者は怯懦である事が多い。
弱い犬ほど良く吠えると言うが、
何故吠えるのか?
怖いからであろう。
---- 以下、余談 ----
一概にこう言えるものでは無いが、その人の言う事を間引きして考える癖を持った方が良い。特に海外との交渉では、相手は2倍3倍と吹っ掛けて自分を大きく見せてくる事が多いため、その数字を鵜呑みにしない事が求められる。
現在はマスコミが発達したせいか、言葉が軽く扱われる印象がある。レジェンド、カリスマ、ミラクルなど、本来の意味からすれば通常使われないはずの言葉をよく耳にする。これは表現の誇張であり、一種の遊び心とも言えるが、見ようによっては大言壮語である。ミラクルが頻発すれば、それは普通と言うのである。そのままでは普通過ぎて面白くないからこそ、ミラクルなどの誇張をしなければならないという作り手の心理を読むと、大言壮語の格言を実感できるのでは無いだろうか?
本当に凄いものに、言葉はいらない。見ればわかる。
こんな人間は信用するな その2
会うたびに言う事が変わる人がいる。
話してる際中でさえ、言う事が変わる人がいる。
この手の輩は信用できない。
人間は言行一致が基本である。
言葉を信じぬよう、努々注意すべし。
---- 以下、余談 ----
言う事がコロコロ変わる人に言わせれば、騙す気が無いならば、あわせているだけなのだろう。だが、そういう人間に相応の力があった試しがあるだろうか?自分の目からは、その場しのぎの人間が多いように思う。会うたび、同じことを言っているならまだ良い。だが、あくまでも言行一致を見て人を計るようにすべし。
言う事は易い。行う事は難い。言行一致でなければ、任せるには足らない。特に相手を騙す気がない正直な人ほど、相手に騙されやすい。相手を騙す人は、相手を疑ってかかるため騙されない。相手を自分と同じと思うなかれ。
話してる際中でさえ、言う事が変わる人がいる。
この手の輩は信用できない。
人間は言行一致が基本である。
言葉を信じぬよう、努々注意すべし。
---- 以下、余談 ----
言う事がコロコロ変わる人に言わせれば、騙す気が無いならば、あわせているだけなのだろう。だが、そういう人間に相応の力があった試しがあるだろうか?自分の目からは、その場しのぎの人間が多いように思う。会うたび、同じことを言っているならまだ良い。だが、あくまでも言行一致を見て人を計るようにすべし。
言う事は易い。行う事は難い。言行一致でなければ、任せるには足らない。特に相手を騙す気がない正直な人ほど、相手に騙されやすい。相手を騙す人は、相手を疑ってかかるため騙されない。相手を自分と同じと思うなかれ。
女は怖いという話
英雄は色を好み、色は英雄を好む。
だからこそ、英雄の弱点も色に垣間見える。
暗君の呼び声高い殷の紂王は、元々は暗君ではなかった。
武芸の腕はたつし、頭脳も明晰であったと言う。
それが何故、歴史の名を残すほどの暗君となったのか?
妲己がいたからだ。
妲己は周公旦の手によって、
幼き頃から紂王が気に入るよう仕込まれた女だった。
生まれてまもなく周公旦に引き取られ、
成長してから親元に戻される。
そして、紂王に献上されるのである。
それを知らない紂王は、
妲己の美貌もさることながら、
自分の事を本当に分かってくれる女と思ったと言う。
自分が好きなものは妲己も好きだし、
自分が嫌いなものは妲己も嫌う。
自分が宮廷の音楽に不満を抱けば、
言葉にせずとも妲己は音楽を変えようと言ってくる。
紂王は本当の理解者を得たと錯覚したのだろう。
しかし、妲己は工作員として送り込まれた女である。
紂王の心をつかんだ後は、生来の悪質を発揮する。
天下の主にしては財が少ないと言い、
領民から財を巻き上げる。
酒池肉林の宴をもよおし、
炮烙の刑で焼かれ死ぬ人間の姿を楽しむ。
紂王も妲己に会う前だったならば、
そんな事をすれば人民の離反を招く事は分かっただろう。
だが、紂王は妲己可愛さに、人心には考えが及ばない。
結果、人心はすっかり紂王から離れ、
最終的に自決を余儀なくされるのである。
勿論、妲己を送り込んだ周公旦の手によって。
英雄は色によって身を滅ぼしやすい。
地位があがるにつれ、お金を持つにつれ、
貴方にも色が近寄ってくるだろう。
色とりどりの接待を受けるだろう。
昔の人は言った。
接待は受けても良い。
だけど、女はいけない。
意味が伝わるだろうか?
色という字の部首は刀である。
色の本来の使われ方が字に書いてある。
---- 以下、余談 ----
十八史略の逸話を参考にした。周公旦は、孔子ですら非の付け所が無いと絶賛する君子であるが、妲己を刀として使い、殷の紂王を討った策士でもある。妲己の妲という字は、周公旦の旦に女をつけた字である。周公旦はまず美女を探し、その美女に子を産ませて、養女として引き取った。その女が成長して、名前を妲己と変えるのである。
周公旦は妲己に任務については何も言わなかったそうだ。知らぬほうが良いからだ。だが、紂王が自決し、妲己も周公旦の前に連れ出された時、妲己は言う。私は良く任務を果たしたでしょと。周公旦は妲己の首を斬って捨てるが、その叫び声はしばらく耳から離れなかったそうだ。妲己は周公旦の狙いまでも察していたのである。
傾国の美女である妲己を良く言う者はいないかも知れないが、古来中国では孝が最も大事とされる。妲己は育ての親である周公旦に対し、紂王を篭絡する事で孝をしたつもりだったのかも知れない。三国志の貂蝉が育ての親である王允に報いて、董卓と呂布の仲をさいたように。とは言え、周公旦が紂王を討ったのだから、その状況を逆に考えれば、自分が何に利用されたのかも分かりそうではあるが。
周公旦が紂王と対した時、周公旦は2万5千に対し、紂王は70万だった。にもかかわらず紂王は敗走し、自決することになる。どれだけ人心が離れていたか、恐ろしい限りである。兵法では絶対勝つはずの兵力差でありながら、勝てないのだから、紂王が負けるように味方が誘ったのは容易に想像できる。
だからこそ、英雄の弱点も色に垣間見える。
暗君の呼び声高い殷の紂王は、元々は暗君ではなかった。
武芸の腕はたつし、頭脳も明晰であったと言う。
それが何故、歴史の名を残すほどの暗君となったのか?
妲己がいたからだ。
妲己は周公旦の手によって、
幼き頃から紂王が気に入るよう仕込まれた女だった。
生まれてまもなく周公旦に引き取られ、
成長してから親元に戻される。
そして、紂王に献上されるのである。
それを知らない紂王は、
妲己の美貌もさることながら、
自分の事を本当に分かってくれる女と思ったと言う。
自分が好きなものは妲己も好きだし、
自分が嫌いなものは妲己も嫌う。
自分が宮廷の音楽に不満を抱けば、
言葉にせずとも妲己は音楽を変えようと言ってくる。
紂王は本当の理解者を得たと錯覚したのだろう。
しかし、妲己は工作員として送り込まれた女である。
紂王の心をつかんだ後は、生来の悪質を発揮する。
天下の主にしては財が少ないと言い、
領民から財を巻き上げる。
酒池肉林の宴をもよおし、
炮烙の刑で焼かれ死ぬ人間の姿を楽しむ。
紂王も妲己に会う前だったならば、
そんな事をすれば人民の離反を招く事は分かっただろう。
だが、紂王は妲己可愛さに、人心には考えが及ばない。
結果、人心はすっかり紂王から離れ、
最終的に自決を余儀なくされるのである。
勿論、妲己を送り込んだ周公旦の手によって。
英雄は色によって身を滅ぼしやすい。
地位があがるにつれ、お金を持つにつれ、
貴方にも色が近寄ってくるだろう。
色とりどりの接待を受けるだろう。
昔の人は言った。
接待は受けても良い。
だけど、女はいけない。
意味が伝わるだろうか?
色という字の部首は刀である。
色の本来の使われ方が字に書いてある。
---- 以下、余談 ----
十八史略の逸話を参考にした。周公旦は、孔子ですら非の付け所が無いと絶賛する君子であるが、妲己を刀として使い、殷の紂王を討った策士でもある。妲己の妲という字は、周公旦の旦に女をつけた字である。周公旦はまず美女を探し、その美女に子を産ませて、養女として引き取った。その女が成長して、名前を妲己と変えるのである。
周公旦は妲己に任務については何も言わなかったそうだ。知らぬほうが良いからだ。だが、紂王が自決し、妲己も周公旦の前に連れ出された時、妲己は言う。私は良く任務を果たしたでしょと。周公旦は妲己の首を斬って捨てるが、その叫び声はしばらく耳から離れなかったそうだ。妲己は周公旦の狙いまでも察していたのである。
傾国の美女である妲己を良く言う者はいないかも知れないが、古来中国では孝が最も大事とされる。妲己は育ての親である周公旦に対し、紂王を篭絡する事で孝をしたつもりだったのかも知れない。三国志の貂蝉が育ての親である王允に報いて、董卓と呂布の仲をさいたように。とは言え、周公旦が紂王を討ったのだから、その状況を逆に考えれば、自分が何に利用されたのかも分かりそうではあるが。
周公旦が紂王と対した時、周公旦は2万5千に対し、紂王は70万だった。にもかかわらず紂王は敗走し、自決することになる。どれだけ人心が離れていたか、恐ろしい限りである。兵法では絶対勝つはずの兵力差でありながら、勝てないのだから、紂王が負けるように味方が誘ったのは容易に想像できる。
2017年12月13日水曜日
色道3か条
一つ、色の道に連れは厳禁
一つ、愛した女を、特に寝屋は語るなかれ
一つ、蒔いた種は自分で刈り取る
男女の間の事を秘め事と言う。秘め事を秘め事で無くせばどうなるか?この男とは、一所に仕事はできないと思われる。恥を知らぬ男は信用できない。そして、他人の知恵を借りて、男女間のいざこざを解決しようとする人間は下の下である。蒔いた種くらい自分で刈り取るのがマナーだ。
男の性欲は齢50になっても衰えない。しかし、人間が道を踏み外しやすいのも色の道である。古めかしい話かも知れないが、覚えておくと損は無いだろう。
---- 以下、余談 ----
1、接待は受けても、女はいけないと覚えておくと実戦的だ。
2、なお、女も同じである。何でも話すのでは、秘密は共有できない。
一つ、愛した女を、特に寝屋は語るなかれ
一つ、蒔いた種は自分で刈り取る
男女の間の事を秘め事と言う。秘め事を秘め事で無くせばどうなるか?この男とは、一所に仕事はできないと思われる。恥を知らぬ男は信用できない。そして、他人の知恵を借りて、男女間のいざこざを解決しようとする人間は下の下である。蒔いた種くらい自分で刈り取るのがマナーだ。
男の性欲は齢50になっても衰えない。しかし、人間が道を踏み外しやすいのも色の道である。古めかしい話かも知れないが、覚えておくと損は無いだろう。
---- 以下、余談 ----
1、接待は受けても、女はいけないと覚えておくと実戦的だ。
2、なお、女も同じである。何でも話すのでは、秘密は共有できない。
2017年12月6日水曜日
天津祝詞
天津祝詞は祝詞を奏上する時、まず初めに奏上する祝詞となる。神道の各宗派によって採用する天津祝詞は異なるようだが、一番一般的な祝詞を紹介する。個人的には大祓祝詞の簡略版と言うイメージを持っている。
【天津祝詞】
高天原に神留坐す
神魯岐神魯美(かむろぎかむろみ)の命以て
皇御租神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと)
筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に
御禊(みそぎ)祓(はら)ひ給ふ時に生坐(なりませ)る祓戸(はらへど)の大神等
諸々の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓ひ賜え
清め賜えと申す事の由を
天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万の神等と共に
天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて聞食せと
恐み恐みも白す
【解説】
先ず訳文から。
「高天原におられます神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)よ。親神である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓(みそぎはらえ)し時に生まれた祓戸を守る神達よ。
世に諸々の枉事(まがこと)や罪穢(つみけがれ)があふれております。真に恐れ多い事ながら、どうか祓い清めいただけないでしょうか?天上の神、地上の神、八百万の神達と共に、天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて、この願いをお聞き届けください。」
自分が奏上する時は、難しい事は考えていない。自分がイメージする神々は、太陽と身の回りの自然であるため、奏上するときは太陽と自然にお願いするイメージをもつ。世の中にあふれる悩みや苦しみを、天地自然にお願いして取り払う祝詞だと考えている。解釈は人によって変わるようなので、自分なりの解釈をすれば良いはずだ。
---- 以下、余談 ----
1、神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)は、それぞれ高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かむむすびのかみ)の事のようだ。
2、「筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原」の解釈は大きく2つあるようで、福岡県だとする説と宮崎県だとする説がある。ただ、大切な事は神々に罪穢れを払ってもらう事なので、場所が何処かという問題は何方でも良いと思う。
3、祓戸(はらへど)の大神は、黄泉の国からもどった伊邪那岐命が川で禊祓した時に生まれた神達を言う。その時に天照大神も含めた色々な神が生まれるのだが、その全ての神々を指すかというと違うようだ。具体的には瀬織津比賣(せおりつひめ)、速開都比賣(はやあきつひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)、速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言われている。
4、天の斑駒(ふちこま)は高天原にいる斑模様の馬のようだ。その耳を振り立てるとは、注意して聞くという意味となる。馬は初めてのものや、不慣れなものに接する時、耳を前に向け振り立てる。その様子を言っているのだろう。なお、馬がリラックスするときは耳を横にむけ、威嚇する時は耳を後ろに伏せる。
天津祝詞 ⇒ 大祓祝詞 ⇒ 神棚拝詞
【天津祝詞】
高天原に神留坐す
神魯岐神魯美(かむろぎかむろみ)の命以て
皇御租神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと)
筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に
御禊(みそぎ)祓(はら)ひ給ふ時に生坐(なりませ)る祓戸(はらへど)の大神等
諸々の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓ひ賜え
清め賜えと申す事の由を
天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万の神等と共に
天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて聞食せと
恐み恐みも白す
【解説】
先ず訳文から。
「高天原におられます神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)よ。親神である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓(みそぎはらえ)し時に生まれた祓戸を守る神達よ。
世に諸々の枉事(まがこと)や罪穢(つみけがれ)があふれております。真に恐れ多い事ながら、どうか祓い清めいただけないでしょうか?天上の神、地上の神、八百万の神達と共に、天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて、この願いをお聞き届けください。」
自分が奏上する時は、難しい事は考えていない。自分がイメージする神々は、太陽と身の回りの自然であるため、奏上するときは太陽と自然にお願いするイメージをもつ。世の中にあふれる悩みや苦しみを、天地自然にお願いして取り払う祝詞だと考えている。解釈は人によって変わるようなので、自分なりの解釈をすれば良いはずだ。
1、神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)は、それぞれ高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かむむすびのかみ)の事のようだ。
2、「筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原」の解釈は大きく2つあるようで、福岡県だとする説と宮崎県だとする説がある。ただ、大切な事は神々に罪穢れを払ってもらう事なので、場所が何処かという問題は何方でも良いと思う。
3、祓戸(はらへど)の大神は、黄泉の国からもどった伊邪那岐命が川で禊祓した時に生まれた神達を言う。その時に天照大神も含めた色々な神が生まれるのだが、その全ての神々を指すかというと違うようだ。具体的には瀬織津比賣(せおりつひめ)、速開都比賣(はやあきつひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)、速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言われている。
4、天の斑駒(ふちこま)は高天原にいる斑模様の馬のようだ。その耳を振り立てるとは、注意して聞くという意味となる。馬は初めてのものや、不慣れなものに接する時、耳を前に向け振り立てる。その様子を言っているのだろう。なお、馬がリラックスするときは耳を横にむけ、威嚇する時は耳を後ろに伏せる。
2017年12月5日火曜日
神棚拝詞
祝詞奏上と一言に言っても、正式には3つの祝詞ワンセットで奏上するそうだ。まず天津祝詞と大祓祝詞をまず奏上し、場を祓い清める。そして我が願い事として神棚拝詞を奏上する。家の神棚の前や、神社などで奏上しやすい短い祝詞なので、個人的にはお薦めの祝詞だ。
天津祝詞 ⇒ 大祓祝詞 ⇒ 神棚拝詞
【神棚拝詞】
此れの神床に坐す 掛けまくも畏き天照大神
産土大神等 諸々の大神等の大前に
恐み恐みも白さく
大神達の広き厚き御恵みを辱み奉り
高き尊き神教のまにまに
直き正しき真心持ちて 誠の道に違ふことなく
負ひ持つ業に励ましめ給ひ 家門高く 身健に
世の為人の為に尽くさしめ給へと
恐み恐みも白す
恐み恐みも白さく
大神達の広き厚き御恵みを辱み奉り
高き尊き神教のまにまに
直き正しき真心持ちて 誠の道に違ふことなく
負ひ持つ業に励ましめ給ひ 家門高く 身健に
世の為人の為に尽くさしめ給へと
恐み恐みも白す
【解説】
先ずは訳文から。
「神棚におられる口の端にのせる事すら恐れ多い天照大神よ、土地の守り神よ、恐れ多くも申したい事があります。大神達の広く厚い御恵を有難く賜り、崇高な神教えの通り、素直で正しく偽りの無い心で、誠実に生きる所存です。つきましては恐れ多い事ながら、世のため人のために尽くせるよう、我が仕事、家門、健康を御守りください。」
この祝詞の発想は自分で思いつこうと思っても、なかなか思いつかない。神様にお願い事をするとして、普通は受験、出世、安産、恋愛、家内安全等、自分の事をお願いするだろう。勿論悪い事ではないが、この祝詞は世の為人の為に尽くさして欲しいと願うのだ。頭が下がる思いである。
理解で困りそうな部分を補足しておくと、産土大神は太陽の光によって生まれた自然(神々)の事である。天照大神の光によって土地に産まれた偉大な神という意味だ。全ては太陽の光のエネルギーを本にして生まれるのだから自然な話となろう。(当ブログの六根清浄の大祓の説明を参照)
また、神の恵の最も典型となるのは稲である。由庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅と言い、高天原で稲作をしていた天照大神は、孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)へ、日本に降りたらこれを食べなさいと稲を渡した。これが日本の始まりである。邇邇芸命(ににぎのみこと)は代々の天皇陛下を指し、故に日本文化の象徴は米となる。天皇陛下の存在を戦後は誤解されている様子だが、陛下は日本文化そのものであり、日本を高天原にすることを願う祭祀である。教養としても覚えておきたい。
また、神の恵の最も典型となるのは稲である。由庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅と言い、高天原で稲作をしていた天照大神は、孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)へ、日本に降りたらこれを食べなさいと稲を渡した。これが日本の始まりである。邇邇芸命(ににぎのみこと)は代々の天皇陛下を指し、故に日本文化の象徴は米となる。天皇陛下の存在を戦後は誤解されている様子だが、陛下は日本文化そのものであり、日本を高天原にすることを願う祭祀である。教養としても覚えておきたい。
---- 以下、余談 ----
ちなみに、日本文化は祓いと言霊と言われるが、祓いと言霊の意味を知っているだろうか?軽く説明しておく。
その1、祓い
祓いは、自分を真っ白なキャンパスにするというイメージだ。良きも悪きも須く自分から追い祓う。こう言うと、良きも追い祓うのかと疑問をもつものだが、悪きだけでなく、良きも追い祓う事がポイントとなる。要は自分を澄んだ水のように清らかにするのである。心清らかならば、心の映し鏡である世界が汚れる事は無い。(伊勢神道)
その2、言霊
祓いが真っ白なキャンパスならば、言霊は言わば絵具である。良い言葉を口にする事で、言葉に宿る守護霊のご加護を得るのだ。明るい絵を描くか、暗い絵を描くかは貴方の話す言葉によって決まる。日本文化の基本が、祓いと言霊という意味が伝わるだろうか?
人間は明るい言葉だけでなく、時には愚痴などを吐いてしまう。愚痴や不平不満で彩りをそえた絵は暗い絵となろう。だからこそ、その一切を祓って、もう一度新しい絵を書くのである。今度は明るい絵になるように。絵師が何度も絵を書きなおしながら成長するように、人間も祓いと言霊の繰り返しによって成長していくのだ。
なお、言霊は人間は話した言葉通りの人生になるという考え方であり、言葉通りの人生になる事を守護霊のお陰と考える信仰である。人生で一つだけ注意するものがあるとしたら、それは口癖と言われるが、試しに愚痴を吐いている人を見て欲しい。愚痴が愚痴を呼ぶように、愚痴ばかり言っていないか?逆に前向きな言葉を話す人は、常に前向きな言葉を話さないだろうか?これをまず実際に確認してほしい。言われてみれば、そういう節があるくらいには思ってもらえるはずだ。
2017年12月4日月曜日
六根清浄の大祓 その3
4、六根清浄なるがゆえに、五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるがゆえに、天地の神と同根なり。天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり。万物の霊と同体なるがゆえに、成すところの願いとして成就せずということ無し。無上霊宝神道加持。
六根が清く浄らかであるから、五臓を司る神君も安寧となる。五臓を司る神君が安寧であるから、天地の神と同根となる。天地の神と同根であるから、万物の霊と同体となる。万物の霊と同体であるから、我が願いが成就しないという事も無いのだ。神道の教えは、この上のない霊宝である。
【解説】
その1、五臓の神君安寧
六根が清ければ心が澄み切り、ストレスがなくなり内蔵(五臓)のバランスが整う。御存知のようにストレスは万病の元で、典型的には胃潰瘍がストレスによる内蔵浸食かも知れない。これに限らずストレスを感じながら生きると病気になりやすい。免疫力がおち風邪をひきやすくなったり、癌など日本人の国民病も誘発する。何故ならストレスの原因は毒物だからである。
ストレスと言うのは、脳内における毒物への拒否反応だ。興奮するとアドレナリンが分泌されるという話は有名だが、アドレナリンこそ実は代表的な毒物となる。その毒たるや毒蛇の数倍の毒だというから驚いたものだ。人間は脳で毒物を自ら発生させるが、健康な細胞は毒物へ拒否反応を起こすため、その拒否反応がストレスの原因なのである。その毒物が発生しないのなら、五臓を統治している神君も安寧であるのは当然であろう。
余談だが、人間は脳で発生させた毒物を口から希釈して吐いている。よく悪口を言う事を毒を吐くと言うが、これは比喩でも何でもなく本当に毒を吐いている。南の島に現存する原住民などは、口から吐く毒をつかって木を切る事もあるのだ。彼らは通常は斧で木を切っているが、樹齢1000年という大木になると斧では切る事が難しい。そこで、口から吐く毒を上手く利用するのである。
彼らにはシャーマンみたいな特別な職があるらしく、切りたい木の回りをシャーマン達が取り囲み、一日中罵声を浴びせるのである。勿論一日でどうなるものでもないが、これを1か月、2か月と続けるとどんな屈強な木でもシナシナと弱まり倒れてしまうのだそうだ。今の日本ではそんな発想を思いつかないが、嘘のような本当の話だ。人間が進化の過程で、爬虫類だったころの名残と言われている。
さて、話を戻そう。五臓の神君が安寧である時、人は健やかで景色がより済んで見えるもの。綺麗なものはより鮮やかに見え、時には感動すら覚える。そして、普段人は気に留めないが、これは天照大神(太陽)の恩恵なのである。
その2、天地の神と同根
何故ゆえに人は太陽の光に親しみを感じ、安心を覚えるのだろうか?例えば、ダイヤモンドが好まれる理由も光の反射ゆえであろう。人間はどうも光が好きなのである。その理由を考えるに、もしかしたら光に対する同族意識なのかも知れない。
人に限らず、全ての生き物は太陽の光から生まれた。例えば、人の進化の過程を紐解くと、もともとは古代の海にいたヴァクテリアだと言われる。ヴァクテリアが光のエネルギーを得て、数十億年の月日をかけて人まで進化してきた。その中では爬虫類や両生類にとどまった者もいるし、分岐して野生動物になった者もいる。そして、ある者は植物へと進化した者もいるのである。
この進化の過程を光のエネルギーという一点だけで考えて見ると、なぜ天地の神と同根なのかの理由がはっきり分かってくる。それはどの種の動植物を見ても、最初は単なる細胞があっただけで、その細胞が光のエネルギーを吸収する所から始まるからだ。これは言わば、光というエネルギーがその細胞内で変換されて留まったに過ぎないとも言える。変換された後に人は光とは言わないだけで、元来それは光のエネルギーなのである。
人は野菜を食べるが、野菜は光を浴び光合成をしながら成長する。野菜は光を光合成によって自らのエネルギーに変えるが、光のエネルギーが光以外の形に変換されて野菜にとどまったにすぎない。人が野菜を食べるとは、光のエネルギーを野菜という形で摂取するという事でもあるのだ。勿論、動物も同じ理屈である。
このように人は、光のエネルギーが野菜や動物と様々な形に変換され留まった物を食べて生きている。人は直接的にも間接的にも光の恩恵を受けているのである。人は光のエネルギーを自らの力にする事で進化してきたし、今なお光のエネルギーを様々な形で摂取して生きている。だからこそ、人は光に親しみを感じ、安らぎを覚えるのでは無いだろうか?日本では古来より八百万の神がいると考えて来た理由も、光に注目して考えて見れば自然な成り行きとなるのである。光こそ天照大御神であり、故に天地の神と同根なのだ。
その3、万物の霊と同体
人は天地の神と同根であるから、万物の霊も同じく光の恩恵によって生じる。故に光のエネルギーと言う意味で同体となる。そして、我は万物の霊と同体、言い換えれば、かくも美しくエネルギーに満ちた天地自然と同体なのだ。叶わぬ願いがあるはずが無いだろうと祝詞は言っている。(解釈に国誉めの風習をエッセンスとして加えて見た。)
---- 仏教的追記 ----
六根が清く浄らかであるから、五臓を司る神君も安寧となる。五臓を司る神君が安寧であるから、天地の神と同根となる。天地の神と同根であるから、万物の霊と同体となる。万物の霊と同体であるから、我が願いが成就しないという事も無いのだ。神道の教えは、この上のない霊宝である。
【解説】
その1、五臓の神君安寧
六根が清ければ心が澄み切り、ストレスがなくなり内蔵(五臓)のバランスが整う。御存知のようにストレスは万病の元で、典型的には胃潰瘍がストレスによる内蔵浸食かも知れない。これに限らずストレスを感じながら生きると病気になりやすい。免疫力がおち風邪をひきやすくなったり、癌など日本人の国民病も誘発する。何故ならストレスの原因は毒物だからである。
ストレスと言うのは、脳内における毒物への拒否反応だ。興奮するとアドレナリンが分泌されるという話は有名だが、アドレナリンこそ実は代表的な毒物となる。その毒たるや毒蛇の数倍の毒だというから驚いたものだ。人間は脳で毒物を自ら発生させるが、健康な細胞は毒物へ拒否反応を起こすため、その拒否反応がストレスの原因なのである。その毒物が発生しないのなら、五臓を統治している神君も安寧であるのは当然であろう。
余談だが、人間は脳で発生させた毒物を口から希釈して吐いている。よく悪口を言う事を毒を吐くと言うが、これは比喩でも何でもなく本当に毒を吐いている。南の島に現存する原住民などは、口から吐く毒をつかって木を切る事もあるのだ。彼らは通常は斧で木を切っているが、樹齢1000年という大木になると斧では切る事が難しい。そこで、口から吐く毒を上手く利用するのである。
彼らにはシャーマンみたいな特別な職があるらしく、切りたい木の回りをシャーマン達が取り囲み、一日中罵声を浴びせるのである。勿論一日でどうなるものでもないが、これを1か月、2か月と続けるとどんな屈強な木でもシナシナと弱まり倒れてしまうのだそうだ。今の日本ではそんな発想を思いつかないが、嘘のような本当の話だ。人間が進化の過程で、爬虫類だったころの名残と言われている。
さて、話を戻そう。五臓の神君が安寧である時、人は健やかで景色がより済んで見えるもの。綺麗なものはより鮮やかに見え、時には感動すら覚える。そして、普段人は気に留めないが、これは天照大神(太陽)の恩恵なのである。
その2、天地の神と同根
何故ゆえに人は太陽の光に親しみを感じ、安心を覚えるのだろうか?例えば、ダイヤモンドが好まれる理由も光の反射ゆえであろう。人間はどうも光が好きなのである。その理由を考えるに、もしかしたら光に対する同族意識なのかも知れない。
人に限らず、全ての生き物は太陽の光から生まれた。例えば、人の進化の過程を紐解くと、もともとは古代の海にいたヴァクテリアだと言われる。ヴァクテリアが光のエネルギーを得て、数十億年の月日をかけて人まで進化してきた。その中では爬虫類や両生類にとどまった者もいるし、分岐して野生動物になった者もいる。そして、ある者は植物へと進化した者もいるのである。
この進化の過程を光のエネルギーという一点だけで考えて見ると、なぜ天地の神と同根なのかの理由がはっきり分かってくる。それはどの種の動植物を見ても、最初は単なる細胞があっただけで、その細胞が光のエネルギーを吸収する所から始まるからだ。これは言わば、光というエネルギーがその細胞内で変換されて留まったに過ぎないとも言える。変換された後に人は光とは言わないだけで、元来それは光のエネルギーなのである。
人は野菜を食べるが、野菜は光を浴び光合成をしながら成長する。野菜は光を光合成によって自らのエネルギーに変えるが、光のエネルギーが光以外の形に変換されて野菜にとどまったにすぎない。人が野菜を食べるとは、光のエネルギーを野菜という形で摂取するという事でもあるのだ。勿論、動物も同じ理屈である。
このように人は、光のエネルギーが野菜や動物と様々な形に変換され留まった物を食べて生きている。人は直接的にも間接的にも光の恩恵を受けているのである。人は光のエネルギーを自らの力にする事で進化してきたし、今なお光のエネルギーを様々な形で摂取して生きている。だからこそ、人は光に親しみを感じ、安らぎを覚えるのでは無いだろうか?日本では古来より八百万の神がいると考えて来た理由も、光に注目して考えて見れば自然な成り行きとなるのである。光こそ天照大御神であり、故に天地の神と同根なのだ。
その3、万物の霊と同体
人は天地の神と同根であるから、万物の霊も同じく光の恩恵によって生じる。故に光のエネルギーと言う意味で同体となる。そして、我は万物の霊と同体、言い換えれば、かくも美しくエネルギーに満ちた天地自然と同体なのだ。叶わぬ願いがあるはずが無いだろうと祝詞は言っている。(解釈に国誉めの風習をエッセンスとして加えて見た。)
---- 仏教的追記 ----
無心なれば五臓も自然本来の働きをするのみで、そこに苦は無い。同根と言うは、思考が天地の神と自分を分けると言う意味であり、同体と言うは無心を言う。無心を意識がいくようになると、自然がより美しく感じられるようになっていく。その空気の透明感にも安らぎを得られるようになる。これをもって願いが叶ったと言う。まさに無上の霊宝であり、神の道である。それに実感が伴うと加えて持つと言う。
---- 以下、余談 ----
般若心経が分かると、六根清浄の大祓もより理解が進むのでは無いだろうか?有機物だけでなく、無機物も光のエネルギーによって生じると説明できるが、般若心経の色即是空の感覚を知らないと難しい話になってしまう。興味ある方は当ブログの般若心経の解説を参照して欲しい。色即是空ゆえに、無機物は光のエネルギーによって生じる。
https://bibouroku1212.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html
2017年12月2日土曜日
六根清争の大祓 その2
3、諸々の法は、影と像のごとし。清く淨ければ、仮にも穢るること無し。説を取らば得べからず。皆花よりぞ木の実とは生る。わが身はすなわち六根清浄なり。
諸々の自然現象は、心を映す影、もしくは心を象る像のようなものである。心が清く、そして清らかに保っていくならば、仮にも汚れる事は無い。言葉で理解しようとしても分からないかも知れないが、この世の全ての現象は綺麗な花が咲く種のようなものなのだ。なればこそ我が六根を清浄し、心を清く浄らかに保つのである。
【解説】
この世は鏡のようなものであると言う。心が悲しみであふれていれば、景色は何処か物悲し気に見え、心晴れやかなれば雨でさえ陽気な彩を見せる。相手を嫌な奴と思えば大概は相手からも嫌がられるし、相手に好意的に接すれば相手からも好意的に接してもらえる。分かるだろうか?貴方の心象風景をそのまま投影するのが世界なのだ。まさに映し鏡の世界である。
考えてもみて欲しい。悲し気な景色というものが、この世に存在するだろうか?心がせつない時は、誰かの笑い声さえ自分のせつなさを増す声になる。だが、笑っている本人は楽しいはずだ。同じ空間にいても、人によっては楽しくもあり、人によってはせつなくもある。見える景色は人によって変わるのだ。嫌な奴も同じだ。自分は嫌な奴と思っていても、その相手にも家族がいて、恋人がいて、友人がいる。本当に嫌な奴なのだろうか?人によってその人間の評価は変わるのである。
この世界には良いとか、悪いという概念はない。言わば世界は中立であって、ただただ物理現象が起きているだけである。それが悲しげに見えるなら、悲しげと決めているのは自分であり、陽気に見えるなら陽気と決めているのは自分である。この事に気づく事が最大のポイントとなる。つまり、世界は中立なれど、良いか悪いかは自分の心が決めている。他人から見た世界と、自分から見た世界は違うのだ。
シェイクスピアの言うように、人生では誰しも一つの役を演じなければならないなら、自分の世界では自分が言わば劇の主役である。そして演出家、脚本家もかね、何もかも自分が決めている。人間は神の依り代、自分の心は神からの預かり物であるというイメージが伝わるだろうか?少なくとも貴方の世界では、貴方が全ての良し悪しの決定権を持つ神とも言うべき存在なのだ。
人生には悪い事は起きない。なぜなら自分で良いか悪いかを決める事ができるから。決める権利があるのだから、良いと決めれば良いだけだ。これを祝詞では、「皆花よりぞ木の実とは生る」と表現していて、全ての事は綺麗な花が咲く種のようなものだと言うのである。何故綺麗な花が咲く種になるのか?自分の世界では、自分が全て決めれるからである。綺麗な花が咲いたと解釈すれば良いだけなのだ。
世界は影のようなもので、自分が清らかならば世界は汚れる事はなく、皆綺麗な花がさく種のようなものと祝詞では言ってるが、まさにその通りであろう。なんせ自分でそう決めるだけなのだから。そして、なればこそ自分を清く保つよう精進するのである。最後に具体的な例をあげておく。
例えば、先生や上司に怒られたとしよう。ある人は怒られたと愚痴をこぼすが、ある人は目をかけてくれていると喜ぶ。怒るという事は、まだ見捨てていないとも言える。見捨てたら人間は無視をするのだから。要は考え方一つである。どちらの解釈にするかは自分で決めるのである。後者で解釈できる人にとっては、怒られた事は言わば種であり、清らかな心を養分として綺麗な花が咲くのだ。
---- 仏教的追記 ----
諸々の自然現象は、心を映す影、もしくは心を象る像のようなものである。心が清く、そして清らかに保っていくならば、仮にも汚れる事は無い。言葉で理解しようとしても分からないかも知れないが、この世の全ての現象は綺麗な花が咲く種のようなものなのだ。なればこそ我が六根を清浄し、心を清く浄らかに保つのである。
【解説】
この世は鏡のようなものであると言う。心が悲しみであふれていれば、景色は何処か物悲し気に見え、心晴れやかなれば雨でさえ陽気な彩を見せる。相手を嫌な奴と思えば大概は相手からも嫌がられるし、相手に好意的に接すれば相手からも好意的に接してもらえる。分かるだろうか?貴方の心象風景をそのまま投影するのが世界なのだ。まさに映し鏡の世界である。
考えてもみて欲しい。悲し気な景色というものが、この世に存在するだろうか?心がせつない時は、誰かの笑い声さえ自分のせつなさを増す声になる。だが、笑っている本人は楽しいはずだ。同じ空間にいても、人によっては楽しくもあり、人によってはせつなくもある。見える景色は人によって変わるのだ。嫌な奴も同じだ。自分は嫌な奴と思っていても、その相手にも家族がいて、恋人がいて、友人がいる。本当に嫌な奴なのだろうか?人によってその人間の評価は変わるのである。
この世界には良いとか、悪いという概念はない。言わば世界は中立であって、ただただ物理現象が起きているだけである。それが悲しげに見えるなら、悲しげと決めているのは自分であり、陽気に見えるなら陽気と決めているのは自分である。この事に気づく事が最大のポイントとなる。つまり、世界は中立なれど、良いか悪いかは自分の心が決めている。他人から見た世界と、自分から見た世界は違うのだ。
シェイクスピアの言うように、人生では誰しも一つの役を演じなければならないなら、自分の世界では自分が言わば劇の主役である。そして演出家、脚本家もかね、何もかも自分が決めている。人間は神の依り代、自分の心は神からの預かり物であるというイメージが伝わるだろうか?少なくとも貴方の世界では、貴方が全ての良し悪しの決定権を持つ神とも言うべき存在なのだ。
人生には悪い事は起きない。なぜなら自分で良いか悪いかを決める事ができるから。決める権利があるのだから、良いと決めれば良いだけだ。これを祝詞では、「皆花よりぞ木の実とは生る」と表現していて、全ての事は綺麗な花が咲く種のようなものだと言うのである。何故綺麗な花が咲く種になるのか?自分の世界では、自分が全て決めれるからである。綺麗な花が咲いたと解釈すれば良いだけなのだ。
世界は影のようなもので、自分が清らかならば世界は汚れる事はなく、皆綺麗な花がさく種のようなものと祝詞では言ってるが、まさにその通りであろう。なんせ自分でそう決めるだけなのだから。そして、なればこそ自分を清く保つよう精進するのである。最後に具体的な例をあげておく。
例えば、先生や上司に怒られたとしよう。ある人は怒られたと愚痴をこぼすが、ある人は目をかけてくれていると喜ぶ。怒るという事は、まだ見捨てていないとも言える。見捨てたら人間は無視をするのだから。要は考え方一つである。どちらの解釈にするかは自分で決めるのである。後者で解釈できる人にとっては、怒られた事は言わば種であり、清らかな心を養分として綺麗な花が咲くのだ。
---- 仏教的追記 ----
諸々の法は分別がつくりだす影のようなもの。無心なれば法すらない。この感覚は言葉にできるようなものではないが、花が実を結ぶ姿にありありと現れている。それが分かるなら、何故ゆえに清浄という字をあてがうかも分かるだろう。
2017年12月1日金曜日
六根清争の大祓
自分なりの解釈を書いていく。(ほかの人とは違うようだ。)
水色が原文、下に和訳を書く。
天照大神がおっしゃられた。人は天が下における神の依り代である。当然のように静まる役目を担う心は、神明を下さる本の主である。心におわす神を傷つけてはならない。
【解説】
伊勢神道における「命は神からの預かりものである」という考え方を言っているのだろう。自分の和訳は当たっているか分からないが、命は神の一部という考え方を分霊と言い、分霊は心神を意味する。これが伊勢神道の基本であるため、そう思えば良いはずだ。
訳の困るのは「神明との本の主たり」という部分だが、天之御中主という全ての神々の根源となる神の存在を解釈にいれるかで訳が変わると思われる。入れるならば、天之御中主の一部を預かったという事になるから、和訳は「心は天照大神と人の本となった神様」という意味合いとなり、つまり天之御中主を指す事となろう。逆に天之御中主の存在を解釈にいれないとすれば、神明とは天照大神の別名であるから、心は天照大神からの預かりものという意味合いを持つ。
どちらで訳しても良いと思うが、理解するポイントは人間の心には神が宿っているという考え方になる。心神は神から一時的に預かったに過ぎないのだから傷つけてはならないし、預かり物は大切にしないといけないという話となる。
昨今、TVなどで子供の自殺を問題にしたりするが、何故自殺はいけないのか?心神という考え方に立てば、神からの預かり物である命(心神)を勝手に処分していいわけがないからと言えよう。命の大切さを教える教育では、自分の存在が自分の物では無いと気づかせる事が大切だ。自分の中には神が宿っており、存在それ自体が尊い。存在価値がないと思うなら、それは勘違いである。
------ 仏教的追記 -----
自己流だが禅を少し学んだので、その視点でも解説してみる。
神 = 無心 = 心
これが要点と思われる。
2、このゆえに、眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず。鼻に諸々の不浄を嗅ぎて、心に諸々の不浄を嗅がず。口に諸々の不浄を言って、心に諸々の不浄を言わず。身に諸々の不浄を触りて、心に諸々の不浄を触らず。意に諸々の不浄を思うて、心に諸々の不浄を思わず。この時に清く潔きことあり。
このゆえに、眼に諸々の不浄を見ても、心ではその不浄を見てはいけない。耳に諸々の不浄を聞く事があっても、心ではその不浄を聞いてはいけない。口で諸々の不浄を言う事あっても、心ではその不浄を言ってはならない。身に諸々の不浄が触れても、心ではその不浄を触ってはいけない。頭で諸々の不浄を思う事があっても、心ではその不浄を思ってはいけない。こうして心は清らかとなり、不純なものがなくなる。
【解説】
まずは六根の説明をしよう。六根とは、人間の悩み苦しみが発生する六つの原因を言う。人間は何もなく悩んだりはしない。悩むにはそれなりの原因があるもの。例えば、嫌なものを見て、それがトラウマとなって苦しむとか。これが「目に諸々の不浄を見て」のイメージとなる。
他も同じだ。嫌な話を聞いて悩む、愚痴や悪口が災いして悩む、嫌な臭いを嗅いで苦しむ、汚いものに触って苦しむ、嫉妬や妬みを思い浮かべて苦しむ。人の悩み苦しみは目、耳、口、鼻、身、意を原因にして起きているだろう。そこで、これを植物が根から養分を吸収して育つのになぞらえて、人の悩み苦しみが育つ六つの根という意味で、六根と言うのである。
この祝詞は六根清争の大祓という名をもつが、その所以がこの部位に現れている。つまり、六根に不浄が生じても、言い換えれば、嫌な事があっても、それに囚われてはいけない。常に心清らかに保つ事に努めなさいと言うのである。嫌な事があったからと言って、心まで嫌な事に囚われてはいないか?嫌な事があったから、余計に元気が出てきたと言える人間でなくては。みんなの雰囲気が暗いからと言って、自分まで暗くなってはいないか?みんなが暗いなら、自分が明かりを灯してあげようと言える人間でなくては。
とは言え、人間は嫌な事があれば凹むし、周りが暗ければその雰囲気に流されるもの。その事を責められはしない。それが人間である。だからこそ、この祝詞を日々奏上することで日々意識しなおすのだ。嫌な事に囚われそうな心を、自ら意識して心から嫌な事を取り除く。しかし、また嫌な事は起きるだろう。だから、その都度嫌な事を心から取り除き、心を清らかに保っていくのが神道なのである。
しかし、そんな事が本当にできるのか?これが問題となろう。嫌な事に囚われてしまった心から、本当に嫌な事を取り除けるのか?それが何故出来るのかを説明するのが次の部位となる。
---- 仏教的追記 ----
無心なれば分別はなく不浄もなし。
無心を軸に生きれば、自然と祝詞通りになる。
---- 以下、余談 ----
神道は、日々反省して生きる道と言っても良いかも知れない。恨みをもつ心があれば、それを寝る前に取り除いてから寝る。愚痴や不平不満を言ってしまったら、それを寝る前に反省してから寝る。嫉妬してしまったら、それを寝る前に反省して明日に備える。今日一日を暗く過ごしてしまったら、明日は努めて笑顔を心がける。心清らかに保つとは、これを言うのだ。
恨み、愚痴、不平不満、嫉妬はいけない事は分かっている。だが、生理現象ゆえに自然発生してしまう。だから、その都度修正が求められ、簡単では無いが故に歩んだ軌跡が道となる。故に神道と言うのだ。
2017年11月29日水曜日
大祓祝詞(中臣祓詞) その4
6、此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ 國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと
大祓祝詞を奏上するならば、天上の神は天の岩戸と押し開き、空に厚い雲がかかろうとも掻き分けて願いを聞いてくれるだろう。地上の神は高い山の上や、低い山の上に登り、山にかかる霧を掻き分けて願いを聞いてくれるだろう。そうして神々が願いを聞いてくれるなら、罪という罪はなくなってしまうだろう。
【解説】
天の岩戸開きは天照大神が笑い声につられ岩の戸を開く話だが、ここでは見て見ぬふりをする心の比喩となる。人間は悪いと分かっていても、見て見ぬをふりをする生き物だ。「天の磐門(岩戸)を押し披きて」はそういう気持ちを振り払って、神々が聞き耳をたててくれるというニュアンスとなる。
天つ神、國つ神は、天上の神と地上の神を言うが、自分は何方も太陽を意識している。天の神が話を聞いてくれるは、雲の隙間から光が差し込む姿をイメージし、地上の神が大小様々な山の上から話を聞いてくれるとは、山に登る朝日をイメージする。朝にかかる霧が朝日によって消えていく様を、伊褒理(霧)を掻き分けると表現している気がする。そして、朝日の美しさの前に立てば、感動して悩みなど忘れてしまうだろう。だから、罪という罪はなくなってしまうのだ。
7、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと
科度の風が空にある雲を吹き飛ばすように、朝夕の霧が風によって払われるように、大きな港にある大船の船首船尾を解き放ち、大海原に押し放つように、生い茂る草むらを鎌で刈り取るように、罪という罪はなくなってしまうだろう。
【解説】
自分は綺麗さっぱり人間の悩み苦しみが取り払われると言う話と解釈している。綺麗さっぱりを4つの例え話で表現していると思えば良い。
その1、科戸の風
科戸の風は罪汚れを祓う性質がある風らしいが、要は空をみて雲が流れる様を言っているのだろう。どんより雲に覆われる日もあれば、雲ひとつない晴天の日もある。この移り変わりは気にもとめないほど当たり前の日常だが、この日常を自分はイメージしている。昨日はあった雲が今日はなくなっている。風によって運ばれたのだろう。
その2、朝夕の霧
朝夕は霧がかかりやすが、時間がたつと霧はいつの間にか無くなっている。特に朝5時頃にかかる霧は昼にはまず間違いなくない。朝日と風が霧を取り払うからだ。この様を自分はイメージしている。
その3、大船
大津辺は大きな港を言い、舳は船首の事で、艫は船尾となる。だから、「大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く」の意味合いとしては、大きな船を大海原に出したという情景となる。
大きな船が人々の悩み苦しみだとすれば、それを港(人間)から切り離し、海へ流したととれる。自分は自衛隊の誇る護衛艦「かが」をイメージしている。
その4、彼方の繁木
繁木は腰ほどまで生い茂った草木を言うため、「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く」は草刈りをして綺麗にしたという意味になる。草を刈り終われば、清々しい気分になるだろう。自分は、そのまま草刈りをイメージしている。
8、祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと
祓い清めた後は高い山や低い山から滝に流すのだ。そして、滝の下を流れる速川にいる川の神様に海まで運んでもらおう。海についたなら今度は荒潮にいる海の神様に飲み込んでもらおう。そうして飲み込んでもらったなら、次は風の神様にお願いして黄泉の国まで吹き飛ばしてもらおう。黄泉の国についたなら、黄泉の神様にお願いして無くなるまでさすらってもらおう。そうすれば罪と言う罪はなくなってしまうさ。
【解説】
草刈りで言えば、草が罪汚れの例えとなる。草刈りをして綺麗になっても、刈り取った草は残るだろう。たき火をしたりして、燃やすはずだ。このたき火にあたる話を壮大な規模でしていると思えば良い。人間から罪汚れがきれいに取り払われたとしても、罪汚れは無くなりはしない。だから、罪汚れ自体を無くすために、草刈りのたき火にあたる行為をするのである。
まずは人の罪汚れを佐久那太理から流す。佐久那太理は滝の事だから、自分は奏上する時は大きな滝をイメージしている。そして、滝の下には川が流れ、川は海へつながる。だから、そう言う順番で祝詞が書かれている。滝から流した罪汚れは、瀬織津比賣(せおりつひめ)という川の神にお願いして海へ運んでもらおう。海へ着いたなら、次は速開都比賣(はやあきつひめ)という海の神にお願いして飲み込んでもらうのだ。それぞれ川や、海をイメージして奏上すればよいだろう。
なお、海の神に飲み込んでもらうという表現は、海の深淵な深さを言っているのでは無いだろうか?自分は海をみると畏怖を感じるため、恐らくこの畏怖をもって強大な力を表現しているのだと思う。
海の神様の次は、気吹戸主(いぶきどぬし)という風の神様である。風の神に罪汚れを黄泉の国まで吹き飛ばしてもらう。自分は普段ふいている風を感じながら奏上する。ここまで滝、川、海と日本の自然をリレーしてきた。ならば、普段吹いている風を想像するのが自然だと思う。
そして、最後は黄泉の国にいる速佐須良比賣(はやさすらひめ)だ。「根國 底國」は黄泉の国を言い、死人の世界となる。そこにいる神様にお願いして罪汚れを無くしてもらおうという訳だ。死人の世界のため、罪汚れにも死が訪れると祝詞は言いたいのだと思う。
ただ、自分が奏上する時は、死の国では無く四季をイメージしている。春に新緑だった葉は、夏は生命力に溢れ、秋には紅葉し、冬になれば枯れて落ちる。季節の移り変わりによって、自然は生まれて死ぬ。この姿を速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言っていると思うのだ。だから、死ぬまでさすらってもらおうと祝詞はつづると。滝から流れされた罪汚れが、川を下り、海へ行き、風に運ばれ、四季の力によってなくなって行く。まさに日本という国を表現していよう。
9、祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す
このように祓い清めようと思っています。天上の神よ、地上の神よ、八百万の神達よ。どうかお聞き届けください。
---- 以下、余談 ----
奏上する回数が増えてくると、誇張されたイメージをもって奏上するのではなく、極ありふれた日常の情景をもって奏上したほうが良いと思うようになった。自分が想像をふくらませる必要はなく、日常の景色に祝詞の言葉が重なってくるのだ。
2017年11月28日火曜日
大祓祝詞(中臣祓詞) その3
あくまでも自分の解釈だが、自然の神々に人々を悩み苦しみを取り除くことをお願いすると説明してきた。科学が発達し夜も足元に困る事がなくなったせいか、現代では自然を恐れ敬う風潮がなくなったため、自然にお願いすると言うと変な話に見えるかも知れない。ただ、一概にそうとも言え無い節があるのだ。
本来、人間と自然は一体である。人間の吐くに二酸化炭素を木々は必要とし、木々の作る酸素がなくては人間は立ち行かない。木々に酸素を作らせるのは太陽のエネルギーであるから、昔の人が太陽、言い換えれば天照大神の恵みに感謝をしたのは、なんら不思議はないのである。太陽の光によって草が生え、草をたべる草食動物が生きる事ができる。草食動物が生きれるから、それを食べる肉食動物が生存を許され、その全ての過程をもって人間が生かされる。
無償の愛を知りたければ太陽を見ろと言われるが、まさにその通りだろう。お金を一切受け取ることなく、何よりも優れた恩恵をもたらし、文句ひとつ言わないのだから。太陽を人口で作るとなったら、天文学的数字の費用をかけても無理だ。どんなに苦しい状況であっても、すでに貴方は恵まれている。当たり前に感謝せよとは、これを言うのである。
人間が病気になる時は、血が酸化して黒ずんでいるという話を知っているだろうか?人間の不調は、血の色にでるのである。人間は血なのだ。そして、これを逆に見て考えて欲しい。血が黒ずむと病気になるのだから、黒ずんだ血を中和して元の赤色にもどせば調子も良くなるとも考えられないか?何せ原因を取り除いている。
では、どうしたら血を中和できるだろうか?結論を言うと、植物がとても有効な手段となる。病院に行かなくては病気は治らないと考えやすい現代に生きてると気づきづらいのだが、血の中和に植物は大きな役割を果たす。植物の近くにいるだけで、植物が出しているマイナスイオンによって血は中和されるものなのだ。だから、体の調子が悪いとか、鬱病などで気持ちがどんよりする時は、とりあえず森に行けと言われる。
特に樹齢数百年の巨木の近くが良く、巨木は長生きするだけあって生命力が強い。猫などを見ても分かるが、母猫が子猫を捨ててしまう事があろう。人間だったら、お前の子だろと言われるだろうが、猫の場合は母猫が特に冷たいのではない。この子は体が弱いから生き残れないと思ったら、平然とすてて次の子を作るのが自然界なのだ。生存力の弱い子を助けようにも、母猫には病院に連れて行く等の助ける手段がない。どうせ死ぬ子なら、次の子のために早い方が良いとDNAに刻まれているのだろう。
猫の例を見ても分かる通り、自然界は生命力のない生物が生き残れるように作られていない。長生きしてるならば、それだけ生命力が強い。そのエネルギーを体に取り込むのである。1時間から2時間くらい巨木の近くに座っていれば、それだけで血が中和され人間は上向く。酸素と二酸化炭素の例を見ても、人間と植物は互いに補う合う関係にあるが、体の健康状態をみても植物は人間を補ってくれている。我々人間が生きるために植物を大事にするように、植物も我々人間を補助しなければ生きづらい。だから、自然と共存関係ができあがったのでは無いだろうか?
自分は大祓祝詞を奏上する時、天地自然にお願いするようなイメージを持っていると説明してきたが、理由は人間が自然に生かされている側面を考えれば当然のように思うからだ。この事を肌で感じていたからこそ、1000年前の先祖は自然を八百万の神として讃えた気がする。当時の人に理由は分からなかっただろう。だが、科学が発達し色々解明された今だからこそ感じる合理性もあるのである。
---- 以下、余談 ----
樹齢数百年の巨木は、神社や寺にいけば珍しくない。
本来、人間と自然は一体である。人間の吐くに二酸化炭素を木々は必要とし、木々の作る酸素がなくては人間は立ち行かない。木々に酸素を作らせるのは太陽のエネルギーであるから、昔の人が太陽、言い換えれば天照大神の恵みに感謝をしたのは、なんら不思議はないのである。太陽の光によって草が生え、草をたべる草食動物が生きる事ができる。草食動物が生きれるから、それを食べる肉食動物が生存を許され、その全ての過程をもって人間が生かされる。
無償の愛を知りたければ太陽を見ろと言われるが、まさにその通りだろう。お金を一切受け取ることなく、何よりも優れた恩恵をもたらし、文句ひとつ言わないのだから。太陽を人口で作るとなったら、天文学的数字の費用をかけても無理だ。どんなに苦しい状況であっても、すでに貴方は恵まれている。当たり前に感謝せよとは、これを言うのである。
人間が病気になる時は、血が酸化して黒ずんでいるという話を知っているだろうか?人間の不調は、血の色にでるのである。人間は血なのだ。そして、これを逆に見て考えて欲しい。血が黒ずむと病気になるのだから、黒ずんだ血を中和して元の赤色にもどせば調子も良くなるとも考えられないか?何せ原因を取り除いている。
では、どうしたら血を中和できるだろうか?結論を言うと、植物がとても有効な手段となる。病院に行かなくては病気は治らないと考えやすい現代に生きてると気づきづらいのだが、血の中和に植物は大きな役割を果たす。植物の近くにいるだけで、植物が出しているマイナスイオンによって血は中和されるものなのだ。だから、体の調子が悪いとか、鬱病などで気持ちがどんよりする時は、とりあえず森に行けと言われる。
特に樹齢数百年の巨木の近くが良く、巨木は長生きするだけあって生命力が強い。猫などを見ても分かるが、母猫が子猫を捨ててしまう事があろう。人間だったら、お前の子だろと言われるだろうが、猫の場合は母猫が特に冷たいのではない。この子は体が弱いから生き残れないと思ったら、平然とすてて次の子を作るのが自然界なのだ。生存力の弱い子を助けようにも、母猫には病院に連れて行く等の助ける手段がない。どうせ死ぬ子なら、次の子のために早い方が良いとDNAに刻まれているのだろう。
猫の例を見ても分かる通り、自然界は生命力のない生物が生き残れるように作られていない。長生きしてるならば、それだけ生命力が強い。そのエネルギーを体に取り込むのである。1時間から2時間くらい巨木の近くに座っていれば、それだけで血が中和され人間は上向く。酸素と二酸化炭素の例を見ても、人間と植物は互いに補う合う関係にあるが、体の健康状態をみても植物は人間を補ってくれている。我々人間が生きるために植物を大事にするように、植物も我々人間を補助しなければ生きづらい。だから、自然と共存関係ができあがったのでは無いだろうか?
自分は大祓祝詞を奏上する時、天地自然にお願いするようなイメージを持っていると説明してきたが、理由は人間が自然に生かされている側面を考えれば当然のように思うからだ。この事を肌で感じていたからこそ、1000年前の先祖は自然を八百万の神として讃えた気がする。当時の人に理由は分からなかっただろう。だが、科学が発達し色々解明された今だからこそ感じる合理性もあるのである。
---- 以下、余談 ----
樹齢数百年の巨木は、神社や寺にいけば珍しくない。
大祓祝詞(中臣祓詞) その2
4、安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 國つ罪 許許太久の罪出でむ
平和で豊かな国にしようと頑張っては見たものの、人間がありとあらゆる罪を犯すのであった。
【解説】
皇御孫命は親神に仰せつかった通り、日本を平和で豊かな国にしようと頑張ったのだが、人間がありとあらゆる罪を犯すので困り果ててしまったと言っている。天の益人とは人間の事で、「天つ罪 國つ罪 許許太久の罪」とは考え付く限りの罪事と言う意味となる。考えてもみて欲しい。今の日本でも、悪い事をする人間は後を絶たないだろう?日夜、警察官が頑張ってはいるが、犯罪はゼロにはならない。そういうイメージだ。
自分が奏上する時は、罪事を心の悩みや苦しみだとしている。日本は豊かな国なれど、人々の心から悩みや苦しみがなくなる気配がない。自然の神々よ、どうかこの悩み苦しみを取り去ってもらえないだろうか?というイメージで奏上している。今、自分を囲む自然にお願いするのだ。
5、此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に置き足らはして 天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞を宣れ
そうして人間が罪を犯すならば、高天原で行われていた祭りをしようではないか。ひのきを上下揃えて切り柱にし、岩の岩盤に打ち立て神宮を建てるのだ。麻を上下揃えて切り、祭祀の服やしめ縄、お祓いの棒を作ろうぞ。そして、大祓祝詞を奏上するのである。
【解説】
この部位は伊勢神宮を言ってると思えばわかりやすい。天つ宮事は伊勢の祭りであり、金木は堅い木の事だが要はひのきだ。千倉の置座はスサノオの置座が筋だが、岩盤の地層だと考えて見て欲しい。伊勢神宮が建てられている場所は、下が岩盤の地層なんだそうだ。菅麻は麻の事で、神主の服は麻製だし、しめ縄も麻である。麻を加工する事を「八針に取り辟きて」と言っている。太祝詞とは、つまりこの大祓祝詞の事だ。
こう考えて見ると、人々の悩み苦しみを取り除くために、伊勢神宮にて祭祀による祭りが始まったととれる。らしいではないか。奏上するときは伊勢の祭りを想像しても良いだろうし、自分が奏上する姿をかぶせてイメージしても良いだろう。自分が大切だと思うのは、人々の悩み苦しみを自然の神々に取り去るようお願いする姿勢である。自分は太陽、樹木、岩、建物と自分を囲んでいる全てを神と見立てお願いしている。
こう考えて見ると、人々の悩み苦しみを取り除くために、伊勢神宮にて祭祀による祭りが始まったととれる。らしいではないか。奏上するときは伊勢の祭りを想像しても良いだろうし、自分が奏上する姿をかぶせてイメージしても良いだろう。自分が大切だと思うのは、人々の悩み苦しみを自然の神々に取り去るようお願いする姿勢である。自分は太陽、樹木、岩、建物と自分を囲んでいる全てを神と見立てお願いしている。
大祓祝詞(中臣祓詞)
水色が本文、以下に自分の解釈を書く。
1、高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき
高天原におられます親神様、神漏岐、神漏美の命が八百万の神達を集めた。そして話し合いをなされた結果、我らの皇御孫命様が、豊葦原瑞穂國を平和で豊かな国にしてきなさいと仰せつかった。
【解釈】
自分は神漏岐、神漏美を太陽、八百万の神は自然とイメージしている。つまり、自分が太陽の光を浴び、目に見える景色に囲まれた姿が、ここで言う話し合いだと思っている。皇御孫命は天皇陛下の事だが、イメージとしては自分の事でも、日本人全体でも良いように思う。日本民族は天照大神の子孫であるから、勿論筆頭は天皇陛下であるが、自分や日本人全体を皇御孫命として祝詞を読んでも良いだろう。
豊葦原瑞穂國は葦が生い茂る豊かな国という意味で、日本国を言っている。日本国を平和で豊かにするのは日本人の責務であるのだから、皇御孫命を自分や日本人全体と解釈するとその姿が美しいように思うのだ。世のため人のために生きると、日本人ひとりひとりが日々この祝詞で確認する様はご先祖様が望んだ姿だと思う。
2、此く依さし奉りし國中に 荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根 樹根立 草の片葉をも語止めて
平和で豊かな国にしてきなさいと言われたものの、それを好ましく思わない神達が荒ぶっていたので、場合によっては説得し、場合によっては取り除くこととなった。その結果、それまで不平不満を口にしていた岩や樹木、草や葉に至るまで言葉を話すのを止めた。
【解説】
そのまま解釈すれば、皇御孫命が日本を平和で豊かにする事を仰せつかったのを不満に思った神々が反抗したので、説得したり、場合によっては討伐してねじ伏せたという話だろう。その結果、言葉を話していた岩や樹木、草や葉までもがピタリと話す事を止めたと。
ただ、自分は荒ぶる神は台風をイメージしている。そこを祝詞を奏上する事によって、自然の怒りを沈めたと。台風が過ぎ去り、自然に穏やかさが戻った状態が、岩や樹木が言葉を話す事を止めたと状態だと思うとしっくりくる。
3、天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して
空を覆っていたぶ厚い雲がちりじりになり、皇御孫命が天より降りてきた。その地、大倭日高見國を平和で豊かな国にすると決め、まずは岩盤を基礎とし太く立派な柱の御殿を建てられ、そこに住まわれた。御殿の周りにある木々も天にまで届くかのような壮大さであった。
【解説】
最初の「天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき」は、晴れた日に空を見て欲しい。雲もあれば、光の差し込む姿も見れるはず。調度この状態を言っていると自分はイメージしている。極ありふれた日常の光景だが、空をみれば日雲の合間から光が差し込んでいる姿は、情景を思い浮かべるにピッタリではないかと思う。
「此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて」と続くが、これは自分の住んでいる場所をイメージすれば良いかと思う。見上げれば太陽があり、自分の住んでいる場所を見守るように光が降り注ぐというイメージだ。
「下つ磐根に宮柱太敷き立て」は、例えば家を建てる時、どんな家でも基礎があるだろう。その基礎の上に柱を建てるはずだ。それを言ってるだけだ。また、日本には昔から国誉めといって、天皇陛下が国を褒める風習があるが、それが調度「高天原に千木高知りて」だろう。木々に対して、何と壮大なんだと褒めてるわけだ。自分は身の回りにある木を褒めるような意識を持っている。
どんな神社であれ、どんな家であれ、岩盤の上に柱を建てるのに変わりはないし、周りに木々があるのも普通の事だ。それを御殿と例えて、日差しの日陰としましたと言ってると自分は想像している。自分の回りにあるものを賛美するという意識で、この部位を読むとしっくりくる。
2017年11月27日月曜日
孫子の兵法 用間編その7
5、上智をもって間となす
孫子曰く。「昔、殷の興るや、伊摯、夏に在り。周の興るや、呂牙、殷に在り。故にただ明主賢将のみよく上智を以って間となす者にして、必ず大功をなす。これ兵の要にして、三軍の恃みて動くところなり。」
【解説」
孫子曰く。「昔、殷の国が勢力を増してきた時(興)、伊摯は夏の国にいた(在)。周の国の勢力が増してきたとき(興)、呂牙は殷の国にいた(在)。故に聡明な君主や賢明な将のみが、伊摯や呂牙のごとき智恵(上智)をもつ者を起用でき(間)、必ず大きな成功を収めるのである。これこそ用兵の要にして、三軍が信頼(恃)して動く道標となる。」
古代中国において伊摯、呂牙はともに名宰相と呼ばれた人物である。実際は神話の域のようで出自を怪しむ声もあるようだが、孫子が言いたい事はこうだ。伊摯は夏王に命を狙われる経験から夏王の暴君ぶりを実感していたし、夏王朝の事情に詳しかった。その伊摯を重用すればこそ、夏王朝を滅ぼす事ができたと。呂牙(太公望)は殷に仕えていたが、王が無道であることに失望し去った経験がある。その呂牙を重用したから、殷を滅ぼすに至るのだと。
こういった敵国の事情に詳しい者を宰相に据えられるのが、名君や賢明な将の間となる。間と言うと、基本的には実行部隊をさす。だが、君主や将軍に間と言う字を当てはめるなら、それは敵国の事情に通じた者に実権を与える事となる。伊摯や呂牙のごとき智恵をもつ者が腕を振るえば、大きな成果があがるのは当然なのだから。これぞ兵の要であり、軍の拠り所とするべきものである。
---- 以下、余談 ----
現代でも新しい分野に進出事したい時は、ヘッドハンティングで人材を確保したり、その分野に詳しい者をアドバイザーとして雇ったりする。長らく続いていた定年退職した技術者による海外への技術流出が、日本でもようやく問題視しされ始めているが、これも孫子の兵法どおりと言える。日本はもはや技術先進国とは言えない。ものづくり日本というキャッチフレーズに酔う事なく、日本はもう先進諸国の技術を追う側にいる事を認識しなければならない。孫子のしたたかさを学ぶべきかも知れない。
孫子曰く。「昔、殷の興るや、伊摯、夏に在り。周の興るや、呂牙、殷に在り。故にただ明主賢将のみよく上智を以って間となす者にして、必ず大功をなす。これ兵の要にして、三軍の恃みて動くところなり。」
【解説」
孫子曰く。「昔、殷の国が勢力を増してきた時(興)、伊摯は夏の国にいた(在)。周の国の勢力が増してきたとき(興)、呂牙は殷の国にいた(在)。故に聡明な君主や賢明な将のみが、伊摯や呂牙のごとき智恵(上智)をもつ者を起用でき(間)、必ず大きな成功を収めるのである。これこそ用兵の要にして、三軍が信頼(恃)して動く道標となる。」
古代中国において伊摯、呂牙はともに名宰相と呼ばれた人物である。実際は神話の域のようで出自を怪しむ声もあるようだが、孫子が言いたい事はこうだ。伊摯は夏王に命を狙われる経験から夏王の暴君ぶりを実感していたし、夏王朝の事情に詳しかった。その伊摯を重用すればこそ、夏王朝を滅ぼす事ができたと。呂牙(太公望)は殷に仕えていたが、王が無道であることに失望し去った経験がある。その呂牙を重用したから、殷を滅ぼすに至るのだと。
こういった敵国の事情に詳しい者を宰相に据えられるのが、名君や賢明な将の間となる。間と言うと、基本的には実行部隊をさす。だが、君主や将軍に間と言う字を当てはめるなら、それは敵国の事情に通じた者に実権を与える事となる。伊摯や呂牙のごとき智恵をもつ者が腕を振るえば、大きな成果があがるのは当然なのだから。これぞ兵の要であり、軍の拠り所とするべきものである。
---- 以下、余談 ----
現代でも新しい分野に進出事したい時は、ヘッドハンティングで人材を確保したり、その分野に詳しい者をアドバイザーとして雇ったりする。長らく続いていた定年退職した技術者による海外への技術流出が、日本でもようやく問題視しされ始めているが、これも孫子の兵法どおりと言える。日本はもはや技術先進国とは言えない。ものづくり日本というキャッチフレーズに酔う事なく、日本はもう先進諸国の技術を追う側にいる事を認識しなければならない。孫子のしたたかさを学ぶべきかも知れない。
孫子の兵法 用間編その6
4、反間は厚くせざるべからず
孫子曰く。「およそ軍の撃たんと欲する所、城の攻めんと欲する所、人の殺さんと欲する所は、必ず先ずその守将、左右、謁者、門者、舎人の姓名を知り、吾が間をして必ずこれを索知せしむ。
必ず敵人の間の来たりて我を間する者を索め、因りてこれを利し、導きてこれを舎す。故に反間、得て用うべきなり。これに因りてこれを知る。故に郷間、内間、得て使うべきなり。これに因りてこれを知る。故に死間、誑事をなして敵に告げしむべし。これに因りてこれを知る。故に生間、期の如くならしむべし。五間の事、主必ずこれを知る。これを知るは必ず反間にあり。故に反間は厚くせざるべからざるなり。」
【解説】
孫子曰く。「およそ敵軍を攻撃する場合、城を攻める場合、敵将(人)を殺す場合は、必ず先ずはその守将、左右の側近、取り次ぎ役(謁者)、門番、従者(舎人)の姓名を知り、間者を通じ必ずその動静を把握しなければならない(索知)。
必ず敵の間者は来るのだから、その間者を探し出し(索)、厚く遇してやると良い(利)。情報を与えるふりをしながら教えを施し(導)、良き家(舎)をあてがい味方に引き入れるのだ。こうして反間が得られれば、此方の間者として用いる事ができるようになる。反間を通じ、敵国の内情も知れるだろう。
そして、反間を通じて内通者を得られ、その内通者は郷間や内間として使える。死間に偽情報(誑事)を告げさせるにしても、敵情を知ればこそ敵が信じやすい情報を作れるのだ。生間も敵国の内情を知らずには勝手が分からない。生間が国境をこえて予定の期日どおりに往来できるのは、敵の内情を知ればこそである。五種類の間者の事を君主は必ず知らねばならないが、これを知る要は必ず反間となる。反間は特に厚遇しなければならない。」
受験勉強を思い出して欲しい。大学にはいるために過去問をやらなかっただろうか?大学時代は試験前、みんなで過去問を回し合わなかっただろうか?自分はコンビニにいき一生懸命コピーしたのを覚えている。いい思い出だ。
実は孫子が言っている事も、要はテストの過去問と発想は同じである。敵を攻撃する時に敵を知らなかったら、思わぬ伏兵がいて予定が狂ったらどうなるか?テストに落ちる所の騒ぎではなく、負けて命を落とすやも知れないのだ。城を下調べもせずに攻め、城の防備が予想をはるかに超えていたらどうするか?兵を動員した費用を考えれば、攻めるのを思いとどまっても大損害である。敵将を殺そうにも、敵将の動きを把握しなければ逃げられ未遂に終わる事だろう。
過去問を知っているかどうかは、合格率に影響しやすい。テストを作る先生の好みが傾向として現れるからだ。それと同じように、何をするにも、まず敵方の傾向と対策をしっかり練った後に攻めなさいと孫子は言っている。それを具体的に言うと、「守将、左右、謁者、門者、舎人の姓名を知り索知せしむ」、つまり関係者全員の氏名をリストアップし、それぞれ趣味や性格に至るまで動向を把握しておく事という訳だ。
これは世界では当たり前に行われている話で、アメリカの日本大使館も日本で発行されている本などを要約して、日本ではどんな話題が興味を持たれているかを国務省に報告する仕事があると言われるし、孫子の国である中国は日本の学界のリストさえ網羅しどの研究者がどういう意見かさえも把握しているとか、映画で有名なイギリス諜報部は漫画では貴方のはいているパンツの色さえ知っていると紹介されたりする。本当だと確証は得られないが、遠からずでは無いだろうか?
その1、スパイの要は反間にあり
個人的には感心したのが、孫子がスパイの要は反間と考えている事だ。反間は今の言葉で言えば2重スパイであるから、2重スパイ自体は発想として難しいものでは無い。だが、2重スパイを得る事が、他の間者に派生していくというのだから聞いてみるものである。
反間は郷間や内間につながり、時には死間として利用でき、生間にとって有効な情報を提供すると孫子は言う。だから、国としてすべき事は先ずは反間を得る事となる。得られれば、他の種類の間者も自然と得て使う事ができるからだ。では、どうしたら反間を得られるだろうか?
まず最初のプロセスは、反間となる可能性のある敵のスパイを探す事となる。此方が敵の情報を調べあげ万全を期すように、敵も此方の情報を調べるために間者を送り込むだろう。それを徹底的に探すのである。今の日本で言えば、例えばジャーナリストには工作員が多いと言われている。ならば、ジャーナリストの言動や動きを公安当局なりに張り付かせればはっきりするだろう。この時、嘘を言ってくれれば分かりやすいが、嘘は言わないが大事な事を隠す人が危ないなんて言われたりする。ともかく、国をあげてやるならば、間者の判別くらいはつけられよう。
そしてスパイが見つかったならば、そのスパイを処分するのも一つの手だが、最も良いのは反間として利用する事だ。敵のスパイに良い家をあてがい、金を与え、情報を与えながら徐々に此方に引き込んでいく。兵は利によって動くの鉄則通り、利によって味方に引き入れるのである。そのスパイに気づかれている自覚があるかは時々だが、こうして反間を得られる。
反間は国に帰えれば、家族や親族、同郷の人を頼るだろう。敵の役人とも通じている。こうして郷間や内間を得るとっかかりを掴めるのである。あとはお金を融通するかの勝負となろう。そして、反間は敵方のスパイでもある事実は、敵方の信頼を意味しよう。その信頼を逆手にとれば、偽情報を信じ込ませやすく時には死間として大きな役割を果たせる。また、生間が敵国に侵入するにも、まずは敵国の状況をある程度知ったほうが良い。敵国はどういう地形で、時間はどれくらいかかるとか、スパイに対する警戒はどのようにされているとか、最低限これくらいは知らない怖くて仕事もしづらい。反間から得た敵国の情報が、生間に動きやすさを与えるのだ。生間が予定どおり往来できるならば、反間からもたらされる情報による部分が大きい。反間は生間の活動に寄与するのである。
その2、反間を特に厚遇すべし
君主は様々なスパイを使いこなさねばならないが、その中で最も大切なのは反間である。反間はスパイの要のような存在であるから、その待遇も最も厚く報いねばならないと孫子は言っている。
孫子の兵法を学んでみて思うのが、世界は反間によって動いているという事だ。いかなる国であれスパイによる情報を欲していて、そのためには反間の働きが欠かせない。国的には泳がせるという認識にもなろうが、反間とうまくやれねば国は立ちいかない。色々な国の情報が通過する反間は、情報を操作しやすいポジションであるのも事実で、反間を制する者が世界を制するのかも知れない。国が反間を用いようとする故に、反間によって国が動かされる。そう考えて見ると、新しい視点で世界を見れるような気がしないか?
孫子曰く。「およそ軍の撃たんと欲する所、城の攻めんと欲する所、人の殺さんと欲する所は、必ず先ずその守将、左右、謁者、門者、舎人の姓名を知り、吾が間をして必ずこれを索知せしむ。
必ず敵人の間の来たりて我を間する者を索め、因りてこれを利し、導きてこれを舎す。故に反間、得て用うべきなり。これに因りてこれを知る。故に郷間、内間、得て使うべきなり。これに因りてこれを知る。故に死間、誑事をなして敵に告げしむべし。これに因りてこれを知る。故に生間、期の如くならしむべし。五間の事、主必ずこれを知る。これを知るは必ず反間にあり。故に反間は厚くせざるべからざるなり。」
【解説】
孫子曰く。「およそ敵軍を攻撃する場合、城を攻める場合、敵将(人)を殺す場合は、必ず先ずはその守将、左右の側近、取り次ぎ役(謁者)、門番、従者(舎人)の姓名を知り、間者を通じ必ずその動静を把握しなければならない(索知)。
必ず敵の間者は来るのだから、その間者を探し出し(索)、厚く遇してやると良い(利)。情報を与えるふりをしながら教えを施し(導)、良き家(舎)をあてがい味方に引き入れるのだ。こうして反間が得られれば、此方の間者として用いる事ができるようになる。反間を通じ、敵国の内情も知れるだろう。
そして、反間を通じて内通者を得られ、その内通者は郷間や内間として使える。死間に偽情報(誑事)を告げさせるにしても、敵情を知ればこそ敵が信じやすい情報を作れるのだ。生間も敵国の内情を知らずには勝手が分からない。生間が国境をこえて予定の期日どおりに往来できるのは、敵の内情を知ればこそである。五種類の間者の事を君主は必ず知らねばならないが、これを知る要は必ず反間となる。反間は特に厚遇しなければならない。」
受験勉強を思い出して欲しい。大学にはいるために過去問をやらなかっただろうか?大学時代は試験前、みんなで過去問を回し合わなかっただろうか?自分はコンビニにいき一生懸命コピーしたのを覚えている。いい思い出だ。
実は孫子が言っている事も、要はテストの過去問と発想は同じである。敵を攻撃する時に敵を知らなかったら、思わぬ伏兵がいて予定が狂ったらどうなるか?テストに落ちる所の騒ぎではなく、負けて命を落とすやも知れないのだ。城を下調べもせずに攻め、城の防備が予想をはるかに超えていたらどうするか?兵を動員した費用を考えれば、攻めるのを思いとどまっても大損害である。敵将を殺そうにも、敵将の動きを把握しなければ逃げられ未遂に終わる事だろう。
過去問を知っているかどうかは、合格率に影響しやすい。テストを作る先生の好みが傾向として現れるからだ。それと同じように、何をするにも、まず敵方の傾向と対策をしっかり練った後に攻めなさいと孫子は言っている。それを具体的に言うと、「守将、左右、謁者、門者、舎人の姓名を知り索知せしむ」、つまり関係者全員の氏名をリストアップし、それぞれ趣味や性格に至るまで動向を把握しておく事という訳だ。
これは世界では当たり前に行われている話で、アメリカの日本大使館も日本で発行されている本などを要約して、日本ではどんな話題が興味を持たれているかを国務省に報告する仕事があると言われるし、孫子の国である中国は日本の学界のリストさえ網羅しどの研究者がどういう意見かさえも把握しているとか、映画で有名なイギリス諜報部は漫画では貴方のはいているパンツの色さえ知っていると紹介されたりする。本当だと確証は得られないが、遠からずでは無いだろうか?
その1、スパイの要は反間にあり
個人的には感心したのが、孫子がスパイの要は反間と考えている事だ。反間は今の言葉で言えば2重スパイであるから、2重スパイ自体は発想として難しいものでは無い。だが、2重スパイを得る事が、他の間者に派生していくというのだから聞いてみるものである。
反間は郷間や内間につながり、時には死間として利用でき、生間にとって有効な情報を提供すると孫子は言う。だから、国としてすべき事は先ずは反間を得る事となる。得られれば、他の種類の間者も自然と得て使う事ができるからだ。では、どうしたら反間を得られるだろうか?
まず最初のプロセスは、反間となる可能性のある敵のスパイを探す事となる。此方が敵の情報を調べあげ万全を期すように、敵も此方の情報を調べるために間者を送り込むだろう。それを徹底的に探すのである。今の日本で言えば、例えばジャーナリストには工作員が多いと言われている。ならば、ジャーナリストの言動や動きを公安当局なりに張り付かせればはっきりするだろう。この時、嘘を言ってくれれば分かりやすいが、嘘は言わないが大事な事を隠す人が危ないなんて言われたりする。ともかく、国をあげてやるならば、間者の判別くらいはつけられよう。
そしてスパイが見つかったならば、そのスパイを処分するのも一つの手だが、最も良いのは反間として利用する事だ。敵のスパイに良い家をあてがい、金を与え、情報を与えながら徐々に此方に引き込んでいく。兵は利によって動くの鉄則通り、利によって味方に引き入れるのである。そのスパイに気づかれている自覚があるかは時々だが、こうして反間を得られる。
反間は国に帰えれば、家族や親族、同郷の人を頼るだろう。敵の役人とも通じている。こうして郷間や内間を得るとっかかりを掴めるのである。あとはお金を融通するかの勝負となろう。そして、反間は敵方のスパイでもある事実は、敵方の信頼を意味しよう。その信頼を逆手にとれば、偽情報を信じ込ませやすく時には死間として大きな役割を果たせる。また、生間が敵国に侵入するにも、まずは敵国の状況をある程度知ったほうが良い。敵国はどういう地形で、時間はどれくらいかかるとか、スパイに対する警戒はどのようにされているとか、最低限これくらいは知らない怖くて仕事もしづらい。反間から得た敵国の情報が、生間に動きやすさを与えるのだ。生間が予定どおり往来できるならば、反間からもたらされる情報による部分が大きい。反間は生間の活動に寄与するのである。
その2、反間を特に厚遇すべし
君主は様々なスパイを使いこなさねばならないが、その中で最も大切なのは反間である。反間はスパイの要のような存在であるから、その待遇も最も厚く報いねばならないと孫子は言っている。
孫子の兵法を学んでみて思うのが、世界は反間によって動いているという事だ。いかなる国であれスパイによる情報を欲していて、そのためには反間の働きが欠かせない。国的には泳がせるという認識にもなろうが、反間とうまくやれねば国は立ちいかない。色々な国の情報が通過する反間は、情報を操作しやすいポジションであるのも事実で、反間を制する者が世界を制するのかも知れない。国が反間を用いようとする故に、反間によって国が動かされる。そう考えて見ると、新しい視点で世界を見れるような気がしないか?
2017年11月25日土曜日
孫子の兵法 用間編その5
間者との付き合いは人間性が物を言うとしても、間者が裏切っていないかは冷徹に見なければならない。もし偽情報を信じこめば、敵の術中にはまり国が亡ぶ可能性もある。言わば国の命運を背負うのだから、間者との信頼関係だけに頼るのではなく、情報の真偽を確かめるために徹底して裏を取る。間者は愛し子なれど、子供の言う事は子供の言う事と達観した見方も必要なのである。
そして、そこで大切となるのは、人情の機微であると孫子は言う。
その5、人情の機微
間者には親身に接するのだから考えたくは無いが、間者が裏切る事も想定しなければ管理者失格である。国は一度亡べば、それでおしまいである。この現実は重い。では、どうしたら間者の情報の真偽を計れるだろうか?これを考えて見たい。
明らかに虚偽と分かる情報が上がって来れば苦労は無いのだが、間者も情報のプロである。例え裏切っていても、裏切っていない体裁は整えるし、一目には偽物とわからないように細工もする。そこを看破して偽情報だと判断するのだから大変な作業となる。真偽を見抜くポイントは、間者自身の微妙な変化となろう。
間者がいくら装っても、嘘をついている以上、何処かに通常と違う変化が現れる。その微かな変化に気づき、いつもと違う違和感を敏感に感じ取れると良い。違和感を感じ取れれば、情報自体を嘘を意識しながら見れるため、情報の真偽をより疑ってかかれるのである。そうすると自然と嘘の判別もしやすい。だからこそ、孫子は「微妙にあらざれば間の実を得ること能わず」と説くのである。間者に現れる微妙な変化を逃さない事が、間者の虚実を暴くきっかけになるのだ。
この意味でも、愛し子のように接し間者の事を良く知る事が大切と言え、聖智という資質が活きるのである。これはまさに微すかな変化を見逃さない巧みの業となり、文字通り微妙と言えよう。孫子はこれを「微なるかな微なるかな」と賛美しているのだ。間者はプロだから嘘をついても微すかな変化しか出ないと、思い出しながら頷く孫子の姿が浮かぶようだ。
かくも手間がかかり扱いの難しい間者だが、情報を必要としない軍務は無いのだ。間者はどの種の軍務も見ても必ず必要となる。心してかかるようにと孫子は言っているが、間者も大人数を扱うようになれば、残念ながら裏切る間者も出てくる。現実には最初から裏切るつもり間者として雇われる工作員だっているのだ。では、実際に患者の裏切りが判明した場合はどうしたら良いだろうか?勿論、裏切者には死をと孫子は言っているが、兵法として考えた場合、管理者には感情以上の水準が求められる。
その6、口封じの準備
間者を扱う者は秘密は必ず何時かは漏れると言う意識が必要だ。「どんな秘密であれ、全ての人間に隠せる秘密はない」と言う言葉を知っているだろうか?どんなに上手く隠しても、絶対に気づく者はでてくる。昨今のパナマ文書しかり、パラダイス文書しかり、この世の全ての人間に騙し通せる秘密は存在しない事を知る事が肝要である。
そのため、間者の扱う者は信頼関係の構築や厚遇の他に、秘密が漏れた時の対応も予め考えて置く必要がある。そこで孫子が言っているのが、漏らした間者と間者が告げた者の双方を殺す事だ。機密が漏れたと気づいた時、まず気になるのは敵国まで伝わったかだろう。機密が漏れても、敵国まで伝わらなかったのならダメージも少ない。だから、機密を死守するために口を封じるのである。そして、機密を漏らした間者が死ぬ事は、他の間者へのメッセージともなる。自分が機密に触れている事を思い出させ、だからこそ厚遇されている事を確認させるのである。
なお、情報が漏れたと分かれば、TVドラマの定番になっているくらいだ。口封じは誰でも思いつくだろう。だから、孫子の兵法として真に伝えたいのは、漏れたらすぐ殺せる準備をしておく事に尽きる。戦争が戦う前に勝敗が決するように、情報管理も漏れる前に勝敗が決するのである。秘密が漏れる事を予め織り込めるかが、素人とプロを分かつのだ。
孫子の時代は、今のように電子メールですぐ情報が送れたり、飛行機で日帰りできる時代では無いから、敵の間者が機密を入手してから敵国に伝わるまでタイムラグが今より大分ある。そこで、速やかに口封じできれば事なきを得る事も多かったろう。今は漏れたと気づいたら、もう敵国に伝わっているのだから、情報の取り扱いは昔よりシビアになっている。
西郷隆盛の話をしよう。西郷隆盛は明治維新の最大の功労者として人気のある人物だが、彼が20代の頃は庭方役という役職についていたことも良く知られている。庭方役は名前の通りお城の庭を管理仕事だが、それは建前の話である。当時は身分制度が厳しかったため、殿様と直接話すには相応の位が必要だった。そこで庭掃除という理由をつける必要があったわけだ。庭方役とは庭掃除を理由に殿様の側に仕える間者の仮の姿だったのだ。
殿様が何か命ずる時は、命令を紙に書き、それをゴミとして庭に捨てる。それを庭方役が拾い、人目のつかない場所で見るのである。もっとも、西郷隆盛は島津公に大分きにいられたようで、膝を突き合わして話したとか、西郷と話す時は島津公も機嫌が大変良いようだったと言う逸話が残っているが。
知己を得た西郷は島津公の助けによって、色々な人と会う事になり、その見識をさらに広めていく。島津公が急死した時、西郷は殉死しようとした位だから、恩義を感じていたのも伝わってくる。この島津公と間者西郷の関係が、孫子の言う親密、厚遇の良い見本となる。
西郷は明治の英傑であるが、彼は間者だったことを踏まえると、また見え方が変わるのでは無いだろうか?西郷は150年の時を得て人気のある人物であり、彼を悪く言う人を見た事が無い。そんな彼だが僧月照と一緒に船から入水自殺をした事がある。何とか引き上げられたが、月照はすでに絶命し、西郷は息はあったが2日半も生死の境をさまよった。自殺の理由はこうだ。
当時は世上荒れていたというか、幕府は井伊大老が取り仕切るようになり、尊皇攘夷派への弾圧が強くなっていた。そこで京都の近衛家から、尊皇攘夷派の僧として有名な月照を世話して欲しいと西郷は頼まれた。だが間が悪く、鹿児島では西郷を可愛がってくれた島津斉彬が急死しており、変わって斉彬の政敵であった島津久光が政権を取っていた。島津久光は尊皇攘夷どころか幕府よりの人間である。尊皇攘夷派の月照の保護するわけもなく、月照は日向へ追放との決定がされる。
追放と言えば国から追い出される事だけを思いがちだが、日向では幕府方の役人が待っている。幕府方に身柄を拘束されれば、月照はその場で斬られるだろう。追放と言うが、要は罪人の引き渡しだったのだ。西郷は月照の命を救えなかったのである。それが申し訳なかったのだろう。日向へ向かう船の上で最後の宴をもよおし、詩を吟じた後、月照を抱きかかえて海に飛び込んだ。しかも、夜の暗い海へである。捜索は難航した。結果的には2日半生死をさまよって命をとりとめたが、その覚悟の度合いは伝わってこよう。月照の命を助けられなかった変わりに自分がお供をいたそうと、西郷は近衛家に詫びたのである。何という誠実さであろうか。
江戸城開城後、西郷は鹿児島に戻ると、頭を坊主にし犬5匹と悠々自適な生活をしていた。だが、明治政府としても最大の功労者である西郷に隠居されてはという思いがある。西郷の人気もさることながら、信賞必罰は武門のよって立つ所なのだから、最大の功労者には高い地位にいてもらわないと示しがつかないのだ。そこで、どうにか西郷を呼び戻そうとする。親友である大久保利通や岩倉具視を鹿児島までやり、再三の説得をした。これで西郷はようやく重い腰を上げる事になるのだが、上京した西郷が言う言葉が凄い。
政府の高官となった戦友が、賄賂づけの上に尊大、かと言って仕事はしていない姿をみて「悪く言えば、泥棒」と言い放つのだ。そして、征韓論で敗れたのを理由に、鹿児島へ帰ってしまうのである。西郷ほどの活躍を見せれば、地位も金も思いのままだったろう。普通の人間なら有難く頂戴するものだが、西郷と来たらまるで執着がない。最大の功労をあげて、なお全て入らぬと言いのける。この姿に人は惚れるのでは無いだろうか?無償の奉仕(愛)ほど人の心を動かすものはないのだから。
この後、親友であった大久保利通の策略から西南戦争になり、西郷は死ぬ事となる。「もう、ここらでよか」が西郷最後の言葉として残っている。西郷を下した大久保利通だったが、彼も西南戦争の翌年襲われ命を失う。襲った島田一郎は西郷の崇拝者であった。
孫子は、間者を扱う者は聖智と仁義の資質を持ち、人情の機微に長けた人間が良いと言っている。西郷が20代は庭方役をやっていたことを考えると、間者西郷は孫子の兵法の良いお手本なのかも知れない。西郷は孫子の推奨する全ての要素を兼ね備え、そして今なお悪くいう者がいない傑物である。
---- 以下、余談 ----
無償の愛が人の心を動かす理由は単純だ。金を払うと、奉仕は金の対価になるからだ。金のためにやったのだから、普通の仕事と同じになる。無償に人は心動かさる事が多い。金の性質を抑えると、役に立つ事もあるだろう。
良く金にならない事をする者は馬鹿と言う輩がいるが、本当にそうだろうか?それは倫理的な意味もあるが、こういった金の性質からも言えるのである。金は道具である。この道具はもらわないという選択をもって、一番輝く場合もある事も知らねば、金を十分に使いこなしたとは言えない。
そして、そこで大切となるのは、人情の機微であると孫子は言う。
その5、人情の機微
間者には親身に接するのだから考えたくは無いが、間者が裏切る事も想定しなければ管理者失格である。国は一度亡べば、それでおしまいである。この現実は重い。では、どうしたら間者の情報の真偽を計れるだろうか?これを考えて見たい。
明らかに虚偽と分かる情報が上がって来れば苦労は無いのだが、間者も情報のプロである。例え裏切っていても、裏切っていない体裁は整えるし、一目には偽物とわからないように細工もする。そこを看破して偽情報だと判断するのだから大変な作業となる。真偽を見抜くポイントは、間者自身の微妙な変化となろう。
間者がいくら装っても、嘘をついている以上、何処かに通常と違う変化が現れる。その微かな変化に気づき、いつもと違う違和感を敏感に感じ取れると良い。違和感を感じ取れれば、情報自体を嘘を意識しながら見れるため、情報の真偽をより疑ってかかれるのである。そうすると自然と嘘の判別もしやすい。だからこそ、孫子は「微妙にあらざれば間の実を得ること能わず」と説くのである。間者に現れる微妙な変化を逃さない事が、間者の虚実を暴くきっかけになるのだ。
この意味でも、愛し子のように接し間者の事を良く知る事が大切と言え、聖智という資質が活きるのである。これはまさに微すかな変化を見逃さない巧みの業となり、文字通り微妙と言えよう。孫子はこれを「微なるかな微なるかな」と賛美しているのだ。間者はプロだから嘘をついても微すかな変化しか出ないと、思い出しながら頷く孫子の姿が浮かぶようだ。
かくも手間がかかり扱いの難しい間者だが、情報を必要としない軍務は無いのだ。間者はどの種の軍務も見ても必ず必要となる。心してかかるようにと孫子は言っているが、間者も大人数を扱うようになれば、残念ながら裏切る間者も出てくる。現実には最初から裏切るつもり間者として雇われる工作員だっているのだ。では、実際に患者の裏切りが判明した場合はどうしたら良いだろうか?勿論、裏切者には死をと孫子は言っているが、兵法として考えた場合、管理者には感情以上の水準が求められる。
その6、口封じの準備
間者を扱う者は秘密は必ず何時かは漏れると言う意識が必要だ。「どんな秘密であれ、全ての人間に隠せる秘密はない」と言う言葉を知っているだろうか?どんなに上手く隠しても、絶対に気づく者はでてくる。昨今のパナマ文書しかり、パラダイス文書しかり、この世の全ての人間に騙し通せる秘密は存在しない事を知る事が肝要である。
そのため、間者の扱う者は信頼関係の構築や厚遇の他に、秘密が漏れた時の対応も予め考えて置く必要がある。そこで孫子が言っているのが、漏らした間者と間者が告げた者の双方を殺す事だ。機密が漏れたと気づいた時、まず気になるのは敵国まで伝わったかだろう。機密が漏れても、敵国まで伝わらなかったのならダメージも少ない。だから、機密を死守するために口を封じるのである。そして、機密を漏らした間者が死ぬ事は、他の間者へのメッセージともなる。自分が機密に触れている事を思い出させ、だからこそ厚遇されている事を確認させるのである。
なお、情報が漏れたと分かれば、TVドラマの定番になっているくらいだ。口封じは誰でも思いつくだろう。だから、孫子の兵法として真に伝えたいのは、漏れたらすぐ殺せる準備をしておく事に尽きる。戦争が戦う前に勝敗が決するように、情報管理も漏れる前に勝敗が決するのである。秘密が漏れる事を予め織り込めるかが、素人とプロを分かつのだ。
孫子の時代は、今のように電子メールですぐ情報が送れたり、飛行機で日帰りできる時代では無いから、敵の間者が機密を入手してから敵国に伝わるまでタイムラグが今より大分ある。そこで、速やかに口封じできれば事なきを得る事も多かったろう。今は漏れたと気づいたら、もう敵国に伝わっているのだから、情報の取り扱いは昔よりシビアになっている。
西郷隆盛の話をしよう。西郷隆盛は明治維新の最大の功労者として人気のある人物だが、彼が20代の頃は庭方役という役職についていたことも良く知られている。庭方役は名前の通りお城の庭を管理仕事だが、それは建前の話である。当時は身分制度が厳しかったため、殿様と直接話すには相応の位が必要だった。そこで庭掃除という理由をつける必要があったわけだ。庭方役とは庭掃除を理由に殿様の側に仕える間者の仮の姿だったのだ。
殿様が何か命ずる時は、命令を紙に書き、それをゴミとして庭に捨てる。それを庭方役が拾い、人目のつかない場所で見るのである。もっとも、西郷隆盛は島津公に大分きにいられたようで、膝を突き合わして話したとか、西郷と話す時は島津公も機嫌が大変良いようだったと言う逸話が残っているが。
知己を得た西郷は島津公の助けによって、色々な人と会う事になり、その見識をさらに広めていく。島津公が急死した時、西郷は殉死しようとした位だから、恩義を感じていたのも伝わってくる。この島津公と間者西郷の関係が、孫子の言う親密、厚遇の良い見本となる。
西郷は明治の英傑であるが、彼は間者だったことを踏まえると、また見え方が変わるのでは無いだろうか?西郷は150年の時を得て人気のある人物であり、彼を悪く言う人を見た事が無い。そんな彼だが僧月照と一緒に船から入水自殺をした事がある。何とか引き上げられたが、月照はすでに絶命し、西郷は息はあったが2日半も生死の境をさまよった。自殺の理由はこうだ。
当時は世上荒れていたというか、幕府は井伊大老が取り仕切るようになり、尊皇攘夷派への弾圧が強くなっていた。そこで京都の近衛家から、尊皇攘夷派の僧として有名な月照を世話して欲しいと西郷は頼まれた。だが間が悪く、鹿児島では西郷を可愛がってくれた島津斉彬が急死しており、変わって斉彬の政敵であった島津久光が政権を取っていた。島津久光は尊皇攘夷どころか幕府よりの人間である。尊皇攘夷派の月照の保護するわけもなく、月照は日向へ追放との決定がされる。
追放と言えば国から追い出される事だけを思いがちだが、日向では幕府方の役人が待っている。幕府方に身柄を拘束されれば、月照はその場で斬られるだろう。追放と言うが、要は罪人の引き渡しだったのだ。西郷は月照の命を救えなかったのである。それが申し訳なかったのだろう。日向へ向かう船の上で最後の宴をもよおし、詩を吟じた後、月照を抱きかかえて海に飛び込んだ。しかも、夜の暗い海へである。捜索は難航した。結果的には2日半生死をさまよって命をとりとめたが、その覚悟の度合いは伝わってこよう。月照の命を助けられなかった変わりに自分がお供をいたそうと、西郷は近衛家に詫びたのである。何という誠実さであろうか。
江戸城開城後、西郷は鹿児島に戻ると、頭を坊主にし犬5匹と悠々自適な生活をしていた。だが、明治政府としても最大の功労者である西郷に隠居されてはという思いがある。西郷の人気もさることながら、信賞必罰は武門のよって立つ所なのだから、最大の功労者には高い地位にいてもらわないと示しがつかないのだ。そこで、どうにか西郷を呼び戻そうとする。親友である大久保利通や岩倉具視を鹿児島までやり、再三の説得をした。これで西郷はようやく重い腰を上げる事になるのだが、上京した西郷が言う言葉が凄い。
政府の高官となった戦友が、賄賂づけの上に尊大、かと言って仕事はしていない姿をみて「悪く言えば、泥棒」と言い放つのだ。そして、征韓論で敗れたのを理由に、鹿児島へ帰ってしまうのである。西郷ほどの活躍を見せれば、地位も金も思いのままだったろう。普通の人間なら有難く頂戴するものだが、西郷と来たらまるで執着がない。最大の功労をあげて、なお全て入らぬと言いのける。この姿に人は惚れるのでは無いだろうか?無償の奉仕(愛)ほど人の心を動かすものはないのだから。
この後、親友であった大久保利通の策略から西南戦争になり、西郷は死ぬ事となる。「もう、ここらでよか」が西郷最後の言葉として残っている。西郷を下した大久保利通だったが、彼も西南戦争の翌年襲われ命を失う。襲った島田一郎は西郷の崇拝者であった。
孫子は、間者を扱う者は聖智と仁義の資質を持ち、人情の機微に長けた人間が良いと言っている。西郷が20代は庭方役をやっていたことを考えると、間者西郷は孫子の兵法の良いお手本なのかも知れない。西郷は孫子の推奨する全ての要素を兼ね備え、そして今なお悪くいう者がいない傑物である。
---- 以下、余談 ----
無償の愛が人の心を動かす理由は単純だ。金を払うと、奉仕は金の対価になるからだ。金のためにやったのだから、普通の仕事と同じになる。無償に人は心動かさる事が多い。金の性質を抑えると、役に立つ事もあるだろう。
良く金にならない事をする者は馬鹿と言う輩がいるが、本当にそうだろうか?それは倫理的な意味もあるが、こういった金の性質からも言えるのである。金は道具である。この道具はもらわないという選択をもって、一番輝く場合もある事も知らねば、金を十分に使いこなしたとは言えない。
孫子の兵法 用間編その4
3、事は間より密なるはなし
孫子曰く。「故に三軍の事、間より親しきはなく、賞は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし。聖智にあらざれば間を用うること能わず。仁義にあらざれば間を使うこと能わず。微妙にあらざれば間の実を得ること能わず。微なるかな微なるかな、間を用いざる所なし。間事いまだ発せずして先ず聞こゆれば、間と告ぐる所の者とは、皆死す。」
【解説】
(間者を駆使するのが君主の業だから)
孫子曰く。「故に三軍あれども事に職においては、間者より親密性のある職はなく、間者より厚遇(賞厚)される職は無く、間者より機密性(事密)を求められる職は無い。そして、徳が高く(聖)正邪を判別する智恵がない者に間者を用いる事はできない。思いやりに溢れ(仁)義理を重んじる者でなければ間者を使う事は出来ない。人情の機微(微妙)に長けた者でなければ間者の心の底の正邪(実)を計れない。何と細やかな心遣いだろう(微なるかな)。しかし、間者を用いない所はないのだ。
間者からの情報(間事)が公表(発)される前に漏れ伝わって来たならば(先聞)、その間者と間者が情報を告げた者は、皆死んでもらわねばならない。」
前回までの話の流れ
と言うわけで、今回は間者の運用面の注意となる。間者が戦の勝敗を決め、使いこなすのが腕の見せ所なのだから、では実際にどういった点に注意するのかと言う話に進んでいる。
その1、間者の地位
間者はその仕事柄、素性がばれては問題があるため、自然とごく限られた人とのみ情報交換するようになる。そのため、自然と君主や将軍など地位の高い者の側で、直に命令を受けながら仕事をする事が多くなるし、作戦立案の場に同席する事もある。直接話を聞きたくなるからだ。兵は皆我が子のごとき存在なれど、君主や将軍と直に接するのは間者のみ。よって、「間より親しきはなし」と言う。間者はその親密性において、最も高い仕事なのである。
また、間者は待遇面でも厚遇されねばならない。彼らは見つかれば拷問されるハイリスクの仕事となるため、待遇面を良くしなければ成り手がいない。そして、待遇に不満を持たれると、敵の2重スパイとして働きかねず、その辺を担保するためにも厚遇は必須である。仕事への感謝を厚待遇で示す必要があるのだ。戦争は戦争する前に勝敗が決すると孫子は度々ふれているが、その主役となって働くのは間者である。間者の働き如何で勝敗のほとんどは決まるのだから、間者が気持ちよく働けるよう苦心するのは当然である。
その2、間者の機密性
言わずもがな間者には機密性がある。間者は素性がばれては情報がとれなくなるばかりでなく、拷問から死ぬ可能性も高くなるし、命欲しさに国家機密を漏らされては目も当てられない。刑事物のTVや映画を見れば、口封じという言葉はお馴染みだと思うが、間者はどうしても口封じと縁の深い仕事となる。
口封じという発想自体は珍しくないため異論は無いと思う。そこで、次は間者の管理者側に立った場合、どういう点に注意するべきか考えて見よう。間者は親密性があり、厚遇しなければならず、機密性が高いという性質がある。では、このような間者はどう管理するべきだろうか?
その3、結局は人間性
間者が間者である事を知る者は限られるため、結局は人間性が物を言うようだ。単純に考えて欲しい。嫌な奴の下で、見つかれば拷問もある仕事をできるだろうか?勘弁してほしいというのが人情だろう。そして、嫌な奴の下で働くのは鬱憤がたまるものだ。長い間には爆発して、信頼できるスパイがいつの間にか2重スパイとなり、敵方のために働くようになるやも知れないのだ。
よく金を払えばと思う人がいるのだが、人間は金には慣れてしまう。特に生活に困らなくなってからが大変で、生活できる金はあるのに、どうして嫌な奴の下でと考えるようになる。やはり人間性に鍵があるのである。この人のために死んでやるとか、この人だけは裏切れないと言わせる人間性を身に着ける事が王道となる。
そこで孫子があげている条件の一つ目が聖智である。聖には徳が高いという意味があり、要は人気者という事となる。やはり間者という命の危険もあり、機密性の高い仕事を管理するには嫌な奴では出来ないと孫子も考えていたようだ。仕事をしないだけならまだしも、2重スパイとなる可能性にも目を向ければ当然だと思う。人気者になる秘訣は、具体的には利他の精神では無いだろうか?
そして、次は智だ。智には正しい行いをするという意味あり、つまり正邪の区別をしっかり付けられる人物が良いと孫子は言っている。恐らく普通すぎるくらい普通の人という事では無いだろうか?優れた管理者と言うと特別な能力が必要と考えがちだが、実は普通が何かを知っているという能力が最も大切である。自分が普通だからこそ、相手のどこが優れていて、どこに弱点があるのか分かるのである。正邪の区別を付けれぬ者には、相手の長所短所が分からない。間者を管理する側としては致命的だろう。普通の何たるかを知る事は優れた能力なのである。
さて、2つ目の条件の説明に入ろう。孫子があげている2つ目の条件は仁義である。まず仁だが、仁は思いやりと言う意味となる。間者と言っても人間であるから、気遣いが必要な事は言うまでもない。悩みがあれば相談にのってあげ、ストレスがたまっているようなら長めの休暇を与えてあげるとか、体が不調なら良い病院を手配し、家族の事で悩んでいるなら家族の問題をも解決してあげる。間者に対してどれだけ親身になって接するかが大切だと孫子は言う。間者を愛し子と思えばこそ、一緒に死地に赴いてくれるのである。
次は義だが、義は義理と義務の意味である。義理は人の歩むべき道を言うが、やはり人の道を踏み外さない事は大切だ。何せ間者は命のリスクを背負うのだから。例えば、弱い者いじめをする者のために死のうと思う人間がいるだろうか?これを考えて見ると良い。人は弱い者いじめから救ってくれた人のために死のうと思うのであって、弱い者いじめをする者のためには死にはしない。何故なら、それが人の道だからである。これを義理と言う。
義務は約束を守る事と理解すれば分かりやすい。あまりにも当然だが、約束を守らない人間に雇われるわけにはいかない。報酬を支払ってくれるかすら分からないのだから。管理者に当然求められる資質となる。孫子は管理者に求められる資質に聖智と仁義をあげているが、当然と言えよう。聖智なき者、仁義なき者に人はついて行かないのである。間者を管理するのだから、特別なスキルが必要と思いがちだが、人間と人間の付き合いには変わりない。求められる資質も、世間一般で求められる資質と同じなのだ。
(次回に続く)
孫子曰く。「故に三軍の事、間より親しきはなく、賞は間より厚きはなく、事は間より密なるはなし。聖智にあらざれば間を用うること能わず。仁義にあらざれば間を使うこと能わず。微妙にあらざれば間の実を得ること能わず。微なるかな微なるかな、間を用いざる所なし。間事いまだ発せずして先ず聞こゆれば、間と告ぐる所の者とは、皆死す。」
【解説】
(間者を駆使するのが君主の業だから)
孫子曰く。「故に三軍あれども事に職においては、間者より親密性のある職はなく、間者より厚遇(賞厚)される職は無く、間者より機密性(事密)を求められる職は無い。そして、徳が高く(聖)正邪を判別する智恵がない者に間者を用いる事はできない。思いやりに溢れ(仁)義理を重んじる者でなければ間者を使う事は出来ない。人情の機微(微妙)に長けた者でなければ間者の心の底の正邪(実)を計れない。何と細やかな心遣いだろう(微なるかな)。しかし、間者を用いない所はないのだ。
間者からの情報(間事)が公表(発)される前に漏れ伝わって来たならば(先聞)、その間者と間者が情報を告げた者は、皆死んでもらわねばならない。」
前回までの話の流れ
- 常勝の秘訣は間者の活用にある。
- 間者は5種類あり、使いこなすのが君主の業
と言うわけで、今回は間者の運用面の注意となる。間者が戦の勝敗を決め、使いこなすのが腕の見せ所なのだから、では実際にどういった点に注意するのかと言う話に進んでいる。
その1、間者の地位
間者はその仕事柄、素性がばれては問題があるため、自然とごく限られた人とのみ情報交換するようになる。そのため、自然と君主や将軍など地位の高い者の側で、直に命令を受けながら仕事をする事が多くなるし、作戦立案の場に同席する事もある。直接話を聞きたくなるからだ。兵は皆我が子のごとき存在なれど、君主や将軍と直に接するのは間者のみ。よって、「間より親しきはなし」と言う。間者はその親密性において、最も高い仕事なのである。
また、間者は待遇面でも厚遇されねばならない。彼らは見つかれば拷問されるハイリスクの仕事となるため、待遇面を良くしなければ成り手がいない。そして、待遇に不満を持たれると、敵の2重スパイとして働きかねず、その辺を担保するためにも厚遇は必須である。仕事への感謝を厚待遇で示す必要があるのだ。戦争は戦争する前に勝敗が決すると孫子は度々ふれているが、その主役となって働くのは間者である。間者の働き如何で勝敗のほとんどは決まるのだから、間者が気持ちよく働けるよう苦心するのは当然である。
その2、間者の機密性
言わずもがな間者には機密性がある。間者は素性がばれては情報がとれなくなるばかりでなく、拷問から死ぬ可能性も高くなるし、命欲しさに国家機密を漏らされては目も当てられない。刑事物のTVや映画を見れば、口封じという言葉はお馴染みだと思うが、間者はどうしても口封じと縁の深い仕事となる。
口封じという発想自体は珍しくないため異論は無いと思う。そこで、次は間者の管理者側に立った場合、どういう点に注意するべきか考えて見よう。間者は親密性があり、厚遇しなければならず、機密性が高いという性質がある。では、このような間者はどう管理するべきだろうか?
その3、結局は人間性
間者が間者である事を知る者は限られるため、結局は人間性が物を言うようだ。単純に考えて欲しい。嫌な奴の下で、見つかれば拷問もある仕事をできるだろうか?勘弁してほしいというのが人情だろう。そして、嫌な奴の下で働くのは鬱憤がたまるものだ。長い間には爆発して、信頼できるスパイがいつの間にか2重スパイとなり、敵方のために働くようになるやも知れないのだ。
よく金を払えばと思う人がいるのだが、人間は金には慣れてしまう。特に生活に困らなくなってからが大変で、生活できる金はあるのに、どうして嫌な奴の下でと考えるようになる。やはり人間性に鍵があるのである。この人のために死んでやるとか、この人だけは裏切れないと言わせる人間性を身に着ける事が王道となる。
そこで孫子があげている条件の一つ目が聖智である。聖には徳が高いという意味があり、要は人気者という事となる。やはり間者という命の危険もあり、機密性の高い仕事を管理するには嫌な奴では出来ないと孫子も考えていたようだ。仕事をしないだけならまだしも、2重スパイとなる可能性にも目を向ければ当然だと思う。人気者になる秘訣は、具体的には利他の精神では無いだろうか?
そして、次は智だ。智には正しい行いをするという意味あり、つまり正邪の区別をしっかり付けられる人物が良いと孫子は言っている。恐らく普通すぎるくらい普通の人という事では無いだろうか?優れた管理者と言うと特別な能力が必要と考えがちだが、実は普通が何かを知っているという能力が最も大切である。自分が普通だからこそ、相手のどこが優れていて、どこに弱点があるのか分かるのである。正邪の区別を付けれぬ者には、相手の長所短所が分からない。間者を管理する側としては致命的だろう。普通の何たるかを知る事は優れた能力なのである。
さて、2つ目の条件の説明に入ろう。孫子があげている2つ目の条件は仁義である。まず仁だが、仁は思いやりと言う意味となる。間者と言っても人間であるから、気遣いが必要な事は言うまでもない。悩みがあれば相談にのってあげ、ストレスがたまっているようなら長めの休暇を与えてあげるとか、体が不調なら良い病院を手配し、家族の事で悩んでいるなら家族の問題をも解決してあげる。間者に対してどれだけ親身になって接するかが大切だと孫子は言う。間者を愛し子と思えばこそ、一緒に死地に赴いてくれるのである。
次は義だが、義は義理と義務の意味である。義理は人の歩むべき道を言うが、やはり人の道を踏み外さない事は大切だ。何せ間者は命のリスクを背負うのだから。例えば、弱い者いじめをする者のために死のうと思う人間がいるだろうか?これを考えて見ると良い。人は弱い者いじめから救ってくれた人のために死のうと思うのであって、弱い者いじめをする者のためには死にはしない。何故なら、それが人の道だからである。これを義理と言う。
義務は約束を守る事と理解すれば分かりやすい。あまりにも当然だが、約束を守らない人間に雇われるわけにはいかない。報酬を支払ってくれるかすら分からないのだから。管理者に当然求められる資質となる。孫子は管理者に求められる資質に聖智と仁義をあげているが、当然と言えよう。聖智なき者、仁義なき者に人はついて行かないのである。間者を管理するのだから、特別なスキルが必要と思いがちだが、人間と人間の付き合いには変わりない。求められる資質も、世間一般で求められる資質と同じなのだ。
(次回に続く)
2017年11月24日金曜日
孫子の兵法 用間編その3
(その2の続き)
その4、反間(はんかん)
反間とは、敵方が送り込んできたスパイを、反って此方のスパイとして利用してしまう事を言う。要は2重スパイである。スパイである事には気づかないふりをして利用する場合もあるし、スパイにきづいてる事を伝えて利用する場合もあるだろう。何方にせよ、優秀なスパイは2重スパイなものである。
---- 以下、余談 ----
各間者の役割は特に限定はされないと思うが、説明の便宜上つなげて書いている。
その4、反間(はんかん)
反間とは、敵方が送り込んできたスパイを、反って此方のスパイとして利用してしまう事を言う。要は2重スパイである。スパイである事には気づかないふりをして利用する場合もあるし、スパイにきづいてる事を伝えて利用する場合もあるだろう。何方にせよ、優秀なスパイは2重スパイなものである。
スパイは機密性の高い情報を得られるほど腕が良いスパイとなるが、実際どうしたら機密性の情報を得られるだろうか?情報は機密性が高くなるほど、限られた人間しかアクセスできない。その情報を得たかったら、よほどの信頼を勝ちとる必要がある。という訳で必要になってくるのが、敵国の情報である。
例えば、敵の動きをピタリと教えてくれる人がいたらどうだろうか?それも一度ではなく、2度、3度とピタリと当てる。こう言う事が続くと段々と信頼関係が作られ、この人は私達の国を助けてくれるとなるわけだ。しかし、そうそう他の国の動きをピタリと当てられるもので無い。敵だって警戒しているし、情報を制限して工作も仕掛けている。それを全て看破してピタリと当てるとしたら、恐らくは敵のスパイなのである。敵のスパイだから敵の動きを知っている。こう考えたほうが単純明快なのである。
そのため、良い情報をくれるスパイは2重スパイの疑いがでるものなのである。こう考えて見ると、反間を通して国同士がキツネと狸の化かし合いをしているのが国際関係となるかも知れない。と、ここまで郷間、内間、死間、反間と説明してきたが、まだ肝心な部分が足りない。それは誰が本国との連絡役となるかである。どんな情報も本国に伝わらねば意味が無い。だから、本国との連絡役が担う人が必要となり、これを生間と言う。
その5、生間(せいかん)
生間とは、敵国に潜入し情報を得て、本国に生きて持ち帰るスパイを言う。一般に想像しやすいスパイの形では無いだろうか?スパイ映画などお馴染みの潜入捜査は、基本的に生間だろう。昔は俳句で有名な松尾芭蕉がスパイだったように、旅芸人であるとか、行商人などが調度この手のスパイだったと思われる。ふらっと訪れて、色々情報を得て本国に報告していたのだ。世界中にいるジャーナリストは、孫子の時代ならば生間と呼ばれていたかも知れない。
生間の各間者と本国のパイプ役としての役目は、とても大切となる。
生間の各間者と本国のパイプ役としての役目は、とても大切となる。
今回はどんな人間が優秀なスパイとなるのかという話を紹介しよう。スパイ業界のリクルートも大変なもので、スパイとして雇った人が本当に一生懸命働いてくれるかは分からないそうだ。スパイになる事を了承したは言え、自分の所属する団体に唾をはくわけだし、良心から気乗りしないのが普通の人なのである。何せ自分の宿り木となる組織が潰れたら、自分だって困るのだ。当然ながらスパイ活動を適当に胡麻かす人が多くなる。
だが、そんな中やたら一生懸命にスパイ活動に勤しむ人種がいるのだ。それは所謂エリート層に多いと言われる。自分は優秀なのに活躍の場が与えられないとか、待遇に不満があるとか思っている時に、例えば敵国のエージェントが近寄ってきて言うのである。貴方の能力でこんな待遇は可笑しいと。私の国なら貴方に存分の活躍の場を提供するので、是非とも私ども力を貸してもらえないだろうか?と。
こうして優れたスパイが出来上がるのである。こういった層のスパイは、自分に低い評価をした組織に忠誠心というものは無い。そればかりか、自分を認めてくれた敵国に喜々として情報を提供するのである。孫子の時代も、こうやって勧誘していたのかと思うと面白い。
---- 以下、余談 ----
各間者の役割は特に限定はされないと思うが、説明の便宜上つなげて書いている。
孫子の兵法 用間編その2
2、五種類の間者
孫子曰く。「故に間を用うるに五あり。郷間あり、内間あり、反間あり、死間あり、生間あり。五間倶に起こりて、その道を知ることなし。これを神紀と謂う。人君の宝なり。郷間とは、その郷人に因りてこれを用うるなり。内間とは、その官人に因りてこれを用うるなり。反間とは、その敵の間に因りてこれを用うるなり。死間とは、誑事を外になし、吾が間をしてこれを知らしめて、敵に伝うるの間なり。生間とは、反り報ずるなり。」
【解説】
(間者を通じて情報を得るとして)
孫子曰く。「故に間者の用い方となるが、これは5つある。すなわち、郷間、内間、反間、死間、生間である。この5つの間者を駆使し(起)、その形跡(道)を知られないとすれば、神業(神紀)と言うべきものであり、君主の宝とすべきことだ。
郷間は、敵の郷の人間を間者として用いる方法となる。内間は、敵の内部事情に通じた役人(官)を間者として用いる方法となる。反間は、敵から送り込まれた間者を、逆にこちらの間者として利用する方法となる。死間は、敵を欺く工作(誑事)を外にあらわにした後、その偽情報を敵方に伝える役目をになう死ぬ可能性の高い間者となる。生間は、敵国から生還して戻り(反)、敵方の情報を報告する間者となる。」
前回、孫子は常勝の将の常勝たる所以は、スパイの活用にこそあるという話をしていた。そこで、今回は具体的にどのようなスパイの用い方があるのかという、スパイの種類に話が進んでいる。孫子が言うには、スパイと一言に言っても5種類あるのだそうだ。5種類のスパイを変化自在に使いこなし、その一切の形跡すら残さない事に理想の姿があり、君主ならば是が非でも身につけたいスキルと孫子は説く。では、それぞれ見て行こう。
その1、郷間(きょうかん)
郷と言う字の示すとおり、敵の郷(さと)の者をスパイとして用いるという意味となる。人の噂に戸は立たぬもので、例えば、誰と誰が仲が良いとか、誰と誰が喧嘩したという話はみんな好きなものである。そういう井戸端会議の情報も馬鹿にならないもので、敵国の内情のおおよその検討がついてくる。
町の人間に活気があるならば、まずは活気を落とさない事には攻めづらいし、逆に不満で溢れているならば、その不満にお金と武器を用意してあげれば革命運動を誘発できる可能性が高い。スパイとして活用される者に、スパイとしての自覚があるかどうかはその時々だが、敵国住民にスパイを作っておく事は無駄にはならない。現地工作のとっかかりとしても活用できるからだ。
日本も北朝鮮の日本工作員が2万人とも、3万人とも言われているが、彼らが郷間のいい例では無いだろうか?彼らは日本に入ってきて3世代目であるため、すでに朝鮮の言葉は話せないし、生まれも育ちも日本人であるが、常にスパイとして性質を持ち合わせている。北朝鮮を危険にさらさないよう、素性を隠しながら諜報活動しているのである。
このように郷間はとても大切な役目を担うのだが、実際に敵国の内情を知るには物足りない部分もある。所詮、普通の民間人であるから、政権中枢に近い情報は知る由もない。例えば、君主と将軍の仲が悪いと町の噂になっていても、それが本当かどうかという問題がある。噂話ほどあてにならないものも無いわけで、入院したという話が危篤で死にそうまで発展するのが井戸端会議である。そこで必要となってくるのが、内間である。
2、内間(ないかん)
内間とは、敵内部の事情に詳しい役人をスパイに仕立てる事を言い、例えば高級官僚などは典型的な内間となる。敵国の事情に最も詳しいのは、実務を行っている役人である。役人も、地方の役人から高級官僚までレベルがあるわけだが、彼らをスパイにできれば敵国がどう動くのかも分かる。何せ、彼らが実際に国を動かしているのだ。
高級官僚ともなれば君主の近くで実務をこなしている。当然、将軍と君主の仲も分かる。郷間から仕入れた町の噂の真偽が、内間を使うことで確証が得られるのである。もし、噂通り仲が悪いなら、その高級官僚にお金を渡して、君主と将軍の仲を割いてしまうのは歴史でも良く見られる工作である。
例えば、秦の始皇帝を見て見よう。彼はこの手の工作に長けていたようで、秦を散々苦しめた趙の李牧という名将を戦場では無く、謀略によって葬っている。その頃、趙王には郭開という大変可愛がっている寵臣がいた。そこで秦は郭開に大量に賄賂を渡し、趙王に李牧が謀反を企てていると嘘をつかせたのだ。それを間にうけた趙王は、希代の名将である李牧を誅殺してしまう。その3か月後に秦が趙に攻め入り、趙が亡ぶのである。内間の典型的な成功例となろう。
さて、このように内間はスパイ中のスパイであり、高級官僚ともなれば最も大切なスパイともなる。情報の信頼性が高いからだ。だが、その情報の信頼性を逆手にとって、偽の情報を流したらどうなるか?これが死間となる。
その3、死間(しかん)
死間とは、その名の示す通り、死ぬ事が前提のスパイとなる。何故死ぬのかと言うと、相手に偽の情報を流す役目を担うからである。本人がそう自覚して流す場合と、自覚してないで利用される場合のどちらもあるが、敵から見たら賄賂を受け取った挙句、騙されたわけだ。死間は言わば詐欺そのものであるから、敵の恨みを買い、一生狙われる事になるだろう。
戦争は国レベルで行う行為だが、その終わりは国レベルと個人レベルに分かれる。国は終戦したけれど、俺の戦争はまだ終わっていないという感情がある者もでてくるのだ。例えば、スナイパーだ。腕の良いスナイパーは恨まれやすく、終戦後に個人的に殺される事がある。国は負けたが、俺の上官を殺したアイツだけは許さない。そうして終戦後も狙われるのである。退役した軍人を、国が四六時中守る事は無理である。だから、戦後になっても付け狙われる彼らを守りきるのは難しく、戦争に勝ったはずが当人は殺されてしまうのである。死間はスナイパーと同じ状況となろう。
死間は使い捨てになるわけだが、それでも国から見れば大切なスパイとなる。例えば、陽動作戦をする時など、どうしても敵の目をそらすために偽の情報を流す必要がでてくる。その時は情報の信頼されている人間から流すのよく、逆に信用性の薄い所から流しても敵も信用してくれない。だから、スパイ通しの付き合いの中で、敵に信頼されたスパイから敵のスパイへ偽情報を流すのである。よって恨みも買いやすく、死間は死にやすいのだ。
死間が成功すれば、偽情報とは知らずに敵のスパイが上に報告するだろう。これは見ようによっては、敵方のスパイを上手く利用したとも言える。敵方のスパイを逆用して、陽動作戦を成功させるのだから。そして、これを反間と言う。
(次回に続く)
孫子曰く。「故に間を用うるに五あり。郷間あり、内間あり、反間あり、死間あり、生間あり。五間倶に起こりて、その道を知ることなし。これを神紀と謂う。人君の宝なり。郷間とは、その郷人に因りてこれを用うるなり。内間とは、その官人に因りてこれを用うるなり。反間とは、その敵の間に因りてこれを用うるなり。死間とは、誑事を外になし、吾が間をしてこれを知らしめて、敵に伝うるの間なり。生間とは、反り報ずるなり。」
【解説】
(間者を通じて情報を得るとして)
孫子曰く。「故に間者の用い方となるが、これは5つある。すなわち、郷間、内間、反間、死間、生間である。この5つの間者を駆使し(起)、その形跡(道)を知られないとすれば、神業(神紀)と言うべきものであり、君主の宝とすべきことだ。
郷間は、敵の郷の人間を間者として用いる方法となる。内間は、敵の内部事情に通じた役人(官)を間者として用いる方法となる。反間は、敵から送り込まれた間者を、逆にこちらの間者として利用する方法となる。死間は、敵を欺く工作(誑事)を外にあらわにした後、その偽情報を敵方に伝える役目をになう死ぬ可能性の高い間者となる。生間は、敵国から生還して戻り(反)、敵方の情報を報告する間者となる。」
前回、孫子は常勝の将の常勝たる所以は、スパイの活用にこそあるという話をしていた。そこで、今回は具体的にどのようなスパイの用い方があるのかという、スパイの種類に話が進んでいる。孫子が言うには、スパイと一言に言っても5種類あるのだそうだ。5種類のスパイを変化自在に使いこなし、その一切の形跡すら残さない事に理想の姿があり、君主ならば是が非でも身につけたいスキルと孫子は説く。では、それぞれ見て行こう。
その1、郷間(きょうかん)
郷と言う字の示すとおり、敵の郷(さと)の者をスパイとして用いるという意味となる。人の噂に戸は立たぬもので、例えば、誰と誰が仲が良いとか、誰と誰が喧嘩したという話はみんな好きなものである。そういう井戸端会議の情報も馬鹿にならないもので、敵国の内情のおおよその検討がついてくる。
町の人間に活気があるならば、まずは活気を落とさない事には攻めづらいし、逆に不満で溢れているならば、その不満にお金と武器を用意してあげれば革命運動を誘発できる可能性が高い。スパイとして活用される者に、スパイとしての自覚があるかどうかはその時々だが、敵国住民にスパイを作っておく事は無駄にはならない。現地工作のとっかかりとしても活用できるからだ。
日本も北朝鮮の日本工作員が2万人とも、3万人とも言われているが、彼らが郷間のいい例では無いだろうか?彼らは日本に入ってきて3世代目であるため、すでに朝鮮の言葉は話せないし、生まれも育ちも日本人であるが、常にスパイとして性質を持ち合わせている。北朝鮮を危険にさらさないよう、素性を隠しながら諜報活動しているのである。
このように郷間はとても大切な役目を担うのだが、実際に敵国の内情を知るには物足りない部分もある。所詮、普通の民間人であるから、政権中枢に近い情報は知る由もない。例えば、君主と将軍の仲が悪いと町の噂になっていても、それが本当かどうかという問題がある。噂話ほどあてにならないものも無いわけで、入院したという話が危篤で死にそうまで発展するのが井戸端会議である。そこで必要となってくるのが、内間である。
2、内間(ないかん)
内間とは、敵内部の事情に詳しい役人をスパイに仕立てる事を言い、例えば高級官僚などは典型的な内間となる。敵国の事情に最も詳しいのは、実務を行っている役人である。役人も、地方の役人から高級官僚までレベルがあるわけだが、彼らをスパイにできれば敵国がどう動くのかも分かる。何せ、彼らが実際に国を動かしているのだ。
高級官僚ともなれば君主の近くで実務をこなしている。当然、将軍と君主の仲も分かる。郷間から仕入れた町の噂の真偽が、内間を使うことで確証が得られるのである。もし、噂通り仲が悪いなら、その高級官僚にお金を渡して、君主と将軍の仲を割いてしまうのは歴史でも良く見られる工作である。
例えば、秦の始皇帝を見て見よう。彼はこの手の工作に長けていたようで、秦を散々苦しめた趙の李牧という名将を戦場では無く、謀略によって葬っている。その頃、趙王には郭開という大変可愛がっている寵臣がいた。そこで秦は郭開に大量に賄賂を渡し、趙王に李牧が謀反を企てていると嘘をつかせたのだ。それを間にうけた趙王は、希代の名将である李牧を誅殺してしまう。その3か月後に秦が趙に攻め入り、趙が亡ぶのである。内間の典型的な成功例となろう。
さて、このように内間はスパイ中のスパイであり、高級官僚ともなれば最も大切なスパイともなる。情報の信頼性が高いからだ。だが、その情報の信頼性を逆手にとって、偽の情報を流したらどうなるか?これが死間となる。
その3、死間(しかん)
死間とは、その名の示す通り、死ぬ事が前提のスパイとなる。何故死ぬのかと言うと、相手に偽の情報を流す役目を担うからである。本人がそう自覚して流す場合と、自覚してないで利用される場合のどちらもあるが、敵から見たら賄賂を受け取った挙句、騙されたわけだ。死間は言わば詐欺そのものであるから、敵の恨みを買い、一生狙われる事になるだろう。
戦争は国レベルで行う行為だが、その終わりは国レベルと個人レベルに分かれる。国は終戦したけれど、俺の戦争はまだ終わっていないという感情がある者もでてくるのだ。例えば、スナイパーだ。腕の良いスナイパーは恨まれやすく、終戦後に個人的に殺される事がある。国は負けたが、俺の上官を殺したアイツだけは許さない。そうして終戦後も狙われるのである。退役した軍人を、国が四六時中守る事は無理である。だから、戦後になっても付け狙われる彼らを守りきるのは難しく、戦争に勝ったはずが当人は殺されてしまうのである。死間はスナイパーと同じ状況となろう。
死間は使い捨てになるわけだが、それでも国から見れば大切なスパイとなる。例えば、陽動作戦をする時など、どうしても敵の目をそらすために偽の情報を流す必要がでてくる。その時は情報の信頼されている人間から流すのよく、逆に信用性の薄い所から流しても敵も信用してくれない。だから、スパイ通しの付き合いの中で、敵に信頼されたスパイから敵のスパイへ偽情報を流すのである。よって恨みも買いやすく、死間は死にやすいのだ。
死間が成功すれば、偽情報とは知らずに敵のスパイが上に報告するだろう。これは見ようによっては、敵方のスパイを上手く利用したとも言える。敵方のスパイを逆用して、陽動作戦を成功させるのだから。そして、これを反間と言う。
(次回に続く)
2017年11月23日木曜日
孫子の兵法 用間編
1、敵の情を知らざる者は不仁の至りなり
孫子曰く。「およそ師を興すこと十万、出征すること千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費し、内外騒動し、道路に怠り、事を操り得ざる者七十万家。相守ること数年、以って一日の勝を争う。而るに爵禄百金を愛みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり。人の将にあらざるなり。主の佐にあらざるなり。勝の主にあらざるなり。
故に明君賢将の動きて人に勝ち、成功、衆に出ずる所以のものは、先知なり。先知は、鬼神に取るべからず。事に象るべからず、度に験すべからず。必ず人に取りて敵の情を知る者なり。」
【解説】
孫子曰く。「およそ10万もの軍(師)を率いて(興)、千里のかなたまで出征するならば、百姓の出費や、公家の負担(奉)は一日千金を費やすほどになる。国内外が騒動となり、駆り出された人民は往来に疲れ道路にへたり込み(怠)、本業(事)に専念(操)できない者は70万家にのぼる。
戦争とは互(相)いに数年守りあい、勝敗が決する一日を争うものである。にもかかわらず(而)爵位と俸禄の百金を惜しみ、敵の内情を知ろうとしない者は、思いやりに欠けていると言わざる得ない(不仁)。およそ人の将たる器ではなく、君主の助(佐)けにならず、勝利も得られまい。
聡明な君主や賢明な将軍が動けば人に勝ち、はなばなしい(衆出)成功を収めるのは、敵の内情を先に知るからである。先に知ると言っても、鬼神のお告げ、占い(象事)、天体の動き(験度)から知るわけではない。必ず人を通じて敵の内情を知るのだ。」
結論を一言で言えば、スパイは大切という話だ。何故、スパイを使わねばならないのかを、懇切丁寧に孫子が説いている。孫子が言うには、戦争は大変金がかかるものだそうだ。10万もの民衆を集め、千里の彼方まで遠征すれば、一日千金と言う大量の金を消耗する。農民が兵に駆り出されれば、誰が田畑を耕すのだろう?歳入は減るに、歳出は膨大なのである。
そして兵が千里先へ遠征すれば、食料も千里先へ輸送する事になる。この負担も民衆に大きく降りかかる。長く伸びた補給路を警護するために民衆は駆り出され、道を何度も往来する内に疲労感に苛まれる。兵として戦わない者達までも地べたに座って休むようになり、70万もの家が本業に専念出来なくなるのだ。戦争とはかくも負担を強いるものなのだ。
戦争は押したり引いたり数年の膠着状態が続くものだが、最後に勝敗が決するのはたった一日だ。言わばその一日のために、様々な準備をするのが戦争なのである。にもかかわらず爵位や金を出し惜しみ、敵の内情を探ろうとしないなら、勝つための準備をしたと言えるだろうか?いや、してないと孫子は言うのである。
負ければ全てを失う兵や民衆に対して、思いやりがないと言わざる得ない。およそ人の上に立つ器では無いし、君主の補佐たる将軍の役は担えない。敵の内情も知らずに戦い、兵を無暗に殺す者が勝てるわけがないからである。聡明な君主や、賢明な将は戦えば常に勝ち、華々しい成功を収めるが、それは情報戦で先んじるだ。他の者が神頼み、占い、天体の動きに頼る中、彼らだけはスパイからの情報収集を徹底していると孫子は言っている。
仕事で考えて見よう。仕事でも情報は大切だ。特に情報の鮮度が大切で、活きの良い情報をどれだけ手に入れられるかが勝負の分かれ目かも知れない。だから、情報の価値を知っている経営者ほど、良い情報があったら先ず俺のところに持ってきてくれと言うものだ。何時の時代も情報に通じた者が有利に事を運ぶのであろう。
情報が大切な事には異論はないと思うが、問題はどうやったら手に入るかだ。それは、一つは買う事である。無料で良い情報は落ちていないのだから、自分で金を出して買う意識を持たねば良い情報には巡り合えない。孫子が言うように、爵禄百金を惜しんでは立ち行かないのである。今は質の高いのに無料のネット情報も多いので、大抵の事は無料でも十分な情報をえられる時代になったが、人に先んじてるならやはり有料の情報源が必要である。まずは情報は買うものと意識を変えると良いだろう。
そして、有料の情報に接するうちに、自分もその水準でものを考えられるようになっていくだろう。どれくらいが無料の水準で、どれくらいが有料の水準なのか判別がつくようになり目が肥えるはずだ。そうなったら、次の段階に進める。貴方独自の人脈を作れるのだ。
人脈づくりのポイントは、自分が情報の中継点になる意識だ。みんなに自分から良い情報を教えてあげると良い。情報を集める内に自分には使えない情報でも、知り合いには良い情報だったりする事がでてくる。あの人は興味ありそうだと思ったら、迷わず教えて上げると良い。そうしている内に、自分にも良い情報がまわってくるようになるのである。これが情報の中継点というイメージとなる。
「まずは与えよ」とは良く言ったもので、活きた情報をくれる人脈を作りたかったら、自分から発信する意識が欠かせない。貴方が周りを喜ばせるから、周りも貴方を喜ばせるために情報を教えてくれるのである。なお、腐った情報を勿体ぶって教える人がいるが、腐った情報をもらって喜ぶ人はいない。腐った情報をあげても、人脈にならない事には触れて置く。教えるなら相手にとって有益な情報を心がけて欲しい。
---- 以下、余談 ----
1、70万家について
井田の法と言って、古代中国では8家で1つの共同体をなしていたようだ。そのうち1つの家が戦争に駆り出されると、残りの7家でそのサポートをする。そうすると、他の7家も本業に支障をきたすようになる。10万の兵だと、単純に7倍の70万家という目算だろう。なお、この場合の本業は農業となろう。
2、事に象るとは?
卜筮という古代中国の占いの事を言ってると解釈している。トは亀の甲羅を焼いてできる亀裂をみる占いで、筮は筮竹と言われる竹の束を使う占いの事である。象るの意味を考えれば、これらの占いは事に象っているだろう。
孫子曰く。「およそ師を興すこと十万、出征すること千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費し、内外騒動し、道路に怠り、事を操り得ざる者七十万家。相守ること数年、以って一日の勝を争う。而るに爵禄百金を愛みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり。人の将にあらざるなり。主の佐にあらざるなり。勝の主にあらざるなり。
故に明君賢将の動きて人に勝ち、成功、衆に出ずる所以のものは、先知なり。先知は、鬼神に取るべからず。事に象るべからず、度に験すべからず。必ず人に取りて敵の情を知る者なり。」
【解説】
孫子曰く。「およそ10万もの軍(師)を率いて(興)、千里のかなたまで出征するならば、百姓の出費や、公家の負担(奉)は一日千金を費やすほどになる。国内外が騒動となり、駆り出された人民は往来に疲れ道路にへたり込み(怠)、本業(事)に専念(操)できない者は70万家にのぼる。
戦争とは互(相)いに数年守りあい、勝敗が決する一日を争うものである。にもかかわらず(而)爵位と俸禄の百金を惜しみ、敵の内情を知ろうとしない者は、思いやりに欠けていると言わざる得ない(不仁)。およそ人の将たる器ではなく、君主の助(佐)けにならず、勝利も得られまい。
聡明な君主や賢明な将軍が動けば人に勝ち、はなばなしい(衆出)成功を収めるのは、敵の内情を先に知るからである。先に知ると言っても、鬼神のお告げ、占い(象事)、天体の動き(験度)から知るわけではない。必ず人を通じて敵の内情を知るのだ。」
結論を一言で言えば、スパイは大切という話だ。何故、スパイを使わねばならないのかを、懇切丁寧に孫子が説いている。孫子が言うには、戦争は大変金がかかるものだそうだ。10万もの民衆を集め、千里の彼方まで遠征すれば、一日千金と言う大量の金を消耗する。農民が兵に駆り出されれば、誰が田畑を耕すのだろう?歳入は減るに、歳出は膨大なのである。
そして兵が千里先へ遠征すれば、食料も千里先へ輸送する事になる。この負担も民衆に大きく降りかかる。長く伸びた補給路を警護するために民衆は駆り出され、道を何度も往来する内に疲労感に苛まれる。兵として戦わない者達までも地べたに座って休むようになり、70万もの家が本業に専念出来なくなるのだ。戦争とはかくも負担を強いるものなのだ。
戦争は押したり引いたり数年の膠着状態が続くものだが、最後に勝敗が決するのはたった一日だ。言わばその一日のために、様々な準備をするのが戦争なのである。にもかかわらず爵位や金を出し惜しみ、敵の内情を探ろうとしないなら、勝つための準備をしたと言えるだろうか?いや、してないと孫子は言うのである。
負ければ全てを失う兵や民衆に対して、思いやりがないと言わざる得ない。およそ人の上に立つ器では無いし、君主の補佐たる将軍の役は担えない。敵の内情も知らずに戦い、兵を無暗に殺す者が勝てるわけがないからである。聡明な君主や、賢明な将は戦えば常に勝ち、華々しい成功を収めるが、それは情報戦で先んじるだ。他の者が神頼み、占い、天体の動きに頼る中、彼らだけはスパイからの情報収集を徹底していると孫子は言っている。
仕事で考えて見よう。仕事でも情報は大切だ。特に情報の鮮度が大切で、活きの良い情報をどれだけ手に入れられるかが勝負の分かれ目かも知れない。だから、情報の価値を知っている経営者ほど、良い情報があったら先ず俺のところに持ってきてくれと言うものだ。何時の時代も情報に通じた者が有利に事を運ぶのであろう。
情報が大切な事には異論はないと思うが、問題はどうやったら手に入るかだ。それは、一つは買う事である。無料で良い情報は落ちていないのだから、自分で金を出して買う意識を持たねば良い情報には巡り合えない。孫子が言うように、爵禄百金を惜しんでは立ち行かないのである。今は質の高いのに無料のネット情報も多いので、大抵の事は無料でも十分な情報をえられる時代になったが、人に先んじてるならやはり有料の情報源が必要である。まずは情報は買うものと意識を変えると良いだろう。
そして、有料の情報に接するうちに、自分もその水準でものを考えられるようになっていくだろう。どれくらいが無料の水準で、どれくらいが有料の水準なのか判別がつくようになり目が肥えるはずだ。そうなったら、次の段階に進める。貴方独自の人脈を作れるのだ。
人脈づくりのポイントは、自分が情報の中継点になる意識だ。みんなに自分から良い情報を教えてあげると良い。情報を集める内に自分には使えない情報でも、知り合いには良い情報だったりする事がでてくる。あの人は興味ありそうだと思ったら、迷わず教えて上げると良い。そうしている内に、自分にも良い情報がまわってくるようになるのである。これが情報の中継点というイメージとなる。
「まずは与えよ」とは良く言ったもので、活きた情報をくれる人脈を作りたかったら、自分から発信する意識が欠かせない。貴方が周りを喜ばせるから、周りも貴方を喜ばせるために情報を教えてくれるのである。なお、腐った情報を勿体ぶって教える人がいるが、腐った情報をもらって喜ぶ人はいない。腐った情報をあげても、人脈にならない事には触れて置く。教えるなら相手にとって有益な情報を心がけて欲しい。
---- 以下、余談 ----
1、70万家について
井田の法と言って、古代中国では8家で1つの共同体をなしていたようだ。そのうち1つの家が戦争に駆り出されると、残りの7家でそのサポートをする。そうすると、他の7家も本業に支障をきたすようになる。10万の兵だと、単純に7倍の70万家という目算だろう。なお、この場合の本業は農業となろう。
2、事に象るとは?
卜筮という古代中国の占いの事を言ってると解釈している。トは亀の甲羅を焼いてできる亀裂をみる占いで、筮は筮竹と言われる竹の束を使う占いの事である。象るの意味を考えれば、これらの占いは事に象っているだろう。
3、度に験すとは?
度は天の度数の意味で、天体の動きとなる。実験でお馴染みの験には、結果が形となって現れるという意味がある。度に験すとは、つまり天体の動きに形となって現れるという事で、星占いと解釈している。
2017年11月22日水曜日
孫子の兵法 火攻編その4
4、利に合して動き、利に合せずして止む
孫子曰く。「それ戦勝攻取してその功を修めざるは凶なり。命づけて費留と曰う。故に曰く、明主はこれを慮り、良将はこれを修む。利にあらざれば動かず、得るにあらざれば用いず、危うきにあらざれば戦わず。
主は怒りて以って師を興すべからず、将は慍りを以って戦いを致すべからず。利に合して動き、利に合せずして止む。怒りは以って復た喜ぶべく、慍りは以って復た悦ぶべきも、亡国は以って復た存すべからず、死者は以って復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり。」
【解説】
孫子曰く。「そもそも、戦に勝ち手柄をたてたにも関わらず(攻取)、その手柄に正当な評価(修)を得られないなら不吉そのものである(凶)。名付けて(命)費留と言う。故に賢明な君主はこれを憂慮し、良将は正当な評価を受ける事ができる(修)。有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。
君主は怒りにまかせて軍(帥)を興してはならないし、将は私憤(慍)から戦ってはならない。戦理(利)に適うなら動き、戦理(利)に反するなら止まるのだ。怒りならば再び喜ぶ事もできよう。憤(慍)りならば再び満足(悦)も得られよう。だが、国が亡べば再び存在する事はなく、死者は再び生き返ることは出来ないのである。故に賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、良将は私憤に警戒する。これが国の平安を保ち、軍の力を発揮する道理、道徳となる。」
まず最初に、孫子が費留について警告している。手柄を立てたにも関わらず見合った褒美をもらえないなら不吉そのものであると。孫子はこれを費留と名付けていて、この言葉は孫子独自の言い回しのようだ。意味は字をそのまま解釈すれば、費用として留まり利益が得られないという事だから、日本の言葉で言えば、骨折り損の草臥れ儲けであろう。では、順次説明していく。
その1、国レベルの費留
戦争には大量の金がかかる。今の金額で言えば、数兆円をかけて戦争して何も得られないとしたらどうだろう?気でも狂ったかと言いたくもなるはず。戦争するならば、戦前より戦後が良くなるのは最低限の条件なのである。
軍は存在するだけで金がかかるものだ。普段は農民をやっている者を10万も集めて連れて行く事を想像して欲しい。食料は農民が作っているのである。戦争で兵として駆り出されれば、耕作放棄地が沢山出る事だろう。そして、兵は飯を食べねば生きれない。今まで食料を作ってくれた農民が、兵として食うだけになるのだ。この負担たるや、相当なものになる。
にもかかわらず、軍を意味も無く何処かに駐留させたらどうなるだろう?得られるものが無いのに、駐留させたらどうなるだろう?国は傾くに違いなく、不吉の前兆となる。だから、賢明な君主はこれを憂慮し、無駄な事はしないと孫子は言うのである。
その2、人的レベルの費留
将兵にしても、命を懸けて戦って褒美が少ないでは納得がいかない。それは必ず不平不満の温床となり、何時か王へ反旗を翻す者がでてくる。人は利によって動くのである。利を与えずに動かせば、それは騙したのと同義だ。騙された者は面従腹背となり、傾国の尖兵となってしまうだろう。
だからこそ賢明な君主は、開戦を考えると同時に褒美の目星もつけるし、褒美への心配がないからこそ将兵が安心して命をはれるのである。戦争は単に勝てば良いものでは無い。戦後に十分な報奨を与えるからこそ国がまとまる事を知らねばならない。なお、君主が将軍の働きに報いるように、将軍も兵の働きに十分に報いねばならない事は言うまでもない。
こう考えて見れば、孫子の言う「有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。」も当然と言えよう。費留は御免だからである。しかし、人間は度し難い生き物だ。理屈は分かっていても、「分かっていたはずなんだけど・・・。」とミスを犯してしまう。それが顕著なのが怒った時である。冷静な時は犯さないミスも、怒れば話は別となる。短気は損気とは良く言ったもので、人間が落とし穴にはまるのは感情が乱れればこそである。だから、孫子は怒りについても警告している。
その3、怒りの制御
戦争は、戦後処理も含めて戦争である。怒りにまかせて戦争するならば、もし得るものが無かった場合、かかったコストはどう回収するのだろう?将兵への報奨はどうするのだろう?国がやせ細るばかりである。
ただ、それでも勝てればまだ良い。だが勝敗は個人の感情とは別の次元に存在する。戦理に適っているから勝てるのであり、怒っているから勝てるのではない。戦利に適っていなければ、怒っていても負けるのが現実である。怒りは時がたてば喜びにもなろう。憤りも時がたてば満足になろう。だが、国は負ければおしまいである。人は死ねば生き返ることは無い。
だからこそ、賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、優れた将は憤りに警戒するのである。怒りで戦争を起こして、良い試しがない事を知っているからだ。これぞ国を平安にし、軍を屈強とする秘訣となる。
豊臣秀吉の逸話を紹介しよう。秀吉は恐ろしく気前の良い男だった言う。ある時、九州征伐で活躍した蒲生氏郷の処に、自分の愛馬を引かせていき、これに乗って本陣まで来いと気前良くプレゼントした事がある。そして、蒲生氏郷が馬にのって本陣に出向くと、今度はその活躍を褒めまくるでは無いか。秀吉の愛馬をもらい、みんなの前で褒められたのである。蒲生氏郷もさぞ鼻が高かったであろう。
だが、秀吉の気前の良さはこんなものではない。何と蒲生氏郷の家来をも呼び寄せて褒めちぎるのである。「お主が四方八方斬り進むのを見ていたぞ。この指物じゃな」と言いながら大喜びし、自分が来ている陣羽織をプレゼントしてしまう。かと思えば、他の家来には「お主も良く働いてたな。見ていたぞ。」と言って、自分の指物を渡して大盤振る舞いである。だからこそ、秀吉は人心を掴むのである。
そして、秀吉は何故こんなに褒美を与える事ができたのか?それも考えるのが孫子の兵法である。秀吉とて、先立つものも無く褒美を与える事はできない。秀吉の気前の良さは、戦争の対する優れたコスト意識の賜物だったはず。秀吉と言えば奴隷の身分からの立身出世だが、その過程は必ず利益が費用に勝っていた。だからこそ、勝てば勝つほど彼は栄え、そして気前良く褒美を取らせることができたのだ。
このように秀吉を数字の面から見て見ると、また違った印象を持てるのでは無いだろうか?彼は誰よりも気前が良かったが、破産していない。普通ならば破産していよう。彼の気前の良さは完璧なコスト管理に裏付けされていたのである。孫子が度々言っている戦争のコスト管理は、秀吉によって体現されているのである。
また、秀吉は怒りの制御も上手かった。私憤を持つどころか、相手を許す達人なのである。信長にどれだけ折檻された事だろう?猿と言われ、はげ鼠と罵られ、叩かれるなんて日常茶飯事である。普通なら嫌がりそうものだが、秀吉は「信長様も彼方此方に敵を抱えて気が休まらないのだろう。俺を怒る事で気が休まるならそれで良い。」と言って満面の笑みである。
次は三木の干殺しのエピソードを紹介しよう。秀吉は城攻めのために、敵方の武将である中村忠滋と内応しようと考えた。その中村忠滋は自分の娘まで人質にだし、秀吉を信用させる。秀吉もそこまでするなら裏切るまいと喜び、手筈どおりに約束の場所へ兵を送ったそうだ。そうしたら、どうだ?中村忠滋にまんまと裏切られ、送った兵を皆殺されてしまったではないか。何と言う失態だろうか。
三木城はその後壮絶な兵糧攻めにより落ちる事となる。中村忠滋は捕まり、秀吉の前に連れだされる事になった。秀吉が何を言うかと思ったら、「嵌めたお前を斬ってやろうと思っていたが、考えて見れば、お前も娘を出してまで忠義を尽くして立派である。」だ。そして、命を助けるばかりか、高禄をもって召し抱えてしまうのだから凄い。中村忠滋は感動して震えたと言う。
孫子は私憤による戦争は、絶対にしてはいけないと説いている。なぜ秀吉が天下人まで上り詰める事ができたのかを考えれば、孫子の言わんとする事の正しさも伺い知れるというものだ。秀吉は誰よりも論功行賞に長け、誰よりも許す達人で私憤と縁遠い男だったのである。
---- 以下、余談 ---
秀吉の三木の干殺し
http://ageofsengoku.net/pc/toyotomi/201605122241.html
孫子曰く。「それ戦勝攻取してその功を修めざるは凶なり。命づけて費留と曰う。故に曰く、明主はこれを慮り、良将はこれを修む。利にあらざれば動かず、得るにあらざれば用いず、危うきにあらざれば戦わず。
主は怒りて以って師を興すべからず、将は慍りを以って戦いを致すべからず。利に合して動き、利に合せずして止む。怒りは以って復た喜ぶべく、慍りは以って復た悦ぶべきも、亡国は以って復た存すべからず、死者は以って復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり。」
【解説】
孫子曰く。「そもそも、戦に勝ち手柄をたてたにも関わらず(攻取)、その手柄に正当な評価(修)を得られないなら不吉そのものである(凶)。名付けて(命)費留と言う。故に賢明な君主はこれを憂慮し、良将は正当な評価を受ける事ができる(修)。有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。
君主は怒りにまかせて軍(帥)を興してはならないし、将は私憤(慍)から戦ってはならない。戦理(利)に適うなら動き、戦理(利)に反するなら止まるのだ。怒りならば再び喜ぶ事もできよう。憤(慍)りならば再び満足(悦)も得られよう。だが、国が亡べば再び存在する事はなく、死者は再び生き返ることは出来ないのである。故に賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、良将は私憤に警戒する。これが国の平安を保ち、軍の力を発揮する道理、道徳となる。」
まず最初に、孫子が費留について警告している。手柄を立てたにも関わらず見合った褒美をもらえないなら不吉そのものであると。孫子はこれを費留と名付けていて、この言葉は孫子独自の言い回しのようだ。意味は字をそのまま解釈すれば、費用として留まり利益が得られないという事だから、日本の言葉で言えば、骨折り損の草臥れ儲けであろう。では、順次説明していく。
その1、国レベルの費留
戦争には大量の金がかかる。今の金額で言えば、数兆円をかけて戦争して何も得られないとしたらどうだろう?気でも狂ったかと言いたくもなるはず。戦争するならば、戦前より戦後が良くなるのは最低限の条件なのである。
軍は存在するだけで金がかかるものだ。普段は農民をやっている者を10万も集めて連れて行く事を想像して欲しい。食料は農民が作っているのである。戦争で兵として駆り出されれば、耕作放棄地が沢山出る事だろう。そして、兵は飯を食べねば生きれない。今まで食料を作ってくれた農民が、兵として食うだけになるのだ。この負担たるや、相当なものになる。
にもかかわらず、軍を意味も無く何処かに駐留させたらどうなるだろう?得られるものが無いのに、駐留させたらどうなるだろう?国は傾くに違いなく、不吉の前兆となる。だから、賢明な君主はこれを憂慮し、無駄な事はしないと孫子は言うのである。
その2、人的レベルの費留
将兵にしても、命を懸けて戦って褒美が少ないでは納得がいかない。それは必ず不平不満の温床となり、何時か王へ反旗を翻す者がでてくる。人は利によって動くのである。利を与えずに動かせば、それは騙したのと同義だ。騙された者は面従腹背となり、傾国の尖兵となってしまうだろう。
だからこそ賢明な君主は、開戦を考えると同時に褒美の目星もつけるし、褒美への心配がないからこそ将兵が安心して命をはれるのである。戦争は単に勝てば良いものでは無い。戦後に十分な報奨を与えるからこそ国がまとまる事を知らねばならない。なお、君主が将軍の働きに報いるように、将軍も兵の働きに十分に報いねばならない事は言うまでもない。
こう考えて見れば、孫子の言う「有利な状況にないならば動かず、戦って得るものもなく軍を用いず、危険が迫っていないならば戦わない。」も当然と言えよう。費留は御免だからである。しかし、人間は度し難い生き物だ。理屈は分かっていても、「分かっていたはずなんだけど・・・。」とミスを犯してしまう。それが顕著なのが怒った時である。冷静な時は犯さないミスも、怒れば話は別となる。短気は損気とは良く言ったもので、人間が落とし穴にはまるのは感情が乱れればこそである。だから、孫子は怒りについても警告している。
その3、怒りの制御
戦争は、戦後処理も含めて戦争である。怒りにまかせて戦争するならば、もし得るものが無かった場合、かかったコストはどう回収するのだろう?将兵への報奨はどうするのだろう?国がやせ細るばかりである。
ただ、それでも勝てればまだ良い。だが勝敗は個人の感情とは別の次元に存在する。戦理に適っているから勝てるのであり、怒っているから勝てるのではない。戦利に適っていなければ、怒っていても負けるのが現実である。怒りは時がたてば喜びにもなろう。憤りも時がたてば満足になろう。だが、国は負ければおしまいである。人は死ねば生き返ることは無い。
だからこそ、賢明な君主は怒りに身をゆだねる事を慎み、優れた将は憤りに警戒するのである。怒りで戦争を起こして、良い試しがない事を知っているからだ。これぞ国を平安にし、軍を屈強とする秘訣となる。
豊臣秀吉の逸話を紹介しよう。秀吉は恐ろしく気前の良い男だった言う。ある時、九州征伐で活躍した蒲生氏郷の処に、自分の愛馬を引かせていき、これに乗って本陣まで来いと気前良くプレゼントした事がある。そして、蒲生氏郷が馬にのって本陣に出向くと、今度はその活躍を褒めまくるでは無いか。秀吉の愛馬をもらい、みんなの前で褒められたのである。蒲生氏郷もさぞ鼻が高かったであろう。
だが、秀吉の気前の良さはこんなものではない。何と蒲生氏郷の家来をも呼び寄せて褒めちぎるのである。「お主が四方八方斬り進むのを見ていたぞ。この指物じゃな」と言いながら大喜びし、自分が来ている陣羽織をプレゼントしてしまう。かと思えば、他の家来には「お主も良く働いてたな。見ていたぞ。」と言って、自分の指物を渡して大盤振る舞いである。だからこそ、秀吉は人心を掴むのである。
そして、秀吉は何故こんなに褒美を与える事ができたのか?それも考えるのが孫子の兵法である。秀吉とて、先立つものも無く褒美を与える事はできない。秀吉の気前の良さは、戦争の対する優れたコスト意識の賜物だったはず。秀吉と言えば奴隷の身分からの立身出世だが、その過程は必ず利益が費用に勝っていた。だからこそ、勝てば勝つほど彼は栄え、そして気前良く褒美を取らせることができたのだ。
このように秀吉を数字の面から見て見ると、また違った印象を持てるのでは無いだろうか?彼は誰よりも気前が良かったが、破産していない。普通ならば破産していよう。彼の気前の良さは完璧なコスト管理に裏付けされていたのである。孫子が度々言っている戦争のコスト管理は、秀吉によって体現されているのである。
また、秀吉は怒りの制御も上手かった。私憤を持つどころか、相手を許す達人なのである。信長にどれだけ折檻された事だろう?猿と言われ、はげ鼠と罵られ、叩かれるなんて日常茶飯事である。普通なら嫌がりそうものだが、秀吉は「信長様も彼方此方に敵を抱えて気が休まらないのだろう。俺を怒る事で気が休まるならそれで良い。」と言って満面の笑みである。
次は三木の干殺しのエピソードを紹介しよう。秀吉は城攻めのために、敵方の武将である中村忠滋と内応しようと考えた。その中村忠滋は自分の娘まで人質にだし、秀吉を信用させる。秀吉もそこまでするなら裏切るまいと喜び、手筈どおりに約束の場所へ兵を送ったそうだ。そうしたら、どうだ?中村忠滋にまんまと裏切られ、送った兵を皆殺されてしまったではないか。何と言う失態だろうか。
三木城はその後壮絶な兵糧攻めにより落ちる事となる。中村忠滋は捕まり、秀吉の前に連れだされる事になった。秀吉が何を言うかと思ったら、「嵌めたお前を斬ってやろうと思っていたが、考えて見れば、お前も娘を出してまで忠義を尽くして立派である。」だ。そして、命を助けるばかりか、高禄をもって召し抱えてしまうのだから凄い。中村忠滋は感動して震えたと言う。
孫子は私憤による戦争は、絶対にしてはいけないと説いている。なぜ秀吉が天下人まで上り詰める事ができたのかを考えれば、孫子の言わんとする事の正しさも伺い知れるというものだ。秀吉は誰よりも論功行賞に長け、誰よりも許す達人で私憤と縁遠い男だったのである。
---- 以下、余談 ---
秀吉の三木の干殺し
http://ageofsengoku.net/pc/toyotomi/201605122241.html
2017年11月21日火曜日
孫子の兵法 火攻編その3
3、火攻めと水攻め
孫子曰く。「故に火を以って攻を佐くる者は明なり。水を以って攻を佐くる者は強なり。水は以って絶つべく、以って奪うべからず。」
【解説】
(火攻めの変化、注意点を網羅するとして)
孫子曰く。「故に火を攻撃の助(佐)けに出来る者は聡明である。水を攻撃の助(佐)けに出来る者は、水勢の強大な力を得よう。ただ、水は敵を断(絶)つ事はできるが、奪うには至らない。」
孫子が火攻めと水攻めを比べていると思え良い。ただ、結論を言えば、何方も一長一短だ。例えば、火は敵の資源を燃えて奪うが、敵の資源を奪いたい時に火攻めは適さないだろう。水攻めで敵の城が壊れる事はないかも知れないが、そのお陰で水が引けば城をそのまま利用できる。火と水の性質を良く知り、状況に応じて、火攻めと水攻めを使いこなせる者が有能と言えよう。
その1、火攻めの性質
火攻めはただ燃やせば良いという訳では無い。風など様々の要因を計算しなければならないため、聡明さを求められる攻撃となる。たき火で火をつけるのとは違うのだ。時には敵と内応しなければならないし、火を利用した罠の可能性も看破しなければならないし、風の吹き方も計算にいれねば不発に終わる事を知っておかないといけない。
ただ、成功すれば威力は甚大で、燃え盛る火は如何ともし難く、敵や物資を焼き尽くしてしまう事だろう。そして、敵兵からも徐々に士気がなくなって行く。ある者は焼かれる恐怖のあまり、ある者は食料が焼かれ尽きるのを見て。まさに奪うという文字がピッタリとくるような状況となるから、昔の人はこれを気を奪うと言った。気はエネルギーの事だと考えれば、火攻めはエネルギー(気)を奪う行為とも言えるのだ。
その2、水攻めの性質
水攻めの明快なイメージは、床上浸水では無いだろうか?大雨で洪水が来たことをイメージして欲しい。これを人為的に引き起こすのが水攻めである。水攻めをされると、人は瞬間に呆然とする。例えば、城攻めを考えて見よう。朝起きたら自分のまわりが水浸しになっている。逃げようにも動けないし、攻撃しようにも動きを封じられている。食料も水につかって食べれなくなる。なんせ肥溜めの糞尿まじりの水だ。そして、水が体温を奪うにつれ敗北を実感するのである。
これを気を断つと言う。補給路が断たれ、逃げ道が断たれ、備えが断たれ、攻撃が断たれ、気持ちが断たれる。人を含めすべてはエネルギー体と考えれば、エネルギー(気)の流れが断たれ、孫子の言うように強の文字にふさわしい攻撃となる。ただ、水による攻撃は城を流しはしない。城全体が水につかるだけである。そういうイメージを「奪うには至らず」と孫子は表現しているのだろう。
その3、コストによる比較
火攻めにくらべると、水攻めは手間がかかるかも知れない。城を攻めるなら、大河の流れを変える土木作業が必要だろうし、その作業中に敵の妨害をされないように警備も必要だ。火攻めは火をつけるだけなため、タイミングさえ計れるなら難しいことは無い。火矢でも良いし、薪をもって行き火をつけても良い。ただ、火攻めは敵の防衛部隊の隙を突いて、安全に火を放てる環境を整えるのが難しく、水攻めは土木工事さえできるなら人には防ぐ手立てがないだろう。
過去の歴史を見ても、水攻めより火攻めのほうが多いことから、火攻めのほうが準備が簡単なのは間違いない。日当たりの良い高地が基本の頓営への攻撃は、水攻めという訳にもいかないから火攻めが主になる気がするが、城攻めの場合は敵城を焼く事が良いかは何とも言えない。戦後処理を含めて考えれば、敵城を我が城として活用できるのが最も良いのだから、その点では水攻めが勝ろう。
こう考えて見れば、火攻めと水攻めは何方が良いというものでは無く、状況に応じて使いこなす性質のものなのである。なお、城を攻略した水攻めは、蒼天航路という漫画でも描かれた曹操の呂布戦、それ以外だと土袋1万で即席のダムを作った韓信が有名であろう。韓信は逃げるふりをしながら敵を誘い出し、十分に引き付けたのを見てダムを決壊させた。逃げ惑う韓信を追ったら、そこに大量の水がきたというから驚きである。敵は大半を飲み込まれたそうだ。こうした韓信の名声は麻雀になり、今なの国士無双の夢を提供している。
仕事で考えて見よう。仕事でも火攻めと水攻めを使いこなす感覚は大切だ。時には烈火のごとく無我夢中で働く事も必要だが、時にはダムが水をためるように力を蓄える時期も必要である。人生は山あり谷ありと言われるように、右肩上がりの時期があれば、停滞する時期も必ずある。この必ずという言葉に着目して欲しい。
失敗すると、こんなはずでは無かったと言う人がいる。子共なら志望校に落ちて、大人なら出世コースから外れて、事業に失敗してだ。しかし、考えてもみて欲しい。どんな人間も100戦して100勝とはいくまい。ならば、自分の人生は停滞するはずが無いと計算してはいけない。本来は停滞を避けられないのが人生である。
貴方は命ある存在だが、命と言う字はどう書くか?人の下に数字の一を書き、叩くと書くだろう。つまり、命ある人間は一回は叩かれる。停滞は人生にはつきものと字に書いてあるではないか。停滞せぬ人生など無いのだから、例え停滞しても肩を落とす必要は無い。必ず来るその時が、今来ただけ。無いという事が無いと気づく事が肝要なのである。ある時は烈火のごとく、ある時は水をためるがごとく。人生も火攻めと水攻めである。
なお、国士無双で有名な韓信は、股くぐりでも有名だ。若い頃何もしないでブラブラしていた韓信は、ある時暴漢に絡まれ、俺を斬るか股をくぐるか選べと言われる。そして、韓信は股をくぐって笑い者にされたのである。これが世の中に2人といない意をもつ国士無双の韓信の若かりし頃の姿である。その後、項羽に使えるが活躍の機会を得られず、ならばと劉邦の元に行ったが処刑されそうになったり、彼の人生は七転び八起である。だが、彼は時を得てなお、国士無双として麻雀になっている。火の如く輝かしい実績に、停滞が妙味を加えるのが人生なのである。
---- 以下、余談 ----
日本では秀吉の高松城への水攻めが有名だ。
http://www12.plala.or.jp/rekisi/takamatujyou.html
孫子曰く。「故に火を以って攻を佐くる者は明なり。水を以って攻を佐くる者は強なり。水は以って絶つべく、以って奪うべからず。」
【解説】
(火攻めの変化、注意点を網羅するとして)
孫子曰く。「故に火を攻撃の助(佐)けに出来る者は聡明である。水を攻撃の助(佐)けに出来る者は、水勢の強大な力を得よう。ただ、水は敵を断(絶)つ事はできるが、奪うには至らない。」
孫子が火攻めと水攻めを比べていると思え良い。ただ、結論を言えば、何方も一長一短だ。例えば、火は敵の資源を燃えて奪うが、敵の資源を奪いたい時に火攻めは適さないだろう。水攻めで敵の城が壊れる事はないかも知れないが、そのお陰で水が引けば城をそのまま利用できる。火と水の性質を良く知り、状況に応じて、火攻めと水攻めを使いこなせる者が有能と言えよう。
その1、火攻めの性質
火攻めはただ燃やせば良いという訳では無い。風など様々の要因を計算しなければならないため、聡明さを求められる攻撃となる。たき火で火をつけるのとは違うのだ。時には敵と内応しなければならないし、火を利用した罠の可能性も看破しなければならないし、風の吹き方も計算にいれねば不発に終わる事を知っておかないといけない。
ただ、成功すれば威力は甚大で、燃え盛る火は如何ともし難く、敵や物資を焼き尽くしてしまう事だろう。そして、敵兵からも徐々に士気がなくなって行く。ある者は焼かれる恐怖のあまり、ある者は食料が焼かれ尽きるのを見て。まさに奪うという文字がピッタリとくるような状況となるから、昔の人はこれを気を奪うと言った。気はエネルギーの事だと考えれば、火攻めはエネルギー(気)を奪う行為とも言えるのだ。
その2、水攻めの性質
水攻めの明快なイメージは、床上浸水では無いだろうか?大雨で洪水が来たことをイメージして欲しい。これを人為的に引き起こすのが水攻めである。水攻めをされると、人は瞬間に呆然とする。例えば、城攻めを考えて見よう。朝起きたら自分のまわりが水浸しになっている。逃げようにも動けないし、攻撃しようにも動きを封じられている。食料も水につかって食べれなくなる。なんせ肥溜めの糞尿まじりの水だ。そして、水が体温を奪うにつれ敗北を実感するのである。
これを気を断つと言う。補給路が断たれ、逃げ道が断たれ、備えが断たれ、攻撃が断たれ、気持ちが断たれる。人を含めすべてはエネルギー体と考えれば、エネルギー(気)の流れが断たれ、孫子の言うように強の文字にふさわしい攻撃となる。ただ、水による攻撃は城を流しはしない。城全体が水につかるだけである。そういうイメージを「奪うには至らず」と孫子は表現しているのだろう。
その3、コストによる比較
火攻めにくらべると、水攻めは手間がかかるかも知れない。城を攻めるなら、大河の流れを変える土木作業が必要だろうし、その作業中に敵の妨害をされないように警備も必要だ。火攻めは火をつけるだけなため、タイミングさえ計れるなら難しいことは無い。火矢でも良いし、薪をもって行き火をつけても良い。ただ、火攻めは敵の防衛部隊の隙を突いて、安全に火を放てる環境を整えるのが難しく、水攻めは土木工事さえできるなら人には防ぐ手立てがないだろう。
過去の歴史を見ても、水攻めより火攻めのほうが多いことから、火攻めのほうが準備が簡単なのは間違いない。日当たりの良い高地が基本の頓営への攻撃は、水攻めという訳にもいかないから火攻めが主になる気がするが、城攻めの場合は敵城を焼く事が良いかは何とも言えない。戦後処理を含めて考えれば、敵城を我が城として活用できるのが最も良いのだから、その点では水攻めが勝ろう。
こう考えて見れば、火攻めと水攻めは何方が良いというものでは無く、状況に応じて使いこなす性質のものなのである。なお、城を攻略した水攻めは、蒼天航路という漫画でも描かれた曹操の呂布戦、それ以外だと土袋1万で即席のダムを作った韓信が有名であろう。韓信は逃げるふりをしながら敵を誘い出し、十分に引き付けたのを見てダムを決壊させた。逃げ惑う韓信を追ったら、そこに大量の水がきたというから驚きである。敵は大半を飲み込まれたそうだ。こうした韓信の名声は麻雀になり、今なの国士無双の夢を提供している。
仕事で考えて見よう。仕事でも火攻めと水攻めを使いこなす感覚は大切だ。時には烈火のごとく無我夢中で働く事も必要だが、時にはダムが水をためるように力を蓄える時期も必要である。人生は山あり谷ありと言われるように、右肩上がりの時期があれば、停滞する時期も必ずある。この必ずという言葉に着目して欲しい。
失敗すると、こんなはずでは無かったと言う人がいる。子共なら志望校に落ちて、大人なら出世コースから外れて、事業に失敗してだ。しかし、考えてもみて欲しい。どんな人間も100戦して100勝とはいくまい。ならば、自分の人生は停滞するはずが無いと計算してはいけない。本来は停滞を避けられないのが人生である。
貴方は命ある存在だが、命と言う字はどう書くか?人の下に数字の一を書き、叩くと書くだろう。つまり、命ある人間は一回は叩かれる。停滞は人生にはつきものと字に書いてあるではないか。停滞せぬ人生など無いのだから、例え停滞しても肩を落とす必要は無い。必ず来るその時が、今来ただけ。無いという事が無いと気づく事が肝要なのである。ある時は烈火のごとく、ある時は水をためるがごとく。人生も火攻めと水攻めである。
なお、国士無双で有名な韓信は、股くぐりでも有名だ。若い頃何もしないでブラブラしていた韓信は、ある時暴漢に絡まれ、俺を斬るか股をくぐるか選べと言われる。そして、韓信は股をくぐって笑い者にされたのである。これが世の中に2人といない意をもつ国士無双の韓信の若かりし頃の姿である。その後、項羽に使えるが活躍の機会を得られず、ならばと劉邦の元に行ったが処刑されそうになったり、彼の人生は七転び八起である。だが、彼は時を得てなお、国士無双として麻雀になっている。火の如く輝かしい実績に、停滞が妙味を加えるのが人生なのである。
---- 以下、余談 ----
日本では秀吉の高松城への水攻めが有名だ。
http://www12.plala.or.jp/rekisi/takamatujyou.html
2017年11月20日月曜日
孫子の兵法 火攻編その2
2、臨機応変の運用
孫子曰く。「およそ火攻は、必ず五火の変に因りてこれに応ず。火、内に発すれば、則ち早くこれに外に応ず。火発してその兵静かなるは、待ちて攻むることなかれ。その火力を極め、従うべくしてこれに従い、従うべからずして止む。
火、外に発すべくんば、内に待つことなく、時を以ってこれを発せよ。火、上風に発すれば、下風を攻むることなかれ。昼風は久しく、夜風は止む。およそ軍は必ず五火の変あるを知り、数を以ってこれを守る。」
【解説】
火攻めの5つの変化
孫子曰く。「およそ火攻めは必ず5つの変化に起因し、状況に応じた臨機応変な対応が必要となる。火の手が敵陣内から上がった時は(発)、速やかに呼応して外からも攻める。ただ、火の手が敵陣内から上がっているにも関わらず、敵陣が静かであるならば、ひとまず待って攻めてはならない。その火力を見極め、火勢に従い攻めたほうが良さそうなら攻め、火勢に従うのが危ないなら攻めるのを止める。
火攻めが外から可能ならば(発)、敵陣内の動きを待つまでも無く、機会を探って実行すべきである。火の手が風上で上がったなら、風下から攻めてはならない。昼の風は長くつづくが(久)、夜の風は止まりやすい。およそ軍は火攻めの5つの変化を知り、これら火攻めの注意点を守らねばらない。」
今回は火攻めをする時の注意点を孫子が説いている。火は風の影響を強くうけるため、火攻めは風に注意しないと自分が焼かれる事にもなりかねない。そこで、まず火攻めの大前提となる風を考えて見たい。とは言え、要は火の風下は危ないという事だけだ。風下から攻撃すると、風によって火が自軍に迫ってくるように燃えあがるため、何方が火攻めをしたのか分からない状況になる。言わば自爆防止の観点から、孫子は風下に警告している。
加えて、風は昼にふくと長く続くが、夜の風は続かない事が多いそうだ。こういった時間的な視点も抑えておくと、質の高い作戦を立案できる。昼に火攻めをするべきか、夜に火攻めをするべきかはその時々で変わるが、続くと思った風が急に止んだり、止むと思った風が止まないのでは作戦が失敗しかねない。
例えば、火は風がなければ上にあがるだけなため、風が吹かないと燃え広がりづらい。風が止みやすい夜に火攻めをすると、思った以上に燃え広がらないかも知れない。風が長く続きやすい昼に火攻めをすると、逆に思った以上に火が燃え広がってしまい収拾がつかなくなる恐れがある。相手を全焼させるときと、降伏を促すときでは何方の状況が良いかも違うだろう。
このように風だけで考えても、その時々の目的や状況によって、好ましい火攻めは変わるのである。孫子は火攻めの5つの変化を知り、火攻めの注意点をしっかり守らねばならないと言っているが、その言わんとする事も何となく伝わっただろうか?実際は風の変化に、他の要因が重なり複雑な変化となるのである。
さて、話を続けよう。火攻めと一言に言っても、敵陣内の中から火の手をあげるか、敵陣の外から火矢などによって火の手をあげるかの大きく2つある。
その1、敵陣内から火の手があがる
敵陣内から火の手が上がった場合、此方の工作が成功したか、若しくは謀反なり敵に良からぬ事が起きたはずだ。どちらにせよ火事で敵は慌てている事が容易に想像できるため、絶好の攻め時となる。敵は火に気をとられ、とても強く戦える心理状態にないはずだ。
ただ、火の手が上がっても、敵が静かな時がある。これは妙な状況で、普通は逃げるなり、消火なりで騒がしくなるはずだ。それが静まり返っているという事は、罠の可能性も疑わねばならない。そこで、それを見極めるために、一先ず攻めるのを止めたほうが無難となる。とは言え、火の手が上がってる事には違いない。絶好のチャンスの可能性もあるのだから、火の勢いを見て攻めるかどうか再考すると孫子は言っている。
典型的な罠としては、敵がすでに陣内にいない場合だ。敵を攻めさせるために火の手を上げて誘われた場合、攻め入ると逆に閉じ込められ火攻めを食らってしまう。火事の最中に敵が静なのは、それくらい可笑しい事だ。例えチャンスに見えても、用心深く攻め入らないほうが良い事はある。大戦果をあげるより損害を出さない事を念頭におき、確実に勝てる時だけに勝つ。それが名将と言うものだろう。
その2、敵陣の外から火攻めをする
そもそもの話、敵陣の外から火攻め出来るなら、敵陣内への工作は必要ない。敵陣内から火の手があがらずとも、外から機会を見て火攻めをするのは当然だ。この場合、敵陣内への工作したなら目くらましの意味が強くなるだろう。外から火攻め出来ないから、中へ工作を仕掛けるのに、中から上がる火の手を待っては本末転倒となる。
仕事で考えて見よう。孫子は火攻めの注意点をあげているため、今回は仕事の注意点を紹介したい。仕事の注意点は様々あるだろうが、感覚の基礎は先憂後楽の精神であろう。先憂後楽は後楽園の語源になった言葉だが、人より先に憂いて、後に楽しむという意味となる。人が心配してない事を先に心配し、人が楽しんだ後に自分は楽しむ。そういう人間にこそ最後に福が来るものだ。
人より先に楽しんだもの勝ちという風潮があるが、やっかみの対象となって恐らく長くは続かない。人より後に楽しむと一見損するようだが、そんな事はない。理由は単純で、人より後に楽しめば良いという人間にはストレスがないのだ。人より先にという人間は、一見上手くやっているようだが、意外とストレスにあふれていたりする。人より先に楽しみたいのに、周りに邪魔をされてしまうのだから、心は穏やかになれないのである。見た目とは裏腹なのだ。
天国と地獄と言う法話を紹介しよう。地獄は厳しいというイメージがあると思うが、そんな地獄も食事だけは豪勢だったりする。意外な事に、地獄は食事だけは自分の好きな食べ物を食べれるのだ。ラーメンが食べたければラーメンがでてくるし、高級コース料理が食べたければ高級コース料理がテーブルに並べられる。はっきりと羨ましい状況となる。
ただ、そこは地獄、自由には食べさせてはもらえない。何と身の丈もある箸を手にくくりつけられ、それで食べなさいと言うのである。もし手づかみで食べようとしたり、口を近づけて食べようとすれば、鬼が出てきて金棒で殴られる。しょうがないから地獄の住民は身の丈もある箸で、どうにか料理を口に運ぼうとする事になる。だが、長さが身の丈もあって口に運べるだろうか?
やはり地獄は地獄なのである。自分の前には食べたいご馳走が並べられ、腹もすいている。なのに料理は食べられずに、手の届く範囲にある料理を見ているだけ。地獄の住人は欲が深いことを考えれば、想像しただけで恐ろしい仕打ちだ。焦らされすぎて、身を焼かれる思いだろう。そのため、地獄ではうめき声が止まないのだ。食事もとれないから、地獄の住民は手足はガリガリになり、腹だけがでた栄養失調の姿となりはてる。常に空腹のなかで、食べられそうで絶対食べれないご馳走を目の前にして暮らすしかないのである。
では、天国はどうかと言うと、流石に天国である。住民はふくよかだし、笑い声に絶えない。さぞ良い処だろうと思ってしまうが、実はそうでも無い。なんと地獄と同じ場所である。地獄と同じで身の丈もある箸を渡されるし、手づかみや口を近づけて料理を食べようとすれば鬼に殴られる。どうして天国の住民は笑っていられるのだろう?
それは、自分の箸では他人に食べさせるからだ。身の丈もある箸では自分の口には運べないが、他人の口に運ぶなら調度良い長さとなる。だから天国の住人は、自分の箸で他人の食べたい料理を他人の口に運んでいたのだ。好きな料理を食べると、美味しさのあまりご返杯という心境になるものだ。だから、自分もご返杯で好きな料理を食べさせてもらえる。これが笑顔の秘密である。
同じ場所で食事をしておきながら、地獄の住民は自分の事ばかり考えるために飢え苦しみ、天国の住民は福を分け与える事を知るために、食べたいものを腹いっぱい食べ幸福に過ごせる。これが先憂後楽の心である。
---- 以下、余談 ----
孫子の言う「数を以ってこれを守る」の部分が良く分からなかった。火攻めの注意点を一つではなく、全て網羅するという事で数という表現を使ったと予想して訳文を書いた。実際の火攻めを考えれば、その目的も状況に応じて5種類の組み合わせとなるわけだし、注意点も組み合わせの中で存在する。
孫子曰く。「およそ火攻は、必ず五火の変に因りてこれに応ず。火、内に発すれば、則ち早くこれに外に応ず。火発してその兵静かなるは、待ちて攻むることなかれ。その火力を極め、従うべくしてこれに従い、従うべからずして止む。
火、外に発すべくんば、内に待つことなく、時を以ってこれを発せよ。火、上風に発すれば、下風を攻むることなかれ。昼風は久しく、夜風は止む。およそ軍は必ず五火の変あるを知り、数を以ってこれを守る。」
【解説】
火攻めの5つの変化
- 人民を焼く
- 食料などの積み荷を焼く
- 輸送部隊を焼く
- 倉庫を焼く
- 頓営を焼く
孫子曰く。「およそ火攻めは必ず5つの変化に起因し、状況に応じた臨機応変な対応が必要となる。火の手が敵陣内から上がった時は(発)、速やかに呼応して外からも攻める。ただ、火の手が敵陣内から上がっているにも関わらず、敵陣が静かであるならば、ひとまず待って攻めてはならない。その火力を見極め、火勢に従い攻めたほうが良さそうなら攻め、火勢に従うのが危ないなら攻めるのを止める。
火攻めが外から可能ならば(発)、敵陣内の動きを待つまでも無く、機会を探って実行すべきである。火の手が風上で上がったなら、風下から攻めてはならない。昼の風は長くつづくが(久)、夜の風は止まりやすい。およそ軍は火攻めの5つの変化を知り、これら火攻めの注意点を守らねばらない。」
今回は火攻めをする時の注意点を孫子が説いている。火は風の影響を強くうけるため、火攻めは風に注意しないと自分が焼かれる事にもなりかねない。そこで、まず火攻めの大前提となる風を考えて見たい。とは言え、要は火の風下は危ないという事だけだ。風下から攻撃すると、風によって火が自軍に迫ってくるように燃えあがるため、何方が火攻めをしたのか分からない状況になる。言わば自爆防止の観点から、孫子は風下に警告している。
加えて、風は昼にふくと長く続くが、夜の風は続かない事が多いそうだ。こういった時間的な視点も抑えておくと、質の高い作戦を立案できる。昼に火攻めをするべきか、夜に火攻めをするべきかはその時々で変わるが、続くと思った風が急に止んだり、止むと思った風が止まないのでは作戦が失敗しかねない。
例えば、火は風がなければ上にあがるだけなため、風が吹かないと燃え広がりづらい。風が止みやすい夜に火攻めをすると、思った以上に燃え広がらないかも知れない。風が長く続きやすい昼に火攻めをすると、逆に思った以上に火が燃え広がってしまい収拾がつかなくなる恐れがある。相手を全焼させるときと、降伏を促すときでは何方の状況が良いかも違うだろう。
このように風だけで考えても、その時々の目的や状況によって、好ましい火攻めは変わるのである。孫子は火攻めの5つの変化を知り、火攻めの注意点をしっかり守らねばならないと言っているが、その言わんとする事も何となく伝わっただろうか?実際は風の変化に、他の要因が重なり複雑な変化となるのである。
さて、話を続けよう。火攻めと一言に言っても、敵陣内の中から火の手をあげるか、敵陣の外から火矢などによって火の手をあげるかの大きく2つある。
その1、敵陣内から火の手があがる
敵陣内から火の手が上がった場合、此方の工作が成功したか、若しくは謀反なり敵に良からぬ事が起きたはずだ。どちらにせよ火事で敵は慌てている事が容易に想像できるため、絶好の攻め時となる。敵は火に気をとられ、とても強く戦える心理状態にないはずだ。
ただ、火の手が上がっても、敵が静かな時がある。これは妙な状況で、普通は逃げるなり、消火なりで騒がしくなるはずだ。それが静まり返っているという事は、罠の可能性も疑わねばならない。そこで、それを見極めるために、一先ず攻めるのを止めたほうが無難となる。とは言え、火の手が上がってる事には違いない。絶好のチャンスの可能性もあるのだから、火の勢いを見て攻めるかどうか再考すると孫子は言っている。
典型的な罠としては、敵がすでに陣内にいない場合だ。敵を攻めさせるために火の手を上げて誘われた場合、攻め入ると逆に閉じ込められ火攻めを食らってしまう。火事の最中に敵が静なのは、それくらい可笑しい事だ。例えチャンスに見えても、用心深く攻め入らないほうが良い事はある。大戦果をあげるより損害を出さない事を念頭におき、確実に勝てる時だけに勝つ。それが名将と言うものだろう。
その2、敵陣の外から火攻めをする
そもそもの話、敵陣の外から火攻め出来るなら、敵陣内への工作は必要ない。敵陣内から火の手があがらずとも、外から機会を見て火攻めをするのは当然だ。この場合、敵陣内への工作したなら目くらましの意味が強くなるだろう。外から火攻め出来ないから、中へ工作を仕掛けるのに、中から上がる火の手を待っては本末転倒となる。
仕事で考えて見よう。孫子は火攻めの注意点をあげているため、今回は仕事の注意点を紹介したい。仕事の注意点は様々あるだろうが、感覚の基礎は先憂後楽の精神であろう。先憂後楽は後楽園の語源になった言葉だが、人より先に憂いて、後に楽しむという意味となる。人が心配してない事を先に心配し、人が楽しんだ後に自分は楽しむ。そういう人間にこそ最後に福が来るものだ。
人より先に楽しんだもの勝ちという風潮があるが、やっかみの対象となって恐らく長くは続かない。人より後に楽しむと一見損するようだが、そんな事はない。理由は単純で、人より後に楽しめば良いという人間にはストレスがないのだ。人より先にという人間は、一見上手くやっているようだが、意外とストレスにあふれていたりする。人より先に楽しみたいのに、周りに邪魔をされてしまうのだから、心は穏やかになれないのである。見た目とは裏腹なのだ。
天国と地獄と言う法話を紹介しよう。地獄は厳しいというイメージがあると思うが、そんな地獄も食事だけは豪勢だったりする。意外な事に、地獄は食事だけは自分の好きな食べ物を食べれるのだ。ラーメンが食べたければラーメンがでてくるし、高級コース料理が食べたければ高級コース料理がテーブルに並べられる。はっきりと羨ましい状況となる。
ただ、そこは地獄、自由には食べさせてはもらえない。何と身の丈もある箸を手にくくりつけられ、それで食べなさいと言うのである。もし手づかみで食べようとしたり、口を近づけて食べようとすれば、鬼が出てきて金棒で殴られる。しょうがないから地獄の住民は身の丈もある箸で、どうにか料理を口に運ぼうとする事になる。だが、長さが身の丈もあって口に運べるだろうか?
やはり地獄は地獄なのである。自分の前には食べたいご馳走が並べられ、腹もすいている。なのに料理は食べられずに、手の届く範囲にある料理を見ているだけ。地獄の住人は欲が深いことを考えれば、想像しただけで恐ろしい仕打ちだ。焦らされすぎて、身を焼かれる思いだろう。そのため、地獄ではうめき声が止まないのだ。食事もとれないから、地獄の住民は手足はガリガリになり、腹だけがでた栄養失調の姿となりはてる。常に空腹のなかで、食べられそうで絶対食べれないご馳走を目の前にして暮らすしかないのである。
では、天国はどうかと言うと、流石に天国である。住民はふくよかだし、笑い声に絶えない。さぞ良い処だろうと思ってしまうが、実はそうでも無い。なんと地獄と同じ場所である。地獄と同じで身の丈もある箸を渡されるし、手づかみや口を近づけて料理を食べようとすれば鬼に殴られる。どうして天国の住民は笑っていられるのだろう?
それは、自分の箸では他人に食べさせるからだ。身の丈もある箸では自分の口には運べないが、他人の口に運ぶなら調度良い長さとなる。だから天国の住人は、自分の箸で他人の食べたい料理を他人の口に運んでいたのだ。好きな料理を食べると、美味しさのあまりご返杯という心境になるものだ。だから、自分もご返杯で好きな料理を食べさせてもらえる。これが笑顔の秘密である。
同じ場所で食事をしておきながら、地獄の住民は自分の事ばかり考えるために飢え苦しみ、天国の住民は福を分け与える事を知るために、食べたいものを腹いっぱい食べ幸福に過ごせる。これが先憂後楽の心である。
---- 以下、余談 ----
孫子の言う「数を以ってこれを守る」の部分が良く分からなかった。火攻めの注意点を一つではなく、全て網羅するという事で数という表現を使ったと予想して訳文を書いた。実際の火攻めを考えれば、その目的も状況に応じて5種類の組み合わせとなるわけだし、注意点も組み合わせの中で存在する。
2017年11月18日土曜日
孫子の兵法 火攻編
1、火攻めのねらい
孫子曰く。「およそ火攻に五あり。一に曰く、人を火く、二に曰く積を火く、三に曰く、輜を火く、四に曰く、庫を火く、五に曰く、隊を火く。火を行なうには必ず因あり。煙火は必ず素より具う。火を発するに時あり、火を起こすに日あり。時とは天の燥けるなり。日とは月の箕、壁、翼、軫に在るなり。およそこの四宿は風起こるの日なり。」
【解説】
孫子曰く。「およそ火攻めの目的は5種類ある。一に人民を焼く事。二に物資や食料などの積み荷を焼く事。三に輸送部隊(輜)を焼く事。四に倉庫を焼く事。五に頓営を焼くなど隊を攻撃する事だ。
火攻めを行うには、必ず事前の準備(因)が必要となる。発火装置(煙火)は必ず予め備えなくてはならない(素具)。火をはなつ(発)には適した時期があり、火攻め(火起)に適した日がある。時期は乾燥した時期が良い(天燥)。日は月が箕、壁、翼、軫に在る時だ。およそこの星座に月がかかる時は(四宿)、風が起きる日となる。」
火攻めと言って誰でも思い浮かぶのは、城や宿舎を焼く事だろう。城を焼けば、城下町にいる人民は勿論焼け死ぬし、宿舎を焼けば保管されていた食料などの積み荷や、財宝や財貨、駐屯する部隊にそれぞれダメージがあるはず。当然のように輸送車両も燃えるし、武器も燃える。そして、そこは倉庫としても使えなくなる。
これはTVドラマや、歴史小説を見ればお馴染み話だが、実際に火攻めをやる側にたって考えて見れば、火攻めをする目的も当然敵が受けるダメージの部分になる。孫子が火攻めの目的を5つあげているが、目的から見るより、火攻めを想像してみるほうが得心がいくだろう。考えて見れば、当たり前の話をしているだけだ。
加えるなら、最近はトランプ大統領や、金正恩でお馴染みとなったマッドマン・セオリーにも一役買う。例えば、織田信長は比叡山焼き討ちが有名だが、坊主をも殺すのでは何をされるか分からないとなれば、その名前を聞いただけで逃げたくもなる。これは戦国武将としては、相手の降伏を引き出す大きなメリットともなる。むごい事もできないのでは、相手に舐められ粘れると思われてしまい、戦争が長引いて被害が増すばかりだ。むごい事をするからこそ取引における譲歩が活き、戦争は早く終結する面も知らねばならない。火攻めはマッドマンの演出になるのである。
さて、では実際に火攻めをすると考えて見よう。どうしたら良いだろうか?敵だって防御はしているわけだから、単に宿舎に出向いて行って火をつけては見つかってしまう。敵の防備を掻い潜るには、敵に内応者が必要になるかも知れないし、スパイによる入念な現地調査が必要かも知れない。実際、歴史上の大戦果をあげる補給基地攻撃は、敵方の補給基地の役人が待遇への不満から情報提供者になっていたりする。
そして、火攻め出来るとしたら、次は当然どう火をつけるかという問題がでてくる。例えば、火矢なのか、薪を現地までもっていって油をかけて火をつけるのか、現地の状況によって用意するものも変わってくるだろう。こういった諸々を考えて、孫子は火攻めには事前の準備が必要だし、発火装置も予め用意しておかねばならないと説いているのである。
そして、火攻めは名前の通り火を利用した攻撃だから、天候の状態によって大きな影響をうける。例えば、雨の日に火をつけられるだろうか?このように火攻めを最大限有効にするためには、天候も考えねばらならない。そこで孫子があげているのは、以下2つとなる。
その1、乾燥する時期を選ぶ。
日本で言えば、梅雨時から夏と秋から冬では燃え方が全然違う。自分の感覚では火の勢いが2倍から3倍は違う。戦争は相手あっての事なため、乾燥する時期に戦争できるかは分からないが、乾燥した時期の火攻めはより強力な攻めとなる事は間違いない。恐らく消せなくなってしまうだろう。
その2、風を読む。
たき火をすると良く分かるのだが、火はちょっとした風にも横になびく。強風ともなれば、地面を這うように火が横に行くなびくのだから、たき火は風のない日に限る。ただ、逆に言えば火攻めは強風の日に限るわけだ。火が地面を這うよう横に流れるのを火攻めに利用しない手はない。孫子が言うには、風が起きる日はだいたい決まっていて、星座と月の位置関係で風が読めるそうだ。月が箕、壁、翼、軫にかかると次の日は風が起きると言うのだから恐ろしいものだ。箕、壁、翼、軫は中国の星座名となる。(二十八宿と言う。)
仕事で考えて見よう。火攻めを成功させる秘訣は、言わばインエリジェンスにあり、火攻めをする前の情報管理こそが勝敗の決め手となっている。単に火をつけにいって成功するはずがない。火をつけられるように敵の隙を窺うからこそ、火攻めという大技が成功するのである。火攻めの見た目の派手さに目を取られるのではなく、事前準備に目をやると見え方が変わるだろう。火攻めが威力よりも、火攻めを成功するべく成功させた準備こそが立派なのである。
仕事も同じで、準備8割と思って仕事に臨むと良い。いい仕事は下準備が決める。スーパープレーに目をやるのではなく、当たり前のことを当たり前にこなす凄さに気が付く事が孫子の兵法である。という訳で、今回は何が仕事の下準備なのかという話を紹介しよう。
思うに、仕事で最も大切な準備はプラス思考である。プラス思考ほど貴方を助けるものは無いだろう。究極のプラス思考を前にしたら、悪い事なんて起きようが無い。良い事しか起きない人生を送れるはずだ。こう言うと、そんなうまく行かないというかも知れない。確かにそうかも知れない。凹むのも人間味というものだ。
ただ、身に着けられるとしたらどうだろう?いきなりプラス思考のみの人間になるのは難しくても、人間はトレーニング次第でそなれるとしたらどうだろう?やってみる価値があると思わないか?
具体的な例を紹介しよう。例えば、笑ってみて欲しい。嘘の笑いで良いから、しばらく嘘笑いをして欲しい。楽しくなって来ないか?陽気にならないか?これが人間である。人間は楽しいから笑う動物と言うより、笑っていると楽しくなる動物なのである。だから、故・中村天風翁は言う。悲しい時は、努めて笑いなさい。そうすれば、悲しみのほうから逃げていくと。笑いは数多く動物がいるなかで、人間だけに与えられた特権だと言う。その特権を使わないのは、勿体ない。
例えば、暑い時は体はだれるかも知れない。だが、心までだれてはいけない。暑いからこそ余計に元気が出てきたと言う人間が良い。失敗した時、普通の人は凹むかもしれない。だからこそ、今日はこれを学ぶ機会を得たのかと言う人間が良い。そう言えるようになるポイントは笑ってしまう事。笑って心が陽気に傾けば、自然とそういう言葉も言えるようになる。ちょっとしたテクニックだが、覚えておくと役に立つ事もあるだろう。
---- 以下、余談 ----
織田信長の比叡山焼き討ちは無かったという説も有力の様子。焼き討ちすれば大量にでるはずの白骨が出てなかったり、当時の比叡山のボスは天皇の弟君であったので、比叡山焼き討ちをすると朝敵として四方八方から攻撃されかねない。でも、されていないのだからという訳だ。最近は織田信長も働き者で努力家だったと評価が見直される向きもあるが、葬式で親父の死体に灰をぶっかけるなど異常といわれる行動も、今で言えばマッドマンセオリーを考えての事だったのかも知れない。
何をするか分からないと思えばこそ相手は怖がるし、うつけと思われるからこそ油断を引き出せる。孫子の兵法に適った行動にも見える。
孫子曰く。「およそ火攻に五あり。一に曰く、人を火く、二に曰く積を火く、三に曰く、輜を火く、四に曰く、庫を火く、五に曰く、隊を火く。火を行なうには必ず因あり。煙火は必ず素より具う。火を発するに時あり、火を起こすに日あり。時とは天の燥けるなり。日とは月の箕、壁、翼、軫に在るなり。およそこの四宿は風起こるの日なり。」
【解説】
孫子曰く。「およそ火攻めの目的は5種類ある。一に人民を焼く事。二に物資や食料などの積み荷を焼く事。三に輸送部隊(輜)を焼く事。四に倉庫を焼く事。五に頓営を焼くなど隊を攻撃する事だ。
火攻めを行うには、必ず事前の準備(因)が必要となる。発火装置(煙火)は必ず予め備えなくてはならない(素具)。火をはなつ(発)には適した時期があり、火攻め(火起)に適した日がある。時期は乾燥した時期が良い(天燥)。日は月が箕、壁、翼、軫に在る時だ。およそこの星座に月がかかる時は(四宿)、風が起きる日となる。」
火攻めと言って誰でも思い浮かぶのは、城や宿舎を焼く事だろう。城を焼けば、城下町にいる人民は勿論焼け死ぬし、宿舎を焼けば保管されていた食料などの積み荷や、財宝や財貨、駐屯する部隊にそれぞれダメージがあるはず。当然のように輸送車両も燃えるし、武器も燃える。そして、そこは倉庫としても使えなくなる。
これはTVドラマや、歴史小説を見ればお馴染み話だが、実際に火攻めをやる側にたって考えて見れば、火攻めをする目的も当然敵が受けるダメージの部分になる。孫子が火攻めの目的を5つあげているが、目的から見るより、火攻めを想像してみるほうが得心がいくだろう。考えて見れば、当たり前の話をしているだけだ。
加えるなら、最近はトランプ大統領や、金正恩でお馴染みとなったマッドマン・セオリーにも一役買う。例えば、織田信長は比叡山焼き討ちが有名だが、坊主をも殺すのでは何をされるか分からないとなれば、その名前を聞いただけで逃げたくもなる。これは戦国武将としては、相手の降伏を引き出す大きなメリットともなる。むごい事もできないのでは、相手に舐められ粘れると思われてしまい、戦争が長引いて被害が増すばかりだ。むごい事をするからこそ取引における譲歩が活き、戦争は早く終結する面も知らねばならない。火攻めはマッドマンの演出になるのである。
さて、では実際に火攻めをすると考えて見よう。どうしたら良いだろうか?敵だって防御はしているわけだから、単に宿舎に出向いて行って火をつけては見つかってしまう。敵の防備を掻い潜るには、敵に内応者が必要になるかも知れないし、スパイによる入念な現地調査が必要かも知れない。実際、歴史上の大戦果をあげる補給基地攻撃は、敵方の補給基地の役人が待遇への不満から情報提供者になっていたりする。
そして、火攻め出来るとしたら、次は当然どう火をつけるかという問題がでてくる。例えば、火矢なのか、薪を現地までもっていって油をかけて火をつけるのか、現地の状況によって用意するものも変わってくるだろう。こういった諸々を考えて、孫子は火攻めには事前の準備が必要だし、発火装置も予め用意しておかねばならないと説いているのである。
そして、火攻めは名前の通り火を利用した攻撃だから、天候の状態によって大きな影響をうける。例えば、雨の日に火をつけられるだろうか?このように火攻めを最大限有効にするためには、天候も考えねばらならない。そこで孫子があげているのは、以下2つとなる。
その1、乾燥する時期を選ぶ。
日本で言えば、梅雨時から夏と秋から冬では燃え方が全然違う。自分の感覚では火の勢いが2倍から3倍は違う。戦争は相手あっての事なため、乾燥する時期に戦争できるかは分からないが、乾燥した時期の火攻めはより強力な攻めとなる事は間違いない。恐らく消せなくなってしまうだろう。
その2、風を読む。
たき火をすると良く分かるのだが、火はちょっとした風にも横になびく。強風ともなれば、地面を這うように火が横に行くなびくのだから、たき火は風のない日に限る。ただ、逆に言えば火攻めは強風の日に限るわけだ。火が地面を這うよう横に流れるのを火攻めに利用しない手はない。孫子が言うには、風が起きる日はだいたい決まっていて、星座と月の位置関係で風が読めるそうだ。月が箕、壁、翼、軫にかかると次の日は風が起きると言うのだから恐ろしいものだ。箕、壁、翼、軫は中国の星座名となる。(二十八宿と言う。)
仕事で考えて見よう。火攻めを成功させる秘訣は、言わばインエリジェンスにあり、火攻めをする前の情報管理こそが勝敗の決め手となっている。単に火をつけにいって成功するはずがない。火をつけられるように敵の隙を窺うからこそ、火攻めという大技が成功するのである。火攻めの見た目の派手さに目を取られるのではなく、事前準備に目をやると見え方が変わるだろう。火攻めが威力よりも、火攻めを成功するべく成功させた準備こそが立派なのである。
仕事も同じで、準備8割と思って仕事に臨むと良い。いい仕事は下準備が決める。スーパープレーに目をやるのではなく、当たり前のことを当たり前にこなす凄さに気が付く事が孫子の兵法である。という訳で、今回は何が仕事の下準備なのかという話を紹介しよう。
思うに、仕事で最も大切な準備はプラス思考である。プラス思考ほど貴方を助けるものは無いだろう。究極のプラス思考を前にしたら、悪い事なんて起きようが無い。良い事しか起きない人生を送れるはずだ。こう言うと、そんなうまく行かないというかも知れない。確かにそうかも知れない。凹むのも人間味というものだ。
ただ、身に着けられるとしたらどうだろう?いきなりプラス思考のみの人間になるのは難しくても、人間はトレーニング次第でそなれるとしたらどうだろう?やってみる価値があると思わないか?
具体的な例を紹介しよう。例えば、笑ってみて欲しい。嘘の笑いで良いから、しばらく嘘笑いをして欲しい。楽しくなって来ないか?陽気にならないか?これが人間である。人間は楽しいから笑う動物と言うより、笑っていると楽しくなる動物なのである。だから、故・中村天風翁は言う。悲しい時は、努めて笑いなさい。そうすれば、悲しみのほうから逃げていくと。笑いは数多く動物がいるなかで、人間だけに与えられた特権だと言う。その特権を使わないのは、勿体ない。
例えば、暑い時は体はだれるかも知れない。だが、心までだれてはいけない。暑いからこそ余計に元気が出てきたと言う人間が良い。失敗した時、普通の人は凹むかもしれない。だからこそ、今日はこれを学ぶ機会を得たのかと言う人間が良い。そう言えるようになるポイントは笑ってしまう事。笑って心が陽気に傾けば、自然とそういう言葉も言えるようになる。ちょっとしたテクニックだが、覚えておくと役に立つ事もあるだろう。
---- 以下、余談 ----
織田信長の比叡山焼き討ちは無かったという説も有力の様子。焼き討ちすれば大量にでるはずの白骨が出てなかったり、当時の比叡山のボスは天皇の弟君であったので、比叡山焼き討ちをすると朝敵として四方八方から攻撃されかねない。でも、されていないのだからという訳だ。最近は織田信長も働き者で努力家だったと評価が見直される向きもあるが、葬式で親父の死体に灰をぶっかけるなど異常といわれる行動も、今で言えばマッドマンセオリーを考えての事だったのかも知れない。
何をするか分からないと思えばこそ相手は怖がるし、うつけと思われるからこそ油断を引き出せる。孫子の兵法に適った行動にも見える。
2017年11月16日木曜日
孫子の兵法 九地編その8
8、始めは処女の如く、後は脱兎の如く
孫子曰く。「故に兵をなすの事は、敵の意に順詳し、敵を一向に併せて、千里に将を殺すにあり。これを巧みによく事を成すと謂うなり。
この故に政挙がるるの日、関を夷め符を折りて、その使を通ずることなく、廊廟の上に厲まし、以ってその事を誅む。敵人開闔すれば必ず亟やかにこれに入り、その愛する所を先にして微かにこれと期し、践墨して敵に随い、以って戦事を決す。この故に始めは処女の如くにして、敵人、戸を開き、後には脱兎の如くして、敵、拒ぐに及ばず。」
【解説】
孫子曰く。「そして、兵を動かす時は、敵の意にはまったふりをし(順詳)、敵のひたすら(一向)思い通りにしてやる(併)。油断を誘いながら千里先の敵将を殺すのである。これを巧妙な戦い方と言う。
開戦の日には(政挙)、関所を閉(夷)め通行許可証(符)を無効にし(折)、敵の使者を通す事をやめ、廊堂(廊廟)にて厳格に(厲)、敵の討伐に関する取り決めをする(誅)。敵が関所を開くなら(開闔)必ず速(亟)かに侵入し、敵の重要(愛)な拠点を先ず抑えるために密(微)かに狙いを定め(期)、墨縄を踏(践)むように敵に従ったふりをしながら(随)、勝敗(戦事)を決するのである。
初めは処女のように振る舞い、油断した敵が戸を開いたなら、脱兎のごとき素早さで攻め入ると、敵は防ぐことは出来ない。」
結論を言えば、敵を油断させた処を攻撃すると良いという話を孫子がしている。だから、油断させるために処女のような振る舞いをし、チャンスが来たら脱兎のごとき素早さで攻撃すると。身近な例と言えば、忠臣蔵のエピソードなどは典型例かも知れない。赤穂浪士は村人に馬鹿にされながらも、一切情報を漏らさずに決起の時を待つ。そして、決起するならば、脱兎のごとく吉良上野介を討った。
他には例えば、詐欺師を考えて見よう。詐欺ってのも頭を使うものらしい。何せいきなり詐欺の話をしても、誰も引っ掛からない。だから、詐欺師は最初の3分の2くらいは本当の話をするのを知っているだろうか?彼らはそうやって相手の信用を勝ちとり油断を誘い、油断をした処を見計らって詐欺に移るのである。TVで詐欺師の回りの人に、何故気づかなかったんですか?と聞くと、あの人が詐欺師には見えなかったと言ったりする。孤独な老人を世話する良い人が、実は腕の良い詐欺師だったりするのだ。これが処女を装うというイメージとなる。
人を見たら盗人と思えと言う言葉があるが、孫子はこれを裏から捉え、処女のように振る舞い敵を油断させろと言っている。では、以下解説する。
その1、やられたふりをする。
敵を倒したいならば無防備を突くのが良いのは言うまでもないが、現実には難しい問題となる。何せ相手は百戦錬磨の将軍である。こちらが嘘をつく事などお見通しだ。だが、そんな百戦錬磨の将軍も嘘のつき方によっては、つい油断する時がある。例えば、自軍が勝勢のときに、敗勢である敵の将軍が秘密裡に降伏してきて、身の保証と引き換えに財宝を贈って来た場合だ。ここまでされては油断するなと言う方が難しいと思わないか?
これは中国の古代史に歴然と輝く名将、田単の嘘である。流石と言えよう。通常では無防備になりえない敵を無防備にするのだから、智恵を絞らねばならない。智恵を絞られたしと孫子が言っている。
その2、あまりにも思った通りだと危ない。
恋人同士の会話でも、幸せすぎて怖いというセリフがあるだろう。いつか悪い事が起きるなんて甘い話もあるが、勝負事では実際に怖いという話をしよう。
あまりにも思った通りに事が運ぶと危ない。順調な時ほど慎重になったほうが良く、大抵は読み抜けがある。考えてもみて欲しい。敵は此方の嫌がる事をするはずなのに、自分が思った通りになっている。普通は狙いを外してきて、その都度、作戦を修正するのにその必要が無い。具体的にどこと言えないが、感覚的には気持ち悪くなる。大概こういう時は罠にはまっているものだ。それは何故か?
敵の思った通りにやらせて隙を窺うのが戦巧者だと、孫子が言ってるでは無いか。勝ったと、勝てそうは全く違うのである。
その3、情報戦
孫子は「敵人開闔すれば必ず亟やかにこれに入り」と言っているが、実際問題、何もせずに敵が関所の門を開く訳もなく、もし開いたなら謀を疑わねばならない。敵の関所の門が開くとすれば、兵の力で無理やり開いたか、情報戦の勝利を意味しよう。そこで情報戦に焦点をあてて考えて見たい。
戦争が始まったら、先ずは此方の情報を相手に与えないように情報を統制する。関所を閉め、通行許可証を無効にし、敵国の使いの往来を禁止する。廊堂とは聞きなれない言葉だが、政治を行う場所の事だ。そこで作戦会議をし、役割と責任を決たりする。要するに戦争に入る手順を説明している。こうして戦争準備が整っていくわけだが、特に重要なのは情報を外国に漏らさないようにする点である。
関所が通れなくなったのだから、敵国も異常事態にすぐ気付く。では、敵が戦争だと勘づいたとして、次は何をするだろうか?勿論、情報を集めたいと思うに違いない。誰が指揮をとり、兵の数はどれくらいで、新しい兵器はあるのか等詳細に戦争の情報を集めたいはず。そうなると、スパイを送ってくるか、予め潜入させておいたスパイから情報を得るのが自然である。
そこで、敵に嘘の情報を意図的に流すわけだ。ただ、敵に嘘を流すにも、あまりにも嘘すぎてはスパイが信じてくれない。だから、半分以上は本当の事で構成された情報を流す。本当の事をスパイは最も知りたいのだから、スパイの意に沿ってあげるために、本当のような嘘をつくのである。
とは言え、スパイから得た情報と此方の動きが一致しているかも、敵はチェックしている。だから、スパイに与えた情報どおりに、此方も動く必要がある。だから、与えた情報どおりに動き、敵を安心させて油断を誘うのである。しかし、あくまでも勝敗を決するタイミングを計っているだけと言うのが、孫子の言わんとしている「始めは処女のごとく、後は脱兎のごとく」のイメージとなる。
さて、仕事で考えて見よう。沈黙は金、雄弁は銀という言葉があるが、自分の意思を表示する事は良い事では無い。欧米流の考えが浸透するにしたがって、意見を言う人が尊ばれるようになる風潮だろうが、それでも勘違いしてはいけない。意見を言う人の主語が抜けているだろう?この場合の主語は自分では無く、上司である。どんな時代も自分の意見を言わぬ者こそが、やはり出世するのである。
YESマンは褒め言葉では無いが、逆に言えば、それだけYESマンは出世する。それだけYESマンは好かれる。日々YESマンに徹し、チャンスが来た時に飛べるように実力を磨くと良い。処女のごとく、脱兎のごとくである。遠くへ行く者は敵を作るなと言われる。努々注意するように。
---- 以下、余談 ----
1、開闔は開いて閉じるという意味で、通常は関所が開いて閉じる事を言うが、何故開いて閉じるかと言えば、偽情報に敵が油断するからであろう。開闔はスパイを表す隠語とも解釈できる。
2、「愛する所を先に」はスパイの欲する情報を先ず与えると解釈もできる。
3、践墨は、墨を踏む書いてあるが、墨縄の事だろう。縄に墨をつけて踏むと後が残る。それを目印に大工さんが木を加工したりする。それが転じて、践墨は規則とか決まりという意味合いを持つようになった。つまり、スパイに渡した情報どおり、もしくは約束どおりに動く事とも解釈できる。
孫子曰く。「故に兵をなすの事は、敵の意に順詳し、敵を一向に併せて、千里に将を殺すにあり。これを巧みによく事を成すと謂うなり。
この故に政挙がるるの日、関を夷め符を折りて、その使を通ずることなく、廊廟の上に厲まし、以ってその事を誅む。敵人開闔すれば必ず亟やかにこれに入り、その愛する所を先にして微かにこれと期し、践墨して敵に随い、以って戦事を決す。この故に始めは処女の如くにして、敵人、戸を開き、後には脱兎の如くして、敵、拒ぐに及ばず。」
【解説】
孫子曰く。「そして、兵を動かす時は、敵の意にはまったふりをし(順詳)、敵のひたすら(一向)思い通りにしてやる(併)。油断を誘いながら千里先の敵将を殺すのである。これを巧妙な戦い方と言う。
開戦の日には(政挙)、関所を閉(夷)め通行許可証(符)を無効にし(折)、敵の使者を通す事をやめ、廊堂(廊廟)にて厳格に(厲)、敵の討伐に関する取り決めをする(誅)。敵が関所を開くなら(開闔)必ず速(亟)かに侵入し、敵の重要(愛)な拠点を先ず抑えるために密(微)かに狙いを定め(期)、墨縄を踏(践)むように敵に従ったふりをしながら(随)、勝敗(戦事)を決するのである。
初めは処女のように振る舞い、油断した敵が戸を開いたなら、脱兎のごとき素早さで攻め入ると、敵は防ぐことは出来ない。」
結論を言えば、敵を油断させた処を攻撃すると良いという話を孫子がしている。だから、油断させるために処女のような振る舞いをし、チャンスが来たら脱兎のごとき素早さで攻撃すると。身近な例と言えば、忠臣蔵のエピソードなどは典型例かも知れない。赤穂浪士は村人に馬鹿にされながらも、一切情報を漏らさずに決起の時を待つ。そして、決起するならば、脱兎のごとく吉良上野介を討った。
他には例えば、詐欺師を考えて見よう。詐欺ってのも頭を使うものらしい。何せいきなり詐欺の話をしても、誰も引っ掛からない。だから、詐欺師は最初の3分の2くらいは本当の話をするのを知っているだろうか?彼らはそうやって相手の信用を勝ちとり油断を誘い、油断をした処を見計らって詐欺に移るのである。TVで詐欺師の回りの人に、何故気づかなかったんですか?と聞くと、あの人が詐欺師には見えなかったと言ったりする。孤独な老人を世話する良い人が、実は腕の良い詐欺師だったりするのだ。これが処女を装うというイメージとなる。
人を見たら盗人と思えと言う言葉があるが、孫子はこれを裏から捉え、処女のように振る舞い敵を油断させろと言っている。では、以下解説する。
その1、やられたふりをする。
敵を倒したいならば無防備を突くのが良いのは言うまでもないが、現実には難しい問題となる。何せ相手は百戦錬磨の将軍である。こちらが嘘をつく事などお見通しだ。だが、そんな百戦錬磨の将軍も嘘のつき方によっては、つい油断する時がある。例えば、自軍が勝勢のときに、敗勢である敵の将軍が秘密裡に降伏してきて、身の保証と引き換えに財宝を贈って来た場合だ。ここまでされては油断するなと言う方が難しいと思わないか?
これは中国の古代史に歴然と輝く名将、田単の嘘である。流石と言えよう。通常では無防備になりえない敵を無防備にするのだから、智恵を絞らねばならない。智恵を絞られたしと孫子が言っている。
その2、あまりにも思った通りだと危ない。
恋人同士の会話でも、幸せすぎて怖いというセリフがあるだろう。いつか悪い事が起きるなんて甘い話もあるが、勝負事では実際に怖いという話をしよう。
あまりにも思った通りに事が運ぶと危ない。順調な時ほど慎重になったほうが良く、大抵は読み抜けがある。考えてもみて欲しい。敵は此方の嫌がる事をするはずなのに、自分が思った通りになっている。普通は狙いを外してきて、その都度、作戦を修正するのにその必要が無い。具体的にどこと言えないが、感覚的には気持ち悪くなる。大概こういう時は罠にはまっているものだ。それは何故か?
敵の思った通りにやらせて隙を窺うのが戦巧者だと、孫子が言ってるでは無いか。勝ったと、勝てそうは全く違うのである。
その3、情報戦
孫子は「敵人開闔すれば必ず亟やかにこれに入り」と言っているが、実際問題、何もせずに敵が関所の門を開く訳もなく、もし開いたなら謀を疑わねばならない。敵の関所の門が開くとすれば、兵の力で無理やり開いたか、情報戦の勝利を意味しよう。そこで情報戦に焦点をあてて考えて見たい。
戦争が始まったら、先ずは此方の情報を相手に与えないように情報を統制する。関所を閉め、通行許可証を無効にし、敵国の使いの往来を禁止する。廊堂とは聞きなれない言葉だが、政治を行う場所の事だ。そこで作戦会議をし、役割と責任を決たりする。要するに戦争に入る手順を説明している。こうして戦争準備が整っていくわけだが、特に重要なのは情報を外国に漏らさないようにする点である。
関所が通れなくなったのだから、敵国も異常事態にすぐ気付く。では、敵が戦争だと勘づいたとして、次は何をするだろうか?勿論、情報を集めたいと思うに違いない。誰が指揮をとり、兵の数はどれくらいで、新しい兵器はあるのか等詳細に戦争の情報を集めたいはず。そうなると、スパイを送ってくるか、予め潜入させておいたスパイから情報を得るのが自然である。
そこで、敵に嘘の情報を意図的に流すわけだ。ただ、敵に嘘を流すにも、あまりにも嘘すぎてはスパイが信じてくれない。だから、半分以上は本当の事で構成された情報を流す。本当の事をスパイは最も知りたいのだから、スパイの意に沿ってあげるために、本当のような嘘をつくのである。
とは言え、スパイから得た情報と此方の動きが一致しているかも、敵はチェックしている。だから、スパイに与えた情報どおりに、此方も動く必要がある。だから、与えた情報どおりに動き、敵を安心させて油断を誘うのである。しかし、あくまでも勝敗を決するタイミングを計っているだけと言うのが、孫子の言わんとしている「始めは処女のごとく、後は脱兎のごとく」のイメージとなる。
さて、仕事で考えて見よう。沈黙は金、雄弁は銀という言葉があるが、自分の意思を表示する事は良い事では無い。欧米流の考えが浸透するにしたがって、意見を言う人が尊ばれるようになる風潮だろうが、それでも勘違いしてはいけない。意見を言う人の主語が抜けているだろう?この場合の主語は自分では無く、上司である。どんな時代も自分の意見を言わぬ者こそが、やはり出世するのである。
YESマンは褒め言葉では無いが、逆に言えば、それだけYESマンは出世する。それだけYESマンは好かれる。日々YESマンに徹し、チャンスが来た時に飛べるように実力を磨くと良い。処女のごとく、脱兎のごとくである。遠くへ行く者は敵を作るなと言われる。努々注意するように。
---- 以下、余談 ----
1、開闔は開いて閉じるという意味で、通常は関所が開いて閉じる事を言うが、何故開いて閉じるかと言えば、偽情報に敵が油断するからであろう。開闔はスパイを表す隠語とも解釈できる。
2、「愛する所を先に」はスパイの欲する情報を先ず与えると解釈もできる。
3、践墨は、墨を踏む書いてあるが、墨縄の事だろう。縄に墨をつけて踏むと後が残る。それを目印に大工さんが木を加工したりする。それが転じて、践墨は規則とか決まりという意味合いを持つようになった。つまり、スパイに渡した情報どおり、もしくは約束どおりに動く事とも解釈できる。
2017年11月14日火曜日
孫子の兵法 九地編その7
7、死地に陥れて然る後に生く
孫子曰く。「この故に諸侯の謀を知らざる者は、予め交わること能わず。山林、険阻、沮沢の形を知らざる者は、軍を行ること能わず。郷導を用いざる者は、地の利を得ること能わず。四五の者一を知らざれば、覇王の兵にはあらざるなり。それ覇王の兵、大国を伐たば、則ちその衆聚まることを得ず。威、敵に加うれば、則ちその交わり、合することを得ず。この故に天下の交わりを争わず、天下の権を養わず、己れの私を信べ、威、敵に加わる。故にその城は抜くべく、その国は堕るべし。
無法の賞を施し、無政の令を懸け、三軍の衆を犯すこと一人を使うが若し。これを犯すに事を以ってし、告ぐるに言を以ってすることなかれ。これを犯すに利を以ってし、告ぐるに害を以ってすることなかれ。これを亡地に投じて然る後に存し、これを死地に陥れて然る後に生く。それ衆は害に陥りて、然る後によく勝敗をなす。」
【解説】
前提条件
孫子曰く。「したがって、外国(諸侯)の腹の内(謀)も知らない者では、予め外交して有利な戦況を作る事は出来ない。山林や絶壁などの険しい場所(険阻)、沼沢地(阻沢)を知らない者では、軍を行軍させる事もままならない。土地に詳しい者(郷導)を先導者として用いない者に、敵に先んじて地の利を得られるはずが無い。以上、戦場によって4者から5者と必要な要素は変わるが、この内一つでも知らないものがあれば覇王の兵とはなら無い(非)。
覇王の兵が大国に攻め入れば(伐)、その国は兵を集める事(衆聚)もままならない。威圧を敵国に加えれば、敵国は同盟(交)を結ぶ(合)事もままならない。そのため、諸外国(天下)と外交を争うことなく、天下の覇権を養わずとも、己の思いのままに振る舞えば(私信)、それが威圧となり敵を圧倒する(加)。だからこそ敵の城が落ち(抜)、敵国を滅ぼす事が出来るのだ(堕)。
通例(法)に無い報奨を与え(施)、臨時(無法)の規則や命令を駆使する事で(懸)、全軍(三軍)を一人の人間のように使う事が出来る。兵を動かす時は命令(事)のみを伝え、理由(言)を告げてはならない。兵を動かす時は有利な状況だけを伝え、不利(害)な状況を告げてはならない。兵は滅亡の危機に投じると、自然に存続するものであり、死を覚悟すると、自然に生き延びるのである。兵(衆)は危機的な状況(害)に陥ると、自然に勝敗を決するような戦いをするのだ。」
今回のテーマ
したがって、覇王の軍は思うままに振る舞えば良い。外交では相手から頭を下げてくるし、天下への覇権を積み上げずとも自ずとそうなる。常勝という評判に恐れをなした敵城は降伏し、他国から援助を受けれない敵国は滅亡すると孫子は説いている。
その2、常用外の報奨と罰則
そもそも戦争とは刻一刻と戦況が変わるものである。その戦争に対し、常に最適なルールなど存在しない。将の性格や集まったメンバーによっても違うし、戦況が有利か不利かによっても違う。臨機応変に賞罰を変える事も将の腕の見せ所なのだ。
例えば、報奨だが、やはり金払いの良さは人をやる気にさせる。金は面白いもので、長期的には多く出せば良いと言うものでは無い。人は金額に慣れるからだ。普通より多い金額をもらっているはずなのに、慣れると不平不満を言い出すのが人間である。だが、短期的には起爆剤となるもの。規則で決まっている額より多く出せば、兵はここぞとばかりに頑張る事だろう。うちの将は話が分かるとなり、結束が強まるのである。
次は罰を考えて見る。常識とはその地域によって違うもの。ある地域では掠奪が良いとされても、他の地域では略奪が悪いとされたりする。例えば、盗賊を兵として雇った時に、掠奪はいけないと諭して何になるか?近日中に戦いをしなければならないのに、火に水をくべるような真似であろう。規則も相手を見て臨機応変にすべきなのだ。
中国の古代史を見ると、漢の時代に李広と、程不識という名将がいた。李広はもらった報奨を兵に与えたし、衣食住を共にし、規則もゆるやかで兵が自由奔放だったようだ。ただ、李広のためなら喜んで命を投げ出す者ばかりだったと言う。通常そういう軍では隙を突かれ瓦解しそうなものだが、彼は斥候を上手に用いたらしく、不意を突かれる事は無かったようだ。言わば、メリハリのついた軍だったのだ。
一方、程不識のほうは、厳しい管理の元で軍を統治した。帳簿はしっかり付けたし、夜も厳重な警戒を怠らず、まさに鉄壁と呼べる軍であったと言う。兵は常にピリピリして、緊張していたそうだ。李広と比べると息苦しい軍であるが、程不識も常勝の軍である。信賞必罰は武門のよって立つ所だが、その程度は将の采配であり、絶対のやり方は無いと知る事が兵を動かすコツになると、孫子は説いているのである。
その3、兵は騙すもの
兵には作戦行動の理由は伝えず、命令のみを下す。有利な状況のみを伝え、不利な状況は伝えてはならないと孫子は説く。孫子の時代の兵士は、昨日まで農民だった者が大半である。字も読めないのに詳しい説明をして分かるはずが無い。不利な状況を伝えないのは、兵の恐怖を煽らないためであろう。兵とて命が惜しくないわけではない。止むを得ないから兵として参加しているのだ。そこに不利な状況を伝えるなら、恐怖から逃げ出してしまうだろう。兵には有利な状況のみを伝え、逃げ道を断ってから本当の事を言うのである。
仕事で考えて見よう。仕事でも孫子の説く、通例にこだわらない変化こそが人を動かすという感覚は大切となる。一言で言えば、ゲーム性である。お客さんの視点に立てばワクワク感は大切だ。この店にはかゆい所に手が届くものがあるとか、面白いものがあると思えば、足を運ぶものだ。この典型的なものには遊園地がある。つまり、遊園地は孫子の兵法を上手く適用していると言える。例えば、ディズニーランドを考えて見よう。
ディズニーランドは永遠に未完成なのを知っているだろうか?ディズニーランドは絶対に完成はしない。もう数十年はやってるのだ。完成してもよさそうなものだが、一向に完成しない。その理由は人は飽きるからである。どんなに面白いアトラクションでも、人は必ず飽きてしまう。だから、ディズニーランドでは常に未完成で何かしら工事中なのだ。お客さんが来るたびに新しい発見があるようにしているのである。
孫子は有能な将軍は通例にとらわれず、臨機応変に報奨と罰則を設けると説いているが、会社は戦争よりも長い戦いが想定される。その中では、こういった飽きさせない処方箋も必要となってくるのである。人は飽きる生き物だが、ワクワクする事を望む。この2つの気持を上手く満たすのが商売上手なのだ。
なお、これはお客さんに対してだけでなく、従業員に対しても同じ事が言える。従業員の士気を高く保ちたかったら、飽きるという人間の性質にも目を向けて、常に更新していく心構えが必須だ。そして、後手になるのではなく、先手を打つことを心掛ければ働きたい会社になるだろう。そういう考え方を紹介してみた。
---- 以下、余談 ----
孫子の言う「三軍の衆を犯すこと」の犯すのニュアンスが良く分からなかったが、恐らく法を犯すと言う意味だと思われる。通例や規則にない報奨や罰則が、兵を手足のごとく動かす秘訣となるという話をしているため、兵に法を犯させるというニュアンスではないだろうか?臨時とは言えば聞こえは良いが、将軍の都合で法を犯す事には変わりない。
孫子曰く。「この故に諸侯の謀を知らざる者は、予め交わること能わず。山林、険阻、沮沢の形を知らざる者は、軍を行ること能わず。郷導を用いざる者は、地の利を得ること能わず。四五の者一を知らざれば、覇王の兵にはあらざるなり。それ覇王の兵、大国を伐たば、則ちその衆聚まることを得ず。威、敵に加うれば、則ちその交わり、合することを得ず。この故に天下の交わりを争わず、天下の権を養わず、己れの私を信べ、威、敵に加わる。故にその城は抜くべく、その国は堕るべし。
無法の賞を施し、無政の令を懸け、三軍の衆を犯すこと一人を使うが若し。これを犯すに事を以ってし、告ぐるに言を以ってすることなかれ。これを犯すに利を以ってし、告ぐるに害を以ってすることなかれ。これを亡地に投じて然る後に存し、これを死地に陥れて然る後に生く。それ衆は害に陥りて、然る後によく勝敗をなす。」
【解説】
前提条件
- おかれている状況によって、用兵は変わる。(九地)
- 兵は死地になれば、異常な力を発揮する。
孫子曰く。「したがって、外国(諸侯)の腹の内(謀)も知らない者では、予め外交して有利な戦況を作る事は出来ない。山林や絶壁などの険しい場所(険阻)、沼沢地(阻沢)を知らない者では、軍を行軍させる事もままならない。土地に詳しい者(郷導)を先導者として用いない者に、敵に先んじて地の利を得られるはずが無い。以上、戦場によって4者から5者と必要な要素は変わるが、この内一つでも知らないものがあれば覇王の兵とはなら無い(非)。
覇王の兵が大国に攻め入れば(伐)、その国は兵を集める事(衆聚)もままならない。威圧を敵国に加えれば、敵国は同盟(交)を結ぶ(合)事もままならない。そのため、諸外国(天下)と外交を争うことなく、天下の覇権を養わずとも、己の思いのままに振る舞えば(私信)、それが威圧となり敵を圧倒する(加)。だからこそ敵の城が落ち(抜)、敵国を滅ぼす事が出来るのだ(堕)。
通例(法)に無い報奨を与え(施)、臨時(無法)の規則や命令を駆使する事で(懸)、全軍(三軍)を一人の人間のように使う事が出来る。兵を動かす時は命令(事)のみを伝え、理由(言)を告げてはならない。兵を動かす時は有利な状況だけを伝え、不利(害)な状況を告げてはならない。兵は滅亡の危機に投じると、自然に存続するものであり、死を覚悟すると、自然に生き延びるのである。兵(衆)は危機的な状況(害)に陥ると、自然に勝敗を決するような戦いをするのだ。」
今回のテーマ
- 将軍は九地を知らないでは済まされない
- 覇王の軍
- 常用外の報奨や罰則が軍を操るコツ
- 兵は死地にて本領を発揮する
このうち、将軍は九地を知らないで済まれない事と、兵は死地にて本領を発揮する事は、以前の繰り返しとなるため割愛する。
その1、覇王の軍
覇王の覇という字には、武力によってという意味あいがある。王は天下を治める者の意味であるから、覇王とは武力をもって天下を統治する者を言う。覇王の軍とは、言わば常勝の軍という事だろう。
常勝の軍には、およそ欠点と呼べるものがあってはならない。外交が弱くては、戦う前に負けてしまう。九地の性質を知らないのでは、用兵の勝手が分からないだろう。土地に詳しい者を重用せずに、どうして地の利を得る事が出来ようか。全てを網羅してこそ、常勝の下地が作られるのである。
常勝という評判は、それだけで敵を震え上がらせる。敵国を攻めれば、敵国は兵を集めるのにも苦労する事になるし、同盟を結ぼうにも割りに合わないと断られてしまう。常勝と言う評判は、敵の弱体化を促すのである。
したがって、覇王の軍は思うままに振る舞えば良い。外交では相手から頭を下げてくるし、天下への覇権を積み上げずとも自ずとそうなる。常勝という評判に恐れをなした敵城は降伏し、他国から援助を受けれない敵国は滅亡すると孫子は説いている。
その2、常用外の報奨と罰則
そもそも戦争とは刻一刻と戦況が変わるものである。その戦争に対し、常に最適なルールなど存在しない。将の性格や集まったメンバーによっても違うし、戦況が有利か不利かによっても違う。臨機応変に賞罰を変える事も将の腕の見せ所なのだ。
例えば、報奨だが、やはり金払いの良さは人をやる気にさせる。金は面白いもので、長期的には多く出せば良いと言うものでは無い。人は金額に慣れるからだ。普通より多い金額をもらっているはずなのに、慣れると不平不満を言い出すのが人間である。だが、短期的には起爆剤となるもの。規則で決まっている額より多く出せば、兵はここぞとばかりに頑張る事だろう。うちの将は話が分かるとなり、結束が強まるのである。
次は罰を考えて見る。常識とはその地域によって違うもの。ある地域では掠奪が良いとされても、他の地域では略奪が悪いとされたりする。例えば、盗賊を兵として雇った時に、掠奪はいけないと諭して何になるか?近日中に戦いをしなければならないのに、火に水をくべるような真似であろう。規則も相手を見て臨機応変にすべきなのだ。
中国の古代史を見ると、漢の時代に李広と、程不識という名将がいた。李広はもらった報奨を兵に与えたし、衣食住を共にし、規則もゆるやかで兵が自由奔放だったようだ。ただ、李広のためなら喜んで命を投げ出す者ばかりだったと言う。通常そういう軍では隙を突かれ瓦解しそうなものだが、彼は斥候を上手に用いたらしく、不意を突かれる事は無かったようだ。言わば、メリハリのついた軍だったのだ。
一方、程不識のほうは、厳しい管理の元で軍を統治した。帳簿はしっかり付けたし、夜も厳重な警戒を怠らず、まさに鉄壁と呼べる軍であったと言う。兵は常にピリピリして、緊張していたそうだ。李広と比べると息苦しい軍であるが、程不識も常勝の軍である。信賞必罰は武門のよって立つ所だが、その程度は将の采配であり、絶対のやり方は無いと知る事が兵を動かすコツになると、孫子は説いているのである。
その3、兵は騙すもの
兵には作戦行動の理由は伝えず、命令のみを下す。有利な状況のみを伝え、不利な状況は伝えてはならないと孫子は説く。孫子の時代の兵士は、昨日まで農民だった者が大半である。字も読めないのに詳しい説明をして分かるはずが無い。不利な状況を伝えないのは、兵の恐怖を煽らないためであろう。兵とて命が惜しくないわけではない。止むを得ないから兵として参加しているのだ。そこに不利な状況を伝えるなら、恐怖から逃げ出してしまうだろう。兵には有利な状況のみを伝え、逃げ道を断ってから本当の事を言うのである。
仕事で考えて見よう。仕事でも孫子の説く、通例にこだわらない変化こそが人を動かすという感覚は大切となる。一言で言えば、ゲーム性である。お客さんの視点に立てばワクワク感は大切だ。この店にはかゆい所に手が届くものがあるとか、面白いものがあると思えば、足を運ぶものだ。この典型的なものには遊園地がある。つまり、遊園地は孫子の兵法を上手く適用していると言える。例えば、ディズニーランドを考えて見よう。
ディズニーランドは永遠に未完成なのを知っているだろうか?ディズニーランドは絶対に完成はしない。もう数十年はやってるのだ。完成してもよさそうなものだが、一向に完成しない。その理由は人は飽きるからである。どんなに面白いアトラクションでも、人は必ず飽きてしまう。だから、ディズニーランドでは常に未完成で何かしら工事中なのだ。お客さんが来るたびに新しい発見があるようにしているのである。
孫子は有能な将軍は通例にとらわれず、臨機応変に報奨と罰則を設けると説いているが、会社は戦争よりも長い戦いが想定される。その中では、こういった飽きさせない処方箋も必要となってくるのである。人は飽きる生き物だが、ワクワクする事を望む。この2つの気持を上手く満たすのが商売上手なのだ。
なお、これはお客さんに対してだけでなく、従業員に対しても同じ事が言える。従業員の士気を高く保ちたかったら、飽きるという人間の性質にも目を向けて、常に更新していく心構えが必須だ。そして、後手になるのではなく、先手を打つことを心掛ければ働きたい会社になるだろう。そういう考え方を紹介してみた。
---- 以下、余談 ----
孫子の言う「三軍の衆を犯すこと」の犯すのニュアンスが良く分からなかったが、恐らく法を犯すと言う意味だと思われる。通例や規則にない報奨や罰則が、兵を手足のごとく動かす秘訣となるという話をしているため、兵に法を犯させるというニュアンスではないだろうか?臨時とは言えば聞こえは良いが、将軍の都合で法を犯す事には変わりない。
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