2017年12月2日土曜日

六根清争の大祓 その2

3、諸々の法は、影と像のごとし。清く淨ければ、仮にも穢るること無し。説を取らば得べからず。皆花よりぞ木の実とは生る。わが身はすなわち六根清浄なり。

諸々の自然現象は、心を映す影、もしくは心を象る像のようなものである。心が清く、そして清らかに保っていくならば、仮にも汚れる事は無い。言葉で理解しようとしても分からないかも知れないが、この世の全ての現象は綺麗な花が咲く種のようなものなのだ。なればこそ我が六根を清浄し、心を清く浄らかに保つのである。


【解説】

この世は鏡のようなものであると言う。心が悲しみであふれていれば、景色は何処か物悲し気に見え、心晴れやかなれば雨でさえ陽気な彩を見せる。相手を嫌な奴と思えば大概は相手からも嫌がられるし、相手に好意的に接すれば相手からも好意的に接してもらえる。分かるだろうか?貴方の心象風景をそのまま投影するのが世界なのだ。まさに映し鏡の世界である。

考えてもみて欲しい。悲し気な景色というものが、この世に存在するだろうか?心がせつない時は、誰かの笑い声さえ自分のせつなさを増す声になる。だが、笑っている本人は楽しいはずだ。同じ空間にいても、人によっては楽しくもあり、人によってはせつなくもある。見える景色は人によって変わるのだ。嫌な奴も同じだ。自分は嫌な奴と思っていても、その相手にも家族がいて、恋人がいて、友人がいる。本当に嫌な奴なのだろうか?人によってその人間の評価は変わるのである。

この世界には良いとか、悪いという概念はない。言わば世界は中立であって、ただただ物理現象が起きているだけである。それが悲しげに見えるなら、悲しげと決めているのは自分であり、陽気に見えるなら陽気と決めているのは自分である。この事に気づく事が最大のポイントとなる。つまり、世界は中立なれど、良いか悪いかは自分の心が決めている。他人から見た世界と、自分から見た世界は違うのだ。

シェイクスピアの言うように、人生では誰しも一つの役を演じなければならないなら、自分の世界では自分が言わば劇の主役である。そして演出家、脚本家もかね、何もかも自分が決めている。人間は神の依り代、自分の心は神からの預かり物であるというイメージが伝わるだろうか?少なくとも貴方の世界では、貴方が全ての良し悪しの決定権を持つ神とも言うべき存在なのだ。

人生には悪い事は起きない。なぜなら自分で良いか悪いかを決める事ができるから。決める権利があるのだから、良いと決めれば良いだけだ。これを祝詞では、「皆花よりぞ木の実とは生る」と表現していて、全ての事は綺麗な花が咲く種のようなものだと言うのである。何故綺麗な花が咲く種になるのか?自分の世界では、自分が全て決めれるからである。綺麗な花が咲いたと解釈すれば良いだけなのだ。

世界は影のようなもので、自分が清らかならば世界は汚れる事はなく、皆綺麗な花がさく種のようなものと祝詞では言ってるが、まさにその通りであろう。なんせ自分でそう決めるだけなのだから。そして、なればこそ自分を清く保つよう精進するのである。最後に具体的な例をあげておく。

例えば、先生や上司に怒られたとしよう。ある人は怒られたと愚痴をこぼすが、ある人は目をかけてくれていると喜ぶ。怒るという事は、まだ見捨てていないとも言える。見捨てたら人間は無視をするのだから。要は考え方一つである。どちらの解釈にするかは自分で決めるのである。後者で解釈できる人にとっては、怒られた事は言わば種であり、清らかな心を養分として綺麗な花が咲くのだ。



---- 仏教的追記 ----

諸々の法は分別がつくりだす影のようなもの。無心なれば法すらない。この感覚は言葉にできるようなものではないが、花が実を結ぶ姿にありありと現れている。それが分かるなら、何故ゆえに清浄という字をあてがうかも分かるだろう。










---- 以下、余談 ----

この話は真実であって嘘ではない。だが、得心がいくかは人によっては違うだろう。そんな馬鹿な話と思う人もいるし、そんなうまく行くわけないと思う人もいて、素直に納得する人もいる。それ故に「説を取らば得べからず」と祝詞は言っている。本当の話だが、説明して納得してもらえるかは分からないのである。

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