4、六根清浄なるがゆえに、五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるがゆえに、天地の神と同根なり。天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり。万物の霊と同体なるがゆえに、成すところの願いとして成就せずということ無し。無上霊宝神道加持。
六根が清く浄らかであるから、五臓を司る神君も安寧となる。五臓を司る神君が安寧であるから、天地の神と同根となる。天地の神と同根であるから、万物の霊と同体となる。万物の霊と同体であるから、我が願いが成就しないという事も無いのだ。神道の教えは、この上のない霊宝である。
【解説】
その1、五臓の神君安寧
六根が清ければ心が澄み切り、ストレスがなくなり内蔵(五臓)のバランスが整う。御存知のようにストレスは万病の元で、典型的には胃潰瘍がストレスによる内蔵浸食かも知れない。これに限らずストレスを感じながら生きると病気になりやすい。免疫力がおち風邪をひきやすくなったり、癌など日本人の国民病も誘発する。何故ならストレスの原因は毒物だからである。
ストレスと言うのは、脳内における毒物への拒否反応だ。興奮するとアドレナリンが分泌されるという話は有名だが、アドレナリンこそ実は代表的な毒物となる。その毒たるや毒蛇の数倍の毒だというから驚いたものだ。人間は脳で毒物を自ら発生させるが、健康な細胞は毒物へ拒否反応を起こすため、その拒否反応がストレスの原因なのである。その毒物が発生しないのなら、五臓を統治している神君も安寧であるのは当然であろう。
余談だが、人間は脳で発生させた毒物を口から希釈して吐いている。よく悪口を言う事を毒を吐くと言うが、これは比喩でも何でもなく本当に毒を吐いている。南の島に現存する原住民などは、口から吐く毒をつかって木を切る事もあるのだ。彼らは通常は斧で木を切っているが、樹齢1000年という大木になると斧では切る事が難しい。そこで、口から吐く毒を上手く利用するのである。
彼らにはシャーマンみたいな特別な職があるらしく、切りたい木の回りをシャーマン達が取り囲み、一日中罵声を浴びせるのである。勿論一日でどうなるものでもないが、これを1か月、2か月と続けるとどんな屈強な木でもシナシナと弱まり倒れてしまうのだそうだ。今の日本ではそんな発想を思いつかないが、嘘のような本当の話だ。人間が進化の過程で、爬虫類だったころの名残と言われている。
さて、話を戻そう。五臓の神君が安寧である時、人は健やかで景色がより済んで見えるもの。綺麗なものはより鮮やかに見え、時には感動すら覚える。そして、普段人は気に留めないが、これは天照大神(太陽)の恩恵なのである。
その2、天地の神と同根
何故ゆえに人は太陽の光に親しみを感じ、安心を覚えるのだろうか?例えば、ダイヤモンドが好まれる理由も光の反射ゆえであろう。人間はどうも光が好きなのである。その理由を考えるに、もしかしたら光に対する同族意識なのかも知れない。
人に限らず、全ての生き物は太陽の光から生まれた。例えば、人の進化の過程を紐解くと、もともとは古代の海にいたヴァクテリアだと言われる。ヴァクテリアが光のエネルギーを得て、数十億年の月日をかけて人まで進化してきた。その中では爬虫類や両生類にとどまった者もいるし、分岐して野生動物になった者もいる。そして、ある者は植物へと進化した者もいるのである。
この進化の過程を光のエネルギーという一点だけで考えて見ると、なぜ天地の神と同根なのかの理由がはっきり分かってくる。それはどの種の動植物を見ても、最初は単なる細胞があっただけで、その細胞が光のエネルギーを吸収する所から始まるからだ。これは言わば、光というエネルギーがその細胞内で変換されて留まったに過ぎないとも言える。変換された後に人は光とは言わないだけで、元来それは光のエネルギーなのである。
人は野菜を食べるが、野菜は光を浴び光合成をしながら成長する。野菜は光を光合成によって自らのエネルギーに変えるが、光のエネルギーが光以外の形に変換されて野菜にとどまったにすぎない。人が野菜を食べるとは、光のエネルギーを野菜という形で摂取するという事でもあるのだ。勿論、動物も同じ理屈である。
このように人は、光のエネルギーが野菜や動物と様々な形に変換され留まった物を食べて生きている。人は直接的にも間接的にも光の恩恵を受けているのである。人は光のエネルギーを自らの力にする事で進化してきたし、今なお光のエネルギーを様々な形で摂取して生きている。だからこそ、人は光に親しみを感じ、安らぎを覚えるのでは無いだろうか?日本では古来より八百万の神がいると考えて来た理由も、光に注目して考えて見れば自然な成り行きとなるのである。光こそ天照大御神であり、故に天地の神と同根なのだ。
その3、万物の霊と同体
人は天地の神と同根であるから、万物の霊も同じく光の恩恵によって生じる。故に光のエネルギーと言う意味で同体となる。そして、我は万物の霊と同体、言い換えれば、かくも美しくエネルギーに満ちた天地自然と同体なのだ。叶わぬ願いがあるはずが無いだろうと祝詞は言っている。(解釈に国誉めの風習をエッセンスとして加えて見た。)
---- 仏教的追記 ----
六根が清く浄らかであるから、五臓を司る神君も安寧となる。五臓を司る神君が安寧であるから、天地の神と同根となる。天地の神と同根であるから、万物の霊と同体となる。万物の霊と同体であるから、我が願いが成就しないという事も無いのだ。神道の教えは、この上のない霊宝である。
【解説】
その1、五臓の神君安寧
六根が清ければ心が澄み切り、ストレスがなくなり内蔵(五臓)のバランスが整う。御存知のようにストレスは万病の元で、典型的には胃潰瘍がストレスによる内蔵浸食かも知れない。これに限らずストレスを感じながら生きると病気になりやすい。免疫力がおち風邪をひきやすくなったり、癌など日本人の国民病も誘発する。何故ならストレスの原因は毒物だからである。
ストレスと言うのは、脳内における毒物への拒否反応だ。興奮するとアドレナリンが分泌されるという話は有名だが、アドレナリンこそ実は代表的な毒物となる。その毒たるや毒蛇の数倍の毒だというから驚いたものだ。人間は脳で毒物を自ら発生させるが、健康な細胞は毒物へ拒否反応を起こすため、その拒否反応がストレスの原因なのである。その毒物が発生しないのなら、五臓を統治している神君も安寧であるのは当然であろう。
余談だが、人間は脳で発生させた毒物を口から希釈して吐いている。よく悪口を言う事を毒を吐くと言うが、これは比喩でも何でもなく本当に毒を吐いている。南の島に現存する原住民などは、口から吐く毒をつかって木を切る事もあるのだ。彼らは通常は斧で木を切っているが、樹齢1000年という大木になると斧では切る事が難しい。そこで、口から吐く毒を上手く利用するのである。
彼らにはシャーマンみたいな特別な職があるらしく、切りたい木の回りをシャーマン達が取り囲み、一日中罵声を浴びせるのである。勿論一日でどうなるものでもないが、これを1か月、2か月と続けるとどんな屈強な木でもシナシナと弱まり倒れてしまうのだそうだ。今の日本ではそんな発想を思いつかないが、嘘のような本当の話だ。人間が進化の過程で、爬虫類だったころの名残と言われている。
さて、話を戻そう。五臓の神君が安寧である時、人は健やかで景色がより済んで見えるもの。綺麗なものはより鮮やかに見え、時には感動すら覚える。そして、普段人は気に留めないが、これは天照大神(太陽)の恩恵なのである。
その2、天地の神と同根
何故ゆえに人は太陽の光に親しみを感じ、安心を覚えるのだろうか?例えば、ダイヤモンドが好まれる理由も光の反射ゆえであろう。人間はどうも光が好きなのである。その理由を考えるに、もしかしたら光に対する同族意識なのかも知れない。
人に限らず、全ての生き物は太陽の光から生まれた。例えば、人の進化の過程を紐解くと、もともとは古代の海にいたヴァクテリアだと言われる。ヴァクテリアが光のエネルギーを得て、数十億年の月日をかけて人まで進化してきた。その中では爬虫類や両生類にとどまった者もいるし、分岐して野生動物になった者もいる。そして、ある者は植物へと進化した者もいるのである。
この進化の過程を光のエネルギーという一点だけで考えて見ると、なぜ天地の神と同根なのかの理由がはっきり分かってくる。それはどの種の動植物を見ても、最初は単なる細胞があっただけで、その細胞が光のエネルギーを吸収する所から始まるからだ。これは言わば、光というエネルギーがその細胞内で変換されて留まったに過ぎないとも言える。変換された後に人は光とは言わないだけで、元来それは光のエネルギーなのである。
人は野菜を食べるが、野菜は光を浴び光合成をしながら成長する。野菜は光を光合成によって自らのエネルギーに変えるが、光のエネルギーが光以外の形に変換されて野菜にとどまったにすぎない。人が野菜を食べるとは、光のエネルギーを野菜という形で摂取するという事でもあるのだ。勿論、動物も同じ理屈である。
このように人は、光のエネルギーが野菜や動物と様々な形に変換され留まった物を食べて生きている。人は直接的にも間接的にも光の恩恵を受けているのである。人は光のエネルギーを自らの力にする事で進化してきたし、今なお光のエネルギーを様々な形で摂取して生きている。だからこそ、人は光に親しみを感じ、安らぎを覚えるのでは無いだろうか?日本では古来より八百万の神がいると考えて来た理由も、光に注目して考えて見れば自然な成り行きとなるのである。光こそ天照大御神であり、故に天地の神と同根なのだ。
その3、万物の霊と同体
人は天地の神と同根であるから、万物の霊も同じく光の恩恵によって生じる。故に光のエネルギーと言う意味で同体となる。そして、我は万物の霊と同体、言い換えれば、かくも美しくエネルギーに満ちた天地自然と同体なのだ。叶わぬ願いがあるはずが無いだろうと祝詞は言っている。(解釈に国誉めの風習をエッセンスとして加えて見た。)
---- 仏教的追記 ----
無心なれば五臓も自然本来の働きをするのみで、そこに苦は無い。同根と言うは、思考が天地の神と自分を分けると言う意味であり、同体と言うは無心を言う。無心を意識がいくようになると、自然がより美しく感じられるようになっていく。その空気の透明感にも安らぎを得られるようになる。これをもって願いが叶ったと言う。まさに無上の霊宝であり、神の道である。それに実感が伴うと加えて持つと言う。
---- 以下、余談 ----
般若心経が分かると、六根清浄の大祓もより理解が進むのでは無いだろうか?有機物だけでなく、無機物も光のエネルギーによって生じると説明できるが、般若心経の色即是空の感覚を知らないと難しい話になってしまう。興味ある方は当ブログの般若心経の解説を参照して欲しい。色即是空ゆえに、無機物は光のエネルギーによって生じる。
https://bibouroku1212.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html
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