2016年4月6日水曜日

弟子の修行

立川談志曰く、弟子の修行は理不尽に耐える事だそうだ。例えば、師匠がお茶を欲しいと思った時に、お茶を出せない弟子は駄目。そして、特にタイミングに気を使い、お茶をだすタイミングが遅いが駄目なのはともかく、早すぎてもいけない。早いと師匠が弟子のペースに合わせた事になるからだそうだ。阿吽の呼吸でお茶を出せた時に、ようやく分かってきたねとなるとか。

普通に考えれば、これはかなり無茶な類のものだ。師匠は何も言わないのに、お茶が欲しいはずだと弟子が察し、しかもジャストのタイミングじゃなければ怒られるのだ。しかし、落語という世界では、これくらいの事を出来ぬようでは、客前になんて立たせられぬと言った処なのだろう。常日ごろ一緒にいる師匠の間も分からずに、どうして落語の間を演じれようか。間を真髄とする落語ならではと言えるかも知れない。

談志の弟子の修行と言う話は、現代では良しとされない価値観だと思うが、とても含蓄ある話のような気がする。直観的には、これくらいの事までできるなら、相当気に入られるのでは無いだろうか?かくありたいものだ。それにしても、お茶の出すタイミングまで落語の修行になっている事には恐れ入った。自分は自分のペースで飲むのが良いという人間のため、思いもよらなかった。

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