2016年4月23日土曜日

死ぬことと見つけたり

武士道とは死ぬことと見つけたり。日本人なら誰しも聞いた事があろう武士道の真髄とされる言葉だが、もとは江戸時代、佐賀藩士の山本常朝によって書かれた葉隠の一節だ。

私は高校生のころ、この言葉の字面からのみ意味を感じ取り、武士は死ぬ理由を探して生きていると誤解していた。当時は切腹のイメージもあってか、死ぬに足る理由を探しながら生きるという美学なんだろうと友人と話していた。自分には真似出来ないと、そんな会話をしたように思うが、武士にどこか今の時代とは違う異質なものを感じていた。

それから10年近くたっただろうか、当時流行っていたSNSで知り合った古武道を嗜む友人と、武士道とは死ぬこととと見つけたりについて話す機会があった。その友人から意味が違うと言われ、驚いたのを覚えている。彼曰く、武士道とは死ぬことと見つけたりは、明日死んでも良いように今日を一生懸命生きよという教えだと言う。深く考えてない自分は、そういう事かと素直に受け取り感心した。

さて、さらに時を得た自分がもう一度死ぬことと見つけたりを考えて見よう。武士道とは死ぬことと見つけたりの心境は、つまりは余命宣告を受けた患者の心境では無いだろうか?例えば、がん患者など助かる見込みがない患者に余命を宣告すべきかという話がある。余命を宣告するなんて可愛そうという意見も当然だと思うが、余命を宣告してもらえたお陰で、あとどれくらい生きる事ができるか分かり、1日1日をより大切に生きる事ができたという患者の声もある。

1年後に死ぬとなれば、残された時間は365日しかないとなる。365日でやり残したことが無いようにしなければという思いが、最後の365日を鮮やかなものにするのだ。365日のうち、元気で動けるのは何日だろうか?死ぬ前にあの人に会っておきたい。元気なうちに趣味の山登りしておきたいとか、余命を宣告されなければ当たり前だった事が、余命宣告後は特別なイベントに変わっていく。武士道ではこういった効果を狙って、死ぬことと見つけたりと言う部分があるように思う。

白を目立たせたいなら、周りに黒を置けば良い。白は白のみで自らを鮮明にはできない。黒の存在が白を引き立たせるのだ。それと同じで、武士道では生を引き立たせるのは死だと言うのだろう。死を意識するからこそ、今日と言う一日が鮮やかになる。武士道とは死ぬことと見つけたり、こう解釈して見る。




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