2019年12月31日火曜日

観音経 普門偈 その16

【原文】

無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間



【和訳】

無垢なる清浄の光があり、慧日は諸々の闇を破り、能く災いの風火を伏せて、普く明かに世間を照らす。



【解説】

観音様を無垢なる清浄の光と例えている。朝の日の出を想像すると良い。暗闇がだんだんと優しい光に包まれて夜が明けると、まさに普く明らかに世間は照らされる。夜の暗がりで感じる不安が夜明けと共に無くなるように、人の悩みや苦しみも観音様に照らされて無くなると言う話になる。

例え話としては、無垢清浄は物事を良い悪いと選り好みしないという事、諸々の闇は悩みや苦しみを表す。つまり、選り好みしない心が、悩み苦しみを破り、心を平安に導く。これが無垢清浄の光が諸々の闇を破るイメージだ。人は悪い時に、良い時と比べるから気を病む。タラレバをするから苦しくなる。だが、選り好みをやめれば、そもそも悪いとか良いとかに興味がなくなる。興味がなくなれば、心乱される事はなくなるから、気に病むこともなくなる。ただ淡々と起きたことに対応できるようになる。

さて、次は災いの風火になるが、これを言葉通り解釈すれば台風であったり、火事になろう。では、仮に大きな台風に見舞われたとしよう。すると、例えば、家の瓦が落ちてしまったり、酷い場合は雨漏りしたりして酷い目に会う。結果、台風は招かれざる客となるだろう。それが普通である。だが、台風を招かれざる客にしているのは、実は台風自身では無いと言ったら驚くだろうか。と言うのも、台風自身には善悪は無い。ただの自然現象である。だが、人の選り好みする心にかかると、台風被害を受ける前と被害を受けた後を比べて、台風は不幸な出来事だったとなる。単なる自然現象を、不幸な災害にしたのは自分の心なのである。だから、選り好みを止めれば、台風は不幸な災害ではなくなり、自然現象以上でも、それ以下でも無いものになる。心も乱される事なく、ただ淡々と受けた被害に対応できるようになるわけだ。これが能く災いの風火を伏せるイメージとなる。日本に居れば、台風は年に数回は来る。だから、幾ら観音様に願ったからと言って、台風自体が無くなるわけでは無い。だが、台風が不幸な災害から、ただの自然現象に変わる。不幸で苦しむはずだった心が、平安に保たれるわけだ。これが観音様の霊験である。台風に限らず、人には様々な災いが降りかかってくる。だが、その災いを不幸なものにしているのは、結局は自分の心である。普く明かに世間を照らすとは、選り好みしなければ、悩みや苦しみは自然と無くなるという事だ。心が明るくなるから照らすと言うのだろう。なお、具体的には、今起きている事は全て最善と考える癖をつけると良い。最善なれば、選り好みしても今が最善である。タラレバする余地はない。



【語句の説明】

1、慧日は、智慧の太陽の意味で、観音様の事。


2019年12月29日日曜日

観音経 普門偈 その15

【原文】

真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰



【和訳】

真観、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観を常に願い、常に瞻仰する。



【解説】

真観は、空の概念の事である。空は一言で言えば、空気の事を言っている。空気は不思議なもので、一見無いようでいて全てを含んでいる。例えば、水を鍋で沸騰させたとしよう。すると、水は水蒸気となり何処かへ飛んでいき、鍋の中の水はやがてなくなる。だが、水自体がなくなったわけでは無い。鍋の中にあった水は水蒸気として空気中に含まれ湿気になっただけだ。これが空気が全てを含むというイメージとなる。普段、我々は空気と水を別の物として扱っているが、実は空気の中に水は含まれていて、ある時それが雲となり雨をふらせ水としての形を得る事があるだけだ。ならば、空気と水に違いなどあるのだろうか。この事は何も水に限った話では無い。植物だって石だって長い年月をかけて風化し、空気中に溶け込んでいく。生き物だって死ねばそうなる。空気は形がないようでいて、あらゆる物を含んでいるのである。そして、形がないからこそ、ある時形を得る時がある。元から形のあるものは、形が無くなるという事は無い。だが、この世の有りようを観れば、みな一様に風化をし、形が無くならないものは無い。形が無いからこそある時形を得て、だが元々は形が無いのだから、やがて形は無くなって元の姿に戻っていく。これがこの世の有りようだとするのが空の概念である。

そして、この事が分かると、物事に差をつける事自体が可笑しい事になる。人間はあれが良い、これは駄目、あれは素敵、これは醜いと差をつけてばかりいるが、すべては空から生じているのだから、すべては空の一部にすぎない。それが綺麗だとしても、それが汚いとしても何方も空と言う意味において変わりはない。本質的に差など無いのである。そして、こう考える事を清浄観と言う。清浄観はその名の示す通り、単に清く浄らかと言うのでは無い。清浄や、不浄に執着しない平等な観方という意味だ。これが仏の目線となる。仏は差をとって物事を観れる事から、差とりを開いている。悟りとは差とりなのだ。ただ、とは言っても、普通の人間にこれは難しい。理屈は分かっても、実践するとなると極めて困難である。ついつい差をつけてしまうのが普通の人間だ。だから、無理はしなくて良いと、観音様は歩み寄ってくれる。これが広大智慧観である。広大智慧観は真観や清浄観に固執することなく、現実の常識観にとらわれる事もなく、中道を行く。そうして悩み苦しむ者に寄り添ってくれるのだ。その具体的な在り方が慈悲であり、ある時は苦しみを抜いてくれ、ある時は楽を与えてくれる。これが悲観と慈観である。

真観、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観を観音の五観と言い、釈迦が積まれた観想の内容となる。釈迦は悟りを開いた後、弟子を悟りに導いたわけだが、その順番を意識して理解すると良い気がする。と言うのも、真観と清浄観は理屈は分かっても、実際に行うのは難しい。だから、これを弟子に身に着けさせようにも、いきなりでは無理だ。だから、とりあえず、弟子の状況に合わせながら少しづつレベルアップを図ることになる。この釈迦が弟子に歩み寄って育てる状況が広大智慧観だ。だから、広大智慧観は弟子を悟りに導くために真観と清浄観は踏まえつつも、弟子の状況に合わせながら少しづつと言う話になり、時には実際に苦しみを抜いてあげ、時には楽を与える事で成長を促す事になる。

常願常瞻仰は、以上を常に意識し尊ぶ事で、観音様の教えを忘れないという事だ。観音経を学ぶのだから、勿論そうありたいものである。




【語句の説明】

1、瞻仰は、仰ぎ見る。慕い敬うと言う意味。

2019年12月27日金曜日

観音行 普門偈 その14

【原文】

種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅



【和訳】

種々諸々の悪趣、地獄、餓鬼、畜生、生老病死の苦しみも、漸く悉く令を以って滅される。



【解説】

まず悪趣の説明からすると、悪趣とは六趣の事で、六趣は六道とも言う。では、六道とは何かと言うと、生まれ変わりに関する話となる。生まれ変わりはその名の通りの意味で、人間は死後に生まれ変わって別の生を受けると言う話になるが、単に生まれ変わるとだけ言われると、来世も人間に生まれ変わると思ってしまうかも知れない。だが、実際は少しだけ複雑になる。と言うのも、生まれ変わりは、人は生前の行いの良し悪しによって死後生まれ変わる先が変わるとする考え方である。その生まれ変わり先が六つある事から六道と言う。そして、その中でも特に行いが悪かった者が行くとされるのが、お経で名指しされている地獄界、餓鬼界、畜生界だ。とは言え、実際に地獄界や餓鬼界、畜生界があるかは死んでみないと分からない所だ。もしかしたら無いかも知れないし、死んで帰ってきた人間がいない以上、空想と言われても否定できない。ただ、これだけは言える。それは、心の中には地獄があり、餓鬼が住み、畜生が養われていると言う事である。

例えば、人の事が憎くててしょうがない。恨みつらみで夜も眠れない。そう言う人がいるが、その人の心中はまさに地獄であろう。忘れればそれで終わりなものを、恨んでしまったが故に憎い相手が忘れられなくなってしまい苦しむ。これが地獄の鬼による責め苦である。所謂地獄絵図と言うのは、こういった心にある地獄を絵として書き表したに過ぎない。では、次は餓鬼だが、餓鬼は喉が細すぎて何も喉が通らないため、常に餓えている鬼だ。しかも、餓鬼が食べ物を口元に運ぼうとすると、食べ物が燃えてしまうという二重の嫌がらせを受けている。だから、餓鬼は苦しみのあまりうめき声をあげているのだ。何とも恐ろしい餓鬼界であるが、これは何も想像の話という訳では無い。心の中にこそ餓鬼は住んでいるのだ。例えば、人の好意を好意として受け取れず、何か裏があるんじゃないかと勘繰ってばかりいる。挙句は好意を悪意に感じてしまう。そういう人がいる。これが心が餓鬼に支配された状態である。こうなっては餓鬼の細い喉が例えているように、人の好意は全く通らない。餓鬼が常に餓え苦しむように、常に裏があると疑って苦しむのである。では、次は畜生だ。畜生は分別が無い。恥を知らない。本能で動く。だから、畜生に心で養っている畜生がでてくるとそうなる。例えば、性を考えると良い。性の問題は生き物として本能に根差した部分であるので制御が難しいものだが、だからと言って性衝動のまかせるままに行動しているだけでは本当の充実感は得られない。軽蔑の対象となってしまうし、本人としてもどこか空虚感を感じるという悩みを抱える事になる。

さて、次は生老病死についてだ。生老病死は人間が生きる上で避ける事ができない四つ苦しみの事で、ことわざにある四苦八苦の四苦である。人間、若ければ若いほどお金や権力があれば人生で怖いものは無いと思うものだが、人生ではそんなものが全く役に立たない時がくる。これが生老病死という苦しみの言わんとする所だ。実際、お金をかければ老いる事を止められるかと言うとそうはいかないし、権力があるからと言って特別に病を免れる事も無い。死に至ってはいわんやである。生老病死の苦しみは皆に平等に訪れるのである。では、どうしたらこの苦しみから逃れられるかになるが、その答えは観音様となる。全ての不安は観音様に預ければ良い。観音様を信頼すればするほど、観音様は応えてくれる。何時不安がなくなるとは言えないが、半信半疑だった心がちょっとづつ、ちょっとづつ確信に近づくにつれ、不安も解消されていく。観音様にお任せしたから大丈夫、すべては必要な事と心から思えた時、安心のなかで老いる事ができ、病の不安から解放され、死すら安らかに受け入れられるのである。これが観音妙智力である。




【語句の説明】

1、漸くは、ようやく。

2、悉くは、ことごとく。

3、令は、おきてと言う意味なので、ここでは観音様を信じる事だと思われる。

2019年12月24日火曜日

観音行 普門偈 その13

【原文】

具足神通力 広修智方便 十方諸国土 無刹不現身



【和訳】

神通力を具足し、広く智方便を修め、十方諸々の国土において、その身を現わさない刹は無い。



【解説】

今回は、神通力と叡智を兼ね備えた観音様は、私達を苦しみから救うために、方便を携えてあらゆる所に現われると言う話となる。叡智については前回説明したので、ここでは神通力の説明をする。神通力は、人々を苦しみから救うために必要な能力と考えると良い。人々を苦しみから救うには、まず何で苦しんでいるのかを知る必要がある。だから、人々の様子を窺う目が必要となるし、実際に苦しんでいる声を聴くための耳が必要になる。これが天眼通、天耳通と言われる神通力で、何処にいても見えるし聞こえると言う性能を誇る。だが、正確さを求めるなら、目と耳だけでは足りない。悩んでいる者がどういう性格の人間かによって、求められる方便は変わる。そこで、悩む者の性格を知る必要が出てくる。では、どうやって性格を知るかになるが、過去どういう風に生きて来たのかを知り、これからどういう風に生きていきそうなのかを見通せれば良い。さらに言えば、心の中すら見通せるならば言う事がない。これが宿命通、他心通と言われる神通力となる。ここまで全ての神通力を使いこなせれば、適切な方便によって悩む者に必要なアドバイスを過不足なく出来る。だが、まだ問題がある。それは悩む者が話を聞いてくれるか分からないという事だ。幾ら当を得たアドバイスであっても、話を聞いてくれないのでは救いようが無い。そこで、まずは信頼を勝ち取るために、模範を示す必要がでてくる。模範によって尊敬されるなら、人は尊敬している人の言う事ならば、その信頼からやってみようとなる。では、どういった模範を示すかになるが、人々を苦しみから救うのが目的であるから、本人がまず苦しんでいない事を示すのが良い。苦しみは何かに囚われた心から生まれるため、何にも囚われていない自由な心が必要となる。これが神境通と言われる神通力だ。そして、普通なら悩んで然るべき場面でも、自分はそういった悩みを消すことが出来ると実際に示す事も大切だ。これが漏神通と言われる神通力で、これが備わると悟りに達する。ちなみに漏は煩悩と言う意味だ。

さて、本文に戻ろう。要はこういった優れた神通力と叡智を具え、テクニックとしての方便を身に着けた観音様だからこそ、人々の苦しみを救えるとお経は言うのである。十方諸々の国土はありとあらゆる場所と言う意味で、世界の何処にいても望めば其処に観音様は現れると言うのがお経の趣旨となる。何時も観音様は見守っている事を忘れるなという訳だ。また、十方諸々の国土は地理的な意味だけでなく、様々な悩みの例えともなる。つまり、どんな悩みであれ観音様は見捨てない。なお、望めば観音様は現れるとは、観音様は何時も目の前にいるという事だ。それは人に限らない。天地自然全てが観音様となる。何故なら、世界は自分の心の投影して作られるから。観音様は心に住んでおり、その心が投影された世界は全て観音様の化身だ。だから、意識しようとしまいと、観音様はすでに目の前なのである。そういう意味では、観音様が現れると言うよりは、すでにいると言ったほうが良い。望むとは、ラジオの周波数を合わせるようなものだ。ラジオの電波は、自分の意識とは関係なく常に流されている。ただ、意識してキャッチした時にだけ、つまり、ラジオの周波数を合わせた時にだけ音声が流れる。観音様も同じである。常に見守っているのだが、それを意識しない人には分からない。




【語句の説明】

1、方便は仏が衆生を悟りに導くための手段。

2、十方は、あらゆる所。上下東西南北と北東、北西、南東、南西。

3、刹は、所。

2019年12月23日月曜日

観音行 普門偈 その12

【原文】

衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦



【和訳】

衆生が困厄を被り、量れ無いほどの苦しみが身に逼っても、観音の妙なる智の力は、能く世間の苦しみを救う。



【解説】

観音様の妙なる智の力とは何かを探るに、まずはこの世は心の映し鏡である事を知ると良い。どういう事かと言うと、人は世界と自分を別個に考えがちだが、世界とは心の投影であると言う話だ。例えば、旅だ。旅は何処へ行くかより、誰と行くかと言われる。実際、気の合う仲間と行くから楽しいのであって、嫌いな奴と行ったのでは楽しいはずの旅行も苦痛となってしまうだろう。旅が楽しいか、そうでないかは旅先で決まるのではなく、自分の心が決めている。さらに言えば、一緒に旅をする人が気の合う奴か、嫌いな奴かも心が決めている。考えて見て欲しい。貴方が嫌いな奴にも家族があり、恋人がいて、友人がいるだろう。彼の家族からすれば、貴方の嫌いな奴は可愛い孫かも知れない。彼の恋人からすれば、かけがえのない人だ。彼の友人からすれば、気の合う仲間になる。このように貴方の嫌いな奴も、見る人によって色々な顔を見せるのである。だから、貴方の嫌いな奴は、公平に見れば貴方は嫌いと言うだけに過ぎず、つまるところ、貴方の心を投影している鏡のようなものに過ぎないのだ。なお、今回は人で説明したが、人を状況に変えれば同じ事が言える。嫌いな状況も、所詮は貴方が嫌いと思っているに過ぎず、同じ状況を楽しんでいる人もいると言う話になる。世界は心の映し鏡なのである。そして、世界が自分の心が投影されているだけに過ぎないという事は、世界は自分の心掛け次第でどうとでもなるという事になる。世界の良し悪しは、全て自分が決めているのだから。これが観音様の叡智であり、だからこそ能く世間の苦しみを救う事が叶う。

この事が分かれば、前回まで紹介してきた例え話の意味も総括できるだろう。何故、火の穴が池に変わってしまうのか、それは火の穴か池かは自分の心の問題だからである。何故、轟音鳴り響く雷が直に治まると分かるのか、雷を作り出したのは自分の心だからである。心で作られたものは、当然に心で消す事も出来る。人間の苦しみは、元から苦しみとして存在するのではない。心が間違った解釈をしてしまったが故に、苦しみとなっている。ならば、間違った解釈を修正し、正しい解釈をすれば良いのである。具体的な方法については前回までの解説を参考にしてもらうとして、ここでは要点だけまとめておく。



再解釈のコツ
  • 観音様だったらどうするかと考えれば、間違いに気づく。
  • 観音様が何時も見ていると思えば、道を踏み外さない。
  • 観音様に全てお任せすれば、不安に思う必要は無い。
  • 目の前の人は観音様と思えば、学ぶべき時が来た。




【語句の説明】

1、衆生は、生きとし生けるもの。

2、困厄は、困難。

3、逼は、せまる。

2019年12月22日日曜日

観音経 普門偈 その11

【原文】

雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 応時得消散



【和訳】

雲雷が鼓を鳴らし掣電し、雹を降らして澍ぐような大雨となろうとも、彼の観音の力を念ずるならば、時に応じて消え散る事を得るだろう。



【解説】

轟音が鳴り響く空を見れば雷が煌めき、雹が降ってきたと思ったら、大雨が注ぐように降ってくる。要は時雨であるが、そんな時でも観音様を念ずるならば、直に空は静けさを取り戻すとある。人間いくつになっても雷は怖かったりする。特に何処かに落ちた時の轟音には本能的な恐怖を感じるのだろう。大丈夫とは分かりつつも、気持ちのよいものでは無い。そんな時雨を観音様がどこかにやってくれると言うなら、こんな有難いことは無い。

では、時雨は何の例えか考えていく。思うに、人は轟音鳴り響く時雨を恐れつつも、心の中は時雨みたいだと言うのだろう。と言うのも、人は常に平常心な訳では無い。時には雷のごとく怒る事もあるし、曇り空のように悶々としてしまったり、雨が降るように涙を流す事もある。出来るなら常に晴れやかでいたい所だが、心の中の天気はちょっとした事で変わりやすい。幾ら注意していても怒ってしまう時はあるし、悲しい時は悲しい。悶々としたくなくても、せずにいられるかと言うと簡単では無い。理屈では割り切れない部分があるのだ。だから、そういう時は観音様の力を借りなさいと言うのがお経の趣旨となる。つまり、心の天気が荒れたならば観音様を思い出し、観音様ならどうするかと考えて、その通りにする。そうすれば生き方の根本がしっかり定まる。一時は心が荒れ模様となっても、その一時の感情に流されて道を踏み外す事がなくなる。心の天気は自由にはならないが、止まない雨は無い。道さえ踏み外さないならば、後は時間が解決してくれるのだ。なんせ時雨はすぐ止むと相場が決まっている。




【語句の説明】

1、掣電は、きらめく稲妻の事。掣は、引き留めると言う意味。

2、澍は、そそぐ。

2019年12月21日土曜日

観音経 普門偈 その10

【原文】

蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去



【和訳】

蚖蛇や蝮蠍の気毒が煙り、火のごとく燃えたとしても、彼の観音の力を念ずるならば、声に尋いで自ら回り去る。



【解説】

毒蛇や毒サソリが明らかに威嚇の姿勢をとっていても、観音様を心に念ずれば、毒蛇や毒サソリが戦意を無くし何処かに行ってしまうと言う話となる。基本的に野生の生き物は狩りの時以外は相互不干渉だ。そのため、毒蛇や毒サソリを恐ろしいものにしているのは、実は自分の側の問題とも言える。此方が干渉するから威嚇してくるのであって、こちらが干渉しなければまず干渉してこない。こちらが無害だと分かれば、野生の生き物は自ずと何処かに行ってしまうのである。だから、観音様のように生きようとしている人間の前では、その無害さ故に、毒蛇や毒サソリが何処かへ行ってしまうのも当然と言う話にも思えてくる。ただ、毒蛇や毒サソリを日常の些細なイザコザの例えだとすれば、日々を観音様のように生きる事でイザコザのほうが何処かにいってしまうと言う解釈もできる。イザコザが起きないのではない。どんなに人格的に優れた人であれ多少のイザコザは起きる。だが、観音様のように無害化された者の前では、毒蛇や毒サソリが何処かへ行ってしまうようにイザコザが解消してしまう。イザコザをイザコザたらしめるのは、実は自分の性格の問題だったりするのである。

では、どんな性格が問題となるのかと言うと、例えば、毒蛇は執念深い嫉妬心の例えでもある。他人の成功を妬み、どうにか足を引っ張ってやりたい。そういう気持ちである。嫉妬心に執着して離れられないのでは、苦しい思いをするだけで良いことはない。イライラがつのるだけだ。そこで処方箋が必要になるわけだが、その処方箋として有力なのが観音の行を心に念じなさいという話になる。つまり、貴方を嫉妬させているのは観音様という事を忘れてはいけないという事である。相手が他人ではなく観音様という事になれば、自然と頭が下がるだろう。そして、どうしたらそうなれるのか教えを乞うても恥ずかしく無い。だから、そのようにすれば良いのである。教えを乞われて悪い気はしないものだ。きちんと礼を正すならば、きっと貴方を気に入り良くしてくれるようになる。嫉妬していた相手が嫌な奴から良い奴に変わる。これが観音様の霊験である。

なお、毒サソリは油断の例えとなる。毒サソリのような小さな生き物の場合、気付かない内に服の隙間に忍び込んでいたりして、刺されてから痛みで気づく事が多い。まさに不注意が招く害だ。実際、油断は気付かぬ内に侵入してくる毒サソリのように恐ろしい。例えば、人が大きな失敗をしやすいのは仕事に慣れてきた頃だ。初心のうちは不慣れな事もあって慎重に仕事をするわけだが、慣れてきて余裕ができ始めると自信がついてきて、自信が心の隙を生む。この心の隙こそ毒サソリなのだ。自信が出てくるとどういう事をしがちかと言うと、例えば、普段は機械を止めてからするはずの作業を、止めずにやっても大丈夫となる。そして腕を失うなどの大怪我をするのだ。魔がさしたとしか言いようがないかも知れないが、慣れてきた頃こそ危ないのである。だが、不注意が原因の失敗ならば、ハッと気づくだけで良い。油断している事を自覚さえできれば、毒サソリは何処かに行ってしまうのである。そこで、もし自分の心に油断が生じたら、観音様に見られていると思うと良い。尊敬する観音様に見られているならば、失敗はできない。自然と慎重に仕事するようになるはずだ。失敗を未然に防いでくれるのも観音様の霊験である。




【語句の説明】

1、蚖は、いもり。蝮は、まむし。蠍は、さそり。

2019年12月19日木曜日

観音経 普門偈 その9

【原文】

若悪獣囲繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方



【和訳】

若し悪獣に囲饒され、利い牙や爪を怖がる可きも、彼の観音の力を念ずるならば、無辺の方へ疾走してしまう。



【解説】

例えば、飢えたライオンの群れに囲まれてしまったと言う状況を考えると良い。ライオンが牙や爪で襲い掛かろうとする刹那、観音様と心に念じると、ライオンが急に何処かへ走り去ってしまった。そういう霊験である。人間は絶対絶命の時になると、思わず神様と言ってしまうと言われるが、その観音様版と考えると自然だ。

では、悪獣に牙や爪で襲われる事は何の例え話か考えていく。思うに、欲望が膨れ上がってしまい、居ても立ってもいられないような状況だろう。例えば、買い物で物色していたら、目に留まったアクセサリーが魅力的で、衝動的に欲しくなった。そこで、幾らだろうと値札を見るのだが、あまりに良い値段をしていてどうにも手が出そうにない。でも、欲しくてたまらない。頭がどうにかなりそう。これが悪獣に襲われている状況である。まさに恐ろしき獣と言えよう。では、どうしたら良いのかになるが、こういう時は観音様が見てると思うと良い。観音様が人々の役に立とうとしている時に、自分はアクセサリーが欲しくて身もだえるという訳にはいかない。だから、自制心が戻ってくる。完全に納得はできないかも知れないが、間を空ける事は出来るだろう。すると不思議なもので、時間が薬となって解決してくれる。欲は衝動的な場合が多いから、例えば一晩寝ると、全然欲しくなくなったりする。案外とあきらめが着くのだ。お経にある通り、襲ってきた悪獣は何処かに行ってしまうのである。こう考えて見ると、確かに欲望は何処からか来て、気付くと何処かに行ってしまっている。疾走無辺方と気づく。

なお、悪獣は何処かに行ってしまっただけで、いなくなった訳では無い。またひょっこり出くわす事もあるだろう。悪獣は決していなくなるわけでは無く、常に心の森林に潜んでいる。だが、それは悪い事では無く、悪獣も自分にとって必要だから存在している。中には悪獣を消そうと思う人もいるが、悪獣を消そうと思えば、その気持ちがまた新たな悪獣を生むと知れ。




【語句の説明】

1、若は、もしと言う意味。

2、利や、切れ味が良いと言う意味。

3、無辺は、広々として果てしないと言う意味。

2019年12月18日水曜日

観音経 普門偈 その8

【原文】

或遇悪羅刹 毒竜諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害



【和訳】

或いは悪羅刹、毒竜、諸々の鬼等に遇おうとも、彼の観音の力を念ずるならば、時に悉く敢えて害とならない。



【解説】

観音様に従って生きているような人は、自然と日頃の行いが良くなる。すると、不思議ともめごとの蚊帳の外に置かれる事が多くなる。悪人(悪羅刹、毒竜、諸々の鬼等)も絡む人は選ぶ。わざわざ日頃の行いの良い人を選んで絡んだりはしないものだ。だから、悉く敢えて害とならない。

また、悪羅刹は人を喰らう喰人鬼の意味で転じて人を食ったような態度の例え、毒竜や諸々の鬼は色欲や名利欲の例えでもある。生きていれば小馬鹿にされて嫌な思いをする時もあるし、時には色欲や名利欲にかられ心が揺れるときもある。だが、生き方の根本にしっかりとした信心があるならば、小馬鹿にされても治すべき欠点を教わったとなるし、色欲や名利欲にかられても慎ましく羽目を外す事は無い。そのような人物にあっては、時に悉く敢えて害とならないのは当然となる。彼の観音の力を念ずるとは、つまり、常に観音様ならどうするかと考え、それに従う事に他ならない。





【語句の説明】

1、悉は、ことごとく。

2、敢は、あえて。

観音経 普門偈 その7

【原文】

呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人



【和訳】

呪詛や諸々の毒薬で、身を害そうと欲する所の者がいたとしても、彼の観音の力を念ずるならば、還って本人に於いて著される。



【解説】

まず内容を整理すると、例え呪いや毒薬で身に危険が迫っても、観音の力を念ずれば助かると言う話になる。しかも、呪いや毒薬は仕掛けた本人に還っていくと言うから驚きだが、呪いや毒薬を悪口や陰口の例えと思えばさもありなん。彼の観音の力を念ずるとは、日ごろの行いを良い事の例えなのだろう。日頃の行いが良く、評判の良い人の悪口を言えば、必ず周りの人を敵に回す。悪口を言うはずが、言われてしまう側に回るのも納得である。観音様のように人々の役に立とうと生きるなら、自然と味方が増えて身を助ける訳だ。

なお、悪口や陰口には努々気を付ける事だ。悪口を言う場に居合わせたら距離を取る。悪口を言われても言い返えさずに距離を取る。悪口を言えば、還著於本人とあるように、言った自分に還ってくる。人を呪わば穴二つ。



【語句の説明】

1、呪詛は、相手の不幸を願う儀式。

2、還著は、もとに帰着すると言う意味。

3、於は、おいて。

2019年12月17日火曜日

観音経 普門偈 その6

【原文】

禁枷鎖 手足被杻械 念彼觀音力 釋然得解脱



【和訳】

或いは囚われ枷や鎖で禁じられ、手足に杻械を被っても、彼の観音の力を念ずるならば、釋然として解脱を得る。



【解説】

囚われて手足を枷と鎖で拘束されても、枷と鎖のほうから壊れて解き放たれると言うのだから凄いが、手足を拘束している枷と鎖は執着と読み替えると良さそうである。と言うのも、人は何かに囚われているものだ。例えば、お金が大事だと言う人は、お金に囚われていると言える。お金に執着する事で、お金は手枷となり自由を束縛する。例えば、地位を失うのが怖い人は、地位に囚われていると言える。地位に執着する事で、地位は足枷となり自由を奪う。囚われても楽しくやれているならば気にする事もないが、もし苦しいと感じているなら、一度立ち止まって観音様を念じれば、そういった苦しみから解放されるというのがお経の趣旨である。では、その心はとなるが、心は観音様だったらどうするかと考えなさいという事だ。そして、その通りにすると良い。人は利己心によって苦しむもの。例えば、お金で苦しいならば、お金が欲しいと執着しているからである。お金を譲ってしまえば、何も苦しむ事は無い。例えば、地位を失う事で苦しむのは、地位に執着しているからである。地位に綿々としなければ、特に苦しいことは無い。だから、観音様がお金に執着するだろうかと考えて見る。地位に拘泥するだろうかと考えて見る。すると、観音様はそんな事はしないとなる。だから、観音様のように生きれば、苦しみからも解放されてしまうのである。

なお、今回はお金と地位に絞って説明したが、人によって何に執着し囚われるかは異なる。財や異性かも知れないし、権力や名誉かも知れない。怒りや怨みに囚われる人もいるし、嫉妬や悲しみに囚われる人もいよう。だが、どんな場合であっても、観音様だったらどうするかと考える事で、苦しみを脱するヒントが得られるはずだ。




【語句の説明】

4、枷鎖(かさ)は、刑具のかせとくさり。

5、杻械(ちゅうかい)は、刑具の手かせと足かせ。

6、釋然(しゃくねん)は、疑いが晴れて心が晴れ晴れする様。

2019年12月15日日曜日

観音経 普門偈 その5

【原文】

或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊


【和訳】

或いは王難に遭い苦しめられ、刑に臨んで寿が終わるのを欲するも、彼の観音の力を念ずるならば、刀は尋いで段々に壊れる。



【解説】

王の迫害にあって死刑となったにも関わらず、実際に刑が執行されよう時には刀のほうが壊れてしまうと言うのだから、まさに奇跡であるが、王の迫害は理不尽の例えと読み替えて良いように思う。そうすれば、王の迫害という例え話から活きた教訓が得られそうである。生きていれば、王の迫害とまではいかなくても、理不尽としか言いようがない事に遭遇するものだ。そして残念な事に、理不尽な事に限って嫌だと言えない雰囲気があったりするから非常に困る。とは言え、あるものはあり無くはならないのだから、めげてても仕方ない。理不尽な事を気に病むことなく、どう前向きに付き合っていくかを考えるのが現実的だ。そこで、理不尽の極致とも言うべき王の迫害からの死刑判決を例にとって、観音様の霊験を感じようと言うのがお経の趣旨だ。理不尽に最も効果的なのは、お経に彼の観音の力を念ずればとある通り、観音様を一点の曇りもなく信頼する事だ。つまり、自分に起きる事は、すべて観音様に頼んであるから悪くなりようが無いという確信が霊験を起こす。なぜなら、結果が悪くなりようのない理不尽は、もはや理不尽とは呼べなくなるどころか、良い結果を招く事が分かっているなら、それは幸事で喜ぶべき事だ。こう考えて見ると、確かにお経の通りで、観音様は理不尽という刀を次々と壊してくれる。

なお、王難の例えは死刑を回避できたと言う話であるため、死についても触れて置く。考えて見れば、死とは不思議なものである。人は実際に死を間近なものとして感じると、えも言われぬ不安に心を乱される。にもかかわらず、死んだ後の事は誰にも分からないというのだから変な話で、結局人間は分からないものを勝手に想像して、自分の想像したものに降りまわれて苦しんでいると言える。だから、死への不安を乗り越えるには大きく2つの方法がある。一つはいくら考えても分からないものは分からないのだから考えても仕方ないと割り切る事だ。実際、死後の世界とされる地獄等の話はあくまで説にすぎず、本当だという確証はない。確証がない以上、死後の世界は無いかも知れないし、逆に死後の世界のほうが生きやすい可能性だってある。無駄に怖がる必要は無いのである。しかし、そうは言っても割り切れ無い人もいよう。死は生物としての本能的な拒否反応でもありそうだから、頭では分かっても体はついてこないかも知れない。そこで2つ目の方法がある。それは観音様にすがる事である。死後の事は観音様にお願いしようと心から願えば、観音様は必ず応えてくれ、不思議と大丈夫なような気がして来る。観音様により死への不安は払拭され、安心して死んで行けるはずだ。ここに信心の起こす霊験がある。




【語句の説明】

1、遭(そう)は、遭遇。ばったり会う。

2、寿は、命の意味。

3、尋は、尋(次)いで。次々と。


2019年12月12日木曜日

観音経 普門偈 その4

【原文】

或値怨賊遶 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心



【和訳】

或いは怨賊に値(会)い遶(囲)まれ、各々刀を執り害を加えようとしても、彼の観音の力を念ずるならば、咸(皆)が即ち慈心を起こす。



【解説】

前回と同様に観音様の有難い霊験を紹介している。今回は、怨賊に斬りつけられるような場面でも、賊のほうが改心してしまうと言うのだから有難い。この怨賊は要は追いはぎの事だが、刀でおどして金品を巻き上げようとした輩が、あろうことか急に改心し出して慈心まで起こす。考えて見れば、真に不思議な話である。そこで、この怨賊は何の例えだろうかとなるが、誰しもが心に持つ利己心を言っていると思えば自然だ。例えば、自分さえ良ければ他人を騙しても良いとする心は、まさに心に住む怨賊と言える。だいたいが自分さえ良ければと思ってした行動は、後でしっぺ返しを受けると相場は決まっている。結果として高くつくのだから止めといたほうが良いのだが、人間欲に目がくらむと都合の良い事しか考えられなくなる。そうして痛い目を見るのである。ここで気づけばまだ良いが、人によっては痛い目を見ても気づけず、業が深いとしか言いようがない者もいる。業の深い事の何が問題かと言うと、他人に迷惑をかける事は勿論として、当人も悩みや苦しみが尽きなくなる点だ。自分の事ばかり考えていても、そうそう上手く行くものでは無い。上手くいかないのに欲は深いものだから、何故自分ばかりこんな目に会うんだと卑屈な自分が首をもたげてくる。何もこうなってしまうのは貧乏人だけでは無い。一見お金持ちに見えて不満がなさそうでも、心に住む怨賊に襲われれば誰しもこうなるのである。そして、この状態を地獄と言うのだ。と言う訳で、観音様を心に念じればこの地獄からも救ってくださると言うのがお経の趣旨である。

では、観音様がどう救ってくださるかになるが、目の前にいる人は観音様というのがその答えである。心に我欲が出る事は悪い事では無い。人間とはそういう生き物である。だが、どうにもこうにも欲が制御できず心が欲望で満たされてしまうならば、相手は観音様だと思うと良い。観音様を目の前にして、どうして自分の事ばかり考えられようか。どちらかと言えば、喜捨したくなる。これを以って怨賊が慈心を起こすと言うのだ。なお、喜ばす者が喜ばされるという言葉の通り、喜んで喜捨する貴方は、必ず喜ばされる側になるものである。自分の事ばかり考えてもうまく行かなかったのに、与える事を学ぶとうまく行ってしまう。これも観音様の霊験である。




【語句の説明】

1、値は、値遇の意味。仏縁のある者と出会う事。

2、遶(にょう)は、囲遶の意味。坊さんが囲みながらする礼拝。

3、咸(げん)は、あまねくや皆と言う意味。

2019年12月10日火曜日

観音経 普門偈 その3

【原文】

或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住

或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛


【和訳】

或いは須弥の峰にあって、人が為に推し堕とされた所であっても、彼の観音の力を念ずるならば、日の如く虚空に住む。或いは悪人に逐(追)われる事になって、金剛山より堕落させられるとしても、彼の観音の力を念ずるならば、一つの毛すら損なうには能わない。



【解説】

まず話を整理すると、要は観音の力を念ずると奇跡が起きると言う話をしている。須弥の峰や金剛山と言う高山から堕とされても無事だという言うのだから、何とも有難い霊験である。

最初にでてくる須弥の峰は極めて高い山だ。これは須弥山の事で、須弥山は古代インドの宇宙観において中心にそびえる山となる。勿論、実在しない山だが、この山の回りを太陽や月が回ると考えていたようなので、空想上とは言えその大きさには恐れ入る。そんな山から突き落とされても、観音の力を念ずるなら、太陽のごとく空中に浮んで助かってしまうと言っている。これは一体どういう事だろう。事釈は前回説明した通りなので、今回からは理釈に絞って説明する。理釈という事で、まず須弥の峰は何の例えかという事になるが、これは人間の驕り高ぶりの象徴と考えると良い。その驕り高ぶりの程度が山の高さとなって現れている。驕り高ぶった人間は、知らず知らずのうちに敵を作る。しかも、自分では中々気づけないものだから、結局は高くなっている鼻をへし折られる事になる。これぞ人が為に須弥の峰から堕とされた雰囲気だろう。そうなっては様は無いが、しかし、そういう時であっても観音様は助けてくれると言う。これがお経の趣旨である。では、どうやって観音様が助けてくれるかだが、高くなっている鼻を折ってくれたのは観音様と言うのがその答えである。観音様が間違った生き方をしているぞと伝えるために、わざわざ鼻をへし折ってくれたのである。そうして鼻をへし折られた時に謙虚な気持ちを思い出すならば、思いあがっていた自分に眼が覚める。目が覚めれば鼻を折られた事を恨む事もないし、良い経験をさせてもらったと思えるのである。だから、太陽のごとく浮いて助かるわけだ。とは言え、わざわざ鼻を折らなくてもと思う方もいるかも知れないが、植木でも剪定を怠れば愛される木とはならないだろう。人もそれと同じである。ちなみに何故太陽のごとく浮くのかは、人は謙虚さと共に自信も大切だからだろう。自尊心は高すぎず、低すぎず、浮くくらいが調度良い。

次は金剛山の例えを考えて見よう。金剛は最も堅い金属と言う意味で、仏教では絶対堅固の象徴として使われる言葉となる。だから、文字通り解釈すれば、金剛山とはそういう堅い金属で作られた山となるから、そんな所から転がり落ちるなら体はズタズタに傷がつく。なれど、観音の力を念ずれば毛の一本も傷がつかないと言うわけだから凄い。では、金剛山は何の例えかとなるが、答えは堕とした犯人である悪人は何かと考えると良い気がする。と言うのも、この悪人は自分の心の弱さであろう。例えば、さぼりたいとか、ちょっとくらいズルしても大丈夫とか、そういう心の弱さが自分の心に住む悪人となる。今はしっかりやっているから大丈夫と思っていても(絶対堅固)、内面の悪人に身を任せればたちまち堕落するもの。今まで積み上げてきた善行もなくなる時は早い。これが悪人に金剛山から堕とされるという雰囲気だろう。こう考えると、堕落金剛山とわざわざ堕落と言う言葉使っている事も分かる。堕落は、倫理的に身を持ち崩す時に使われる言葉だから。では、毛一本も損なわないように観音様が助けてくれるとはどういう事かになるが、堕落しそうな時にここで負けてはいけないと思う事が出来たなら、人は踏ん張れるという事だろう。踏ん張れるなら、毛一本も損なわれない。観音様は心にすむ悪人を諭してくれるのである。






【語句の説明】

1、逐(ちく)は、追いかける、追い払うの意味。

2019年12月9日月曜日

観音経 普門偈 その2

【原文】

仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池

或漂流巨海 竜魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没



【和訳】

仮使、害意を興されて、大きな火の坑に推し落とされたとしても、彼の観音の力を念ずるならば、火の坑は変じて池と成る。或いは巨海を漂流し、龍、魚、諸々の鬼の難に会ったとしても、彼の観音の力を念ずるならば、波浪も没する事は能わない。


【解説】

まず要点を整理すると、巨大な火の穴はマグマ煮えたぎる火山口、龍魚と諸々の鬼の難は台風などの大シケと思えば良いのだろう。つまり、観音の力を念ずるなら、マグマ煮えたぎる火山口に落とされても火山口のほうが池と変わるし、大シケの海で漂流しても船は波浪から守られて沈没しないと言う話になる。まさに観音様を称えるにふさわしいエピソードである。

さて、この話を解説する前に、お経には読み方が大きく2つある事から説明しよう。一つは事釈と言い、もう一つは理釈と言う。事釈はお経を文字通りに解釈する読み方だ。マグマが池に変わるはずが無いとか、龍や鬼は空想上の生き物だとか、そう言う事は一切考えない。観音様にはそういう力があると理解する。理釈は逆に、マグマが急に池に変わるはずが無いし、龍や鬼がいるはずが無いのだから、これは例え話をしていると考える読み方だ。理釈する場合、文字通り言葉の裏に潜む理を読むわけだ。どちらの読み方も釈迦の教えには違い無いのだから、事理両面から読むのが良い。

では、まず事釈から解説しよう。マグマが池に変わる事は勿論、昔の小さな木造船を考えれば、大シケの海で漂流して助かるというのは奇跡としか言いようがない。そういう人智を超える力を持つ観音様と共にあるのだ。全てを観音様にお任せすれば良い。例え今、何かしらの不安の中にあったとしても、何も自分があれこれと不安に思う事は無いのだ。すべては観音様の手の中なのだから、安心してただお任せするが良い。すると、心は晴れていく。これが疑わずに信じる事釈が推奨される理由である。また、マグマや大シケの海は貴方の心の状態の例えであると考えれば、確かに燃え盛るマグマは池となり、船は沈まずに助かったと言える。観音様が苦しみを滅してくれたのだ。こう考えれば理釈となる。

理釈の場合、火とは何か、海に漂流した際に遭遇した龍魚や諸鬼の難とは何の例えかと言う話になる。まず火だが、火は煩悩や怒りの象徴だ。それは煩と言う字に火が使われている事や、烈火のごとく怒ると言う言葉からもそれは感じ取れる。そして、まさに烈火のごとく怒る事を大きな火の穴に落とされると言うのである。火事とは怖いものである。今まで時間をかけて作ってきたものを簡単に燃やしてしまう。怒りの炎もそれと似た処があって、善行を積んでいた人が一度怒ってしまったが故に全てを失う何てことがある。だから、もし怒りそうになったならば、観音様にお願いせよと言うのがお経の趣旨である。ただ、とは言っても、普通に考えて怒っている時に単に観音様を心に念じるだけでは自信が無いだろう。多少のブレーキにはなるだろうが、マグマが池に変わるような変化までは見込めない。では、お経の言わんとする観音様の力を念ずるとは何を意味するのだろうか。思うにそれは、相手を観音様の化身だと思えという事だろう。相手を観音様だと思うなら、果たして怒れるものだろうか。打って変わって背筋を正したくなる。故に、観音様はマグマを池に変えると言うのだろう。

さて、海の話に入ろう。まず海は何の例えかだが、欲に溺れるという言葉があるように、水は欲望の象徴でもある。世間は様々な誘惑で溢れている。そして、誘惑は欲望を刺激するのだから、世間は欲望の巨海ともなる。海で漂流した際に遭遇した龍魚や諸鬼は、貴方を誘惑する様々な欲望の例えである。特に愛欲を考えると良い。愛欲は誰もが経験するが、愛に溺れるという言葉があるように、打ち勝つのは難しい。この難しさを表した言葉が、龍魚であり諸鬼となる。愛欲に溺れれば、正常な判断が出来なくなりやすい。略奪、借金、泥棒、人殺しに至るまで普通ならしない事でも、溺れる人間は藁をもつかむと言った体で行う事すらある。だからこそ溺れる前に観音様のお力を借りよと言うのがお経の趣旨であるが、此方も火の場合と同じで、心に観音様を単に念じるだけでは少し弱い。簡単に愛欲の海に飲まれてしまう事だろう。だから、相手を観音様の化身だと思うと良い。人は人が見ていないと思えばこそハメを外すものである。逆に人の見ている所ではしゃんとする。それがよりによって、観音様が見ている前を選んでハメを外せるはずもない。きちんと自制心が働くようになるはずだ。とは言え、愛欲は本能が故に、愛欲の海のシケは続くかも知れない。故に、シケが止むとは言わずに、波浪も没する事は能わないとだけ言うのだろう。




【語句の説明】

1、仮使は、たといと読む。仮にという事。

2、坑は地面に掘った穴の事で、火坑は燃え盛る火の穴を意味する。

3、能わないとは、字の通り、その能力が無いという事。この場合は、波が舟を沈める事には絶対にならないという意味。

4、龍魚は一般的に龍と言って思い浮かぶ空を飛ぶ大蛇。ただ、海なのだから、巨大な魚がいても何の不思議はないため、龍と魚分けても良いだろう。


2019年12月7日土曜日

観音経 普門偈 その1



観音経の偈を解説してみる。

図書は故・松原泰道氏の「私の観音経」を参考にする。
















【原文】

1、世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名爲觀世音

  具足妙相尊 偈答無盡意 汝聽觀音行 善應諸方所

  弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清淨願

  我爲汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦



【和訳】

妙相を具えし世尊よ。我は今、重ねて彼を問いたいです。仏の子は何を因縁として、観世音と名づけられたのでしょうか?妙相を具足する尊(仏)は、偈をもって答えられた。無盡意菩薩よ、汝は観音の行を聴くが良い。善く諸々の方所に応じている。その弘き誓いは海の如く深く、歴劫を経ても思議する事は出来ないだろう。多千億の仏に侍えて、大清浄願を発したのだ。我はそれを汝がために略説しよう。名を聞き及びその身を見て、心に念じ空しく過ごさないなら、能く諸々有る苦しみを滅するだろう。



【解説】

まず話の流れを説明すると、釈迦に対し、無盡意菩薩が観世音菩薩の名の由来を聞いたという話から始まる。そして、釈迦が答えるに、観世音菩薩のいつ、いかなる時も人々の役に立とうという願いは、海よりも深く、無限と言える時間を経ても理解されないかも知れないが、彼は膨大な数の仏について学び、その願いを起こしたのだと言う。釈迦が言うに、観世音菩薩の名を聞き、御姿を拝見し、心を同化し、空しく過ごさないならば、あらゆる苦しみから解放してくれるのだとか。

と、大変有難い話が書いてあるのだが、ではあらゆる苦しみからの解放とはどういう意味かを考えて見よう。まずこう言っては何だが、苦しみはどう頑張っても無くせるものではなく、無くなる事は無いと受け入れる事が大切だ。そもそも苦しみは一種の生理現象である。だから、苦しみが無くなってしまった人間は実は欠陥商品になってしまう。苦しみはなるべくなら避けたいとしても、生きる上で必要だから起きている事をまず知らねばならない。例えば、真夏の暑い日は堪えるが、もし暑さを感じなかったら、人は熱中症で倒れてしまう。そうなれば死ぬかも知れないし、回復しても脳障害が残る可能性もあって暑いどころの騒ぎでは無くなる。真冬の寒さは堪えるが、もし寒さを感じなかったら、人は凍傷から壊疽し手足を失う事だろう。寒さは苦しいものだが、寒いから手足を失う前に対処できるのである。では、痛みや悲しみはどうかと言うと、痛みは体に対する動かすなという合図であるから、痛みがあるからこそ無理に体を動かす事ができなくなり、結果として快方に向かいやすくなる。悲しみは涙を誘発し、涙は脳のストレスを緩和して脳が壊れないように助ける。こう考えて見ると、苦しみは様々あれど、そのどれもが生きるために必要不可欠な部分がある事が分かってくる。苦しみは、最悪の事態に陥る前のストッパーの役目を果たす有難いものなのである。どちらかと言えば、無くすなんてとんでもない。

だが、観世音菩薩はその苦しみから解放してくれると言う。しかも、苦しみは無くせないものにもかかわらずだ。だから、苦しみからの解放とはどういう意味かが気になるわけだが、苦しみは無くせないと受け入れる事が解放だと言うのなら良く分かる。と言うのも、苦しみから逃れたいと思っている内は、苦しみは苦しみとして厳然と存在する事になる。だが、苦しみは無くせないと受け入れて、苦しみと上手く付き合っていくのが人生と思えば、気持が前を向く。頑張ろうとなる。これぞまさに苦しみからの解放と言えよう。実際、苦しみはその状態で出来うる最善の選択肢という側面がある。そう嫌がる事も無い。





【語句の説明】

1、妙相とは、古代インドで考えられていた偉人の持つ特徴の事で、例えば、広長舌相というものがあり、その舌は顔を覆うほどだったとか、広くはこの世界を覆うほどだったという言い伝えがある。これは嘘偽りが無い事の比喩となるらしい。という訳で、妙相を具えたる世尊とは、つまりは世尊の素晴らしさを称えた言い回しとなる。なお、世尊は釈迦の別名である。

2、具足とは、十分に備わっていること。

3、方所は、方向と場所の意味で、諸方所は何時いかなる時もと言う意味。

4、弘誓は、大いなる誓願の意味。弘は広い、大きい。

5、歴劫は、無限の時間の意味。歴は経過、劫は非常に長い時間を意味。

6、侍は目上の者に仕えるという意味で、古くは貴族のすぐ下に仕える者を侍と言ったようだ。仏の気品を称えて侍という事を使ったのだろう。

7、略説は要約の意味。




2019年12月6日金曜日

里仁 第四 26

【口語訳26】

訳文を2つ示す。

1、子游がおっしゃった。君主とすぐ親しくなろうとすると、嫌われて恥をかく。友人とすぐ親しくなろうとすると、返って疎まれる。

2、子游がおっしゃった。君主への忠言もしばしばするなら、嫌われて恥をかく。友人への忠告もしばしばするなら、返って疎まれる。



【解説】

例えば、こちらは親しくなりたいと思っていても、相手がそう思っているかは分からない。相手がそう思っていないならば、親しくなろうとするほど嫌われるし、疎まれるのは当然だ。この点を無視してはいけない。故にすぐに親しくなろうとすると急がば回れになると言うのが今回の話の趣旨である。特に初対面の内は手探りの部分があり、相手も多少の警戒心を持っている。そこをすぐに親しくなろうとすれば、相手は警戒するばかりで、親しくなるばかりか無礼と思う事だろう。だから、相手と親しくなりたいならば、まずは礼儀を正す。そして、徐々に相手との呼吸を合わせ打ち解けていくのが王道だ。また、後段の忠言、忠告は言わば駄目だしであるから、駄目をだされて気持ちの良い人間はいない。しばしば出すならば、嫌われて疎まれるのは当然である。

なお、孔子一向が目指していた官僚と言う視点で言うと、特に王との関係には注意が必要で、王とすぐに親しくなろうとすれば、他の官僚の鼻につく。王に嫌われるという視点だけでなく、他の官僚にも嫌われる事に注意しなければならない。仲間内で嫌われればある事ない事吹聴されるし、足を引っ張られ出世はおぼつかない。これは現代社会でも応用の効く知恵ではなかろうか?やはり抜け駆けなど考えず、筋を通すのが一番良いのである。




【参考】

人間関係でまず礼儀を正すのは、正さずに恥をかく事はあっても、正して恥をかくことは無いから。学而13が参考になる。

2019年12月4日水曜日

里仁 第四 25

【口語訳25】

孔子先生がおっしゃった。徳のある人に孤立は無い。必ず理解者が有る。



【解説】

孔子が何故このような話をしたかと言う部分に注目して見ると、孔子の言葉は弟子達の不安を和らげるための言葉とも捉えたくなる。と言うのも、孔子は50代中ごろから60代にかけて士官先を求めて放浪していたわけだが、士官先が一向に決まらない事を弟子たちは不安に思っていた姿が八佾24に描かれている。その弟子たちを勇気づけるために、有徳の道を歩むならば理解者は必ず現れると言ったと考えると臨場感がある。なお、数式で説明するとこうなる。



徳のある人 = 人気のある人 (A)

人気のある人 = 孤立しない  (B)

とすると、


(A)、(B)により、

徳のある人 = 孤立しない 

孤立しないのだから、当然理解者はある。

故に孔子の言葉は道理となる。



実際、孔子の晩年は士官こそ叶わなかったが、

理解者は絶えず、2000年を経てなお賛同者がいる。


里仁 第四 24

【口語訳24】

孔子先生がおっしゃった。君子は口下手であっても、行いは機敏にと願う。



【解説】

具体的に考えて見よう。例えば、部屋が散らかっていたとする。すると掃除しなければとなるわけだが、その掃除は何時始めるかと言う問題がある。どういう事かと言うと、今すぐに掃除を始めたほうが良い事は誰しも分かるはずだし、もし他人の部屋が散らかっているならば直ぐ掃除したほうが良いと言うだろう。だが、自分の部屋だと打って変わって、明日やれば良いと後回しにしてしまう人が意外に多いと思うのだ。しかも、明日になったらなったで、やらなくても良い用事を作りだしてしまう。掃除しなければならないはずだったのに、色々理由をつけては掃除をせず、結局何時まで経っても片付かない。人間らしいと言えば人間らしいのだが、出来る事なら掃除をしてしまいたい。そういう気持ちを表して「行いは機敏にと願う」と言う。そして、それが出来る人が君子なわけだ。

また、君子が口下手でも良い理由は、いくら掃除しなければならない理由を上手く取り繕っても、実際に掃除しなければ部屋は片付かないから。口を動かす暇があったら、掃除したほうが早い。なお、今回は掃除を例に説明したが、仁であれ、孝であれ、同じ事である。人の道に沿う行いは、やらない理由を探さずに行いたいものだ。



【参考】

立派な官僚という視点では、学而14の解説が参考になるだろう。

2019年12月3日火曜日

里仁 第四 23

【口語訳23】

訳文を2つ示す。

1、孔子先生がおっしゃった。つつましくして、失敗する者は少ない。

2、孔子先生がおっしゃった。貧困なれば、それ以上失うものは無い。




【解説】

1、つつましくして、失敗する者は少ない。

陽徳よりは陰徳が良く、有償よりは無償の愛が好ましいように、思いやりも慎ましさの中にあってこそ気持ちが純粋に伝わりやすい。逆に思いやりを無遠慮に行うなら、厚かましいと思われるかも知れないし、巧言令色などの誤解をうけるかも知れない。他人の為と書いて偽と言うくらいだから。と言うの訳で、仁の人を志すならば、つつましさを身につけると良い。また、博打で財を成した者がいないように、派手な生活を好む者は借金などで困窮する場合が多い。一方、地味なようだが、つつましい人間が破綻したという話は聞かない。金銭的な面に注目しても、確かにつつましい人間は失敗が少ない。

なお、中国人は博打好きと聞くので、孔子は博打ばかり打ってると金は貯まらないと諭したのかも知れない。



2、貧困なれば、それ以上失うものは無い。

貧困にあっては、卑屈にならず、盗みを働かず。卑屈な人間には近寄り難い。盗みを働く人間では油断できない。だから、この手の人間に甘んじていては良い出会いは訪れず運は向いてこない。だから、貧困にあればこそ、ただ己の人格を磨く事に専念する。そう腹をくくった時、貧困は最良の先生となる。貧困は、お金の大切さを身に染みるほど教えてくれる。人の嫌な部分を散々見せて、世間の厳しさを教えてくれる。そして、どの種の人間が信用でき、どの種の人間が信用できないか体験させてくれ、人を見る目を養ってくれる。もしこれら艱難辛苦に負けず人格を磨けたなら、徳器は成就し、必ずや人生を変える出会いを引き寄せるだろう。

なお、これらは程度の差こそあれ、誰しものが人生の何処かで味わう苦い経験となる。それ故、出世してから教わっては上手くないとも言える。地位や豊かな生活を犠牲にするかも知れないから。だが、貧困の時に経験するならば失うものは無い。貧困で良かったという事もあるのである。出世すれば、嫌でもしがらみがつきまとう。しがらみを考えなくて良い貧困にあるからこそ、自由に伸びやかに人格を磨けるのだ。

2019年12月2日月曜日

里仁 第四 22

【口語訳22】

孔子先生がおっしゃった。古の時代、軽々しく物を言わなかったのは、言葉に及ばない自分を恥じたからだ。



【解説】

親孝行にこれで十分と言う話はない。例えその時は孝行したと思っていても、後々になってみると、自分の至らなさが目につき、もっとやれたと思えてくる。そういう経験をすると、とても自分を孝行息子と言う気にはなれなくなる。そんな言葉を言ってしまったなら、言葉に及ばない自分が恥ずかしくなるからだ。故に、古人は軽々しく物を言わなかった。例えばこういう話と考えると良い。

一般的に、人は頑張れば頑張るほど、自分の至らなさも分かるようになる。自分の至らなさを感じつつ、大きな事を言えるものでは無い。勿論、頑張るほどに周りの評価は上がる。だが、それとは裏腹に、本人の心情としては謙虚になる他ない。未熟な自分を知りつつ、どうして不遜になれようか。人の成長は稲穂のようのもので、人も稲穂も実るほど頭を垂れる。




【参考】

為政13にても、君子は不言実行とある。