【原文】
雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 応時得消散
【和訳】
雲雷が鼓を鳴らし掣電し、雹を降らして澍ぐような大雨となろうとも、彼の観音の力を念ずるならば、時に応じて消え散る事を得るだろう。
【解説】
轟音が鳴り響く空を見れば雷が煌めき、雹が降ってきたと思ったら、大雨が注ぐように降ってくる。要は時雨であるが、そんな時でも観音様を念ずるならば、直に空は静けさを取り戻すとある。人間いくつになっても雷は怖かったりする。特に何処かに落ちた時の轟音には本能的な恐怖を感じるのだろう。大丈夫とは分かりつつも、気持ちのよいものでは無い。そんな時雨を観音様がどこかにやってくれると言うなら、こんな有難いことは無い。
では、時雨は何の例えか考えていく。思うに、人は轟音鳴り響く時雨を恐れつつも、心の中は時雨みたいだと言うのだろう。と言うのも、人は常に平常心な訳では無い。時には雷のごとく怒る事もあるし、曇り空のように悶々としてしまったり、雨が降るように涙を流す事もある。出来るなら常に晴れやかでいたい所だが、心の中の天気はちょっとした事で変わりやすい。幾ら注意していても怒ってしまう時はあるし、悲しい時は悲しい。悶々としたくなくても、せずにいられるかと言うと簡単では無い。理屈では割り切れない部分があるのだ。だから、そういう時は観音様の力を借りなさいと言うのがお経の趣旨となる。つまり、心の天気が荒れたならば観音様を思い出し、観音様ならどうするかと考えて、その通りにする。そうすれば生き方の根本がしっかり定まる。一時は心が荒れ模様となっても、その一時の感情に流されて道を踏み外す事がなくなる。心の天気は自由にはならないが、止まない雨は無い。道さえ踏み外さないならば、後は時間が解決してくれるのだ。なんせ時雨はすぐ止むと相場が決まっている。
【語句の説明】
1、掣電は、きらめく稲妻の事。掣は、引き留めると言う意味。
2、澍は、そそぐ。
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