観音経の偈を解説してみる。
図書は故・松原泰道氏の「私の観音経」を参考にする。
【原文】
1、世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名爲觀世音
具足妙相尊 偈答無盡意 汝聽觀音行 善應諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清淨願
我爲汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
【和訳】
妙相を具えし世尊よ。我は今、重ねて彼を問いたいです。仏の子は何を因縁として、観世音と名づけられたのでしょうか?妙相を具足する尊(仏)は、偈をもって答えられた。無盡意菩薩よ、汝は観音の行を聴くが良い。善く諸々の方所に応じている。その弘き誓いは海の如く深く、歴劫を経ても思議する事は出来ないだろう。多千億の仏に侍えて、大清浄願を発したのだ。我はそれを汝がために略説しよう。名を聞き及びその身を見て、心に念じ空しく過ごさないなら、能く諸々有る苦しみを滅するだろう。
【解説】
まず話の流れを説明すると、釈迦に対し、無盡意菩薩が観世音菩薩の名の由来を聞いたという話から始まる。そして、釈迦が答えるに、観世音菩薩のいつ、いかなる時も人々の役に立とうという願いは、海よりも深く、無限と言える時間を経ても理解されないかも知れないが、彼は膨大な数の仏について学び、その願いを起こしたのだと言う。釈迦が言うに、観世音菩薩の名を聞き、御姿を拝見し、心を同化し、空しく過ごさないならば、あらゆる苦しみから解放してくれるのだとか。
と、大変有難い話が書いてあるのだが、ではあらゆる苦しみからの解放とはどういう意味かを考えて見よう。まずこう言っては何だが、苦しみはどう頑張っても無くせるものではなく、無くなる事は無いと受け入れる事が大切だ。そもそも苦しみは一種の生理現象である。だから、苦しみが無くなってしまった人間は実は欠陥商品になってしまう。苦しみはなるべくなら避けたいとしても、生きる上で必要だから起きている事をまず知らねばならない。例えば、真夏の暑い日は堪えるが、もし暑さを感じなかったら、人は熱中症で倒れてしまう。そうなれば死ぬかも知れないし、回復しても脳障害が残る可能性もあって暑いどころの騒ぎでは無くなる。真冬の寒さは堪えるが、もし寒さを感じなかったら、人は凍傷から壊疽し手足を失う事だろう。寒さは苦しいものだが、寒いから手足を失う前に対処できるのである。では、痛みや悲しみはどうかと言うと、痛みは体に対する動かすなという合図であるから、痛みがあるからこそ無理に体を動かす事ができなくなり、結果として快方に向かいやすくなる。悲しみは涙を誘発し、涙は脳のストレスを緩和して脳が壊れないように助ける。こう考えて見ると、苦しみは様々あれど、そのどれもが生きるために必要不可欠な部分がある事が分かってくる。苦しみは、最悪の事態に陥る前のストッパーの役目を果たす有難いものなのである。どちらかと言えば、無くすなんてとんでもない。
だが、観世音菩薩はその苦しみから解放してくれると言う。しかも、苦しみは無くせないものにもかかわらずだ。だから、苦しみからの解放とはどういう意味かが気になるわけだが、苦しみは無くせないと受け入れる事が解放だと言うのなら良く分かる。と言うのも、苦しみから逃れたいと思っている内は、苦しみは苦しみとして厳然と存在する事になる。だが、苦しみは無くせないと受け入れて、苦しみと上手く付き合っていくのが人生と思えば、気持が前を向く。頑張ろうとなる。これぞまさに苦しみからの解放と言えよう。実際、苦しみはその状態で出来うる最善の選択肢という側面がある。そう嫌がる事も無い。
【語句の説明】
1、妙相とは、古代インドで考えられていた偉人の持つ特徴の事で、例えば、広長舌相というものがあり、その舌は顔を覆うほどだったとか、広くはこの世界を覆うほどだったという言い伝えがある。これは嘘偽りが無い事の比喩となるらしい。という訳で、妙相を具えたる世尊とは、つまりは世尊の素晴らしさを称えた言い回しとなる。なお、世尊は釈迦の別名である。
2、具足とは、十分に備わっていること。
3、方所は、方向と場所の意味で、諸方所は何時いかなる時もと言う意味。
4、弘誓は、大いなる誓願の意味。弘は広い、大きい。
5、歴劫は、無限の時間の意味。歴は経過、劫は非常に長い時間を意味。
6、侍は目上の者に仕えるという意味で、古くは貴族のすぐ下に仕える者を侍と言ったようだ。仏の気品を称えて侍という事を使ったのだろう。
7、略説は要約の意味。
図書は故・松原泰道氏の「私の観音経」を参考にする。
【原文】
1、世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名爲觀世音
具足妙相尊 偈答無盡意 汝聽觀音行 善應諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清淨願
我爲汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
【和訳】
妙相を具えし世尊よ。我は今、重ねて彼を問いたいです。仏の子は何を因縁として、観世音と名づけられたのでしょうか?妙相を具足する尊(仏)は、偈をもって答えられた。無盡意菩薩よ、汝は観音の行を聴くが良い。善く諸々の方所に応じている。その弘き誓いは海の如く深く、歴劫を経ても思議する事は出来ないだろう。多千億の仏に侍えて、大清浄願を発したのだ。我はそれを汝がために略説しよう。名を聞き及びその身を見て、心に念じ空しく過ごさないなら、能く諸々有る苦しみを滅するだろう。
【解説】
まず話の流れを説明すると、釈迦に対し、無盡意菩薩が観世音菩薩の名の由来を聞いたという話から始まる。そして、釈迦が答えるに、観世音菩薩のいつ、いかなる時も人々の役に立とうという願いは、海よりも深く、無限と言える時間を経ても理解されないかも知れないが、彼は膨大な数の仏について学び、その願いを起こしたのだと言う。釈迦が言うに、観世音菩薩の名を聞き、御姿を拝見し、心を同化し、空しく過ごさないならば、あらゆる苦しみから解放してくれるのだとか。
と、大変有難い話が書いてあるのだが、ではあらゆる苦しみからの解放とはどういう意味かを考えて見よう。まずこう言っては何だが、苦しみはどう頑張っても無くせるものではなく、無くなる事は無いと受け入れる事が大切だ。そもそも苦しみは一種の生理現象である。だから、苦しみが無くなってしまった人間は実は欠陥商品になってしまう。苦しみはなるべくなら避けたいとしても、生きる上で必要だから起きている事をまず知らねばならない。例えば、真夏の暑い日は堪えるが、もし暑さを感じなかったら、人は熱中症で倒れてしまう。そうなれば死ぬかも知れないし、回復しても脳障害が残る可能性もあって暑いどころの騒ぎでは無くなる。真冬の寒さは堪えるが、もし寒さを感じなかったら、人は凍傷から壊疽し手足を失う事だろう。寒さは苦しいものだが、寒いから手足を失う前に対処できるのである。では、痛みや悲しみはどうかと言うと、痛みは体に対する動かすなという合図であるから、痛みがあるからこそ無理に体を動かす事ができなくなり、結果として快方に向かいやすくなる。悲しみは涙を誘発し、涙は脳のストレスを緩和して脳が壊れないように助ける。こう考えて見ると、苦しみは様々あれど、そのどれもが生きるために必要不可欠な部分がある事が分かってくる。苦しみは、最悪の事態に陥る前のストッパーの役目を果たす有難いものなのである。どちらかと言えば、無くすなんてとんでもない。
だが、観世音菩薩はその苦しみから解放してくれると言う。しかも、苦しみは無くせないものにもかかわらずだ。だから、苦しみからの解放とはどういう意味かが気になるわけだが、苦しみは無くせないと受け入れる事が解放だと言うのなら良く分かる。と言うのも、苦しみから逃れたいと思っている内は、苦しみは苦しみとして厳然と存在する事になる。だが、苦しみは無くせないと受け入れて、苦しみと上手く付き合っていくのが人生と思えば、気持が前を向く。頑張ろうとなる。これぞまさに苦しみからの解放と言えよう。実際、苦しみはその状態で出来うる最善の選択肢という側面がある。そう嫌がる事も無い。
【語句の説明】
1、妙相とは、古代インドで考えられていた偉人の持つ特徴の事で、例えば、広長舌相というものがあり、その舌は顔を覆うほどだったとか、広くはこの世界を覆うほどだったという言い伝えがある。これは嘘偽りが無い事の比喩となるらしい。という訳で、妙相を具えたる世尊とは、つまりは世尊の素晴らしさを称えた言い回しとなる。なお、世尊は釈迦の別名である。
2、具足とは、十分に備わっていること。
3、方所は、方向と場所の意味で、諸方所は何時いかなる時もと言う意味。
4、弘誓は、大いなる誓願の意味。弘は広い、大きい。
5、歴劫は、無限の時間の意味。歴は経過、劫は非常に長い時間を意味。
6、侍は目上の者に仕えるという意味で、古くは貴族のすぐ下に仕える者を侍と言ったようだ。仏の気品を称えて侍という事を使ったのだろう。
7、略説は要約の意味。
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