2019年12月15日日曜日

観音経 普門偈 その5

【原文】

或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊


【和訳】

或いは王難に遭い苦しめられ、刑に臨んで寿が終わるのを欲するも、彼の観音の力を念ずるならば、刀は尋いで段々に壊れる。



【解説】

王の迫害にあって死刑となったにも関わらず、実際に刑が執行されよう時には刀のほうが壊れてしまうと言うのだから、まさに奇跡であるが、王の迫害は理不尽の例えと読み替えて良いように思う。そうすれば、王の迫害という例え話から活きた教訓が得られそうである。生きていれば、王の迫害とまではいかなくても、理不尽としか言いようがない事に遭遇するものだ。そして残念な事に、理不尽な事に限って嫌だと言えない雰囲気があったりするから非常に困る。とは言え、あるものはあり無くはならないのだから、めげてても仕方ない。理不尽な事を気に病むことなく、どう前向きに付き合っていくかを考えるのが現実的だ。そこで、理不尽の極致とも言うべき王の迫害からの死刑判決を例にとって、観音様の霊験を感じようと言うのがお経の趣旨だ。理不尽に最も効果的なのは、お経に彼の観音の力を念ずればとある通り、観音様を一点の曇りもなく信頼する事だ。つまり、自分に起きる事は、すべて観音様に頼んであるから悪くなりようが無いという確信が霊験を起こす。なぜなら、結果が悪くなりようのない理不尽は、もはや理不尽とは呼べなくなるどころか、良い結果を招く事が分かっているなら、それは幸事で喜ぶべき事だ。こう考えて見ると、確かにお経の通りで、観音様は理不尽という刀を次々と壊してくれる。

なお、王難の例えは死刑を回避できたと言う話であるため、死についても触れて置く。考えて見れば、死とは不思議なものである。人は実際に死を間近なものとして感じると、えも言われぬ不安に心を乱される。にもかかわらず、死んだ後の事は誰にも分からないというのだから変な話で、結局人間は分からないものを勝手に想像して、自分の想像したものに降りまわれて苦しんでいると言える。だから、死への不安を乗り越えるには大きく2つの方法がある。一つはいくら考えても分からないものは分からないのだから考えても仕方ないと割り切る事だ。実際、死後の世界とされる地獄等の話はあくまで説にすぎず、本当だという確証はない。確証がない以上、死後の世界は無いかも知れないし、逆に死後の世界のほうが生きやすい可能性だってある。無駄に怖がる必要は無いのである。しかし、そうは言っても割り切れ無い人もいよう。死は生物としての本能的な拒否反応でもありそうだから、頭では分かっても体はついてこないかも知れない。そこで2つ目の方法がある。それは観音様にすがる事である。死後の事は観音様にお願いしようと心から願えば、観音様は必ず応えてくれ、不思議と大丈夫なような気がして来る。観音様により死への不安は払拭され、安心して死んで行けるはずだ。ここに信心の起こす霊験がある。




【語句の説明】

1、遭(そう)は、遭遇。ばったり会う。

2、寿は、命の意味。

3、尋は、尋(次)いで。次々と。


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