2019年12月12日木曜日

観音経 普門偈 その4

【原文】

或値怨賊遶 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心



【和訳】

或いは怨賊に値(会)い遶(囲)まれ、各々刀を執り害を加えようとしても、彼の観音の力を念ずるならば、咸(皆)が即ち慈心を起こす。



【解説】

前回と同様に観音様の有難い霊験を紹介している。今回は、怨賊に斬りつけられるような場面でも、賊のほうが改心してしまうと言うのだから有難い。この怨賊は要は追いはぎの事だが、刀でおどして金品を巻き上げようとした輩が、あろうことか急に改心し出して慈心まで起こす。考えて見れば、真に不思議な話である。そこで、この怨賊は何の例えだろうかとなるが、誰しもが心に持つ利己心を言っていると思えば自然だ。例えば、自分さえ良ければ他人を騙しても良いとする心は、まさに心に住む怨賊と言える。だいたいが自分さえ良ければと思ってした行動は、後でしっぺ返しを受けると相場は決まっている。結果として高くつくのだから止めといたほうが良いのだが、人間欲に目がくらむと都合の良い事しか考えられなくなる。そうして痛い目を見るのである。ここで気づけばまだ良いが、人によっては痛い目を見ても気づけず、業が深いとしか言いようがない者もいる。業の深い事の何が問題かと言うと、他人に迷惑をかける事は勿論として、当人も悩みや苦しみが尽きなくなる点だ。自分の事ばかり考えていても、そうそう上手く行くものでは無い。上手くいかないのに欲は深いものだから、何故自分ばかりこんな目に会うんだと卑屈な自分が首をもたげてくる。何もこうなってしまうのは貧乏人だけでは無い。一見お金持ちに見えて不満がなさそうでも、心に住む怨賊に襲われれば誰しもこうなるのである。そして、この状態を地獄と言うのだ。と言う訳で、観音様を心に念じればこの地獄からも救ってくださると言うのがお経の趣旨である。

では、観音様がどう救ってくださるかになるが、目の前にいる人は観音様というのがその答えである。心に我欲が出る事は悪い事では無い。人間とはそういう生き物である。だが、どうにもこうにも欲が制御できず心が欲望で満たされてしまうならば、相手は観音様だと思うと良い。観音様を目の前にして、どうして自分の事ばかり考えられようか。どちらかと言えば、喜捨したくなる。これを以って怨賊が慈心を起こすと言うのだ。なお、喜ばす者が喜ばされるという言葉の通り、喜んで喜捨する貴方は、必ず喜ばされる側になるものである。自分の事ばかり考えてもうまく行かなかったのに、与える事を学ぶとうまく行ってしまう。これも観音様の霊験である。




【語句の説明】

1、値は、値遇の意味。仏縁のある者と出会う事。

2、遶(にょう)は、囲遶の意味。坊さんが囲みながらする礼拝。

3、咸(げん)は、あまねくや皆と言う意味。

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