2019年12月21日土曜日

観音経 普門偈 その10

【原文】

蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋声自回去



【和訳】

蚖蛇や蝮蠍の気毒が煙り、火のごとく燃えたとしても、彼の観音の力を念ずるならば、声に尋いで自ら回り去る。



【解説】

毒蛇や毒サソリが明らかに威嚇の姿勢をとっていても、観音様を心に念ずれば、毒蛇や毒サソリが戦意を無くし何処かに行ってしまうと言う話となる。基本的に野生の生き物は狩りの時以外は相互不干渉だ。そのため、毒蛇や毒サソリを恐ろしいものにしているのは、実は自分の側の問題とも言える。此方が干渉するから威嚇してくるのであって、こちらが干渉しなければまず干渉してこない。こちらが無害だと分かれば、野生の生き物は自ずと何処かに行ってしまうのである。だから、観音様のように生きようとしている人間の前では、その無害さ故に、毒蛇や毒サソリが何処かへ行ってしまうのも当然と言う話にも思えてくる。ただ、毒蛇や毒サソリを日常の些細なイザコザの例えだとすれば、日々を観音様のように生きる事でイザコザのほうが何処かにいってしまうと言う解釈もできる。イザコザが起きないのではない。どんなに人格的に優れた人であれ多少のイザコザは起きる。だが、観音様のように無害化された者の前では、毒蛇や毒サソリが何処かへ行ってしまうようにイザコザが解消してしまう。イザコザをイザコザたらしめるのは、実は自分の性格の問題だったりするのである。

では、どんな性格が問題となるのかと言うと、例えば、毒蛇は執念深い嫉妬心の例えでもある。他人の成功を妬み、どうにか足を引っ張ってやりたい。そういう気持ちである。嫉妬心に執着して離れられないのでは、苦しい思いをするだけで良いことはない。イライラがつのるだけだ。そこで処方箋が必要になるわけだが、その処方箋として有力なのが観音の行を心に念じなさいという話になる。つまり、貴方を嫉妬させているのは観音様という事を忘れてはいけないという事である。相手が他人ではなく観音様という事になれば、自然と頭が下がるだろう。そして、どうしたらそうなれるのか教えを乞うても恥ずかしく無い。だから、そのようにすれば良いのである。教えを乞われて悪い気はしないものだ。きちんと礼を正すならば、きっと貴方を気に入り良くしてくれるようになる。嫉妬していた相手が嫌な奴から良い奴に変わる。これが観音様の霊験である。

なお、毒サソリは油断の例えとなる。毒サソリのような小さな生き物の場合、気付かない内に服の隙間に忍び込んでいたりして、刺されてから痛みで気づく事が多い。まさに不注意が招く害だ。実際、油断は気付かぬ内に侵入してくる毒サソリのように恐ろしい。例えば、人が大きな失敗をしやすいのは仕事に慣れてきた頃だ。初心のうちは不慣れな事もあって慎重に仕事をするわけだが、慣れてきて余裕ができ始めると自信がついてきて、自信が心の隙を生む。この心の隙こそ毒サソリなのだ。自信が出てくるとどういう事をしがちかと言うと、例えば、普段は機械を止めてからするはずの作業を、止めずにやっても大丈夫となる。そして腕を失うなどの大怪我をするのだ。魔がさしたとしか言いようがないかも知れないが、慣れてきた頃こそ危ないのである。だが、不注意が原因の失敗ならば、ハッと気づくだけで良い。油断している事を自覚さえできれば、毒サソリは何処かに行ってしまうのである。そこで、もし自分の心に油断が生じたら、観音様に見られていると思うと良い。尊敬する観音様に見られているならば、失敗はできない。自然と慎重に仕事するようになるはずだ。失敗を未然に防いでくれるのも観音様の霊験である。




【語句の説明】

1、蚖は、いもり。蝮は、まむし。蠍は、さそり。

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