2019年12月27日金曜日

観音行 普門偈 その14

【原文】

種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅



【和訳】

種々諸々の悪趣、地獄、餓鬼、畜生、生老病死の苦しみも、漸く悉く令を以って滅される。



【解説】

まず悪趣の説明からすると、悪趣とは六趣の事で、六趣は六道とも言う。では、六道とは何かと言うと、生まれ変わりに関する話となる。生まれ変わりはその名の通りの意味で、人間は死後に生まれ変わって別の生を受けると言う話になるが、単に生まれ変わるとだけ言われると、来世も人間に生まれ変わると思ってしまうかも知れない。だが、実際は少しだけ複雑になる。と言うのも、生まれ変わりは、人は生前の行いの良し悪しによって死後生まれ変わる先が変わるとする考え方である。その生まれ変わり先が六つある事から六道と言う。そして、その中でも特に行いが悪かった者が行くとされるのが、お経で名指しされている地獄界、餓鬼界、畜生界だ。とは言え、実際に地獄界や餓鬼界、畜生界があるかは死んでみないと分からない所だ。もしかしたら無いかも知れないし、死んで帰ってきた人間がいない以上、空想と言われても否定できない。ただ、これだけは言える。それは、心の中には地獄があり、餓鬼が住み、畜生が養われていると言う事である。

例えば、人の事が憎くててしょうがない。恨みつらみで夜も眠れない。そう言う人がいるが、その人の心中はまさに地獄であろう。忘れればそれで終わりなものを、恨んでしまったが故に憎い相手が忘れられなくなってしまい苦しむ。これが地獄の鬼による責め苦である。所謂地獄絵図と言うのは、こういった心にある地獄を絵として書き表したに過ぎない。では、次は餓鬼だが、餓鬼は喉が細すぎて何も喉が通らないため、常に餓えている鬼だ。しかも、餓鬼が食べ物を口元に運ぼうとすると、食べ物が燃えてしまうという二重の嫌がらせを受けている。だから、餓鬼は苦しみのあまりうめき声をあげているのだ。何とも恐ろしい餓鬼界であるが、これは何も想像の話という訳では無い。心の中にこそ餓鬼は住んでいるのだ。例えば、人の好意を好意として受け取れず、何か裏があるんじゃないかと勘繰ってばかりいる。挙句は好意を悪意に感じてしまう。そういう人がいる。これが心が餓鬼に支配された状態である。こうなっては餓鬼の細い喉が例えているように、人の好意は全く通らない。餓鬼が常に餓え苦しむように、常に裏があると疑って苦しむのである。では、次は畜生だ。畜生は分別が無い。恥を知らない。本能で動く。だから、畜生に心で養っている畜生がでてくるとそうなる。例えば、性を考えると良い。性の問題は生き物として本能に根差した部分であるので制御が難しいものだが、だからと言って性衝動のまかせるままに行動しているだけでは本当の充実感は得られない。軽蔑の対象となってしまうし、本人としてもどこか空虚感を感じるという悩みを抱える事になる。

さて、次は生老病死についてだ。生老病死は人間が生きる上で避ける事ができない四つ苦しみの事で、ことわざにある四苦八苦の四苦である。人間、若ければ若いほどお金や権力があれば人生で怖いものは無いと思うものだが、人生ではそんなものが全く役に立たない時がくる。これが生老病死という苦しみの言わんとする所だ。実際、お金をかければ老いる事を止められるかと言うとそうはいかないし、権力があるからと言って特別に病を免れる事も無い。死に至ってはいわんやである。生老病死の苦しみは皆に平等に訪れるのである。では、どうしたらこの苦しみから逃れられるかになるが、その答えは観音様となる。全ての不安は観音様に預ければ良い。観音様を信頼すればするほど、観音様は応えてくれる。何時不安がなくなるとは言えないが、半信半疑だった心がちょっとづつ、ちょっとづつ確信に近づくにつれ、不安も解消されていく。観音様にお任せしたから大丈夫、すべては必要な事と心から思えた時、安心のなかで老いる事ができ、病の不安から解放され、死すら安らかに受け入れられるのである。これが観音妙智力である。




【語句の説明】

1、漸くは、ようやく。

2、悉くは、ことごとく。

3、令は、おきてと言う意味なので、ここでは観音様を信じる事だと思われる。

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