【原文】
或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
【和訳】
或いは須弥の峰にあって、人が為に推し堕とされた所であっても、彼の観音の力を念ずるならば、日の如く虚空に住む。或いは悪人に逐(追)われる事になって、金剛山より堕落させられるとしても、彼の観音の力を念ずるならば、一つの毛すら損なうには能わない。
【解説】
まず話を整理すると、要は観音の力を念ずると奇跡が起きると言う話をしている。須弥の峰や金剛山と言う高山から堕とされても無事だという言うのだから、何とも有難い霊験である。
最初にでてくる須弥の峰は極めて高い山だ。これは須弥山の事で、須弥山は古代インドの宇宙観において中心にそびえる山となる。勿論、実在しない山だが、この山の回りを太陽や月が回ると考えていたようなので、空想上とは言えその大きさには恐れ入る。そんな山から突き落とされても、観音の力を念ずるなら、太陽のごとく空中に浮んで助かってしまうと言っている。これは一体どういう事だろう。事釈は前回説明した通りなので、今回からは理釈に絞って説明する。理釈という事で、まず須弥の峰は何の例えかという事になるが、これは人間の驕り高ぶりの象徴と考えると良い。その驕り高ぶりの程度が山の高さとなって現れている。驕り高ぶった人間は、知らず知らずのうちに敵を作る。しかも、自分では中々気づけないものだから、結局は高くなっている鼻をへし折られる事になる。これぞ人が為に須弥の峰から堕とされた雰囲気だろう。そうなっては様は無いが、しかし、そういう時であっても観音様は助けてくれると言う。これがお経の趣旨である。では、どうやって観音様が助けてくれるかだが、高くなっている鼻を折ってくれたのは観音様と言うのがその答えである。観音様が間違った生き方をしているぞと伝えるために、わざわざ鼻をへし折ってくれたのである。そうして鼻をへし折られた時に謙虚な気持ちを思い出すならば、思いあがっていた自分に眼が覚める。目が覚めれば鼻を折られた事を恨む事もないし、良い経験をさせてもらったと思えるのである。だから、太陽のごとく浮いて助かるわけだ。とは言え、わざわざ鼻を折らなくてもと思う方もいるかも知れないが、植木でも剪定を怠れば愛される木とはならないだろう。人もそれと同じである。ちなみに何故太陽のごとく浮くのかは、人は謙虚さと共に自信も大切だからだろう。自尊心は高すぎず、低すぎず、浮くくらいが調度良い。
次は金剛山の例えを考えて見よう。金剛は最も堅い金属と言う意味で、仏教では絶対堅固の象徴として使われる言葉となる。だから、文字通り解釈すれば、金剛山とはそういう堅い金属で作られた山となるから、そんな所から転がり落ちるなら体はズタズタに傷がつく。なれど、観音の力を念ずれば毛の一本も傷がつかないと言うわけだから凄い。では、金剛山は何の例えかとなるが、答えは堕とした犯人である悪人は何かと考えると良い気がする。と言うのも、この悪人は自分の心の弱さであろう。例えば、さぼりたいとか、ちょっとくらいズルしても大丈夫とか、そういう心の弱さが自分の心に住む悪人となる。今はしっかりやっているから大丈夫と思っていても(絶対堅固)、内面の悪人に身を任せればたちまち堕落するもの。今まで積み上げてきた善行もなくなる時は早い。これが悪人に金剛山から堕とされるという雰囲気だろう。こう考えると、堕落金剛山とわざわざ堕落と言う言葉使っている事も分かる。堕落は、倫理的に身を持ち崩す時に使われる言葉だから。では、毛一本も損なわないように観音様が助けてくれるとはどういう事かになるが、堕落しそうな時にここで負けてはいけないと思う事が出来たなら、人は踏ん張れるという事だろう。踏ん張れるなら、毛一本も損なわれない。観音様は心にすむ悪人を諭してくれるのである。
【語句の説明】
1、逐(ちく)は、追いかける、追い払うの意味。
或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
【和訳】
或いは須弥の峰にあって、人が為に推し堕とされた所であっても、彼の観音の力を念ずるならば、日の如く虚空に住む。或いは悪人に逐(追)われる事になって、金剛山より堕落させられるとしても、彼の観音の力を念ずるならば、一つの毛すら損なうには能わない。
【解説】
まず話を整理すると、要は観音の力を念ずると奇跡が起きると言う話をしている。須弥の峰や金剛山と言う高山から堕とされても無事だという言うのだから、何とも有難い霊験である。
最初にでてくる須弥の峰は極めて高い山だ。これは須弥山の事で、須弥山は古代インドの宇宙観において中心にそびえる山となる。勿論、実在しない山だが、この山の回りを太陽や月が回ると考えていたようなので、空想上とは言えその大きさには恐れ入る。そんな山から突き落とされても、観音の力を念ずるなら、太陽のごとく空中に浮んで助かってしまうと言っている。これは一体どういう事だろう。事釈は前回説明した通りなので、今回からは理釈に絞って説明する。理釈という事で、まず須弥の峰は何の例えかという事になるが、これは人間の驕り高ぶりの象徴と考えると良い。その驕り高ぶりの程度が山の高さとなって現れている。驕り高ぶった人間は、知らず知らずのうちに敵を作る。しかも、自分では中々気づけないものだから、結局は高くなっている鼻をへし折られる事になる。これぞ人が為に須弥の峰から堕とされた雰囲気だろう。そうなっては様は無いが、しかし、そういう時であっても観音様は助けてくれると言う。これがお経の趣旨である。では、どうやって観音様が助けてくれるかだが、高くなっている鼻を折ってくれたのは観音様と言うのがその答えである。観音様が間違った生き方をしているぞと伝えるために、わざわざ鼻をへし折ってくれたのである。そうして鼻をへし折られた時に謙虚な気持ちを思い出すならば、思いあがっていた自分に眼が覚める。目が覚めれば鼻を折られた事を恨む事もないし、良い経験をさせてもらったと思えるのである。だから、太陽のごとく浮いて助かるわけだ。とは言え、わざわざ鼻を折らなくてもと思う方もいるかも知れないが、植木でも剪定を怠れば愛される木とはならないだろう。人もそれと同じである。ちなみに何故太陽のごとく浮くのかは、人は謙虚さと共に自信も大切だからだろう。自尊心は高すぎず、低すぎず、浮くくらいが調度良い。
次は金剛山の例えを考えて見よう。金剛は最も堅い金属と言う意味で、仏教では絶対堅固の象徴として使われる言葉となる。だから、文字通り解釈すれば、金剛山とはそういう堅い金属で作られた山となるから、そんな所から転がり落ちるなら体はズタズタに傷がつく。なれど、観音の力を念ずれば毛の一本も傷がつかないと言うわけだから凄い。では、金剛山は何の例えかとなるが、答えは堕とした犯人である悪人は何かと考えると良い気がする。と言うのも、この悪人は自分の心の弱さであろう。例えば、さぼりたいとか、ちょっとくらいズルしても大丈夫とか、そういう心の弱さが自分の心に住む悪人となる。今はしっかりやっているから大丈夫と思っていても(絶対堅固)、内面の悪人に身を任せればたちまち堕落するもの。今まで積み上げてきた善行もなくなる時は早い。これが悪人に金剛山から堕とされるという雰囲気だろう。こう考えると、堕落金剛山とわざわざ堕落と言う言葉使っている事も分かる。堕落は、倫理的に身を持ち崩す時に使われる言葉だから。では、毛一本も損なわないように観音様が助けてくれるとはどういう事かになるが、堕落しそうな時にここで負けてはいけないと思う事が出来たなら、人は踏ん張れるという事だろう。踏ん張れるなら、毛一本も損なわれない。観音様は心にすむ悪人を諭してくれるのである。
【語句の説明】
1、逐(ちく)は、追いかける、追い払うの意味。
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