2018年10月31日水曜日

為政 第二 13

【その13】

子貢が君子を問うと、老先生が言われた。先ず行い、然る後に言葉が従う、と。




【解説】

真心に言葉は野暮である。この一言に尽きるが、現実的には巧言令色と言うように、言葉が相手のいらぬ詮索を呼ぶ面も抑えておきたい。本当は自分のためと言うのが本音だろう、と。こう思われては、せっかくの真心が疑念の種になってしまう。行動も同じように疑われるが、どうせ疑われるなら余計な事はしないほうが良い。聞かれたら答えるくらいで良い塩梅と考える。



人間にはポジティブな時もあれば、ネガティブな時もある。そこでポジティブな思考を+1とし、ネガティブな思考を-1とする。すると心は+1から-1の間を動くように表現できる。これを日々の感情の起伏を表す不等式とする。


ー1 ≦ 心 ≦ 1


では次に、心がどの状態のときに最も好ましいかを考えて見る。これは古来答えは決まっていると言ってよく、所謂平常心が一番宜しい。これは例えば、自分が浮かれていたために、相手の微妙な変化には気づけなかった場合を考えて見ると良い。もしくは、心が沈んでいたために、相手どころではなかったような場合を想定すれば良い。後になって後悔した経験がある人も多いだろう。こういう状況は取返しがつかない事があるため出来れば避けたいが、そのためには冷静に相手の事だけに集中できるのが好ましい。平常心が望まれるのである。平常心は不等式上は数字の0で示される。


max 心 = 0 (= 真心)



平常心が良いと分かったならば、常に平常心でいれば一番良いとなるが、実際はそう簡単にはいかない。心はコロコロ変わるから心と名付けられたように、心はコロコロ変わる。そこで実際は、コロコロ変わる心をその都度平常心に戻すような心内作業が必要になる。この作業を「先に行い」の解釈とするのも面白いと思う。そう考えて見れば、「然る後に言葉が従う」のは自然な流れだ。


先 = 平常心(真心)

行 = 行蘊

言 = 説明(言葉と行動)



葬儀屋の側面を考えるに、実際にやりながら覚えたほうが早いし理解も進むだろう。頭だけで儀式の内容と意味を覚えようにも、煩雑で覚えきれるものでは無いだろうし、覚えられても表面だけの浅い理解で物にならない。そんな背景からの言葉かも知れない。まずはやってみる事だ、と。



子貢は魯や斉で宰相を歴任した人物で、その弁舌には定評があり、経済的にも財神と崇められるほど豊かであった。その彼が何か行動する時に誰かに伺いをたてる必要があったかと言うと、無かったと考えるのが自然であるから、いちいち行動の説明をしたとは考えにくい。的を得た質問があれば答えるくらいのバランスになりそうである。



論より証拠である。例えば、中国語を勉強するとしよう。橘子という字が気になったので、これは何の事かと聞いたとする。そうすると、大きさは握りこぶしくらいで、色はだいだい色で、食べると甘酸っぱい味がすると言われた。この説明でも橘子が何か察しはつくかも知れないが、言葉だけでは断定はできないはずだ。だが、橘子はこれですと現物を見せられれば、橘子が何か疑う余地は無い。橘子と書くと中国では蜜柑を意味すると分かる。






例えば、乞食のような恰好をして、自分は一国の宰相をつとめてると言っても誰も信用しないだろう。だが、宰相らしい立派な格好で従者を従えていれば、何も言わずとも只者では無いと伝わる。その上で相手から質問された時に、どこそこの国の宰相と言えば納得してもらえる。服装や従者が言葉に説得力を持たせたのだ。



人は話した言葉に縛られる。例えば、飲み屋で今日は驕るからジャンジャンやってくれと言った場面である。みんなはご馳走になりますと言って、ジャンジャン注文するだろう。タダ酒は美味い。そうして宴もたけなわとなり、そろそろ会計でもとなるわけだが、思いのほか会計が高くなってしまった何てことがある。値段を見た貴方は高いと驚くわけだが、驕ると言った建前、やっぱりお金を出して欲しいとは言いづらい。そして反省するのだ。驕るのは会計の金額を見てから決めても遅くなかったんだよな、と。



揚げ足を取られるような形は避ける。



人が何かしていると興味をそそられ、心を開くのが人情だ。説明はその後で良いと捉えるのも実戦的かも知れない。





【まとめ】

平凡は妙手にまさる。

by 大山康晴





------  仏教の立場からの考察  ------

鈴虫や ああ鈴虫や 鈴虫や



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