2018年9月15日土曜日

学而 第一 14

【その14】

老先生が言われた。君子は飽食を求めることなく、安居を求めることもない。仕事はテキパキこなすが、言葉は慎み深く、人格者に師事しながら自らを正す。こういう人を学を好むと言う。




【解説】

真心が明らかになる。すると、興味関心が真心に移る。相対的に他への関心が薄れ、つきつめれば他は2の次になる。勿論、美食にあずかれば楽しむし、時にはリラックスも求めるだろう。だが、それが生きる目的にはなり得ない。ここが大切と思われる。仕事は誠意を持って取り組み、当たり前のことをしているという認識は言葉を慎しませる。間違いがあってはいけないからと師を欲し、結果として人格者に己を正してもらうようになる。そのより良く生きようとする姿に学を好む姿が見て取れる。




君子が理想的な官僚だとすれば、飽食を求めないのも、居心地の良い家を求めないのも、すでに持っているからとも想像できる。食べ物にがっついたり、城のような家に住みたいと言うのは、言わば貧乏人の発想であるから、王に仕える優秀な官僚の考える事ではあるまい。彼らは王の食べる美食の残りを頂くこともあろうし、すでに城内、もしくは付近の居心地の良い場所に住んでいるはず。物事(王命)を機敏にこなすのは役人として当然だが、その事を自慢したりはしない。自慢などすれば、妬まれるし、揚げ足を取られる事もでてくるから。そして、有徳者に師事するのは、上から生意気だと思われないためだと思えばしっくりくる。上のメンツをつぶさないためにも、意見がある時は、まずは上(有道)に正してもらうのであろう。こう言う人間であれば、上からみて可愛げがあり、彼は学問が好きなんだと言ってもらえるという訳だ。こう実益で考えては本筋から離れてしまうが、こういった周りに気を配る姿勢は大切と思う。




別の解釈を示せば、孔子が士官を求め旅をしていた事を想像してはどうだろうか?彼が旅をする間、満足に食事をとれただろうか?居心地の良い場所で眠れる日ばかりだったろうか?そう考えて見れば、弟子を労うために君子は飽食を求めず、居心地の良い場所を求めないと言ったのかもと思うのだ。孔子と一緒に旅をしている弟子は、孔子の世話を機敏にこなしただろうし、孔子の前では言動を慎んだはず。そして、有徳者である孔子に良く師事し自らを正してもらっていたわけだから、孔子が弟子を労ったとしても自然な流れだと思われる。




他にも、学問が本当に好きな人は、学問ばかりでそれ以外に興味が無いと考える処から解釈しても良い。本があれば、他は何もいらないといった類の学者先生というイメージである。こう言う人は飯代を削ってでも本を買うし、研究にしか興味がないから住む場所は寝れれば良いと思っていたりする。そして、いつも本を読んでいるから何でも知っていて、何を聞いてもすぐに答えてくれるが、上には上がある事を知っているため言葉には謙虚なところがある。学問好きなのだから、偉い先生に師事して学んでいる事が多い事も頷ける。



君子を壮年から老年だと考えて見ると、食欲は年がくれば自然とおさまるとも言える。政治にこれで良いという終わりはなく、民の暮らしの安寧、敵国の状況など、考えることは尽きないと思えば安居を求めないのも頷ける。仕事は慣れの問題が大きいからテキパキこなせないようでは立派とは言いづらく、言葉を慎まねば時には相手を怒らせ仕事に差しさわりがでるだろう。人格者に師事するのも、独りよがりにならないためには必要な処置だ。





【まとめ】

真心を明らかにしよう






------  仏教の立場からの考察  ----

修行はかくあるべし。真心は無心のことか? 

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