2019年12月29日日曜日

観音経 普門偈 その15

【原文】

真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰



【和訳】

真観、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観を常に願い、常に瞻仰する。



【解説】

真観は、空の概念の事である。空は一言で言えば、空気の事を言っている。空気は不思議なもので、一見無いようでいて全てを含んでいる。例えば、水を鍋で沸騰させたとしよう。すると、水は水蒸気となり何処かへ飛んでいき、鍋の中の水はやがてなくなる。だが、水自体がなくなったわけでは無い。鍋の中にあった水は水蒸気として空気中に含まれ湿気になっただけだ。これが空気が全てを含むというイメージとなる。普段、我々は空気と水を別の物として扱っているが、実は空気の中に水は含まれていて、ある時それが雲となり雨をふらせ水としての形を得る事があるだけだ。ならば、空気と水に違いなどあるのだろうか。この事は何も水に限った話では無い。植物だって石だって長い年月をかけて風化し、空気中に溶け込んでいく。生き物だって死ねばそうなる。空気は形がないようでいて、あらゆる物を含んでいるのである。そして、形がないからこそ、ある時形を得る時がある。元から形のあるものは、形が無くなるという事は無い。だが、この世の有りようを観れば、みな一様に風化をし、形が無くならないものは無い。形が無いからこそある時形を得て、だが元々は形が無いのだから、やがて形は無くなって元の姿に戻っていく。これがこの世の有りようだとするのが空の概念である。

そして、この事が分かると、物事に差をつける事自体が可笑しい事になる。人間はあれが良い、これは駄目、あれは素敵、これは醜いと差をつけてばかりいるが、すべては空から生じているのだから、すべては空の一部にすぎない。それが綺麗だとしても、それが汚いとしても何方も空と言う意味において変わりはない。本質的に差など無いのである。そして、こう考える事を清浄観と言う。清浄観はその名の示す通り、単に清く浄らかと言うのでは無い。清浄や、不浄に執着しない平等な観方という意味だ。これが仏の目線となる。仏は差をとって物事を観れる事から、差とりを開いている。悟りとは差とりなのだ。ただ、とは言っても、普通の人間にこれは難しい。理屈は分かっても、実践するとなると極めて困難である。ついつい差をつけてしまうのが普通の人間だ。だから、無理はしなくて良いと、観音様は歩み寄ってくれる。これが広大智慧観である。広大智慧観は真観や清浄観に固執することなく、現実の常識観にとらわれる事もなく、中道を行く。そうして悩み苦しむ者に寄り添ってくれるのだ。その具体的な在り方が慈悲であり、ある時は苦しみを抜いてくれ、ある時は楽を与えてくれる。これが悲観と慈観である。

真観、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観を観音の五観と言い、釈迦が積まれた観想の内容となる。釈迦は悟りを開いた後、弟子を悟りに導いたわけだが、その順番を意識して理解すると良い気がする。と言うのも、真観と清浄観は理屈は分かっても、実際に行うのは難しい。だから、これを弟子に身に着けさせようにも、いきなりでは無理だ。だから、とりあえず、弟子の状況に合わせながら少しづつレベルアップを図ることになる。この釈迦が弟子に歩み寄って育てる状況が広大智慧観だ。だから、広大智慧観は弟子を悟りに導くために真観と清浄観は踏まえつつも、弟子の状況に合わせながら少しづつと言う話になり、時には実際に苦しみを抜いてあげ、時には楽を与える事で成長を促す事になる。

常願常瞻仰は、以上を常に意識し尊ぶ事で、観音様の教えを忘れないという事だ。観音経を学ぶのだから、勿論そうありたいものである。




【語句の説明】

1、瞻仰は、仰ぎ見る。慕い敬うと言う意味。

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