2018年9月12日水曜日

学而 第一 13

【その13】

有先生が言われた。約束は道理に近づくほど守られる。うやうやしさは、礼に近づくほど恥辱を遠ざかる。人に頼るにも、信頼できる相手でなければ頼み甲斐がない。


有先生が言われた。約束は道理に反するほどでなければ、言ったとおりにして良い。うやうやしくしても、礼に反するほどでなければ恥辱を受けない。人へお願いするときは、その親しむべきあり方に反するほどでなければ、お願いして良い。




【解説】

表から見るか、裏からみるか、口語訳を2つ示す。



ここでは無理なお願いをされたケースを考えると良いかも知れない。人間は機械ではないのだから、何事も杓子定規とはいかないもの。時には無理は承知だが、そこを何とかできないかとお願いされる事もある。そういうときは、相手の事情をきちんと斟酌し、道理に反するほどでないならば真心を以って対応する。つまり、言った通りにして良いとなる。そもそもルールとは、守れないからこそルールとして規定しなければならないと言う側面がある。それを杓子定規にルールはルールだと押し通してばかりでは、人間関係は上手くいかなくなる。そっと情を添えてあげるくらいが調度よい塩梅と考えよう。



約束は守るのが当然とは言え、どんな約束でも守らねばならないかと言えばそうではない。道理に反する約束はそもそもしてはいけないのだが、もし何らかの事情でする事になった場合でも、そこは真心に照らして考え直すべきと言える。社会通念上も至極当然の話と思うが、あえてそれは何故かと問うならば、真心から信が生まれるのであって、必ずしも信から真心が生まれるわけでは無いと理解するのが君子らしい。ゆえに、信を理由にして真心に反してはならない。これが君子にとっての義である。



例えば、新しく仲間入りするときや、初めて上役へ挨拶するときを考えて見ると良い。どうしたら失礼に当たらないのか迷った経験がある方も多いはず。そんな場面でのアドバイスをしている。例えバカ丁寧であっても、礼に反するほどでないならば大丈夫だよ、と。基本的に丁寧であるほど相手を歓心させ、言い換えれば恥辱から遠ざかるのが人情と思われる。



逆に礼から遠ざかる場合は気をつけねばならない。礼は敬意でもあるから、礼から遠ざかるほど相手には軽視したと受け取られる。軽視されたと感じた相手が、気分を良くするとは考えにくい。もし不快な思いをさせたのなら、恥辱を受けたとしても当然の成り行きになる。



親しむべきあり方を真心と解釈するのが本筋と思われる。そのお願いが真心よりでたものであるならば、多少度を超していたとしてもお願いして良い、と。ただ、実際の人間関係は貸し借りの清算の部分があり、何時も世話になっているからと言ってもらえるようでなければ無理は利かない。そのためには、常日頃から頼まれごとは断らないなど、周囲との信頼関係を構築することが必要になってくる。これを狙ってしては君子らしからぬと言わざる得ないが、君子の道は一日にして成らずと言う意味では抑えたい。



因不失其親、亦宗可也

余談だが、この部位は原文の解釈が複数ある。ここでは因を心の動き、親を真心、宗を中心と言うほどの意味でとらえ口語訳とした。原文を直訳するならば、心から沸き起こってくるものが、真心を失っていないならば、中心にそえるのも可となる。これを意訳して口語訳となる。他の例を示せば、因を姻族の姻とする説があり、この場合の親は親族(宗族)を意味する。この場合、姻族(妻側の親族の事)とも親しくやれるようならば、宗家の主としてやっていけると訳すケースもあるし、姻族とも親しみの度がすぎない程度に助け合いなさいとするケースもある。中国は夫婦別姓が基本であり、日本とは異なり子共ですらお母さんは別の家と言う文化だ。彼らは血筋をとても大切にするため、有子は姻族との付き合い方にも触れているのかも知れない。いつの世は奥方は強いものだから、当然と言えば当然の話ではある。



有先生が言われた。約束は道理に反するほどでなければ、言ったとおりにして良い。うやうやしくしても、礼に反するほどでなければ恥辱を受けない。その心が真心から遠く離れていないならば、そのままで良いんだよ。


こう言う訳も自然かも知れない。



実利的に考えて見る。道理に適わぬ約束は、長い目で見れば自分の首を絞めるかも知れない。トカゲの尻尾切りにあうかも知れないし、罪をそっくり擦り付けられてしまう事もある。そのため、約束が道理に適っているかどうかしっかり判別して、できるだけ弱みをつくらないことだ。失礼に問題があるとすれば、礼はされて当然という空気が出来上がっているからであろう。そんな中で礼を怠れば恥をかくのは致し方ない。ただ、礼はそこまで厳しくは審査されないという部分があり、一通りこなしていれば恥辱を受けることは考えにくい。通常はみんなと同じようにしておけば良いといった類のものとなる。人に頼る時に信頼できる人間を選ぶ理由は、信頼できなければ頼んでも安心できないからである。本当に大丈夫かなと思いながらでは、どうしても心に不安が残る。人間はやはり安心したい。





【参考】

孫子の兵法では、人を動かすのは利だと言っているように、中国人が人を信じる基準は、その人にメリットがあるかどうかという話がある。有子は道理に適っているなら約束を守れと言っているが、道理にはこういったニュアンスもあるのだろう。多種多様な価値観の人たちが一緒に暮らす中国では、言葉一つとっても同じとはならないし、何を良しとするかも一致しない。そうなると、まずは自分と相手では同じ価値観を共有していない事を受け入れなければ上手くいかない。自然と相手の利を探るようになる土壌が整うのだと思われる。





【まとめ】

腹八分目が調子良い




------  仏教の立場からの考察  ------

学生時代に真面目に取り組んだ学生ほど、卒業後に檀家と問題を起こすという話を聞く。逆に、学生時代に不真面目だった学生は、卒業すると檀家と上手くやれる場合が多いとか。人間なかなか杓子定規にはいかない。




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