2016年6月30日木曜日

気持ちをネガティブにしないテクニック

今回は中村天風をリスペクトし、気持をコントロールするテクニックを紹介する。生きていれば、ずっとポジティブでハッピーな気持ちという訳にも行かない。時には落ち込むし、つまらない、飽きたとなる時くらいあるだろう。ポジティブな気持ちをコントロールする必要は無いかも知れないが、ネガティブになってしまった時は、コントロールできるならポジティブに変えたいものだ。そこで試して欲しい方法を書いておく。

例えば、朝起きて、体がだるかったとしよう。貴方は今日は疲れてるなとか、だるいなという言葉を発してしまうかも知れない。疲れていると言う言葉を発する事は、人間避けられないだろう。実際、疲れているのだし、自分に嘘を言う必要もない。だから、疲れているというネガティブな言葉を言うのは、そのままで変える必要は無い。

その代わり、疲れてるの後に、無理やりポジティブな言葉をつけて見よう。例えば、疲れるな。でも、今日は良い日になるぞと言う。疲れてる話して、脳みそがネガティブになった状態で話を終わりにしないで、今日は良い日になるとポジティブな言葉で脳みそのネガティブ感を書き換える。脳みそは錯覚で出来ていると言われるように、とても不安定なものだ。出来ると言えば出来るし、出来ないと言えば出来ない。その不安定さを逆に利用して、ネガティブな言葉の後は、意識してポジティブな言葉をかぶせるのだ。要は悪いイメージのまま、話を終わらせないというテクニック。


------- 具体例 ----

× 疲れてるな。
○ 疲れてるな。でも、今日は良い日になりそう。

× つまらない。
○ つまらない。でも、やり遂げれば成長しそう。

× 風邪をひいてだるい。
○ 風邪をひいてだるい。でも、お陰で健康の有難みにきづけた。

良い顔の作り方

今回は良い顔の作り方を紹介する。ここで言う良い顔とは、特に顔だちが整っているとか、そういう事では無い。その人の内面が顔ににじみ出てるような、何とも魅力的な顔の事だ。

まず、話す言葉に気を付けると良いという話がある。人は年をとるにつれ、その人の話してきた言葉や、行動が顔に滲み出てくると言う。ありがとう、楽しい等ポジティブな言葉を話していれば良い顔になり、やりたくない、つまらない等ネガティブな言葉を使っていると、それが人相に現れてしまうらしい。良い顔を作りたいなら、ポジティブな言葉だけを話す事を癖付けよう。やる事はポジティブな言葉を多用するだけなので、意識すれば難しくは無いだろう。

次に、感動をたくさんすると良いらしい。感動すると、脳が活性化され、それが人相となって反映されるとか。些細な事にも、喜怒哀楽を意識して出すようにするだけで、顔が作られていくと言うのは興味深い。例えば、花を見ても美しいと感じなくなった等、感情が枯れてる感じるなら黄色信号なので気を付けて欲しい。花を見たら綺麗だと感動するのが大切だ。怒るときは怒るはさておき、喜ぶ時は喜び、笑う時は笑い、泣きたいなら我慢しないが、良い顔を作り上げる。



---- 以下、余談 ----

ただ、我慢こそがその人間に得雰囲気を作り出すという話もあるため、毎回喜怒哀楽を示すのが良いのではない事は触れて置く。要はバランスとなるのだろう。顔を作りあげるのは喜怒哀楽、その人間の空気感というか、雰囲気を作り出すのは我慢。これは車の両輪みたいなもので、どちらも必要となる。

トレーニング的に考えれば、自分が欲しいものが良い顔なら喜怒哀楽を意識して生活をする。雰囲気というか、目に見えないが体からにじみ出る空気感が欲しいなら我慢を意識するのも良いかも知れない。ドライな感じになってしまうが。


2016年6月27日月曜日

幸運を運ぶのはどっち?

あるお店に入った。
料理の注文をしたが、料理がなかなか来なかった。
その事を店に伝えたところ、店側が忘れてたと言う。
貴方ならどうするだろう?


店側が忘れてた事に腹を立てるだろうか?
自然かも知れない。
ただ、それを笑って許す人もいる。


腹を立てる人は雰囲気を壊す人。
笑って許す人は雰囲気を和らげる人。
貴方はどちらの人が好きだろう?


お地蔵さまが見てござると言う話がある。
人は見られてないようでも、誰かが見ているもの。
幸運は親切をした人の背中からやってくると言う。
幸運は不幸の顔をしてやってくると言う。


怒るのと許すのと、
幸運はどちらの行動が運ぶだろうか?
考えるキッカケになれば嬉しい。



---- 以下、余談 ----

斎藤一人は、雰囲気の悪い店に入ったら、その店を明るくしてあげようとしたり、そういう事が好きらしい。わざわざ雰囲気の悪い店に入り、それを楽しむというのだから凄い。その話に影響をうけて、この記事を書いてみた。

自分は相手の失敗は咎めたりはしないが、雰囲気の悪い店を明るくしてやろうとまでの気概はなかった。見習いたいものだ。自分の回りに福をばらまくという気概はとても好ましい。是非あやかりたい。

2016年6月26日日曜日

辛い事があったなら

人は生まれてくる前に、

この世でする事を自分で決めてきたという話を思い出せ。

辛い事があったとしても、全ては自分で決めたこと。

愚痴を言ってもしょうがない。

そういう話がある。


運命は自分で決めてきたのだ。

他人は関係ない。

もし、何かに迷う事があるなら、思い出してほしい。

前に進めるだろう。




---- 以下、余談 ----

人は天にいるとき、どの母親のお腹に入るか選ぶと言う。そして、母親のお腹に入るとき、この世でする事も全部決めてから来るのだとか。この世は偶然の繰り返しのように見えて、実は自分が天で決めた予定調和に過ぎない。もし、人のせいにするような気持になる事があるなら、この話を思い出すと良いだろう。すべては自分で決めた事。愚痴ってもしょうがない。




不幸な人の特徴

自分が不幸だと思ったら、もしかしたら貴方は人を許せないのかも知れない。斎藤一人によれば、不幸な人は人が許せない人に多いと言う。人付き合いは結局のところ、相手を許せるかだ。違うもの同士が仲良くやろうすれば、多少なりともぶつかる事はある。その時に、それを根にもってしまうか、許して忘れるかで大きな差となる。

もし、人を許せない性格だと、人と会うたびにストレスを抱える事になる。人を許せない人のストレスは人と会うたびに増えていくだけになり、対人関係も時間とともに敵を作るだけになるだろう。そこら辺が災いして、人を許せない人が不幸になっていくのでは無いだろうか?道理と言えば、道理だ。

もし、幸せになりたいなら、相手を許す事を覚えれば良い。コツは相手の良い処のみを見る事。悪い処を見たら、誰だって良くは見えない。だから、悪い処は見ない事、探さない事が大切。相手の良い処を見て、そして探してあげる。それが大切な気がする。

不思議なもので、相手の良い処を探すようにすると、他人の噂も全く気にならなくなるように思う。自分で粗さがしをする性格だと、誰かに悪い噂をたてられてると被害妄想的になりがちだが、褒めるようにすると誰かに悪い事言われてると夢にも思わない。相手を許す、そして良い処を探すようにするだけで、幸せは近づいて来てくれるのだ。世界は鏡のようなもの。自分が大らかなら、世界も大らかになると、まとめておく。

親の心

田中角栄の話を紹介する。田中角栄が総理大臣になったとき、母から言われたそうだ。お前が総理を降ろされる事があったら、帰ってこい。かばってやると。

総理大臣という立場でさえ、母の子を見る視点は小さい頃と変わらない。自分は独身で子がいないため、この話を見るまで気が付かなかったが、妙に納得がいった。親の心、子知らずという言葉があるが、この田中角栄の話から察する部分があるだろう。子はいつまでたっても子。そこに立場、実績は関係ない。


2016年6月17日金曜日

まとめ (中間)

このブログは自分が日々よいと思った事を、自分なりに書いたブログである。
そのほとんどは、「人の心に灯をともす」というブログからの引用になる。
自分の先生とも呼べるブログなので、強くお薦めしておく。

ここをクリックすると、人の心に灯をともすへ

これまでは一日に1つのペースで書いてきたが、
投稿記事も100を超えた事だし、これからは気が向いたら書こうと思う。
更新速度は遅くなるが、これからも宜しく。



---- 以下、余談 ----

マイルストーンとして、この記事を書いておく。
また、男心女心というブログもやっているので、良ければどうぞ。

ここをクリックすると、男心女心へ

武士道 生と死があれば死を選ぶ理由

武士道とは死ぬことと見つけたりで有名な葉隠の1節に、生と死があれば死を選ぶという部分がある。ともすれば死に急ぐ狂人とも言われかねないが、人間である以上そんな事を考えるはずないのは分かると思う。そこで、自分なりに解釈してみよう。

死中に活ありという言葉があるように、絶体絶命であれ生に執着せずに覚悟を決めると、結果的に生存する何てことは起きる。生と死があれば死を選ぶとは単にそういう教えだと思う。何で生を選ばないんだと思うかも知れないが、生と死で生を選んでも生存できる保証なんて無い状況だってある。その時は覚悟を決めたほうが良いっ話だ。

勝って兜の緒を締めよとは良く言ったもので、勝負事で最も大毒になり得るのは慢心だ。例えば、勝ち戦の時はみんな相手は逃げるとばかり考えていて、逃げる残党を狩って手柄くらいの勘定で慢心している事がどうしても多くなる。その時、逃げるはずの相手が覚悟を決めて斬りかかってきたらどうだ?勝ったと思ってるほうは、勝ち戦で命を落とすのは御免とばかりに逃げ出してしまうのが関の山だ。これが生と死があったら死を選ぶという事。逆に、覚悟を決めずに逃げると相手の兵が勢いづき、結果命を落とす事だって起こるのだ。

これが戦場を常とする武士の教えとして妥当では無いだろうか?人間には潔さを好む傾向があるように思う。言い訳をされれば見苦しいと思うが、正直に罪を認められると好意的に考えてしまう。例えば、自分の罪を告発する時などは正直に答えるべきか考えるだろう。もし、保身に走り嘘をついて酷い事になり、後々考えると正直に答えたほうが良かったという事は往々にしてある。生と死があって、生にしがみついてしまったゆえの失敗例だ。

葉隠の言う、生と死があれば死を選べとは、つまりは潔く生きろという事だと思う。

断食で病気を治す。

人は体に名医を雇っていると言う。だいたい8割の病気は、医者にかからずに治す事ができる。人は食を断ち空腹になると、本能的に生きようとする。空腹から身を守るために、省エネにもなるし、病気に対して抵抗力も増す。このメカニズムが名医なのだ。病気はすぐに医者という時代から、医者にかかるか選択する時代へ。体に備わっている名医も活かしたいものだ。

人は食べすぎるから病気になる。特に白砂糖が毒と言われていて、その白砂糖を断食で体から追い出すと体がスッキリする。食べるから病気になるなら、食事の量を減らせば体は自然治癒すると言うのは一理あるのでは無いだろうか?全く食わないのは難しいため、一日1食にするとか、体調が悪いときは食事を減らす工夫をして欲しい。



---- 以下、余談 ----

病気になったら医者に行くと刷り込まれた世代には受け入れられづらいが、少なくとも試す価値はあるように思う。話は有名なので、本を探せばあるだろう。昨今は医療の見直しが叫ばれ、アメリカでは医療破産も起きている。病気は医者任せと言う時代から、自分の体は自分で守るという意識を強く持つ必要がある時代になったのかも知れない。

これは特に新しい事を言ってるわけでは無い。単に昔に戻っただけ。医療にも温故知新の風が吹いたという事だろう。昔の医療の良い処と、今の医療の良い処をベストミックスしたいものだ。


絶対に負けない方法

升田幸三が絶対に負けない方法について語っている。彼曰く、絶対に負けない方法は自分より弱い者とだけ戦う事だそうだ。自分は最初に聞いた時、これがアリなのかと笑ってしまった。自分より弱い相手に何回も勝つより、自分より強い相手に1度負けたほうが良いという格言があったり、通常は弱い者とだけ戦ってはいけない事になっている。漫画の主人公を見ても、自分より弱い者とだけ戦うのを見たことが無く、さらなる強者へと歩みを進めるのが王道だ。言うなれば、弱い者イジメが格好悪いという事になっているなか、弱いものを叩けば負けないとするのは流石は升田幸三と言えよう。

戦いを重ねると、弱いものを叩けば負けないと言うのは真理だという事は良く分かる。だが、それを棋界のトップにも君臨したことのある、言わばヒーローでなければならない升田幸三が言うと面白い。

人の気持を察っしているか?

気持を察することができずに失敗した逸話を紹介しよう。豊臣秀吉曰く、織田信長がなぜ明智光秀に討たれたのか?彼に言わせれば、信長公は家来になった事がないからだそうだ。家来になった事のない信長公には、明智殿の不安に揺れ動く心が分からなかったのだろうと。人たらし秀吉らしい分析と思う。

この話が何か見直すきっかけになれば幸いだ。


悪口は言わない

悪口は言わないほうが良い。
例え、同調圧力があったとしても、恐らく。

悪口はオーバーに伝わる。
悪い人じゃないんだけどねが、
お前を殺したいって伝わるのが人の噂。

同調を求められたら、相手の立場によって、
何も言わないか、自分は好きと言うようにしよう。
下手に合わせると自分の信用を落とす。

人の噂を解決する方法は、
あの人が悪口を言うはずがないと言う評判。

それがあれば、
悪口を伝えた人間に悪い評判がたつだけ。
悪口を言わない事は大切なのだ。




---- 以下、余談 ----

悪口を言ってばかりいると、信用をなくすものだ。悪口を言わない人は、一時期は標的になるかも知れないが、長い目で見れば悪口を言わない人に信用が集まる。悪口好きな人は、居場所を転々とする場合が多い気がする。悪口を言ってばかりいて、それが人相にまで影響がでてしまったら、信用を得られなくなるため、なるだけ悪口を言わないような生活をしたいものだ。誠には誠が、邪には邪が集まる。貴方は誠の人と、邪の人のどちらと仕事がしたい?







軍鶏の目、牛の目

動物の闘争心は目の構造に秘密があるという話がある。例えば、軍鶏は相手が実物の5分の1に見えるとか。虎は猫に見えるし、猫は子猫に見える。軍鶏の目には、相手が弱そうに見えるため、彼らの闘争心につながると言う。逆に、牛は相手が5倍の大きさに見えるらしい。猫は虎に見えるし、虎は象になる。だから、牛は怖くなって穏やかな性格になるのだとか。この話がどう役に立つかは分からないが、面白いと思ったので書いておく。

勝負事でやってはいけない事に、相手を想像するというのがある。例えば、強者と戦う時、相手を想像して強くしてしまうと、相手が実物以上に強くなってしまう。目の前にいる相手と戦うのではなく、想像上の相手と戦い、勝負に負けてしまうのは良くある事だ。

相手を強い強いと思っていると、相手がミスしていても、そのミスに気づけない。相手の姿を想像せず、等身大の相手と戦うようにする事はとても大切だ。もし、自分が負けると感じてしまうなら、軍鶏の目の話を思い出しても良いかも知れない。相手は弱いと思い込み、ハッタリで戦う。それでも、大抵は負けるのだが、不思議と勝てる時もあるだろう。勝負事は気持が強いほうが勝ちやすい。

逆に、自分より弱いと感じる相手と戦う時は、牛の目が大切だ。相手が弱いと思うと、心のどこかで慢心が生じる。慢心は勝負事では大毒だ。慢心していると、実力の劣る者に負ける何てことが普通にあるので、牛の目になって、相手を強い者と想定し慎重に戦うのが良いだろう。勝てる相手に確実に勝つには慢心を排除しなければならない。

と、書いてみたが、本来は平常心で戦うのが良い。相手が強かろうが、弱かろうが、いつだってできる事を全力でする。そこに気持のぶれは無いほうが良い。ただ、現実にはとても難しく、相手が強ければ負けると考えてしまうし、相手が弱ければ勝てると考え隙がでてしまう。こういった気持のブレを修正するために、軍鶏の目、牛の目などを意識すると良いかも知れない。理想的ではないが、現実的だ。



ユニークさが大事になる

ユニークさが大事になったと言われる。そして、それはロボット技術や人工知能の発達によって、加速する流れにあるのだとか。単調な作業は人間がやらなくて良い時代になるため、人間がするべき事はユニークさに依存する事になるわけだ。ただ、ユニークさと言っても、ざっくばらんすぎるので、少し考えて見よう。ユニークさとは一体何だろうか?ある人によれば、ユニークとは、異質なものと、異質なものとの組み合わせ。もしくは、当たり前だと思われていた事が、実は違う事を証明する事だそうだ。

例えば、自動車王ヘンリーフォードは、肉屋の流れ作業をみて、車を流れ作業で造るアイデアを手に入れたと言う。そして、フォード王国を作り上げた。肉屋と自動車という一見関わりが無いように見えるものを、フォードは組み合わせたのだ。

例えば、大便の話がある。ある時まで、大便は食べ物の残りカスだと思われていた。発想としては自然な気がする。腸で栄養をとられた残りが大便となって出てくると言われれば、そうだろうなと思ってしまうくらいのイメージしやすさがある。だが、今これは違うという事になっている。大便は体内部の新陳代謝の結果の老廃物だと言うのだ。皮膚が新陳代謝で垢をだすのと同じで、体内部でも垢がでる。それを集めたものが大便だと言う。食べ物は体内に入ると分解吸収されるため、大便とならないというのが今の通説となる。この例は当たり前だと思っていた事を、実は違うと証明し、ユニークさを出したと言える。

こう言っては何だが、恐らく集団になじめない人のほうが、こういった事を見つけやすいのでは無いだろうか?集団で仲良くやる事は大事なのは間違いないと思うが、集団にいると集団のルールに疑問を持たなくなりやすい。疑問を持たないとユニークさなんて出てこないのだ。集団になじんでいる者より、集団になじめなかったある種の疎外者から、ユニークさが出てくるのは、面白い現実な気がしないか?

爆笑問題の大田光などは、高校時代に友達がいなかったと言う。しかし、今の彼の活躍を見れば、友達がいないと馬鹿にするのも恥ずかしいだろう。何を言いたいか分からなくなってきたが、とにもかくにもユニークさが大事だという事だ。個人的には、何でも自分で考える。それが他人の目からはユニークに映るくらいに思ってる。集団になじめないなら、それはユニークさを育む土壌。人と意見が合わないなら、すでにユニークさを持っているという喜ぶべき事。今までの常識を疑って生きると面白いかも知れない。少なくとも、これからはそれが要求されるらしい。



2016年6月16日木曜日

足の匂い対策

大人のエチケットとして、自分の匂い対策もあるように思う。やはり、臭い人とは一緒にいずらい。そこで、今回は足の匂いに注目して見る。足の匂いはどうも汗がでて発生する細菌が原因のようだ。細菌が原因なら、その細菌を抗菌スプレーで殺してしまうのも一つの手なのだが、足からでる汗自体を出さない事も考えて良いかも知れない。汗さえでなければ、細菌も発生せず匂い問題も解決できるのだから。

足からでる汗には特質があり、緊張した時にほとんどでるのだとか。そのため、緊張しないのが一番の汗対策らしい。ただ、緊張するなと言われても、どうしたら緊張しないでいられるかという問題があるのだが、それには仕事に集中して、緊張自体を忘れてしまうのが良いそうだ。仕事に集中すると、仕事の腕もあがり、匂い対策にもなる。一石二鳥だ。

仕事に一生懸命打ち込むと、足の匂い対策にもなるのは面白いと思う。

2016年6月15日水曜日

子供には良い話を聞かせる。

小さい子供には、良い話だけを聞かせよう。

出世する話、人を助ける話。

それを聞きながら育った子供は、

大人になったとき聞かされた話の影響を受ける。

出世したり、人を助ける事が好きな大人になるのだ。



---- 以下、余談 ----

逆に愚痴ばかり聞かせたり、夫婦が喧嘩ばかりしていると、子供がどういう大人になるかも想像つくはずだ。子供は親が家で話す事を話すという格言があるが、まさにその通りになるという話だ。信じるも八卦、信じぬも八卦だが、参考までに。

喜び上手の人

喜び上手な人は可愛げがある。例えば、プレゼントをあげたとする。思いっきり喜んでくれる人と、あまり喜んでない人のどちらを好意的に思うだろう?恐らく、おもいっきり喜んでくれる人を可愛い奴と思うのでは無いだろうか?豊臣秀吉などは織田信長から秘伝のツボを褒美にもらった時、飛び跳ねて喜んだという逸話が残っている。その時、信長はいなかったそうだが、飛び跳ねている光景を女中がみて笑ってしまったとか。女中がする秀吉の噂話を信長が聞いたら、猿め可愛いやつと思ったに違いない。

豊臣秀吉の逸話から、何か得られれば幸いだ。

2016年6月14日火曜日

浮気の賛否両論

穿った見方をする。日本には貞操観念がもともと無かったという話もあるようだが、今の日本における貞操観念はアメリカの3s戦略の賜物なのは間違いない。良くも悪くも、アメリカがセックスを推奨したため、日本のマスコミでもてはやされてきた。マスコミがもてはやすから、今の貞操観念が出来上がったと言える。遊ぶ事がカッコいいとされたのは、本当に遊ぶ事がカッコいいからではなく、それがアメリカの戦略上に適っていたので、カッコいいとされてきたのだ。

勿論これからもそうなるかも知れないし、生き物として考えれば優秀な雄が雌をたくさん従えるのは自然とも言えるわけだが、アメリカの戦略が変わったり、もしくはアメリカ以外が日本に影響を及ぼすようになれば、遊ぶのがカッコいいという価値観はどうなるかは分からない。その場合、女遊び、男遊びの激しい人は戦犯として吊し上げられる事になろう。最近のTV放送を見ていると、多少時代の変化があるのかと感じるので、あえて記事を書いた。

大きな枠組みで見れば、遊ぶ事をカッコいいとするために、遊ぶ人を採用しもてはやす。遊べる自分はカッコいいという視点の他に、遊ぶ事をカッコいいとしたいという政治的な視点をもつと空気が読めるかも知れない。そして、それは長生きにつながるように思う。

男は女と寝たがる。そこに理由は無い。これを良しとするか、悪しとするかは時代によって決まるのだ。悪しとするなら、人間は理性があるから他の動物とは違うと言えば良い。理性の無い人間なんて、動物と同じだからと取り締まる何てことは普通に想定できる。浮気の賛否両論を決めるのは時代。そういう視点も大切では無いだろうか?



---- 以下、余談 ----

他のブログで浮気について書いたので、あえて変化をつけて書いている。こういう陰謀論的な切り口を逆らうためと決めつけず、相手とうまくやるために知るという視点も日本には必要では無いだろうか?

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2016年6月13日月曜日

隠しぼめ

隠しぼめと言う話がある。一言に褒めると言っても、良い事を良いと言うだけが能では無い。良い事を良いという時に、あえて良いと言わずに褒めるのも粋だ。例えば、一緒に仕事した人に、貴方の仕事は本当に素晴らしいと褒めるのも良いが、そう言わずに、貴方とはまた仕事がやりたいと褒めるのも良い。この後者が隠し褒めだ。褒め方も色々バリエーションをつけられると、コミュニケーションの幅が広がる。恐らく、隠しぼめのほうが粋だ。どうせなら、恰好よく褒めたいと思わないか?

なお、この話は渥美清の話からの引用なので、隠しぼめと検索すると色々でてくる。自分はそちらのブログほど上手く説明できなかった。また見たくなるブログに出会えるだろう。




---- 以下、余談 ----

例えば、敵対しているグループがあるとしよう。敵の親分に対し、あいつが居てくれて助かると言えば、敵の親分にとってはマイナスに働くかも知れない。敵が褒めている親分では不味いと考えるのが普通だからだ。あいつが居なくなったらチャンスと言えば、敵はその親分を必死で守るかも知れない。敵が嫌がる親分は、頼りがいのある親分である可能性が高いだろう。コミュニケーションも、自分の立場によって色々だと思う。

実際はこんなに単純じゃないにしても、敵の親分を助けたい時は、嫌がってあげれば良いというのは面白いじゃないか。話は変わるが、国際政治を見る時も、こう言った事に注意すると見え方が変わるかも知れない。


2016年6月12日日曜日

あとから来る者のために

「 あとから来る者のために 」  作 坂村真民

あとから来る者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとから来る者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ

あとから来る者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ

ああ 後から来る者ために
みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしてゆくのだ



【感想】
良い詩だと思う。心に来るものがあった。この詩の途中、しんみんよお前は詩を書いておくのだという部分があるが、見事だ。確かに、この詩から自分は受け取るものがあった。自分は生きてきて、後からくる者のためにと考えた事は無いが、先人から受け継いだものを、後に続くものにしっかり伝えるのは美しい行為のように思う。

この詩を取り上げようと思ったのも、最近趣味の歌を歌っていて思う事があった。村下孝蔵の初恋という曲をラジオで知って、いい曲だと検索にかけたら、村下孝蔵が死んでいる事を知った。その時、自分がこの歌を大事に歌ってあげると思ったのだ。この世を旅立った村下孝蔵に、貴方の歌はまだ生きているぞと言ってあげたい。



---- 以下、余談 ----

ラジオを聴いていたら、ビートたけしの言う馬鹿野郎この野郎は、師匠の深見千三郎譲りである事を知った。深見千三郎は何を言うにも、最初に馬鹿野郎この野郎と言ってから話したそうだ。その癖がビートたけしに移ったとかなんとか。この話を聞いて思ったのが、これは恩返しだなという事。深見千三郎は死んだ。でも、彼はビートたけしの口癖の中で生きている。師匠の口癖を弟子が真似をすることで受け継ぐ。師匠は死んだが、今も口癖のなかで生きている。何とも粋じゃないか。


2016年6月11日土曜日

正直が何故大切か?

正直は大切だ。理由は正直なほうが信用できるにつきるわけだが、特殊な状況を考えて見る。例えば、政治家などを考えて見よう。彼らにはたくさんの利害関係者がいるし、そこから政治資金の援助を受けたりしている。利害関係者にしても、政治家にお願いした事が一筋縄でいかない事は分かっている。だからこそ、政治家に何があっても約束を守ってほしいという気持ちが強くなる。これが、実質的な意味での正直が好まれる理由だろう。

何があっても言った事を守るという信念はとても重要だ。



---- 以下、余談 ----

穿った見方かも知れないが、思いついたので書いてみた。単純に、正直のほうが分かりやすくて親しみが持てると言うのが筋かも知れないが、ユニークさを出してみた。


2016年6月10日金曜日

自己肯定感を作る。

自己肯定感が大切な事は自明の理だが、どうやったら自己肯定感を作れるだろうか?そこが問題だ。自分は駄目だ、自分はできない等自己否定ばかりしているより、毎日自分は最高、自分はできると言ってる人のほうがゲンが良いのは間違いない。ならば、どうやったら自己肯定型の人間になれるかを考えるべきだろう。

まずは、脳みその錯覚を利用すると言うか、自己暗示というやり方がある。例えば、いつもできる、できると言っていると、脳みそが勝手に自分はできると勘違いする。脳みそは錯覚でできている不安定なものなので、その不安定さを利用して意識改革してしまうのだ。出来ると言えば出来る、出来ないと言えば出来無い。脳みそは単純だ。

次は、できるイメージが出来るまで考えると良い気がする。不思議なもので、できるイメージさえできれば心はプラスに転じる。できるか、できないかと悩んでいる時は、できるイメージができるまで考え続けよう。イメージさえできてしまえば、心は安定するだろう。イメージ上の事でさえ、脳みそでは実際の経験値として蓄積されていくので、考えるのは全く無駄にならない。重要なのは、できないイメージのまま考えるのを止めない事。


2016年6月9日木曜日

自分の姿をみて復習しているか?

何をするにも、自分の姿を例えば鏡に映して見るのは基本となる。その姿を見て反省は誰でもするように思う。鏡を使って自分を見る癖がついている者なら。ただ、褒める事をしている人はどれくらいいるだろうか?思うのだが、鏡に映った自分の動きを見たときは、反省は勿論として、褒める事を多くしたほうが良いかも知れない。

人間は褒められて伸びる。自分で自分を褒めても、脳みそでは1人称と2人称の区別がつかないため、誰かに褒められていると同じ効果が得られる。この際、鏡に映った自分を見て、褒めまくれば案外成長も早いのでは無いか?

自画自賛は正義と言っておこう。

2016年6月8日水曜日

近くで面白い事が起きる方法

身の回りで面白い事だけが起きれば幸せになれるが、現実にそうする方法があるだろうか?今回はそういう話を考えて見る。人間だれしも、身の回りで起きる事には大差無いだろう。朝起きて、ご飯を食べ、仕事して、夜寝る。この繰り返しなのだ。でも、今日は面白い事があったんだと言う人もいれば、今日はつまらないと愚痴をこぼす人もいる。この差はどこで生まれるのか?

思うに、説明能力の差では無いか?つまり、究極的には何でも面白く説明できる人がいて、その人ならば身の回りで面白い事しか起きない。物事を面白いように説明できる能力にこそ、身の回りを面白い事で固める鍵があると思う。具体的には、常に面白い事を探しているうちに身につくとなるが、身の回りがつまらない事ばかりと思うなら、自分の説明能力を疑ってみるのも良いかも知れない。

箸が転んでも面白い年頃という言葉があるが、思春期の彼女らにすれば、箸が転んでも面白い理由がある。それを彼女らは説明はできない。でも、笑うからには、その理由が必ずある。それを説明できる人ならば、何でも面白いという世界で生きられるのだ。

2016年6月7日火曜日

知らない事を大切にする。

知らないからこそ、浮かぶ発想がある。

知ると、知らない頃の発想ができない。

世の中知らない人ばかり。

知っているほうが良いと思いがちだが、

知らないほうが都合が良い事も多い。

知らない人の気持が分からなければ、

知らない人が何を欲するか分からないだろう。

自分の無知を嘆く事があったなら、

無知だからこそできる発想を大切にすると良いかも知れない。

無知は大多数の気持になれる大切な時間なのだ。

2016年6月6日月曜日

傲慢という毒

銅像を足から頭まで作ると、必ず滅びると言う話がある。どこの指導者かは伏せるが、歴史的に見ると、銅像を足から全身つくった指導者は全員滅びているのだとか。もし、貴方が銅像を建てようと思うなら、胸から上だけにしとけとあった。

人間、傲慢になるのが一番良くないのだが、どうも銅像を全身で作る行為は、人間が傲慢の極みに達した時にするようだ。そのため、銅像を作った後、周りを横柄に扱ったり搾取を重ねて反感を抱かれる。そして、傲慢がたちが悪いのは、際限がないという事だ。一度傲慢になると、次はもっと傲慢になり、それを繰り返すうちに滅びるまで行く。

この話が自分を見直すキッカケになれば嬉しい。反対に謙虚は最高だそうだ。謙虚な心で過ごせれば、必ず運も向いてくるだろう。

2016年6月5日日曜日

最高の学歴とは?

大きく成功するためという条件付きだが、最高の学歴は大学中退なのかも知れない。カーネギーも富豪になる条件の一つに大学を中退している事を上げているし、スティーブジョブス、ビルゲイツ等の例が実際にある。最高学府の人材が優秀なのは知っているので、否定する気は無いが、そのトップから大富豪が生まれないのは興味深い。

では、何故大学中退の人から富豪が生まれるのか考えて見よう。まず、大学中退という事で、ストレートに良い就職先にありつけない事が要因のように思う。そのため、彼らは自分で起業するなり、道を自分で切り開く事を強制的に迫られる。普通には周りから受け入れてもらえないため、どうやったら受け入れてもらえるか試行錯誤し、その事が彼らを大学卒業者より強くしてしまうのでは無いだろうか?人は失敗する事で成長していく。

また、大学中退は大学で学ぶ事がなくなったからというケースも考えられる。大学在学中に起業したく、大学にいる時間が惜しくなって中退に踏み切る。このケースは大学そのものを学ぶ場所と完全に割り切っているし、自分で道を切り開く意思が強いため、富豪が生まれやすそうではある。

富豪とまで突き抜ける人がでるには、時代が変化しないと無理と言うのもあるかも知れない。学校教育はその時代で良いとされる事を教えているので、時代の変化に対応しづらい。そのため、学校教育で優秀だった場合、知らず知らずのうちに時代の変化に対応しづらくなっているのかも知れない。時代が変わったとき、活躍するのは劣等生だった者だとすれば、大学中退者が時代の変化に乗りやすいのかも知れない。

と、3つほど書いてみたが、大学を卒業する事が悪いわけでは無いので、大学卒業者は大学中退者から富豪が生まれる理由を良く分析する必要があるかも知れない。変な話だが、大学卒業者が大学中退者から学ぶことが多いのだろう。大学中退者にあって、大学卒業者に無いもの。それが大事だからこそ、大学中退者に富豪が生まれるのだから。逆に考えれば、それさえ盗めれば大学卒業者のほうが動きやすい分、勝ちやすいかも知れない。

学校教育は記憶力を問われやすい。時代が変化する時、記憶力より対応力や発想力が試される。そこらへんが鍵か?富豪まで行くには攻めの姿勢が大切となる。大学卒業者はどうしても守りに入ると言うのもあるか?大学卒業者の富豪も多いだろうから、中退が良いと一概に言えないが、恐らくイメージより中退は悪くないと思う。




2016年6月4日土曜日

おみやげ

ラジオを聴いていたら、お土産はそこにしか無いものだから、価値がでるという話をしていた。言われてみれば、そうかもしれない。お土産をもらったとして、近くのスーパーで売っているものだと有難みも半減するし、異国情緒的な感じも全くないので、旅行に行ってきた雰囲気が伝わってこない。確かにラジオの言う通り、お土産にそこにしか無いという条件は大切なようだ。

ただ、今東京ではどこの物でも売っている。沖縄のものもあれば、北海道のものもある。沖縄に行かなくても沖縄の物が手に入り、北海道に行かなくても北海道名物が手に入る。とても便利になったとも言えるが、沖縄へ行くメリットや、北海道にわざわざ旅行するメリットが薄まったとも言える。事、物質的な意味では行く理由が全くないのだ。

旅行で大切な事は異国情緒的な感覚では無いだろうか?どこか別の世界に来たような感覚こそ求められるように思う。どこに行っても同じ街並みでは、わざわざ旅行するメリットはどこにあるのだろう?沖縄でしか買えないもの、北海道でしか買えないものを輸出するのも結構だが、そこでしか買えないという部分をもっと大切にしても良いかも知れない。少なくとも、観光客はそれを求めている部分があるのだから。




---- 以下、余談 ----

昨今は観光立国などと騒がれたりもするが、観光立国するうえで最も大切なのは異国情緒では無いだろうか?海外の人が日本で生活しやすいように日本語以外の表記を加えるも一つの手だが、逆に日本に来たら日本語のみも異国情緒として重要だ。海外の人は日本に来て、海外と同じように生活出来る事を望むだろうか?

貴方はアメリカへ行けば、アメリカらしさを求めるだろうし、ヨーロッパに行けばヨーロッパ特有のものを求めるだろう。そうでなければ旅行する理由がない。それと同じ事を海外の人は日本に求めるはずだ。日本に来たら、日本らしさをとことん見せてやるのが、本当に喜ばれる事のように思う。

グローバリズムが叫ばれるが、グローバリズムだからこそ、日本文化をより発信するのが本来の姿となろう。海外の人が求めている日本像でなくて、どうして海外の人が日本に来てくれようか?観光立国は日本文化を大切にして初めてなされるのだ。日本でしか味わえないものを提供する事が急務ように思う。

文武両道

文武両道と言うと、現在では勉強も出来て、スポーツ万能である人を指す言葉となっているが、どうも本来の意味とは違うらしい。文武の文は、勉強だけでなく、芸事も含む概念らしく、文武両道とは武術に通じ、頭脳明晰、芸術にも長けた何でもできる人を指すようだ。スポーツだけでも駄目、勉強だけでも駄目、遊ばなくても駄目と言うのが面白いではないか。現在は遊びの部分が意味から消えているので、読者自身が意味を補うと良いだろう。

武に限らず、運動はある時から文を必要とする。1位になるなら、やみくもに運動するだけでは足りなく、どういった動きが最も効率良いとか、どれくらい運動して休息をどれくらいとったら最高能率になるかを考えたり、食事にも気を使わねばならない。運動は最初はやみくもにすれば良いのだが、1位を目指すならば学問が必要になる。

学問にしても、机の前にずっと座っているより、体を動かしたほうが頭が良く働く。運動のやりすぎは効率を落とすが、適度な運動ならば学問の質を高めるのだ。健全な体に健全な精神が宿ると言うように、まずは健全な体が基礎となる。学問をしっかりするにも、病気がちでは能率が上がらないのだ。

文武両道。文と武は車の両輪。文が武を助け、武が文を助ける。両道と言うが、両道だと凄いという事では無く、両道が一番効率も良い事に気づくと世界が広がるのでは無いだろうか?自分は勉強だけやりたいから、自分は運動しかできないと言うのでは、文武両道の本質を理解してない意見となるので注意して欲しい。何でも一生懸命やる。それが単純明快な本筋だ。できる、できないが問題になるなら、勉強の能率をあげるために運動を一生懸命すると考えよう。運動の能率をあげるために勉強すると考えよう。それが文武両道という事。

2016年6月3日金曜日

一芸は道に通ずる。

一芸は道に通ずると言う。一芸に秀でた者は何をやってもそれなりにこなすと言うのだ。思うに、妥協のラインが変わるからでは無いだろうか?一芸に秀でた者は、その芸に関しては妥協をしてない。その芸の水準で他の事も見るため、一芸に秀でた者は何をやってもとなるのだろう。一芸に秀でた者はこれでいいやというラインが高い。

また、一芸に秀でる者は常にどうやったら上手くできるかと考える癖がついている事が多い。何をやっても上手くなろうと考えるため、それなりの処までは辿りつくのだ思う。一芸に秀でるまでには色々な事がある。途中でやめたいと思う事もあっただろうし、稽古がきついなど何かと忍耐を必要としたはずだ。それらに打ち勝ったという経験もプラスに働いているはずだ。

まずは一芸を磨け。一芸を頑張れば、他はついてくる。一芸を秀でる過程で得られるものは大きい。

2016年6月2日木曜日

人間の理想像

Charaのやさしい気持という曲を聴く機会があって、歌詞に気になる部分を見つけた。彼女は歌の中で、貴方の理想がいい加減な男としてもと歌っている。第1感としては、Charaは男運が良くないのかなと言った処だが、この男の理想像と言う話は考えた事が無かったので興味を惹かれた。

男としての理想像、もっと言えば人間の理想像とは一体何だろうか?自分は福の神こそ理想だと思う。周りに福をばらまくような人間が一番では無いか?情けは人のためならずと言うが、福の神なら自然とそうなるように思う。福をばらまき、結果福が返ってくる。まさに理想的で理に適っているでは無いか。こんな事を思いついたので、ここに書いておく。



---- 以下、余談 -----

Charaはいい加減な男の愛を自分が独占したいという気持ちを、やさしい気持という曲で歌っているように思うが、いい加減な男にこそ惹かれる女心と言うものがあるのだろうか?いい加減な男とは、モテる男であろうから、モテる男の愛を独占したいというのは分からないでも無いか。自分は歌を趣味にしているので、歌の世界観を自分なりに作る過程で、こう言った事がすごく気になる。好きな男の愛を自分だけの物にすると試行錯誤するのは、恋愛の醍醐味と言えば醍醐味か?さて、真実は?

2016年6月1日水曜日

深山の桜

深山の桜と言う話がある。深山とはその字の示す通り、山深くにある場所の事だ。深山の桜とは、普通は人が通ら無い山奥にある桜を言う。人が通らない場所にあるため、桜が大きく育つまでは誰も気づかない。だが、大きく育てば、誰かが見つけるものだ。一度誰かが見つければ、最初そこは隠れ家的な花見スポットになり、時間がたつにつれ口づてで桜の綺麗な場所があると噂になっていく。噂が広まるにつれ、深山の桜見たさに道が作られ、作られた道の回りには店ができる。深山の桜という山奥の存在だったはずのものが、その美しさから街を作るまでになるのだ。

この話は、実力さえあれば、周りがほっとかない。何はともかく実力を蓄えろという話として語られる。もし今、功を焦っているなら、自分を見直すキッカケになれば幸いだ。田中角栄も、功は焦らなくても良い。自分に実力がありさえすれば、運が必ず回ってくると言っている。必ず出番はくる。それまで淡々粛々と実力をためると良いだろう。後は運だ。考えてもしょうがない。