2016年5月31日火曜日

出来るだけ良いラベルを貼ろう。

世の中は、どのラベルを貼るかによって変わるという話がある。例えば、誰に対しても優しい人と言えば聞こえが良いが、八方美人と言えば聞こえが悪くなる。自分には何も無いと落ち込めばネガティブになってしまうが、もう失うものは無いのだし進むだけと思えばポジティブに変わる。要はどのラベルを貼るかという話。

実際は良い事も悪い事もない。自分が良いと思っている事と、悪いと思っている事があるだけ。もし、悪いと思っている事があるなら、もう一度ラベルを貼りなおしてみてはどうだろうか?まず、その事を客観的に事実のみを捉える。次に、その事から起きるメリットとデメリットを考えて見る。貴方がその事を悪いと思っているなら、デメリットのほうに注目しているはずだ。メリットに目を向けて見よう。恐らく、この状況は捨てたもんじゃないとできる。

チャンスとピンチは紙一重。チャンスのラベルを貼るか、ピンチのラベルを貼るかの差に過ぎない。お調子者な訳じゃない。みんなの雰囲気を和ませようとしているだけ。病気になって不幸なわけじゃない。病気になったおかげで健康の有難みに気づけた。業界の淘汰が始まった。ライバルを消すチャンス。要はどのラベルを貼るか。

これが理解できると、プラス思考、マイナス思考の他に、TV新聞などの情報もラベル貼という事が分かるようになるし、自分でラベルを貼れるようにもなる。ニュースのラベル貼をネガティブにとれば陰謀論、ポジティブにとれば公正妥当な情報。事の善悪はさておき、自分でラベルを貼ると世界が広がるように思う。お試しあれ。

2016年5月30日月曜日

イチゴの先だけを食べる人

ラジオからイチゴ狩りの話を紹介する。イチゴ狩りでイチゴの先だけ食べる人が増えているらしい。どうも、イチゴの甘味は先にあるようで、甘い処だけ食べて他は捨てる事をしているようだ。食べたいように食べるのが一番良いと言いたい処だが、甘いも酸っぱいも合わせてイチゴのように思う。甘い処だけ食べると得した気分になるのだと思うが、果たして本当にそうだろうか?

イチゴの甘さは酸味が引き立てる。甘い部分だけを食べては、イチゴの醍醐味と言うか、イチゴに本来備わっている甘味の美味しさを感じる事は出来ないだろう。酸味あってこそのイチゴなのに、その酸味を味合わないなんて、何て勿体ない事をしているだろう。

酸いも甘いも嚙み分けるという言葉があるが、酸いを知っているからこそ、甘いの本当の美味しさが分かる。甘いだけを味わっては、本当の美味しさは分からない。その事に気づいていない分、甘い処だけ食べ、他を捨てる行為は実は損をしていると言えよう。




---- 以下、余談 ----

見方によっては、イチゴの先だけ食べて他を捨てると言う行為は、食べ物を粗末にする行為だ。食べ物を粗末にしない人と、食べ物を粗末に扱う人がいたとして、一つだけ言えるのは、食べ物を粗末にしない人は周りの人も大切にする可能性が高いと言う事。自分はイチゴの先だけ食べるなんて許せないと言うほど潔癖症では無いが、食べ物を粗末に扱わない事は信用に繋がるのも知っておきたい。


2016年5月29日日曜日

限界を知る方法

誰しも一度は疲れてもう限界だと口走った事もあるかと思う。部活動の練習がきつくて、仕事が過密すぎて、ついつい限界という言葉が出てしまう。珍しい光景では無いが、だけど、本当に自分の限界を味わった経験はあるだろうか?今回はそういう話を紹介する。

ボディビルダーの世界では、一番最初にしなければならないのは己の限界を知る事と言う話がある。筋肉は限界まで鍛えた時に、超回復と言って、休息時にそれまでの能力を超えた回復をする。限界までトレーニングするから、筋肉は大きく育っていくわけだ。限界を味わうほど体が成長してくれるため、どこまでやったら限界なのかを各競技者は模索していく事になるが、これにはある程度の目安がある。

それはオーバーワークだ。オーバーワークと言って、トレーニングしているのにも関わらず、筋肉が小さくなっていったり、気持ちが不安定になっていく現象がある。これが人間が限界をきたした時のサインとなる。これを積極的に利用し、自分の体はどの程度までトレーニングしたら限界になるのか、身をもって知る必要があるのだ。人間の体は個人差があるため、テキスト通りでは本当の限界が分からない。自分の限界を正確に知るのは大変だが、限界までトレーニングをした時に最大限の効果が発揮されるため、一度体を壊してでも知る価値がある。己の限界を良く知っている者こそがチャンピオンの資格を得るわけだ。

この話が限界について考えるキッカケになればと思う。個人的には限界だなんて軽く言ってはいけないなと思うと同時に、アスリートの凄まじさを感じる。チャンピオンは限界のコントロールによって生まれるわけだ。限界を知るために自らの体を壊す。狂気と言えるかも知れない。


2016年5月28日土曜日

言霊

ある田舎に暴れてばかりの不良がいた。その母親は我が子の行く末を思うと気が気でならず、ある有名な占い師を訪ねたと言う。占い師は言った。お前の子は将来ヤクザになるであろうと。母親はその言葉にショックを受けたが、自分の胸にしまい子にはこう言ったと言う。占い師にお前を占ってもらった処、お前は大層出世するらしいよと。

暴れてばかりだった不良はその言葉に大変気を良くし、田舎から東京にでて、職人として修行を積んだ。そして、末は会社を作って大成功したと言う。これは、ヤクザになると言われた手を付けられない子供が、母親の暗示によって全く別の道を歩み成功したという話。母の言葉が言霊となり、息子を助けたのだ。



---- 以下、余談 ----

上の話は占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦という話だが、言霊という話でもある。日本には言霊と言う言葉がある。話した言葉には霊が宿ると言う。言った事が実現しやすいのは、言霊のお陰なのだ。話した言葉に霊が宿るなら、良い言葉だけを選び話したいものだ。上の話は母の愛を示す良い話だと思う。占い師の言った事をそのまま伝えなかった処に、この母親の愛を感じる。

占いは当たるものでは無い。当てるもの。いや、当てさせるものなのだ。



2016年5月27日金曜日

天才の条件

天才は一瞬のきらめきでは無い。

天才は継続できるという事。

10年やれば偉大。

20年恐るべし。

30年道となる。

50年神のごとし。

継続こそが天才の条件。




---- 以下、余談 ----

羽生善治と、中国の格言を合わせて見た。継続は力なり。誰もがアッと驚くひらめきや、きらめきに目を奪われがちだが、淡々粛々と継続できる能力こそが天才を作り上げる。ひらめきや、きらめきには華がある。でも、それは一瞬だ。頑なに同じことをするというのも、一つの才能という事だろう。そして、その才能こそが天が与えた本当の才能なのだ。

同じことを続けるのは、存外難しい。同じことを続ければ、必ずマンネリがやってくる。そのマンネリをちょっとした工夫で解除しながら、同じことを時間をかけて練り上げていく。その完成度足るや、一朝一夕で賄えるものでは無い。それが他人からは天才に見えるわけだ。

2016年5月26日木曜日

一流は臆病

意外だが一流になるほど臆病になる人が多い。一流は実力があるため堂々としていて、まさか臆病には見えないわけだが、その心情としては臆病なものと言う。人間は視野が広いほど、臆病にもなる。普通は考えなくても良い、もしくは考えられない可能性が頭をよぎると、そうなったらどうしようとなるわけだ。石橋を叩いて渡るという言葉があるが、視野が広くなると、勝手に石橋をたたき始める。結果、臆病になるわけだ。

人は自分を基準に相手を見る。一流の人は気遣いも一流であることが多いと言うか、大抵は上の者に引き上げられて一流の地位にあがるため、気使いにも五月蝿い。気使いに五月蝿い人が、相手を自分を基準に見た時、相手も同じ基準で気遣いを必要としていると考えやすく、そのため、細心の心地になってしまうわけだ。

もし、自分が相手に対し臆病になってると思う時があるなら、それは大よそ成長の証だ。一流になるほど、見えるものが増え、人は臆病になって行く。臆病は人の成長を計るバロメーターかも知れない。

2016年5月25日水曜日

体を動かすと、頭が良くなる。

事、ひらめきという意味だが、体を動かすとひらめきが生まれやすいという話がある。何か新しい事を考えようとしても、そうそう思い浮かぶものでは無い。だが、歩いたりするだけで、不思議と新しい発想が浮かぶものだ。読者も、もし頭が停滞するような事があれば、歩くと良いだろう。アインシュタイン等有名な学者のお墨付きの方法だ。試す価値くらいはある。

フィクションの世界では、頭の良い人は勉強のみのガリ勉、スポーツ万能の人はスポーツのみで頭は良くないというイメージが作られやすいように思うが、それはキャラクターを立てるために作られたイメージに過ぎない。実際は体を動かすと頭も良く働くようになるため、頭脳明晰、スポーツ万能こそがあるべき自然な姿となる。一流スポーツ選手が頭も良い事も多いのは、偶然ではないのだ。


2016年5月24日火曜日

笑わすのではなく、思わず笑うように。

笑わすのではなく、思わず笑うように。

買わせるのではなく、思わず買うように。

無理やりは野暮。

自然とそうなるのが粋と言えよう。

無理やりは気持よくない。

自然となるのがいい。

思わずしてしまう。

そういう風にしているだろうか?

見直すキッカケになれば嬉しい。




---- 以下、余談 ----

柳家小三治をリスペクトして見た。単純に思わず買ってしまったほうが、リピート率は高まる。営業トークで無理に買わせた場合は、また買わされると思って警戒されやすい。何かを売る時などに参考にするべき含蓄ある言葉と言えよう。笑わすのでは、思わず笑うように。笑わせに行っていないか?思わずが粋だ。




2016年5月23日月曜日

履物をそろえると心がそろう。

読者は履物をそろえているだろうか?履物をそろえるようにすると、不思議と心も段々とそろっていく。最初は意識して履物をそろえていたはずが、ある時から履物をそろえないと気持ち悪くなる。その頃には、不思議と履物以外もそろえたくなっているはず。履物をそろえるだけで、何でも整理整頓したくなるのだ。

履物をそろえると心もそろう。心がそろえば、自然と身の回りを小奇麗にする。身の回りが小奇麗になると、周りからきちんとした人と思われる。周りから高い評価を得たいからと言って、いきなり目標を高くしても挫折しやすい。まずは目標は低く、履物をそろえる事から始めたらどうだろうか?

日本では昔から履物をそろえる事が躾とされてきた。そのほうが綺麗に見えるという理由の他に、履物をそろえる事で心もそろえるという目的もあったのかも知れないと思うこの頃。履物をそろえ心もそろえよう。整った心を手に入れる最も簡単な方法かも知れない。

2016年5月22日日曜日

優しさの時代

美輪明宏によれば、時代が優しさの時代になったと言う。少し前までは、何が何でも取ってやるとか、ズルしてでも奪い取ると言った強欲の時代であったが、今そういう事をすると仕事を失うのだとか。今は優しい人に仕事が集まり、強欲の人から仕事が減っていると言う。

自分の回りを見ても、言われてみれば、盗んででもとのし上がった人は仕事を辞めたりしている事に気づく。強欲のやり方の何が悪いと言うわけでは無い。単に時代が変わったという事だろう。今、強欲の人は優しさの時代にシフトチェンジする事が求められている気がする。事は善悪では無い。時代が変わったことを受け入れるかどうかだ。

美輪明宏のラジオを参考にして書いてみた。ネットに落ちているので、機会があれば聞くと良いかも知れない。自分は記憶を手探りに書いたのでラジオと違うが、自分なりに優しさの時代とは何かを考える必要性が迫られているのだと思う。実際、優しさの時代とは何だろうか?慈善的な活動に目を向けろという事だろうか?

同じ本を何回も読む。

同じ本を何回も読むのは、覚えるためでは無い。読むたびに新しい発見があるからだという格言がある。愛読書を持つと良いだろう。何回も読むのだ。読むたびに新しい発見があれば、それは成長している証。たくさんの本を読む事も大切だが、1冊の本を何回も読み、練り上げるのも良いだろう。今はインターネット上のブログも質の高いものがあるため、そちらを読んでも良いかも知れない。何回読んでも感銘を受ける本に出会いたいものだ。


2016年5月21日土曜日

貧困の強さ

貧困を経験した人に成功者が多い理由を考えて見る。恐らく、幸福と感じれるラインが低いからだろう。普通なら不幸な状況でさえ、ストレスを感じづらいのが要因では無いだろうか?例えば、子供の頃から高級品ばかりを食べている人は、高級品が普通の品物になるだけでストレスを感じやすい。だが、貧困を経験していると、貧乏が身に染みていると言うのか、あの頃と比べればとなり、物が食べれるだけで十分となる。

極端だが、道端で寝ていた経験がある人は、布団があるだけで幸せを感じれる。普通は布団は当たり前すぎて、布団がある事に幸せを感じはしないだろう。ましてや、布団がなくなったら不幸と考えるに違いない。道端に寝ていた事がある人なら、布団がなくなっても元に戻っただけなので、俺も布団で寝たことあると、その経験に満足するに違いないのだ。

人生は長い時間をかけた勝負だ。その勝負の中ではストレスの扱い方の上手さが効いてくる。そのストレス自体を感じづらい貧困育ちに成功者が多いのは自然と言えよう。成功に最も必要な要素は我慢強さだと言われるが、普通なら我慢と感じる局面で、幸せを感じれてしまうなら最強と言うものだ。

また、貧困の経験はお金の大切さを身に染みこませる。10セントを大切にしない心が、君をボーイにしているというジョンロックフェラーの名言があるが、貧困の経験は自然と10セントの価値が身に染みるのでは無いだろうか?

貧困の強さを考えて何だという訳でもないが、貧困を経験した事が無いなら、疑似的に貧困になって見てはどうだろう?要は、今ある当たり前がどれだけ素晴らしい事かに気づけと言う話だ。禅の修行のように、あえて笑うのを禁止したりして、今あるものを捨てて見る。そうすると、究極的には笑える事が有難い事と気付けるはず。なかなか、そこまでは行けないが、方向性としてはそういう事だ。貧困の強さは上に書いた以外にも、成功への渇望の強さ等もあるだろうが、当たり前の有り難さを自然と感じれる事につきるだろう。





2016年5月20日金曜日

当たり前の事をとびきり上手く。

ジョンロックフェラーによれば、当たり前の事をとびきり上手くやる事が成功の秘訣だそうだ。事、成功と考えると全く新しい事をしなければとなりがちだが、今やっている事をとびきり上手くやれば成功できると言うのが面白い。彼にあやかって、掃除、話術、勉強何でもとびきり上手くやるように心がけてはどうだろうか?

とびきり上手くやるには、どうやったらもっと上手く行くか、常に考える必要がある。いつだって自分史上最高のパフォーマンスを求める姿勢こそ、ジョンロックフェラーが言わんとする成功の秘訣かも知れない。いつだって自分史上最高。アメリカドリームの体現者の彼に、あやかってみるのも一つの手だろう。

今やってる仕事が駄目だから成功しないので無い。今やってる仕事をとびきり上手くこなせないから成功しない。この感覚の差が大きい。

2016年5月19日木曜日

考えて忘れる。

考えて忘れる事が大切な時代になったように思う。昔は考えて覚えておくことが大事だった。しかし、インターネットという百科事典がある今は、考えて忘れる事こそ意義がある。何故、忘れる必要があるのか?それは、忘れないと過去の記憶に縛られ、新しい事を発想しづらいからだ。記憶量が多い事は基本的には良い事だが、その記憶から逸脱しづらいというデメリットも知っておかなければならない。新しい事を発想する時は、記憶量が邪魔をして発想が浮かばない事もあるので、記憶のメリット、デメリットを良く把握すると良いだろう。

一度考えて置かないと、新しい事を発想する時の材料が無い。でも、考えた事を忘れないと、新しい事が思い浮かばない。子供の自由な発想は知識が少ないからこそだが、それを大人が疑似的に行うなら記憶して忘れる作業が必要となる。人間は忘れるほうは簡単なので、どんな事でも一度は考えておくという姿勢が大切だろう。

偉人にメモ魔が多い理由が分かるような気がしないか?




---- 以下、余談 ----

谷川浩司をリスペクトして見た。彼曰く、あまりに多くの情報を手に入れすぎると、先入観にとらわれ独自の発想が出なくなる。大事なのは見て忘れる事だそうだ。ひらめきが大切になった今の時代に指針となる言葉と思う。

もう一つ。彼曰く、落とし穴がある。経験はプラスにもなるが、マイナスになる事もあるのだそうだ。恐らく、勝負で先入観からの読み落としを戒めているのだと思うが、事ひらめきに関しても同じ事が言えるように思う。経験をプラスとばかり考えていると、その経験があるがゆえに全く新しい事を想像できないというマイナスに気づかない。何事も一長一短だ。





2016年5月18日水曜日

理不尽はチャンス

生きていれば理不尽だと感じる事もあるだろう。でも、その時にふてくされてはいけない。たいていは期待するからこそ理不尽にするのだから。期待もしてない時は、穏便にと何もしないものだ。それを知っていれば、理不尽な事をしっかりこなせば、それはチャンスな事に気づくだろう。理不尽だとふてくされるか、これをチャンスに変えてやると思うかで、その後が変わってくる。

理不尽な事を言いつけた方は、それが理不尽だと分かっている。あえて、どうでるか見ているのだ。そのため、ちょっとした頑張りを見せれば、こいつは使えるとなる。逆にふてくされてしまうと、叩いても響かないとなる。普通はふてくされる場面だからこそ、ちょっと頑張っただけで、意外に頑張るという評価を得られるわけだ。

もし、理不尽が単なるイジメにすぎず、理不尽な事を一生懸命こなしたと腹を立てられる事もあるだろう。でも、それでも一生懸命こなすと良い。天は見ていると言うか、必ずその姿を見ている人がいる。その人が貴方を助けてくれるものだ。ふてくされない限り、どう転んでも理不尽はチャンスにしかならない。

ある寺では、後継者を選ぶ時に理不尽な事を言いつけると言う。弟子に理不尽な申しつけをする。弟子も理不尽と思いつつも言われた通りするわけだが、理不尽な事をこなした後にさらに理不尽な事を申し付ける。これが1回2回なら弟子も耐えられるが、3回4回と言いつけられると段々単に虐められてるだけかとなってくる。大抵はそこでやめてしまうわけだ。だからこそ、そこをしっかりこなした者が後継者に指名されるらしい。和尚は後継者だからこそ、どんな事があっても寺を離れないという覚悟を試すのだそうだ。

どんな事があってもこの場所を離れない覚悟は、成功には最低限必要な事と言われる。何はともあれ、会社を復活させたければ骨をうずめる覚悟が必要と船井幸雄も言っているし、どんな種類の成功にも忍耐ほど必要なものは無いとジョンロックフェラーも言っている。寺の和尚も後継者にはそれを試したりする。こう考えて見ると、理不尽は次のステップに行くために必要となる試練なのかも知れない。理不尽はチャンスなのだ。

2016年5月17日火曜日

神はいるのか?

フランスの数学者パスカルによれば、神がいるかは分からないが、いると思ったほうが世界が喜びに満ち、いないとなれば世界が悲惨なものになるとか。なるほど、いるかいないかより、自分がどう考えるかが大切だ。

いるか、いないかで問題になるのは、神がいないと思っていたのに存在した場合だ。本当にいない時は、いると思っても、いないと思っても変わり無い。本当にいた場合に、いないと思ってたら困る事になる。神の機嫌を損ねそうだし、何より信心深い者を神は優遇するわけだから。そう考えると、神はいるのか、いないのか?それは分からないが、いるとして行動しておけば全パターンで困らないのは確かなので、神はいるというのはどうだろう?

神は自分の心の中に作り出すものという話がある。神がいると信じている者の心には、確かに神が存在し、神がいないと信じてる者の心には神は住まない。何か大きな勝負をする時とか、自分一人では抱えきれないプレッシャーを感じる時、それを神が和らげてくれるとしたら、心に神を住まわせたほうが得かも知れない。神は自己コントロールの一つの方法として捉えても良いだろう。信じる者には確かに神は存在する。ただ、各々違う神が。

神がいるかどうかはさておき、この世界には人知の及ばない事はある。それを神の仕業として、定義しても良いだろう。人間、不遜がいけない。何でもできると思いあがる前に、自分は神に生かされてると考えれば、不遜が謙遜になると言うものだ。謙遜して生きるためにも、神を信じてはどうか。

と、色々書いてみたが、結論として神はいたほうが良いとなりそうだ。自分的にも、パスカルが言うように、いると考える事にこそ意義があるとしておく。





2016年5月16日月曜日

武の境地

武の境地は殺しに来た者と友達になる事という話もある。相手が戦う気にならないなら、確かに護身完成の一つの形だ。殺しに来た相手が戦意をなくすためには、確かな実力があれば良いと考えがちだが、実はそれだけでは足りない。いくら実力があり、百戦錬磨の達人であれ、敵に刃を向けられるような状況があるなら、万に一つでも当たる可能性がある。当たれば致命傷という事もあるため、武の世界では技術のみを求めているうちは未熟とされている事を知らねばならない。

では、どうしたら相手が殺しにきたのに戦意を喪失するのだろうか?そのポイントは人格になる。つまるところ、憎めない相手をどうして殺せようか。例えば、殴るにも理由が必要だ。こいつ気に入らないでも何でも良いのだが、とりあえず理由がないと殴るにも苦労する。だが、憎めない人格が備わっていると、会った瞬間に何故殴るしかないのだろうと頭をよぎって、気持が萎えてしまう。その時に確かな実力が効いてくる。殴る気が起きないのに、勝てるか分からない相手に立ち向かう人間はいない。

逆に、実力のみで人格が備わっていないと、負けるだろうけど気にくわないという理由で攻撃を受けてしまうかも知れない。この事には気づきにくいため、強くなりたい一心の者は技術のみを求めてしまうのだ。心技体と言うが、まずは心ありき。心を補完する形で技が続くのが筋という事は字が示す通りだ。そのため、武の世界では技術を求めているうちはまだまだと言う。武は技術と人格をもって完遂すと言った処。武が完成すれば、勝つまでもなく戦いは起きない。そして、友達になりたいと思うものだ。



---- 以下、余談 ----

これは武の世界以外でも指針とすべきポイントとなる。実力だけでも駄目、人格のみでも弱い。人格と実力が備わった時に初めて護身完成たりえる。人格を磨けとは良く言われる事だが、こういった捉え方も良いのではないだろうか?初めに人格ありき。実力はついてくるもの。

2016年5月15日日曜日

PLAYOK 将棋

たまにPLAYOKで将棋やってます。機会あれば一緒にやりましょう。

http://www.playok.com/ja/shogi/

将棋はビジネスで大切と言われる、論理的思考の恰好のトレーニングだ。将棋のそのものが、論理的思考の精度を競うゲームだから。遊びとしてではなく、ビジネストレーニングとしてやってみるのも良いように思う。

イメージトレーニングの必要性

人間は思った通りになると言う。イメージは大切だ。イメージが強ければ、強いほどそのイメージ通りになる。2人のボディビルダーで実験したことがあったと言う。片方はトレーニング後に理想の体をイメージしてもらい、片方はトレーニング後のイメージは省いた。しばらく経って結果を見たら、理想の体をイメージしたほうが格段に良い体を手に入れたそうだ。

脳みそ単位では現実とイメージの区別がつかないと言う話がある。脳みそは現実に体験した事を経験値とするのは勿論として、イメージ上の経験ですら経験値として認識してしまう。そのため、イメージトレーニングすると成長が早いのだ。一流のアスリートがイメージトレーニングを大事にする理由はここにある。

こう聞くと、イメージトレーニングが夢に直結しやすいのは飲み込めるだろう。夢に向けてリアルでもイメージ上でも経験値を貯められるわけだから、夢が叶いやすいのは自然だ。でも悪くでれば、病気になったりするから注意がいる。病気の事をばかり考えていると、脳みそでは自分は病気なんだと強く認識されてしまい、本当に病気になってしまう。病は気からなのだ。病気よ治れと考えても駄目だし、病気になってしまったと肩を落としても駄目らしい。一番良いのは、病気の事を忘れて笑う事。

イメージの良い部分と、悪い部分を良く把握して、自分にプラスに働くように操作したいものだ。仕事で成功したければ、成功している自分を強く思えば良い。それが具体的なイメージであるほど、それが実現しやすい。人間はリアル以外に、イメージという土俵でも勝負している事が分かると、世界が広がる。




---- 以下、余談 ----

脳みその不思議なのだが、どうも忘れようとすると忘れられないらしい。逆に覚えておこうとすると忘れやすい。理由はよくわからないが、脳みそは天邪鬼にできているようだ。嫌な事があった時に、忘れなきゃと考えるのは逆効果なので注意を。逆に思い出そう、思う出そうとすると、その事に慣れてしまって気にならなくなったりする。程度の問題はあるにせよ、脳みそはそういうものだ。くさいものに蓋という言葉があるが、においは蓋を開けたほうが飛んでいくという事だろう。



2016年5月14日土曜日

おもてなし

日本はおもてなしの国とオリンピック招致でも話題になったが、おもてなしは相手の3歩、4歩先を読み先回りする事という話がある。あるホテルの中居の話を紹介しよう。ホテルの客が中居に長い時間書き物をしたいと伝えたそうだ。それを聞いた中居は嫌な顔ひとつせず、畳の部屋に小さなマットを引き、その上に机と椅子を用意し、さらに広辞苑までセッティングしたそうな。

客が何も言わないのに、広辞苑までセットする。長い時間書き物をすると言われれば、机と椅子は用意できるだろう。でも、広辞苑まで気が回る人はどれくらいいるだろう?ここにおもてなしの心がある。自分の行動を振り返ってみよう。おもてなし出来ているだろうか?日本はおもてなしを美徳とするお国がらだ。見ている人は見ている。自分の動きを見直すキッカケになれば幸いだ。



おもてなし = 相手の3歩、4歩先を読んで先回りする事


兎と亀、亀が勝った理由

兎と亀のお話。

兎は亀の鈍足に気をとられ、余裕しゃくしゃくの居眠り。

亀はただ、ただゴールへ一途に一つ事。

兎は亀を意識し軽く見た。

でも、亀は兎を気にせずマイペース。

だから亀が勝った。

あまり周りを気にしてはいけない。

マイペースが近道、早道。




---- 以下、余談 ----

小林正観と、相田みつををリスペクトして見た。いちずに一本道、いちずに一つ事。それが正義だ。兎と亀の話は、兎が亀を意識して力を出せなくなったところに敗因があるとする、小林正観の洞察眼は面白い。兎は亀が居なければ全力でゴールまで行っただろう。もしタイムアタック的なものなら、亀に勝ち目はなかった。でも、兎と亀で競争するから、亀に気を取られた兎は慢心から居眠りする。

周りとの歩調ばかり気にする人がいるが、周りを気にする事はマイナスかも知れない。ただ、淡々粛々と目的地へ。それが一番良い可能性は高い。兎と亀の話はそういう事。




2016年5月13日金曜日

お辞儀で分かる格

人は偉くなるほど横柄になっても良いと考える輩がいる。例えば、俺は偉いのだ。お辞儀なんかするわけ無いだろうと言う具合だ。目下の者がくれば、椅子にふんぞり返り応対する。組織の秩序を考えれば、上の者に丁寧に頭を下げられては下も困るという部分はあるが、お辞儀を出来なくなったら人の成長も終わりという話も抑えておきたい。

禅僧の修行では、同じ禅僧同士で挨拶した場合、先に頭を上げたほうが未熟とされるらしい。こう聞くと、高倉健や、ビートたけしが何故90度のお辞儀をしているのかが分かるような気がしないだろうか。人間は成長するほど自らの未熟を悟るもの。知識を蓄えれば蓄えるほど、自分の無知が身に染みてくる。たどり来て、未だ山麓。人間、謙遜の心を忘れずにしたいものだ。

2016年5月12日木曜日

神木

神木と聞けば、さぞ立派な木なのだろうと思うものだが、誰にも見向きもされなかったからこそ、神木になれたという話がある。昔は今と違い、風呂を沸かすにも料理を作るにも薪を焚いた。真っすぐで使いやすい木から薪にされてしまうため、真っすぐな木はすぐに切り取られてしまう。曲がっていたり、不格好で使いにくい木だけが切り取られず神木になると言う。神木と崇められる木は、決して恰好良い木では無い。どちらかと言えば、箸にも棒にもかからない類の木。だからこそ、1000年、2000年と生き残る事が許され、最終的に神木として大切にされるのだ。

自分たちは出来の良い事にだけ目を向けがちで、出来の悪い事には悩みがちだ。しかし、現実には出来の悪い事は大切な武器になり得る。少なくとも、神木はそう語っているように思う。神木にできた事は不格好という個性を主張する事だけ。頑なにその個性を主張し続けた結果、時代が変わりその不格好さに有難味がでたのだ。



---- 以下、余談 ----

短所と長所があれば、長所で勝負していくのが本筋ではある。だが、短所も筋違いではあるが立派な武器だ。短所は時には長所を引き立たせる役目を果たし、時には相手への安らぎを与える。短所がなければ長所は長所なのか分からないし、相手があなたへ親しみを感じるかは分からない。人間を車に例えれば、短所と長所は車の両輪。片方だけでは進めない。

2016年5月11日水曜日

人生最高の年齢

人生最高の年齢と聞かれれば、10代や20代を連想する人が多いだろう。あの頃は体もきびきび動いたし、怖いものなんてなかった。振り返ってみれば、あの頃は良かったと。ただ驚いた事に、人生最高の年齢は70~80歳という話もあるのだ。ごく一部の富裕層をのぞけば、そこまではお金も自由になりづらいし、仕事に追われ自分の自由もない。知識も70歳まで勉強してようやく世界の事が分かってくると言う。そして、今の70歳は体は衰えているとは言え、まだまだ元気な年齢だ。

70~80歳は自分の実力次第で、何の束縛も受けずに動ける黄金時代なのかも知れない。年齢も年下のくせに生意気と邪魔が入るわけではないし、人生経験も豊富な年齢だ。自分次第では、人生で一番輝く10年にできるのだろう。

若ければ仕事に追われ時間が無い。そしてお金も無いし、年下が生意気言うなとなる。中年ではお金は稼いでも、家のローンや子供にお金がかかって結局残らない。80歳超えれば、流石に老化が顕著になってくる。そういう諸々を考えると、70~80歳が人生最高の年齢と言うのも頷ける。知識、実力、お金が充実する年齢が70歳からなのだ。

一般には、年金生活者がほとんどの年齢だが、60歳からもうひと踏ん張りして70まで頑張れば、その後本当に楽しい10年間を味わえるのかも知れない。楽しい70歳を迎えるには、それまでの努力を怠ってはならないが、今は年金もどうなるか分からない時代だ。この際、生涯現役を志して生きるのも良いかも知れない。そうすれば、ご褒美に人生で最高に楽しい10年間が贈られるだろう。

2016年5月10日火曜日

ここだ!!

人間生きてればきつい事もあるだろう。

そういう時は、ここだ!!と思うと良い。

そう、ここが踏ん張りどころ。

きつさに負けそうな心を、ここだ!!と渇を入れる。

不思議と気持が楽になる。





---- 以下、余談 ----

きつい時でも、ここだ!!っと思うと不思議ときつさが和らぐ。恐らく、脳みその錯覚を利用しているのだろう。きつい一色で染まっていた脳みそに、ここだ!!と渇を入れると、何故か戦う気がわいてくる。脳みその不安定さを利用した自己コントロールと言えるかも知れない。

2016年5月9日月曜日

神頼みのコツ

合格させてほしい。

出世させてほしい。

無いものねだりをしてるうちはまだまだ。

神前では、今こうしていられることを感謝する。

当たり前こそが神の恵みなのだ。

お陰様という気持ちを伝えよう。

神は見てくださっている。




---- 以下、余談 ----

神頼みと言うと、合格させて欲しいだとか、出世させて欲しいとか、願いを叶えるためにすると思いがちだが、それは本来の姿では無い。神頼みは今こうしていられる事に感謝する。今この時にも餓死する人はたくさんいる。その事を思えば、当たり前の日常が神のお陰でなくて何だと言うのだ?自分はどこか宗教に入っているわけではないが、神頼みの真髄は当たり前に感謝する事だとして書いてみた。

例えば、上司に不平不満をぶつけても、上司は怒るだけで良い事がない。でも、いつも指導ありがとうございますと言うと、上司は嬉しくなって世話を焼いてくれる。神頼みもそういう事かも知れない。


2016年5月8日日曜日

姿勢が良いとは?

姿勢とは、その姿に勢いがでると書く。

姿勢が良いとは、その静止した姿から勢いを感じる事。

勢いが出れば一人前。

そういう事を姿勢という文字が語っている気がする。




---- 以下、余談 ----

例えば、武道の達人はその姿を見れば伝わる強さがあるし、お笑い芸人も姿を見ただけで笑えて来る。こういうことを姿勢が良いと言うのだろう。

2016年5月7日土曜日

国際人とは

国際人にならなければならないと言われて久しいが、国際人とは何だろうか?馬淵睦夫によれば、国際人とは日本文化をしっかり身に着けた人間だと言う。国際人と言われると、日本的な文化はさておき外国の文化を身につけなければとなりがちだが、どうも逆らしい。

例えば、フランス人だ。日本人的なフランス人と言えば、フランスパンを食べ、フランスコース料理を毎日食べると言ったものになる。でも、実際はそんな事はなく、パンも硬いものばかりではないし、フランスコースばかり食べているわけではない。しかも、野原で用を足すことも普通にある。でも、日本人はフランスには日本人的なフランス人を期待するわけだ。

これと同じ事が海外から見た日本人に起きる。ハリウッド映画の日本人はどこか変に感じるものだが、あれこそが期待されている日本人だ。端的に言えば、侍、ちょんまげ、着物など日本文化を象徴するものを海外の人は期待している。そのため、国際人として世界に出た時は、当然のように日本人としてのアイデンティティを求められるもので、それを持っていないとどこか気持ち悪がれられる事もあると言う。

現在はグローバリズムがどうだと言われているが、だからこそ日本人らしさを身に着けるべきと言えよう。グローバリズムが叫ばれるからこそ、日本人は日本文化を身につけなければならない。逆に日本でだけ生きるなら、日本人らしさなどいらない。ここを間違い安いので注意して欲しい。




---- 以下、余談 ----

国際的な要請から、日本に海外の文化を受け入れるように圧力がかかっている。しかし、日本なのだから、日本文化をなくしてはいけないという声も一方である。この両方の顔を立てる事ができるのが、グローバリズムだからこそ日本文化を大切にしなければならないという考えでは無いだろうか?馬淵大使は長年外交をやっていただけあって、無理が無いように思う。



2016年5月6日金曜日

入れ墨の是非

入れ墨に関する話題が出るたびに賛否両論でる。海外では普通だとか、ヤクザのようで怖いとか色々だが、ともかく、日本では入れ墨はいけない事になっている。その理由を考えて見る。入れ墨は何故いけないのか?思うに、自分の体は両親から、ひいては祖先からの贈り物だからという理由が良いだろう。自分の体は自分だけのものでは無く、祖先が一生懸命繋いできたものである。その祖先の意思を汲まずに、自分の体をどうしようと勝手と言うのでは、恐らく日本では好まれない。

両親も貴方を育てるのに色々苦労したであろう。その両親の両親も色々苦労したはずだ。両親の両親にもさらに両親がと、そうやって祖先が命をつないできて今の自分がいる。それを入れ墨は自分の勝手だと言うのでは、賛同を得られるはずは無い。人は一人で生きているわけではない。お陰様で生きていますという気持ちが大切だ。入れ墨を入れてはいけない理由もここにあるように思う。



---- 以下、余談 ----

入れ墨を何故いれてはいけないかは、より実益的にはエスタブリッシュメント層がしていないからだ。エスタブリッシュメントが世界のルールを決めている。彼らがしていないのに、入れ墨を入れている人に都合の良いルールが作られるはずがない。わざわざ入れ墨を入れて、行動範囲を狭めるのに何のメリットがあるだろうか?

漁師やヤクザ等その事が生業に関係しているなら考える余地はあるが、単なるカッコいいという理由で入れ墨を入れるのは止めておいたほうが生きやすいだろう。一方で、入れ墨は自分が生きてきた証とする文化圏もある。例えば、親類が死んだことを忘れないために体に入れ墨をほる。入れ墨を入れない事だけが正義では無い事は知っておきたい処。

2016年5月5日木曜日

会えない時間が育てるもの

会えない時間が育てるものと言えば、愛と相場が決まっている。会えないからこそ妄想が膨らみ、より愛を深める。無くして初めて分かると言うのか、人間は実際に会っている時間より、会えない時間に本当の価値を認識しやすい。恋人には会えない時間も大切なんだと書けば、恋愛マニュアルにありそうな話になるが、実はこれ、恋愛に限った事では無い。

例えば、セールスを考えて見よう。セールスは話が終わった後に始まるという話がある。お客の前でセールストークしている時をセールスだと思いがちだが、実際に買うか買わないか決めるのはトークが終わった後の事が多い。一通り話を聞いてみて、それをもとに妄想するからこそ欲しくなる。セールストークをしていない時が、本当のセールスなのだ。

人間は感じて動くから感動と言う。感動と言うと、刹那に沸き起こる事のみを思い浮かべがちだが、感じてから動くまでラグがある場合もあるという良い例では無いだろうか?人を動かす要諦は心を動かす事。恋愛しかり、セールスしかり。相手が一人で妄想する時間、つまり会えない時間が育てるものは大きい。




---- 以下、余談 ----

会っている時間を如何に演出するかは誰でも考える。でも、それは会えない時間を演出するために必要となるとまで踏み込むべきかも知れない。会えない時間こそが心を動かすのだから。得も知れぬ余韻のある人間を目指したいものだ。

2016年5月4日水曜日

げんが悪いならするな。

げんが悪い事はしてはいけない。昔からの言い伝えで、してはいけない事はしないほうが良い。そう言われれば、ほとんどの人は言われなくてもと思うだろう。でも、長い間には所詮昔からの言い伝えだという時もくるものだ。してはいけないとは言うが、その理由がはっきりしないし、そんなもの関係あるかと。

げんが悪いとされている事は、今となっては単なる慣習で、その理由がはっきりしないものが多い。そこで、自分が何故げんが悪い事をしていけないかを説明して見る。げんが悪い事をしてはいけない理由は、貴方がげんが悪い事を知っているという事につきる。もし、貴方がげんが悪い事をしてしまったとしよう。そうすると、その結果の良し悪しを問わず、貴方の心にげんが悪い事をしたという心残りが起きやすい。少しでも悪い事があると、もしかして罰が当たったのかと考えやすく、結果として心の平安が保ちづらくなるのだ。

ただ、げんが悪い事と知りつつ行い、その事が全然気にならない人もいるだろう。であれば、げんが悪い事をしても苛まれることは無いだろうが、今度はその人間性に問題がでる。つまるところ、織田信長的な末路が待っているだろう。げんが悪い事を知りつつ気にしないようでは、ルールを無視しても構わないという性格が垣間見えるため、それが悪くでれば、どこかでルール無視から報復される。その報復が罰となる。




---- 以下、余談 ----

陰謀論的な切り口も紹介しておく。既得権益なり守りたいものがあって、あえて罰があたるとか、げんが悪いという事にするケースもある。宗教上の理由であったり、金銭が絡んでいたり理由は様々だが、この場合その既得権益を持っている人なり団体が、人為的に罰をあてる事もあり得る。一つだけ言えるのは、触らぬ神に祟りなしだ。



2016年5月3日火曜日

友達とは何か

ヘンリーフォードによれば、友達とは自分を成長されてくれる者だと言う。自分はそれを聞いた時、妙にしっくり行ったのを覚えている。自分を成長させてくれない者は、友達では無いと言い切るほど潔癖症では無いが、少なくとも自分を成長させてくれる人は友達だろう。友達とは何かなど考えなくても良いのだが、もし聞かれる事があるなら、彼にあやかって成長させてくれる者と答えよう。



---- 以下、余談 ----

ヘンリーフォード的な友達を前提にするなら、会った人みんなと友達になるポイントは反面教師なんだろうか?反面教師を友達にできるなら、みんな友達という事になる。人付き合いのコツは相手を許す事。友達を長続きさせるコツは短所も含めて受け入れる事。反面教師すら友達にできるなら、それこそ器と言うものかも知れない。



2016年5月2日月曜日

思考に気をつけろ。

マザーテレサ

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


これはマザーテレサの名言として残っている言葉。自分を振り返るキッカケになる良い言葉だと思う。ネガティブな事ばかり考えていると、めぐりめぐって運命になる。ポジティブな事ばかり考えていれば、不思議とそれが運命になる。

ポイントは思考はリアルとは切り離されているという事。どんな苦境にあってもポジティブに考える事はできる。幸運は不運の顔をしてやってくると言う。不運は幸運の尻尾。不運な時は幸運がそばまで来ている。気付けるかどうかが差となろう。



---- 以下、余談 ----

ネガティブに陥りそうになったら、それをポジティブに変える魔法の言葉を紹介しておく。一つ目は、考えようによっては良い事なんじゃないか?だ。そう考えて、良い面を探そうとすると良い。理由さえ見つかればポジティブになれる。2つ目は、まぁ良いだ。悪いと思うからネガティブになる。まぁ良いと一度受け入れてしまえば、落ち着いて心が前向きになるはずだ。


2016年5月1日日曜日

1円を大事に。

ジョンロックフェラー曰く、10セントを大切にしない心が君をボーイのままにしているのだそうだ。日本で言えば1円を大事にしろという事なのだろう。その心はなんだろうか?自分の第一感としては、全てに効率性を求めるという姿勢だ。使えるものは全て使う。実際に1円で何が出来るかより、そう考えながら生きている事が成功へ繋がると解釈して見る。

お金はお金を大切にする人の処に集まるという話がある。理由は定かじゃないが、お金を使う時にまた戻ってきてねと念じると良いという話まである。もしかしたら、そのことが人相などに影響して、お金を集めやすい顔になるのかも知れないし、お金持ちがみんなそうしているから、お金持ち同士で親近感を感じ、一緒に仕事しようとなるのかも知れない。はたまた、お金を大切にする人は、知らず知らずのうちにお金がたまる習慣を身に着けてしまうのかも知れない。ともかく、お金を大切にする事は良い事なのだ。

では、金額はいくらから大切だろうか?人によっては100万円から大切と答えるだろうし、人によっては1万から大切と答えるだろう。答える金額に善悪は無い。ただ、ここは1円から大切と言いたい処。その人の所得云々の問題ではない。お金に大切にしているという気持ちを伝えるのだ。そうすれば、また戻ってきてくれる。