4、近くして静かなるは、その険を恃む
孫子曰く。「敵近くして静かなるは、その険を恃めばなり。遠くして戦いを挑むは、人の進むを欲するなり。その居る所の易なるは、利なればなり。衆樹の動くは、来たるなり。衆草の障多きは、疑なり。鳥の起つは、伏なり。獣駭くは、覆なり。塵高くして鋭きは、車の来たるなり。卑くして広きは、徒の来たるなり。散じて条達するは、樵採するなり。少くして往来するは、軍を営むなり。」
【解説】
孫子曰く。「敵が近くにいて静かな場合、地形の険しさに守られている(恃)。敵が遠くにいて戦いを挑んでくる場合、我が軍(人)の進軍を誘っている(欲)。敵がいる場所が平坦(易)であるなら、敵に何らかの利があるのである。多く(衆)の樹木が動くなら、敵が来たという事だ。多く(衆)の草で障害を作る者は、伏兵を疑わせたいのだ。鳥が飛び立つならば、伏兵がいる。獣が驚(駭)いて走り出すなら、敵が隠れて(覆)いる。
砂埃(塵)が高く先端が尖っている(鋭)なら、戦車が来たという事だ。砂埃が低(卑)く広がっているなら、歩兵(徒)が来ている。砂埃が散って木の枝のように分かれるなら(条達)、薪を拾っている(樵採)。砂埃が少なく行き来するなら(往来)、軍営を作ろうとしているのである。」
孫子が敵の状況の洞察を様々紹介していると思えば良い。孫子は予め敵の状況を知る手段を複数持っていたという話である。兵器が発達した今、孫子のやり方をそのまま当てはめる事は出来ないが、敵の動きをその心理面も踏まえて洞察しておくという姿勢は学ぶべき点がある。戦争はAIによりロボット化が加速していくが、何処まで行っても戦争は人間同士がするもの。人間心理への深い洞察が、勝敗を決する事に変わりないだろう。
では、解説していこう。最初に孫子は、敵が静かならば地形の険しさによって守られているからで、敵が遠いのに挑発行為などをして戦いを挑んでくるのは、此方に進軍して欲しい理由があるからだ言っている。そして、敵が平坦な地に布陣しているならば、そこに敵を利する何かがあると。
ここで大切な事は、敵の行動の裏には必ず何かあるという心構えでは無いだろうか?命のやり取りをする戦場で、敵が静かなのは解せない。必ず何か理由があると、探すという姿勢こそが孫子の兵法であろう。敵が遠くにいるのに、言い換えれば射程圏内に入っていないのに何故戦いを挑むそぶりをする?何を狙っていると考えが及べば、此方を自分のところまで引き寄せたいという狙いが透けて見えてくる。通常は戦場では高い場所に布陣するのに、何故に平坦な場所を択び布陣しているのか?逆に不審に思わないと可笑しい。こう考えて見れば、「敵の行動には必ず裏があるのだから、必ず裏を見通すべし」、現代でも立派に通用する兵法の基本となるのだ。
そして、孫子は敵の動きを知りたかったら、樹木の動き、動物の動き、砂煙の立ち方を見れば良いと説明している。軍は数万から数十万という大人数で動くのだから、樹木だって何かしらの変化が見て取れるし、戦車と人では砂埃の立ち方も変わってくる。動物は人からは逃げようとするのだから、それを見れば人の有無も透けてくるし、薪を拾うのと軍営を設営するのでも砂煙は変わるのだから、こういった現象をよく観察すれば、敵の動きも分かるという訳だ。
孫子は観察する事の大切さを説いているのである。刑事物のドラマみたいな話になるが、人が動けば必ず何かしらの足跡が残る。その足跡を見逃さないようにしろと言えば、TVの刑事ドラマなどでありそうな話だろう?孫子も刑事ドラマと同じ事を言っているだけだ。刑事ドラマの中では、孫子の兵法が駆使されて犯人を追い詰めていたのである。
日本では昔から見稽古という言葉がある。先生のする事をただジッと見ているだけで、上達するものだからだ。例えば、寺の坊主はお経を唱える事は無い。ただ、廊下を雑巾がけしたり、和尚の世話をしているだけだったりする。だが、和尚がお経を唱えているのを無意識に聞いているし、和尚の立ち居振る舞いを毎日見ている。すると、どうだ?一度もお経を教わった事もないはずのお経を唱えられるようになっているでは無いか。こうして一人前の坊主になるため、見る事が稽古になるというのである。
孫子は敵を良く観察し、相手の気持ちを洞察する事を説いているが、これは日本で言えば坊主の修行と何ら変わりない。坊主は和尚の気持を洞察しなければ叱られるし、良く観察していなければ和尚の気持も分かりようがない。孫子は敵を倒すために相手を良く観察し、坊主は和尚の機嫌を取るために良く観察する。孫子の兵法は、日本の見稽古に通じるところもあるのである。
仕事でも、下の一番の仕事は上司の機嫌を取る事と言われる事がある。上司が機嫌が良ければ、仕事を教えてもらえたり、お酒をおごってもらえるが、機嫌が悪いと八つ当たりされるだけだからだ。だが、寺の坊主のごとく見稽古するなら、知らぬ間に色々できるようになるという事が分かるだろう。人は上司の機嫌を取っているだけで、一人前になってしまうのである。そして、上司の機嫌をとれるようになると、要領は同じである。お客さんの機嫌も自然ととれるようになる。使える人間になるのだ。
孫子曰く。「敵近くして静かなるは、その険を恃めばなり。遠くして戦いを挑むは、人の進むを欲するなり。その居る所の易なるは、利なればなり。衆樹の動くは、来たるなり。衆草の障多きは、疑なり。鳥の起つは、伏なり。獣駭くは、覆なり。塵高くして鋭きは、車の来たるなり。卑くして広きは、徒の来たるなり。散じて条達するは、樵採するなり。少くして往来するは、軍を営むなり。」
【解説】
孫子曰く。「敵が近くにいて静かな場合、地形の険しさに守られている(恃)。敵が遠くにいて戦いを挑んでくる場合、我が軍(人)の進軍を誘っている(欲)。敵がいる場所が平坦(易)であるなら、敵に何らかの利があるのである。多く(衆)の樹木が動くなら、敵が来たという事だ。多く(衆)の草で障害を作る者は、伏兵を疑わせたいのだ。鳥が飛び立つならば、伏兵がいる。獣が驚(駭)いて走り出すなら、敵が隠れて(覆)いる。
砂埃(塵)が高く先端が尖っている(鋭)なら、戦車が来たという事だ。砂埃が低(卑)く広がっているなら、歩兵(徒)が来ている。砂埃が散って木の枝のように分かれるなら(条達)、薪を拾っている(樵採)。砂埃が少なく行き来するなら(往来)、軍営を作ろうとしているのである。」
孫子が敵の状況の洞察を様々紹介していると思えば良い。孫子は予め敵の状況を知る手段を複数持っていたという話である。兵器が発達した今、孫子のやり方をそのまま当てはめる事は出来ないが、敵の動きをその心理面も踏まえて洞察しておくという姿勢は学ぶべき点がある。戦争はAIによりロボット化が加速していくが、何処まで行っても戦争は人間同士がするもの。人間心理への深い洞察が、勝敗を決する事に変わりないだろう。
では、解説していこう。最初に孫子は、敵が静かならば地形の険しさによって守られているからで、敵が遠いのに挑発行為などをして戦いを挑んでくるのは、此方に進軍して欲しい理由があるからだ言っている。そして、敵が平坦な地に布陣しているならば、そこに敵を利する何かがあると。
ここで大切な事は、敵の行動の裏には必ず何かあるという心構えでは無いだろうか?命のやり取りをする戦場で、敵が静かなのは解せない。必ず何か理由があると、探すという姿勢こそが孫子の兵法であろう。敵が遠くにいるのに、言い換えれば射程圏内に入っていないのに何故戦いを挑むそぶりをする?何を狙っていると考えが及べば、此方を自分のところまで引き寄せたいという狙いが透けて見えてくる。通常は戦場では高い場所に布陣するのに、何故に平坦な場所を択び布陣しているのか?逆に不審に思わないと可笑しい。こう考えて見れば、「敵の行動には必ず裏があるのだから、必ず裏を見通すべし」、現代でも立派に通用する兵法の基本となるのだ。
そして、孫子は敵の動きを知りたかったら、樹木の動き、動物の動き、砂煙の立ち方を見れば良いと説明している。軍は数万から数十万という大人数で動くのだから、樹木だって何かしらの変化が見て取れるし、戦車と人では砂埃の立ち方も変わってくる。動物は人からは逃げようとするのだから、それを見れば人の有無も透けてくるし、薪を拾うのと軍営を設営するのでも砂煙は変わるのだから、こういった現象をよく観察すれば、敵の動きも分かるという訳だ。
孫子は観察する事の大切さを説いているのである。刑事物のドラマみたいな話になるが、人が動けば必ず何かしらの足跡が残る。その足跡を見逃さないようにしろと言えば、TVの刑事ドラマなどでありそうな話だろう?孫子も刑事ドラマと同じ事を言っているだけだ。刑事ドラマの中では、孫子の兵法が駆使されて犯人を追い詰めていたのである。
日本では昔から見稽古という言葉がある。先生のする事をただジッと見ているだけで、上達するものだからだ。例えば、寺の坊主はお経を唱える事は無い。ただ、廊下を雑巾がけしたり、和尚の世話をしているだけだったりする。だが、和尚がお経を唱えているのを無意識に聞いているし、和尚の立ち居振る舞いを毎日見ている。すると、どうだ?一度もお経を教わった事もないはずのお経を唱えられるようになっているでは無いか。こうして一人前の坊主になるため、見る事が稽古になるというのである。
孫子は敵を良く観察し、相手の気持ちを洞察する事を説いているが、これは日本で言えば坊主の修行と何ら変わりない。坊主は和尚の気持を洞察しなければ叱られるし、良く観察していなければ和尚の気持も分かりようがない。孫子は敵を倒すために相手を良く観察し、坊主は和尚の機嫌を取るために良く観察する。孫子の兵法は、日本の見稽古に通じるところもあるのである。
仕事でも、下の一番の仕事は上司の機嫌を取る事と言われる事がある。上司が機嫌が良ければ、仕事を教えてもらえたり、お酒をおごってもらえるが、機嫌が悪いと八つ当たりされるだけだからだ。だが、寺の坊主のごとく見稽古するなら、知らぬ間に色々できるようになるという事が分かるだろう。人は上司の機嫌を取っているだけで、一人前になってしまうのである。そして、上司の機嫌をとれるようになると、要領は同じである。お客さんの機嫌も自然ととれるようになる。使える人間になるのだ。
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