2017年10月23日月曜日

孫子の兵法 行軍編

1、地形に応じた4つの戦法

孫子曰く。「およそ軍を処き敵を相るに、山を絶ゆれば谷に依り、生を視て高きに処り、隆きに戦いて登ること無かれ。此れ山に処るの軍なり。水を絶てば必ず水に遠ざかり、客、水を絶ちて来たらば、これを水の内に迎うるなく、半ば済らしめてこれを撃つは利なり。戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うることなかれ。生を視て高きに処り、水流を迎うること無かれ。これ水上に処るの軍なり。

斥沢を絶ゆれば、ただ亟かに去りて留まることなかれ。もし軍を斥沢の中に交うれば、必ず水草に依りて衆樹を背にせよ。これ斥沢に処るの軍なり。平陸には易きに処りて高きを右背にし、死を前にして生を後にせよ。これ平陸に処るの軍なり。およそこの四軍の利は、黄帝の四帝に勝ちし所以なり。」



【解説】

孫子曰く。「およそ軍の配置(処)と敵状の視察(相)について、山を越(絶)える際は谷に沿(衣)いながら進み、視界が開(生)けた高い場所に布陣(処)し、高い場所から低い場所へ降りながら戦い、低い場所から登りながら戦ってはならない。これが山間部における軍の要諦である。

川(水)を渡(絶)れば必ず川(水)から遠ざかり、敵(客)が川(水)を渡り攻めて来るならば、敵が川(水)を渡りきる前(内)に迎え撃ってはならず、敵の半数が渡り切った(済)のを見て攻撃するのが有利である。戦いを望む(欲)ならば、川(水)に入(附)りながら敵(客)を向かい撃(迎)ってはならない。視界が開(生)けた高い場所に布陣し、川下で水流に逆(迎)らいながら戦ってはならない。これが川辺(水上)における軍の要諦である。

湿地(斥沢)を越(絶)えたなら、ただ速(亟)やかに去る事を心がけ、留まってはならない。もし、軍が湿地(斥沢)で交戦する他ないなら、飲料水と飼料となる草を確保(衣)し樹木(衆樹)を背にして戦わねばならない。これが湿地(斥沢)における軍の要諦である。平地(陸)ならば、平(易)らな場所に布陣し、高地を右背後にする。前方に低い土地が広がり(死)、後方に高地がある(生)のが望ましい。これが平地(陸)における軍の要諦である。およそ、この4つの軍の要諦(利)が、黄帝が四帝に勝てた所以である。」






ここでは、孫子は軍の配置を決めるにあたって敵状を良く把握しておく事をとしながら、地形ごとの軍の要諦を4つ紹介している。なお、最初に「敵を相る」という聞きなれない言葉があるが、相とは木を目で見ると書く事から、良く調べるという意味を持つ。したがって、「敵を相る」とは敵を良く調べるという意味だ。




その1、山間部における軍の要諦




中国の山はこういう山だとすれば、谷沿いを進まざるを得ないようにも見える。そして、敵は山の上からは大軍による攻撃はできないし、下からはもっとしづらいのだから、谷沿いに進めばある程度の安全が確保されるとも言える。そして、敵の姿を見て何処にいるか確認しないと戦えないのだから、視界良好な高い場所に布陣し、敵を迎え撃つのが山間部における要諦なのは自然な話だろう。

ただ、今はミサイルがあるため、視界良好な場所にまとまると数分後にミサイルの的となるかも知れない。また、「生を視て」という部分がとても分かりづらいが、視界が死ぬの逆と思えば良いのでは無いだろうか?




その2、川辺における軍の要諦




日本でも県の境が川であったりするが、国と国との境もこういう川になる事がある。そのため、川の両岸にお互いが布陣しあう事があり、その時の注意点を孫子が指摘している。ここで問題となるのは、水に足を取られるという事だろう。プールや海に言った時を想像して欲しい。水のなかではスローモーションになったように感じないだろうか?孫子はそれが戦争の邪魔になると指摘している。水嵩が胸まであれば何もできず、腰までなら上半身しか使えない。膝下まででも足を取られるだろう。

ならば、自軍は川を越えたら速やかに川から遠ざかり、敵軍が川を渡ってきたところを撃つのは自然な話だ。水で動きが遅くなるのなら、自軍は水には触らず、敵に一方的に水に触らせる。こう考えて見れば、敵が川を渡りきるまで攻めてはいけない理由も合点がいくだろう。そして、敵が水によるデメリットを最大限受けるポイントが、敵の半数が渡り切った時だと孫子は言う。

考えるに、恐らく逃げられないからでは無いだろうか?川を渡り切った敵から順次倒すというやり方もありそうだが、それでは他の敵が川を引き返して逃げてしまう。相手を一網打尽にするならば、敵の半数が渡り切って、逃げようにも逃げづらいくらい罠にかかった時にというニュアンスかと思われる。川を渡ってきた敵も引き返そうにも、川には味方が沢山いて引き返せないし、川を渡っている途中の敵は動きが遅くなっているのだから、弓兵の良い的である。

水流に逆らうように戦ってはいけないのも同じ理由で、水流に逆らうと物凄く不利となる。敵より川上に布陣し、川下にまわらない事が大切なのは当然の話となる。




その3、湿地における軍の要諦




孫子は湿地には留まってはいけないと指摘しているが、当然だろう。こういう場所で問題となるのが壊疽である。水にぬれた状態が長く続くため、兵の足が指から壊疽し始め、兵が使い物にならなくなる。留まっている場合じゃない。

それでも戦う他ないのなら、条件は敵も同じである。まずは飲料水と馬の飼料となる草を手に入れ、少しでも良い足場を確保するために樹木の根を利用する。恐らくだが、草や樹木の根を直に踏みながら戦うのでは無いだろうか?湿地はぬかるんでいるため、足を取られる。ともすると、落とし穴に落ちるように足がはまる事もあるため、それを防ぐために草や木の根を踏む。このイメージは田んぼで、もし稲くらい強く根をはっているなら、根の部分を踏めば足を取られることは少ない。そういった事を言っている気がする。また、樹木を背にするのは、逃げ道と言う意味もあるだろう。




4、平地における軍の要諦




平地では平らな場所を選んで布陣するのは良いとして、なだらかとはしても、敵に傾斜上の不利益を被らせるという発想は流石である。「前面に死、後面に生」の死と生をどう解釈するかで意味が変わってくるため、2つほど解釈を紹介しておく。

一つは低地は不利を死と言っているという解釈である。平地であるため、なだらかかも知れないが、出来る限り傾斜上も有利なポジションをとる。もう一つは、右背後に高地を逃げ道としてみて生、前面には平ではなく荒地を用意したとして死である。恐らくこの辺を総合して解釈するのが良いのでは無いだろうか?




仕事で考えて見よう。お釈迦様は人をみて法と説けと言われ、誰にでも分かるように説明できる者が知恵者であると唱えたが、孫子が地形によって軍の要諦を分けているのと被らせて把握しておきたい

今もそうかも知れないが、昔は難しく言えるほど知恵者と言われ、簡単な事を難しく言うと有難くなるという風潮があった。誰にでも分かるようでは、有難い事が無いというわけだ。この良し悪しは人によるが、商売をする者にとって此れは致命的な欠点となりえる。

最近はニーズが多用化している。例えば、昔は人気の曲と言えば、誰でも同じ曲を思い描いたが、今はみんなスマホやらで好きな曲を聞いているだけになっているため、人気曲と言っても共通のものがない。昔はヒット曲が時代を象徴したのだが、今は時代を象徴する曲はなくなってしまってるのだ。

こういったニーズが多様化し、みんな個別に好きな事をする時代にあって、難しいから有難いと言っていると極めて狭い領域でしか受けない。今こそ、人を見て法を説く事が大切なのである。商品へのニーズが多様化したとは言え、自社の製品の魅力が伝わっていないからこそ買ってもらえないのだ。ならば、この客層にはこう、この客層にはこうと、孫子の如く営業の要諦も多用化してはどうだろう?そして、勝つべくして勝つ事を狙いたい。


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