2017年10月21日土曜日

孫子の兵法 九変編その5

5、必死は殺され、必生は虜にさる

孫子曰く。「故に将に五危有り。必死は殺さるべきなり、必生は虜にさるべきなり、忿速は侮らるべきなり、廉潔は辱しめらるべきなり、愛民は煩さるべきなり。およそこの五者は将の過ちなり、兵を用うるの災いなり。軍を覆し将を殺すは必ず五危を以ってす。察せざるべからず。」



【解説】

(実際に抑止力を備えたとして)

孫子曰く。「そこで、将が陥る五つの危険が有る。必死になる者は殺され、必ず生きようとする者は捕虜にされ、短期(忿速)な者は侮辱され、清廉潔白な者は辱めを受け、民を愛する者は民によって煩わされる。およそこの五者が将の犯す過ちであり、兵を用いる際の妨げ(災)となる。軍が壊滅(覆)し、将が殺されるとすれば、必ずこの五つの危険からである。良く察するように。」






前回は抑止力の大切さを孫子は唱えていたが、今回は抑止力は実際に備えたとして、その運用面の問題を指摘していると思えば良い。どんなに高い防御力を誇る城であっても、実際に守りを指揮するのは将軍である。将軍が愚将であれば、勝てる戦も勝てないのだから、将軍の犯す過ちを人間性に焦点をあて紹介している。およそ軍が瓦解し、将が殺される時は以下5つの要素が絡むのだから、しっかり押さえて欲しいと孫子は言っている。



1、必死は殺される

必死になり、全体の流れを見えなくなった様を言っているのだろう。敵を目がけ諸突猛進だけでは、おおよそ戦には勝てない。戦争は勝つべくして勝つものであり、勝敗を決するのは知恵の差である。全体の動きを見て勝てるタイミングを計り、撤退すべきなら撤退する。このバランス感覚に乏しく、命がけでやれば勝てると思っている将軍では殺されるというイメージとなる。



2、必ず生きようとすれば捕虜になる

例えば、攻めろと号令をかけた将軍が、真っ先に逃げ始めた場面をイメージして欲しい。将軍が逃げているのに兵だけが戦う訳はない。兵も一緒になって逃げ出す落ちとなり、将軍は捕まって捕虜になってしまう。

死にたくないという気持ちは、人間だれしも持っている自然な感情だ。それ自体は責められる事ではない。だが、それが強すぎると攻撃自体できなくなるし、結果としてチャンスを逃す羽目にもなる。戦では心の調和が大切なのだ。



3、短気な者は侮辱される

短気な者は、相手の挑発にすぐのってしまう。馬鹿にされようものなら、言わせておけばと出ていく。短期な者は行動が読みやすいため、そこを罠で絡めとられやすい。戦争は騙し合いから始まるのだから、短気は損気なのである。具体的には、城という鉄壁の防御があるのに、挑発されたら城をでて向い撃ちにでかけるようでは、城に防壁がある意味がないというイメージだ。そんな将軍では勝てるものも勝てないだろう。



4、清廉潔白な者は辱めを受ける

清廉潔白にこだわる者というニュアンスだろう。清廉潔白にこだわりすぎると、例えばデマによって名前を貶されると怒り心頭になる。それでは敵の挑発にのって痛い目を見る事になる。清廉潔白と言う日本的には褒められた美徳も、ともすると付け入る隙となる事を知っておきたい。



5、民を愛する者は民により煩わされる

君子は民の存在あってこそ君子なのだから、君子にとって民は大切なものである。民の扱い方一つで国が栄え荒廃する。だが、民を大事にしすぎるのも問題がある。政治一つとっても全員を助けるという事は出来ない。必ず国民同士でも利害が対立するのだから、批判があるたび右往左往しては実務はできないのである。政治は妥協なのだ。

ここ数年の国内外の選挙を見ると、世界中でポッピュリズム批判が盛んに叫ばれたが、ポピュリズムも愛民に煩わされると言えるかも知れない。ポピュリズムという言葉は、大手マスコミで使われるエリート主義の意味では無く、弱者のための政治と言う意味が本来である。そのため、ポピュリズム批判には猛々しい部分もある。

実際、ポピュリズムの何がいけないのか?今、アメリカやヨーロッパでは移民問題で世論が二分されているが、これはポピュリズムの何がいけないのか?と言う人と、ポピュリズムはいけないという人が争っているのである。

そして、この話を戦争の道具として見るのが孫子の兵法である。大抵はポピュリズム批判をする側はお金持ちであり、それに反対するのは庶民である。庶民の意見を採用すれば、お金持ちはいらだちを隠せないが、お金持ちの意見を採用してばかりでは、大多数の庶民の支持を失う。ここが付け入る隙なのである。

例えば、相手の国を乱したければ、貧富の差を拡大させるよう仕向ける。貧富の差が拡大すれば、当然庶民の所得は減り鬱憤もたまるようになっていく。自国のみで物事が完結するならば、力で庶民を抑え込むことも出来るだろう。だが、外国が絡むとそう簡単では無い。つまり、外国が武器やお金を、鬱憤のたまっている庶民に渡したらどうだろう?こうして内乱が扇動される。内乱が起きた時に、外国も一緒に攻めてくれば労せず国を亡ぼす事もできるのだ。

逆も然りである。例えば、庶民の気持を満たすために、ばら撒き政策を推進させるよう仕向ける。ばら撒くと言っても財源が必要だ。では、何処を財源にするか言えば、無い袖は振れないのだから、結局はお金持ちから税金を取るという方向になる。そうすると、お金持ちと庶民の間に溝が出来る事になって行く。何故、自分たちが蓄えた財産を取られねばならないと鬱憤がたまり、庶民にその鬱憤の矛先が向き、庶民が嫌いなお金持ちが増えるのだ。

そして、財産を取られるくらいならと、外国に資産を逃がすのである。国の財産が外国に逃げてしまうのだから、これは国力の衰退を意味する。庶民の気持を満たすために、所謂ポピュリズム政策ばかりすると、国力はやはり衰退するのだ。資産のほとんどを所有するお金もちに、その資産を外国に逃がされてはたまったものでは無い。民主主義の必然とは言え、所謂ポピュリズム政策に偏ると不味いのである。

こう考えてみれば、スイス金融の情報開示から始まったタックスヘイブンへの規制の理由が分かる気がしないか?お金持ちは個人の利益のために資産を逃がすだけであっても、これに外国が絡めば、国力の衰退を計る工作にもなる。こういう駆け引きもあるのだ。

君子の話になってしまったが、将軍でも同じ事である。少数を助けるために、多数を犠牲にするようなことがあってはならない。バランスを見て、調和を重んじるようにという教えとなる。



仕事で考えて見よう。今回は五危と言う事で、こだわりが自分の首を絞める事もあるという話を紹介しよう。こだわりと言う言葉は良い意味で使われる。例えば、こだわりカレーと言われれば一度は食べてみたくもなる。しかし、リピーターが出来るかは別の問題だし、一度は食べてくれても常連になってくれるかは分からない。そして、例えリピーターが出来ても、人が欲する味も変わっていくものである。

例えば、今でこそマグロと言えばトロだが、昔は赤身だった。食事が欧米化したため、マグロと言えばトロのイメージがついたが、これを昭和初期の人間が想像できただろうか?当時の日本人は、トロは脂っこくて食べれないと捨てていた。時代によって人の求める味は変わるのである。それなのに、一度当たった料理を、俺のこだわりだと言って固持したらどうだろう?売れてるなら結構な事だが、売れなくなっても言い張るようでは、店はつぶれるてしまう。こだわりも良し悪しなのだ。

では、どうしたら良いか?勿論、こだわらない事だ。例えば、こだわりのカレーをだす店では無く、こだわった料理を出す店と考えれば、カレーが売れなくなったら他の料理を考えるだろう。靴屋で考えれば、靴屋ではなく自分は商売人と考える。商売人が今は靴を売っていると思えば良いし、自分は商売人だから儲かれば何でも売りますよと考えていれば良い。ちょっとした感覚の差だが、これが後々効いてくるので参考にして欲しい。

これからAI化が進み、企業の寿命も10年前後と短くなっていくと見られている。その中で、どうやったら生き残れるか?それはフットワーク軽く色々なものを売るしかない。あそこの会社は昔は電機屋だったけど、今は健康食品売ってるんだねと、今はコンサルタントに特化してるんだねと、そう言われるように精進するほか無いだろう。こだわりは時には身を助け、時には身を亡ぼす。すべてはバランスの中にある事を再確認したい。


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