8、兵は多きを益とするに非ず
孫子曰く。「兵は多きを益とするに非ざるなり。ただ武進することなく、以って力を併わせて敵を料るに足らば、人を取らんのみ。それただ慮り無くして敵を易る者は、必ず人に擒にせらる。
卒、いまだ親附せざるに而もこれを罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用ひ難きなり。卒すでに親附せるに而も罰行なわれざれば、則ち用うべからざるなり。故にこれに令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする。これを必取と謂う。令、素より行なわれて、以てその民を教うれば、則ち民服す。令、素より行なわれずして、以て其の民を教うれば、則ち民服せず。令、素より行なわるる者は、衆と相得るなり。」
【解説】
孫子曰く。「兵は多ければ良い(益)と言うものではない(非)。ただ猛々しく(武)進のではなく、兵の力を結集(併)させて敵を推し量る(料)事が出来るなら(足)、人数を用意(取)する必要もない。それを深く考える(慮)事も無く敵を軽(易)んずる者は、必ず敵に捕縛(擒)される。
兵(卒)が今だ親しみをもって付き従う(親附)わけでも無いのに、当然のように(而し)罰するなら、心服はしない。心服しない兵を用いるのは難しいものだ。兵(卒)が親しみをもって従ってくれる(親附)からといって、当然のように(而)罰を行わないなら、兵に十分な働き(用)をさせる事は出来ないだろう。故に兵を従わせる(令)には温情のある教育(文)が、軍をまとめる(斉)には厳正な規律(武)が必要なのだ。これを必勝(取)の軍と言(謂)う。
規律(令)が平素より守(行)られた上で、民に教えるならば、民は従(服)う。規律(令)が平素より守(行)られていないのに、民に教えても、民は従(服)いはしない。規律(令)が平素より守られているからこそ、大勢(衆)が良く調べ(相)自分のものとして理解する(得)のである。」
テーマが3つある様子なので、3つに区切って説明しよう。
その1、兵は多ければ良いわけでは無い。
兵は多ければ良いわけでは無く、少人数でも兵力を集中し、相手の弱点を把握しながら攻めれば十分戦える。幾ら兵を集めても、相手を甘く見て突撃をするだけの将では、捕縛されるのが落ちだと孫子は言う。さもあらんだろう。
平原でなら大人数は脅威となるが、戦争では罠を掛けあうもの。将が考えも無しでは、罠にかかって一網打尽になろう。例えば、将が突撃し補給部隊の防衛が手薄になるよう仕組まれたとしよう。将が思慮深ければ補給部隊が襲われるミスは犯さないが、考え無しに突っ込むタイプの将は、少し挑発されれば突撃してしまう。そして、そこを待ってましたと補給部隊が強襲され、食料を奪われてしまう事もある。
食料がなくなれば、大人数の部隊を維持できなくなる。そうなると人数的には優勢であったはずが撤退を考えねばならないし、場合によっては全滅の危険すらある。将が死ぬのは嫌と降伏すれば捕縛される事になる。兵は多ければ良いわけでは無い。将が思慮深くて初めて大人数が活きるのである。
中国の実際の歴史を見ると、敵に撤退すると見せかけて相手をおびき寄せ、食らいついた処を反転攻勢から一網打尽にするのが良い策と吹き込んだ例もある。大人数は小回りが利かない。少人数なら反転攻勢も出来るが、10万の大人数は撤退し始めると反転攻勢という訳にはいかないのだが、相手がそれを知らない処を騙したわけだ。
撤退の雰囲気になった兵の士気を再度高めるのは至難の業だ。それを知らない将が撤退を開始した処、一気に攻め立てられてしまった。何せ撤退した側の兵には戦う気が無いのだ。逃げるくらいしか出来ない。反転攻勢など現実には不可能な話だったのである。まさに兵は詐によって立つである。
その2、令するに文を以てし、斉うるに武を以てする。
信頼関係の無い人間に罰を与えれば、心が離れていく。信頼関係があるからと言って罰を与えなければ、それを見ていた他の者が真似をするだけ。規律が形骸化し、命令違反から軍が機能しなくなる。兵との間に信頼関係を築く事と、罰すべきはしっかり罰する事の両方が大切だと孫子は言う。
特に「令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする」の解釈が難しい気がする。令するとは命令する事だが、文を以っての意味は広い。文は文武両道の文であるため、字と言う意味もあれば、絵などの芸事の意味もあり、さらに中国語では騙すと言う意味合いもあるようだ。
これらを総合して考えると、兵は言う事を聞かないのが普通なのだから、言う事を聞かすには、字を教えたり、芸事で楽しませ騙す事が必要になると言うニュアンスになろう。これを日本人的には温情を掛けると言うのだが、孫子は性悪説の文化圏の人間であるため、兵を騙さねば兵は従えられないという感覚では無いだろうか?文を以っての意味は広い。
斉は元々は整えるという意味の象形文字であるため、斉うるは軍を整えると言う意味となる。命令違反などで収拾が付かない軍ではなく、ビシっとまとまった軍をイメージすれば良いだろう。武を以っては、恐らく武力で無理やりというニュアンスと思われる。規律によって軍をまとめるのだが、規律を何故兵が守るかと言えば、武力が怖いからである。そのため、孫子は武を強調しているのだろう。彼が性悪説である事を考えれば、武によって対処せよと言うのが感覚として正しいわけだ。
その3、普段から規律が守られてるからこそ。
軍と言っても、昔は民衆から兵を集うわけだから、民と軍の差も何処まであるかは分からないが、孫子が言わんとする事はハッキリしている。普段から誰も守っていないような規律を、守れを言っても誰も守らない。だから、普段から規律を守りなさいという訳だ。普段から規律が厳しく守られていれば、民衆も守らねば生きていけない。結果、民衆も規律を良く勉強するようになると孫子は言う。
中国では「上に政策あれば、下に対策あり」と言われる。それくらい個の認識が強い国であるため、規律を守らせるには規律を守らねば生きていけないと思わせる必要があるのだろう。そこで、普段から規律を厳しく取り締まる事が必要と言っているのでは無いだろうか?規律に抜け穴があると、それを対策としてこぞって利用される。統治者側からすれば、規律を守る事が一番だと思わせる必要があるわけだ。
仕事で考えて見よう。ここで孫子が言っている事は、現代の言葉になおせば、信頼関係の構築と公正な評価基準だ。部下との信頼関係は大丈夫だろうか?会社に公正な評価基準はあるだろうか?それぞれ見直しておきたい話となる。
信頼関係の基本は、こいつを絶対一人前にしてやると言う気持ちだ。これさえ持っていれば、幾ら怒っても気持ちは伝わるもの。小手先の話術に頼るのではなく、心でぶつかると良い。昔は愛のムチと言って叩かれる事もあったが、何故問題にならなかったのか?それは、心が伝わったからである。この上司は俺を一人前にしてくれようとしていると思えば、叩かれても愛を感じたのである。
流石に今は叩く事が薦められる時代では無いが、心に愛情を以ってと言う部分は変わらない。温情をもった教育を心がけたい。そして、公正な評価基準が必要な理由は、孫子が言っている通りだ。公正さがあるからこそ、人はやる気になるのである。えこひいきを見せられたら、やってられないと思われるだけであろう。公正な評価基準が普段から守られているからこそ、頑張れば報われるとやる気になってもらえる。
孫子曰く。「兵は多きを益とするに非ざるなり。ただ武進することなく、以って力を併わせて敵を料るに足らば、人を取らんのみ。それただ慮り無くして敵を易る者は、必ず人に擒にせらる。
卒、いまだ親附せざるに而もこれを罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用ひ難きなり。卒すでに親附せるに而も罰行なわれざれば、則ち用うべからざるなり。故にこれに令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする。これを必取と謂う。令、素より行なわれて、以てその民を教うれば、則ち民服す。令、素より行なわれずして、以て其の民を教うれば、則ち民服せず。令、素より行なわるる者は、衆と相得るなり。」
【解説】
孫子曰く。「兵は多ければ良い(益)と言うものではない(非)。ただ猛々しく(武)進のではなく、兵の力を結集(併)させて敵を推し量る(料)事が出来るなら(足)、人数を用意(取)する必要もない。それを深く考える(慮)事も無く敵を軽(易)んずる者は、必ず敵に捕縛(擒)される。
兵(卒)が今だ親しみをもって付き従う(親附)わけでも無いのに、当然のように(而し)罰するなら、心服はしない。心服しない兵を用いるのは難しいものだ。兵(卒)が親しみをもって従ってくれる(親附)からといって、当然のように(而)罰を行わないなら、兵に十分な働き(用)をさせる事は出来ないだろう。故に兵を従わせる(令)には温情のある教育(文)が、軍をまとめる(斉)には厳正な規律(武)が必要なのだ。これを必勝(取)の軍と言(謂)う。
規律(令)が平素より守(行)られた上で、民に教えるならば、民は従(服)う。規律(令)が平素より守(行)られていないのに、民に教えても、民は従(服)いはしない。規律(令)が平素より守られているからこそ、大勢(衆)が良く調べ(相)自分のものとして理解する(得)のである。」
テーマが3つある様子なので、3つに区切って説明しよう。
その1、兵は多ければ良いわけでは無い。
兵は多ければ良いわけでは無く、少人数でも兵力を集中し、相手の弱点を把握しながら攻めれば十分戦える。幾ら兵を集めても、相手を甘く見て突撃をするだけの将では、捕縛されるのが落ちだと孫子は言う。さもあらんだろう。
平原でなら大人数は脅威となるが、戦争では罠を掛けあうもの。将が考えも無しでは、罠にかかって一網打尽になろう。例えば、将が突撃し補給部隊の防衛が手薄になるよう仕組まれたとしよう。将が思慮深ければ補給部隊が襲われるミスは犯さないが、考え無しに突っ込むタイプの将は、少し挑発されれば突撃してしまう。そして、そこを待ってましたと補給部隊が強襲され、食料を奪われてしまう事もある。
食料がなくなれば、大人数の部隊を維持できなくなる。そうなると人数的には優勢であったはずが撤退を考えねばならないし、場合によっては全滅の危険すらある。将が死ぬのは嫌と降伏すれば捕縛される事になる。兵は多ければ良いわけでは無い。将が思慮深くて初めて大人数が活きるのである。
中国の実際の歴史を見ると、敵に撤退すると見せかけて相手をおびき寄せ、食らいついた処を反転攻勢から一網打尽にするのが良い策と吹き込んだ例もある。大人数は小回りが利かない。少人数なら反転攻勢も出来るが、10万の大人数は撤退し始めると反転攻勢という訳にはいかないのだが、相手がそれを知らない処を騙したわけだ。
撤退の雰囲気になった兵の士気を再度高めるのは至難の業だ。それを知らない将が撤退を開始した処、一気に攻め立てられてしまった。何せ撤退した側の兵には戦う気が無いのだ。逃げるくらいしか出来ない。反転攻勢など現実には不可能な話だったのである。まさに兵は詐によって立つである。
その2、令するに文を以てし、斉うるに武を以てする。
信頼関係の無い人間に罰を与えれば、心が離れていく。信頼関係があるからと言って罰を与えなければ、それを見ていた他の者が真似をするだけ。規律が形骸化し、命令違反から軍が機能しなくなる。兵との間に信頼関係を築く事と、罰すべきはしっかり罰する事の両方が大切だと孫子は言う。
特に「令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする」の解釈が難しい気がする。令するとは命令する事だが、文を以っての意味は広い。文は文武両道の文であるため、字と言う意味もあれば、絵などの芸事の意味もあり、さらに中国語では騙すと言う意味合いもあるようだ。
これらを総合して考えると、兵は言う事を聞かないのが普通なのだから、言う事を聞かすには、字を教えたり、芸事で楽しませ騙す事が必要になると言うニュアンスになろう。これを日本人的には温情を掛けると言うのだが、孫子は性悪説の文化圏の人間であるため、兵を騙さねば兵は従えられないという感覚では無いだろうか?文を以っての意味は広い。
斉は元々は整えるという意味の象形文字であるため、斉うるは軍を整えると言う意味となる。命令違反などで収拾が付かない軍ではなく、ビシっとまとまった軍をイメージすれば良いだろう。武を以っては、恐らく武力で無理やりというニュアンスと思われる。規律によって軍をまとめるのだが、規律を何故兵が守るかと言えば、武力が怖いからである。そのため、孫子は武を強調しているのだろう。彼が性悪説である事を考えれば、武によって対処せよと言うのが感覚として正しいわけだ。
その3、普段から規律が守られてるからこそ。
軍と言っても、昔は民衆から兵を集うわけだから、民と軍の差も何処まであるかは分からないが、孫子が言わんとする事はハッキリしている。普段から誰も守っていないような規律を、守れを言っても誰も守らない。だから、普段から規律を守りなさいという訳だ。普段から規律が厳しく守られていれば、民衆も守らねば生きていけない。結果、民衆も規律を良く勉強するようになると孫子は言う。
中国では「上に政策あれば、下に対策あり」と言われる。それくらい個の認識が強い国であるため、規律を守らせるには規律を守らねば生きていけないと思わせる必要があるのだろう。そこで、普段から規律を厳しく取り締まる事が必要と言っているのでは無いだろうか?規律に抜け穴があると、それを対策としてこぞって利用される。統治者側からすれば、規律を守る事が一番だと思わせる必要があるわけだ。
仕事で考えて見よう。ここで孫子が言っている事は、現代の言葉になおせば、信頼関係の構築と公正な評価基準だ。部下との信頼関係は大丈夫だろうか?会社に公正な評価基準はあるだろうか?それぞれ見直しておきたい話となる。
信頼関係の基本は、こいつを絶対一人前にしてやると言う気持ちだ。これさえ持っていれば、幾ら怒っても気持ちは伝わるもの。小手先の話術に頼るのではなく、心でぶつかると良い。昔は愛のムチと言って叩かれる事もあったが、何故問題にならなかったのか?それは、心が伝わったからである。この上司は俺を一人前にしてくれようとしていると思えば、叩かれても愛を感じたのである。
流石に今は叩く事が薦められる時代では無いが、心に愛情を以ってと言う部分は変わらない。温情をもった教育を心がけたい。そして、公正な評価基準が必要な理由は、孫子が言っている通りだ。公正さがあるからこそ、人はやる気になるのである。えこひいきを見せられたら、やってられないと思われるだけであろう。公正な評価基準が普段から守られているからこそ、頑張れば報われるとやる気になってもらえる。
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