2017年10月30日月曜日

孫子の兵法 行軍編その8

8、兵は多きを益とするに非ず

孫子曰く。「兵は多きを益とするに非ざるなり。ただ武進することなく、以って力を併わせて敵を料るに足らば、人を取らんのみ。それただ慮り無くして敵を易る者は、必ず人に擒にせらる。

卒、いまだ親附せざるに而もこれを罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用ひ難きなり。卒すでに親附せるに而も罰行なわれざれば、則ち用うべからざるなり。故にこれに令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする。これを必取と謂う。令、素より行なわれて、以てその民を教うれば、則ち民服す。令、素より行なわれずして、以て其の民を教うれば、則ち民服せず。令、素より行なわるる者は、衆と相得るなり。」



【解説】

孫子曰く。「兵は多ければ良い(益)と言うものではない(非)。ただ猛々しく(武)進のではなく、兵の力を結集(併)させて敵を推し量る(料)事が出来るなら(足)、人数を用意(取)する必要もない。それを深く考える(慮)事も無く敵を軽(易)んずる者は、必ず敵に捕縛(擒)される。

兵(卒)が今だ親しみをもって付き従う(親附)わけでも無いのに、当然のように(而し)罰するなら、心服はしない。心服しない兵を用いるのは難しいものだ。兵(卒)が親しみをもって従ってくれる(親附)からといって、当然のように(而)罰を行わないなら、兵に十分な働き(用)をさせる事は出来ないだろう。故に兵を従わせる(令)には温情のある教育(文)が、軍をまとめる(斉)には厳正な規律(武)が必要なのだ。これを必勝(取)の軍と言(謂)う。

規律(令)が平素より守(行)られた上で、民に教えるならば、民は従(服)う。規律(令)が平素より守(行)られていないのに、民に教えても、民は従(服)いはしない。規律(令)が平素より守られているからこそ、大勢(衆)が良く調べ(相)自分のものとして理解する(得)のである。」





テーマが3つある様子なので、3つに区切って説明しよう。


その1、兵は多ければ良いわけでは無い。

兵は多ければ良いわけでは無く、少人数でも兵力を集中し、相手の弱点を把握しながら攻めれば十分戦える。幾ら兵を集めても、相手を甘く見て突撃をするだけの将では、捕縛されるのが落ちだと孫子は言う。さもあらんだろう。

平原でなら大人数は脅威となるが、戦争では罠を掛けあうもの。将が考えも無しでは、罠にかかって一網打尽になろう。例えば、将が突撃し補給部隊の防衛が手薄になるよう仕組まれたとしよう。将が思慮深ければ補給部隊が襲われるミスは犯さないが、考え無しに突っ込むタイプの将は、少し挑発されれば突撃してしまう。そして、そこを待ってましたと補給部隊が強襲され、食料を奪われてしまう事もある。

食料がなくなれば、大人数の部隊を維持できなくなる。そうなると人数的には優勢であったはずが撤退を考えねばならないし、場合によっては全滅の危険すらある。将が死ぬのは嫌と降伏すれば捕縛される事になる。兵は多ければ良いわけでは無い。将が思慮深くて初めて大人数が活きるのである。

中国の実際の歴史を見ると、敵に撤退すると見せかけて相手をおびき寄せ、食らいついた処を反転攻勢から一網打尽にするのが良い策と吹き込んだ例もある。大人数は小回りが利かない。少人数なら反転攻勢も出来るが、10万の大人数は撤退し始めると反転攻勢という訳にはいかないのだが、相手がそれを知らない処を騙したわけだ。

撤退の雰囲気になった兵の士気を再度高めるのは至難の業だ。それを知らない将が撤退を開始した処、一気に攻め立てられてしまった。何せ撤退した側の兵には戦う気が無いのだ。逃げるくらいしか出来ない。反転攻勢など現実には不可能な話だったのである。まさに兵は詐によって立つである。




その2、令するに文を以てし、斉うるに武を以てする。

信頼関係の無い人間に罰を与えれば、心が離れていく。信頼関係があるからと言って罰を与えなければ、それを見ていた他の者が真似をするだけ。規律が形骸化し、命令違反から軍が機能しなくなる。兵との間に信頼関係を築く事と、罰すべきはしっかり罰する事の両方が大切だと孫子は言う。

特に「令するに文を以てし、これを斉うるに武を以てする」の解釈が難しい気がする。令するとは命令する事だが、文を以っての意味は広い。文は文武両道の文であるため、字と言う意味もあれば、絵などの芸事の意味もあり、さらに中国語では騙すと言う意味合いもあるようだ。

これらを総合して考えると、兵は言う事を聞かないのが普通なのだから、言う事を聞かすには、字を教えたり、芸事で楽しませ騙す事が必要になると言うニュアンスになろう。これを日本人的には温情を掛けると言うのだが、孫子は性悪説の文化圏の人間であるため、兵を騙さねば兵は従えられないという感覚では無いだろうか?文を以っての意味は広い。

斉は元々は整えるという意味の象形文字であるため、斉うるは軍を整えると言う意味となる。命令違反などで収拾が付かない軍ではなく、ビシっとまとまった軍をイメージすれば良いだろう。武を以っては、恐らく武力で無理やりというニュアンスと思われる。規律によって軍をまとめるのだが、規律を何故兵が守るかと言えば、武力が怖いからである。そのため、孫子は武を強調しているのだろう。彼が性悪説である事を考えれば、武によって対処せよと言うのが感覚として正しいわけだ。




その3、普段から規律が守られてるからこそ。

軍と言っても、昔は民衆から兵を集うわけだから、民と軍の差も何処まであるかは分からないが、孫子が言わんとする事はハッキリしている。普段から誰も守っていないような規律を、守れを言っても誰も守らない。だから、普段から規律を守りなさいという訳だ。普段から規律が厳しく守られていれば、民衆も守らねば生きていけない。結果、民衆も規律を良く勉強するようになると孫子は言う。

中国では「上に政策あれば、下に対策あり」と言われる。それくらい個の認識が強い国であるため、規律を守らせるには規律を守らねば生きていけないと思わせる必要があるのだろう。そこで、普段から規律を厳しく取り締まる事が必要と言っているのでは無いだろうか?規律に抜け穴があると、それを対策としてこぞって利用される。統治者側からすれば、規律を守る事が一番だと思わせる必要があるわけだ。




仕事で考えて見よう。ここで孫子が言っている事は、現代の言葉になおせば、信頼関係の構築と公正な評価基準だ。部下との信頼関係は大丈夫だろうか?会社に公正な評価基準はあるだろうか?それぞれ見直しておきたい話となる。

信頼関係の基本は、こいつを絶対一人前にしてやると言う気持ちだ。これさえ持っていれば、幾ら怒っても気持ちは伝わるもの。小手先の話術に頼るのではなく、心でぶつかると良い。昔は愛のムチと言って叩かれる事もあったが、何故問題にならなかったのか?それは、心が伝わったからである。この上司は俺を一人前にしてくれようとしていると思えば、叩かれても愛を感じたのである。

流石に今は叩く事が薦められる時代では無いが、心に愛情を以ってと言う部分は変わらない。温情をもった教育を心がけたい。そして、公正な評価基準が必要な理由は、孫子が言っている通りだ。公正さがあるからこそ、人はやる気になるのである。えこひいきを見せられたら、やってられないと思われるだけであろう。公正な評価基準が普段から守られているからこそ、頑張れば報われるとやる気になってもらえる。

2017年10月29日日曜日

孫子の兵法 行軍編その7

7、数賞するは窘しむなり

孫子曰く。「数賞するは、窘しむなり。数罰するは、困しむなり。先に暴にして後にその衆を畏るるは、不精の至りなり。来たりて委謝するは、休息を欲するなり。兵怒りて相迎え、久しくして合せず、又た相去らざるは、必ず謹みてこれを察せよ。」



【解説】

孫子曰く。「しばしば(数)賞を与えるのは、士気が低下し困(窘)っている事の裏返しである。しばしば(数)罰するなら、兵士が言う事を聞かなくて困っているのだ。兵士達を乱暴に扱った挙句、後になって兵士の仕返しを恐(畏)れるのは、配慮を面倒臭がっている(不精の至り)。使節団が来て謝るとすれば(委謝)、軍の休息時間を稼ごうとしている(欲)。敵が怒気と共に攻めてきたのに(相迎)、時間がたっても(久)合戦にならず、かと言って去ろうともしないなら、必ず慎重(謹)にこれを観察しなければならない。」






まずは、さらに意訳してみる。孫子曰く。「賞は珍しいからこそ有難みがあるのだから、乱発するようでは軍の士気が低くなっていると見てよい。懲罰も同じで乱発すれば空気が悪くなるはずが、それをやらなくてはならない理由がある。恐らく軍首脳部は頭を悩ませているだろう。怒り方一つとっても、兵士の仕返しを恐れる将が多いなら、配慮が足りない軍と言わざる得ない。一事が万事だ。その配慮の足りなさは、必ず他の面でも出てこよう。

また、戦いの最中に、敵の使節団が来て贈答品と共に謝ってくることがあれば、それは本音と思わないほうが良い。敵は単に時間を稼ごうとしているのだ。恐らく軍が休息を欲しているのだろう。好機かも知れない。もし、敵が攻めてきたのに戦おうとせず、退却もしないなら、敵を良く観察しなさい。謀略の匂いがする。」

総じて、通常とは可笑しい行為があれば大よそマイナスなのだから、注意して観察せよと孫子は言っているのだろう。戦争の場合、攻めるタイミングを模索するわけだが、相手が準備できていない時に攻めるのが一番勝ちやすい。そう考えて見れば、孫子が何故こういった行為に注意しているのか分かる。今攻められたら困りますか?と聞いても、相手は全然問題ないと言うに決まっている。だが、ちょっとした事に敵軍のほころびが出ているものなのだ。

今回は特に日本と海外の文化の大きな違いである性善説、性悪説について考えて見よう。日本では人は生まれながらにして良いものであるとし、海外では人は生まれながらに罪を背負っていると考えている。この感覚の違いが、孫子の兵法でも見て取れるのだ。例えば、孫子は敵の使節団が謝りに来たのを、謝りに来たのではなく時間稼ぎに来たと言っているが、この感覚こそ性悪説だろう。

何故この話をしたかと言うと、日本人的な感覚で海外の文化を見ると危ないからだ。日本人も使節団が謝りに来たとして、それが時間稼ぎになる事は分かるだろう。しかし、時間稼ぎに来たとバッサリ斬れるだろうか?正々堂々や、惻隠の情を旨とする日本人にとっては難しい事のように思う。だが、孫子は性悪説に則ってるため、どうせ騙しに来たのだろうとバッサリ斬れてしまうのだ。日本人は海外の人も日本人と同じ感覚で生きていると誤解しがちだが、実は全く違う。簡単にだが、感覚の差を確認しておきたい。

遠からずAIによる自動翻訳機が出来、これからは言語の壁がなくなる。今までは英語だけは話せるように勉強しなさいと言われたが、これからは英語なんて勉強しているのかと言われるようになる。自分で不慣れな英語を話すより、自動翻訳機を通したほうが確実に伝わるようになるからだ。日本人は英語が話せない人が多かったために、国際交流が遅れた側面があったが、これからは言語の壁がなくなるため国際交流も進む事だろう。より海外の人と付き合うようになれば、性善説と性悪説の違いは必ず問題となる。誤解から足元をすくわれないよう、日本人に精神武装が求められている事を知っておきたい。


2017年10月27日金曜日

孫子の兵法 行軍編その6

6、利を見て進まざる者は労るるなり

孫子曰く。「杖つきて立つは、飢うるなり。汲みて先ず飲むは、渇するなり。利を見て進まざるは、労るるなり。鳥の集まるは、虚しきなり。夜呼ぶは、恐るるなり。軍の擾るるは、将重からざるなり。旌旗動くは、乱るるなり。吏怒るは、倦みたるなり。馬を殺して肉食するは、軍に糧なきなり。軍、缻を懸くることなくしてその舎に返らざるは、窮寇なり。諄々翕々として徐に人と言うは、衆を失うなり。」



【解説】

孫子曰く。「兵が杖をつきながら立っているのは、飢えているからだ。水を汲んだ兵が先ず水を飲んだなら、その軍は渇きに苦しんでいる。有利な戦況なはずなのに進攻しないなら、疲(労)れているのである。鳥が集まっているなら、人がいない(虚)のだ。夜に呼び声がするのは、恐れているに他ならない。

軍が騒(擾)がしいのは、将軍に威厳(重)が無いからである。旌旗が揺れ動くのは、将兵に混乱が生じているのだ。役人(吏)が怒っているなら、兵が疲れて怠けている(倦)。馬を殺して肉を食しているなら、軍に食料が無い。軍が炊事道具(缻)を吊(懸)り下げず宿舎に戻(返)らないのは、決死の覚悟(窮寇)をしているからだ。上官が懇切丁寧(諄々翕々)にゆっくり(徐)と部下に話すのは、部下の気持(衆)が離れているのだ。」






孫子は色々な切り口で分析している事が伝わってくる。遠目にも敵の状況は、兵士の姿であったり、旌旗の動き、動物の動きに現れる。特に動物の動きは人間が装うのが難しいため、動物の動きは推論を決定づける根拠となるかもと思う。兵士が杖をついていたり、旌旗がやたら揺れ動くようでは、敵に良からぬ事が起きているのは言うまでも無いだろう。

そして、より近くから見た時は、上官の言動に軍の士気が現れ、牛馬を処分しているかどうかに糧の状況が現れる。夜に大声を出せば敵にも聞こえるのに大声を出すという事は、気持ちを紛らわせているのだろう。つまり、怯えている兵が多そうだし、軍が騒がしいなら上官を軽視しているの可能性が高い。言わば、学級崩壊の状態だ。孫子は様々な例を通して、何気ない事が良くチェックされていて、何気ない事を見れば相手が透けてくる事を説いているのである。


  • 何気ない事から相手が透けて見える。
  • 何気ない事が良くチェックされている。


普段の生活でも、この教えはとても大切である。例えば、子供である。子供の躾では3つ事が大切と言われる。まず大きな声でハイと返事が出来る事、次に有難うと言える事、そして履物を揃えられる事である。理由は単純である。それが出来ると大人に可愛がられるからだ。可愛がられると子供に良い事が起きる。だから昔から子供可愛さに、こういった事を躾たわけだ。

考えてもみて欲しい。大きな声でハイと返事をする子供がいたら、厳しく育てられてると思わないか?小遣いを上げた時、ありがとうと言われれば悪い気がしないだろう。履物が揃えている子供を見たら、しっかりした家だと子供の姿から家を想像するものだ。逆はすべて、しょうがない子共だの一言となる。えらい差であろう。

勉強して良い学校に入る事が教育と錯覚する人が多いが、本当にそうだろうか?今一度、見直さねばならないだろう。例えば、日本の最高学府の東京大学をイメージして欲しい。挨拶もできない、有難うも言えない、靴もそろえない東大生がいたとする。恐らく東大でてるから調子に乗っていると言われるだろう。人情とはそういうものだ。だが、礼儀正しく、靴もきちっとそろえる東大生だったらどうだ?流石に東大生は違うと言われるのだ。人は頭の良さではなく、何気ない事でこそ評価するのである。何気ない事から相手が分かり、何気ない事こそがチェックされている。これが孫子の兵法である。



孫子の兵法 行軍編その5

5、辞の卑くして備えを益す者は進むなり

孫子曰く。「辞の卑くして備えを益すは、進むなり。辞彊くして進駆するは、退くなり。軽車先ず出でて其の側に居るは、陳するなり。約なくして和を請うは、謀なり。奔走して兵車を陳ぬるは、期するなり。半進半退するは、誘うなり。」



【解説】

孫子曰く。「言葉(辞)が卑屈なのに備えを増強(益)しているなら、進撃する気である。言葉(辞)が強(彊)く進撃(進駆)するそぶりを見せるなら、退却する気である。軽戦車が先に出て軍の側面を警護して居るなら、陣容を整えている(陳)のだ。互いの取り決め(約)もなく突然に和平を請うなら、謀である。奔走しながら兵や車の陣容を整える(陳)なら、攻める目星(期)がついたのだ。進んだり後退したり(半進半退)を繰り返すなら、誘いだそうとしている。」





孫子の用心深さをうかがえる一節だと思う。敵の使いの言葉が丁寧で低姿勢であっても、備えを増強しているなら進撃を疑う。敵の使いの言葉が高圧的で騎兵なりが駆けるそぶりを見せても、退却の可能性を疑う。言われて見ないと、なかなか気づけない事では無いだろうか?それぞれ考えて見よう。



1、敵の姿勢が低姿勢で、備えを増強している。

要は言行一致の問題であろう。敵の言葉と実際の行動が一致しないなら、言葉を鵜呑みにしてならない。例えば、敵があからさまに野戦用の城を作り始めながら、戦う気は無いと言ってきた事を想像して欲しい。この狸と思わないか?つまり、そういう事を孫子は言っている。



2、敵の姿勢が高圧的で、騎兵で威嚇してきた。

恐らく「弱い犬ほど良く吠える」の格言を言ってるのだろう。故・山本五十六も「強い犬は吠えない」と言っている。敵が使いをよこしてまで高圧的に出ざる得ないのは、戦いたくない気持ちの現れである。敵の使いの気持になってみて欲しい。敵陣で高圧的にでれば殺される事もあるのに、高圧的に出ざる得ない。その心は、決死の覚悟で退却の時間を稼いでいる可能性が高いわけだ。敵は戦えないからこその賭けだと、孫子は言うのである。



孫子の経験値の高さが透けて見える教えだと思う。その他にも、軽戦車が側面に着いた時は陣容を整える可能性が高いし、敵と相対している時に前触れもなく突然に和平の申し込みがあれば、謀略を疑ったほうが良いと指摘している。また、陣容を整える動きが盛んなら敵の戦意をうかがえるし、敵軍が出たり下がったりを繰り返せば、何か罠があると見たほうが良いと。敵の行動には裏があるという事を、懇切丁寧に説いているのだろう。

最近の時事から、北朝鮮情勢について考えて見よう。孫子は敵の高圧的な交渉が退却を目指している可能性があると指摘している。アメリカと北朝鮮の関係を考えた時、興味深いでは無いか?と言うのも、今アメリカは北朝鮮に攻め入る可能性が何時になく高まっている。早ければ今年中の会戦だし、そうでなくとも来年は攻め入ると言う予想がでている。これは北朝鮮から見れば、高圧的な交渉に見えよう。

ただ、アメリカにはお金の問題がある。先月のハリケーン被害を復興させるのに10兆弱はかかると見られているし、アフガニスタンも撤退では無く増兵なのだからコストは増すばかり。本当に戦争できるのだろうか?本音を言えば、戦いたくないはずだろう。トランプ大統領は本当に難しい選択を迫られているのだ。孫子の言う通り、確かに退却の可能性が高まっていると言えるかも知れない。



---- 以下、余談 ----

こういった理由から、アメリカ対北朝鮮と言うよりは、アメリカは空爆だけして中国がメインの戦争になると言う予想もある。何方かと言えば、中国こそ本筋かも知れない。国際政治は一寸先は闇と言われるため、全く違う事になるやも知れないが。


2017年10月26日木曜日

孫子の兵法 行軍編その4

4、近くして静かなるは、その険を恃む

孫子曰く。「敵近くして静かなるは、その険を恃めばなり。遠くして戦いを挑むは、人の進むを欲するなり。その居る所の易なるは、利なればなり。衆樹の動くは、来たるなり。衆草の障多きは、疑なり。鳥の起つは、伏なり。獣駭くは、覆なり。塵高くして鋭きは、車の来たるなり。卑くして広きは、徒の来たるなり。散じて条達するは、樵採するなり。少くして往来するは、軍を営むなり。」



【解説】

孫子曰く。「敵が近くにいて静かな場合、地形の険しさに守られている(恃)。敵が遠くにいて戦いを挑んでくる場合、我が軍(人)の進軍を誘っている(欲)。敵がいる場所が平坦(易)であるなら、敵に何らかの利があるのである。多く(衆)の樹木が動くなら、敵が来たという事だ。多く(衆)の草で障害を作る者は、伏兵を疑わせたいのだ。鳥が飛び立つならば、伏兵がいる。獣が驚(駭)いて走り出すなら、敵が隠れて(覆)いる。

砂埃(塵)が高く先端が尖っている(鋭)なら、戦車が来たという事だ。砂埃が低(卑)く広がっているなら、歩兵(徒)が来ている。砂埃が散って木の枝のように分かれるなら(条達)、薪を拾っている(樵採)。砂埃が少なく行き来するなら(往来)、軍営を作ろうとしているのである。」






孫子が敵の状況の洞察を様々紹介していると思えば良い。孫子は予め敵の状況を知る手段を複数持っていたという話である。兵器が発達した今、孫子のやり方をそのまま当てはめる事は出来ないが、敵の動きをその心理面も踏まえて洞察しておくという姿勢は学ぶべき点がある。戦争はAIによりロボット化が加速していくが、何処まで行っても戦争は人間同士がするもの。人間心理への深い洞察が、勝敗を決する事に変わりないだろう。

では、解説していこう。最初に孫子は、敵が静かならば地形の険しさによって守られているからで、敵が遠いのに挑発行為などをして戦いを挑んでくるのは、此方に進軍して欲しい理由があるからだ言っている。そして、敵が平坦な地に布陣しているならば、そこに敵を利する何かがあると。

ここで大切な事は、敵の行動の裏には必ず何かあるという心構えでは無いだろうか?命のやり取りをする戦場で、敵が静かなのは解せない。必ず何か理由があると、探すという姿勢こそが孫子の兵法であろう。敵が遠くにいるのに、言い換えれば射程圏内に入っていないのに何故戦いを挑むそぶりをする?何を狙っていると考えが及べば、此方を自分のところまで引き寄せたいという狙いが透けて見えてくる。通常は戦場では高い場所に布陣するのに、何故に平坦な場所を択び布陣しているのか?逆に不審に思わないと可笑しい。こう考えて見れば、「敵の行動には必ず裏があるのだから、必ず裏を見通すべし」、現代でも立派に通用する兵法の基本となるのだ。

そして、孫子は敵の動きを知りたかったら、樹木の動き、動物の動き、砂煙の立ち方を見れば良いと説明している。軍は数万から数十万という大人数で動くのだから、樹木だって何かしらの変化が見て取れるし、戦車と人では砂埃の立ち方も変わってくる。動物は人からは逃げようとするのだから、それを見れば人の有無も透けてくるし、薪を拾うのと軍営を設営するのでも砂煙は変わるのだから、こういった現象をよく観察すれば、敵の動きも分かるという訳だ。

孫子は観察する事の大切さを説いているのである。刑事物のドラマみたいな話になるが、人が動けば必ず何かしらの足跡が残る。その足跡を見逃さないようにしろと言えば、TVの刑事ドラマなどでありそうな話だろう?孫子も刑事ドラマと同じ事を言っているだけだ。刑事ドラマの中では、孫子の兵法が駆使されて犯人を追い詰めていたのである。

日本では昔から見稽古という言葉がある。先生のする事をただジッと見ているだけで、上達するものだからだ。例えば、寺の坊主はお経を唱える事は無い。ただ、廊下を雑巾がけしたり、和尚の世話をしているだけだったりする。だが、和尚がお経を唱えているのを無意識に聞いているし、和尚の立ち居振る舞いを毎日見ている。すると、どうだ?一度もお経を教わった事もないはずのお経を唱えられるようになっているでは無いか。こうして一人前の坊主になるため、見る事が稽古になるというのである。

孫子は敵を良く観察し、相手の気持ちを洞察する事を説いているが、これは日本で言えば坊主の修行と何ら変わりない。坊主は和尚の気持を洞察しなければ叱られるし、良く観察していなければ和尚の気持も分かりようがない。孫子は敵を倒すために相手を良く観察し、坊主は和尚の機嫌を取るために良く観察する。孫子の兵法は、日本の見稽古に通じるところもあるのである。

仕事でも、下の一番の仕事は上司の機嫌を取る事と言われる事がある。上司が機嫌が良ければ、仕事を教えてもらえたり、お酒をおごってもらえるが、機嫌が悪いと八つ当たりされるだけだからだ。だが、寺の坊主のごとく見稽古するなら、知らぬ間に色々できるようになるという事が分かるだろう。人は上司の機嫌を取っているだけで、一人前になってしまうのである。そして、上司の機嫌をとれるようになると、要領は同じである。お客さんの機嫌も自然ととれるようになる。使える人間になるのだ。

2017年10月24日火曜日

孫子の兵法 行軍編その3

3、近づいてはならぬ地形

孫子曰く。「およそ地に絶澗、天井、天牢、天羅、天陥、天隙あらば、必ず亟かにこれを去りて近づくことなかれ。吾はこれに遠ざかり、敵はこれに近づかしめよ。吾はこれを迎え、敵にはこれに背にせしめよ。軍行に険阻、潢井、葭葦、山林、蘙薈あらば、必ず謹んでこれを覆索せよ。これ伏姦の処る所なり。」



【解説】

孫子曰く。「およそ地に絶澗、天井、天牢、天羅、天陥、天隙があるなら、必ず速(亟)やかに離(去)れ近づいてはならない。自軍(吾)はここから遠ざかり、敵がこれに近づくように仕向けると良い。そして、近づいた敵を向かい撃ち(迎)、敵の背後にこれらの地が来るようにする。行軍する際は、険阻、潢井、葭葦、山林、蘙薈があるならば、必ず良く調べる(覆索)。ここが敵の伏兵(伏姦)が潜む場所となる。」




結論を言うと、絶対的に不利となる地形がいくつかあって、そこに敵を誘うと勝ちやすいという話をしている。イメージとしては、絶対的に不利な地形に敵を押し込むであるとか、敵の逃げ道をそこだけにするといった話となろう。絶対的に不利となる地形と自軍で、敵を挟み撃ちにすると勝ちやすいと、孫子は言っている。

敵より有利な場所を確保する方法は2つある。一つはより有利な場所を見つけて、敵より早く占拠する事。もう一つは、敵をより不利な場所に追い込む事である。今回は後者の説明をしている。例えば、落とし穴に腰まで入った敵と戦う事や、溺れた者と戦う事を想像して欲しい。容易く勝てると思わないか?

また、行軍する際の注意点については、人が隠れられそうな場所はしっかり調べろという事だ。人が隠れられるなら、そこに伏兵は潜んでいる。そういう心掛けが大切だという事に尽きよう。戦争は騙し合いであり、戦争の勝敗を決めるのは大概はスパイである。そのスパイに情報を取らせない事はとても大切なのである。なお、織田信長は上杉謙信にスパイを幾人も送ったが、一人も帰ってこなかったという逸話がある。上杉謙信がどう判別していたのかはさておき、名将はスパイ対策もしっかりしているのだ。以下、孫子の指摘している様々な地形について説明しておく。



その1、絶澗

絶壁に囲まれた谷間の事。



その2、天井

深く落ち込んだ窪地の事。




その3、天牢

山や川で作られた天然の牢獄。



その4、天羅

草木が密集し、行動が困難な場所。



その5、天陥

湿潤の低地で、通行困難な場所。




その6、天隙

天然の隙間の事。




画像をつけたが、間違っているかも知れない。イメージの補完として、役立てて欲しい。だが、こういった場所に追い詰められれば、例えば弓などの飛び道具も撃ちやすいし、今なら手りゅう弾等の良い的だろう。相手を不利な位置に追い込む事も、地の利となる事を確認したい。有利、不利は敵との相対的な問題なのである。



その7、険阻

地勢の険しい様の事。





その8、潢井(こうせい)

池や窪地の事。



その9、葭葦(かい)

芦原の事。


その10、山林



その11、蘙薈(えいわい)

背丈の高い草木の事。




画像のような場所は、スパイが潜みやすい。だから、スパイがいる前提で良く調べなさいと、孫子は言っている。戦争の勝敗は、戦争をする前の情報戦で決まる。風林火山陰雷の言葉にある通り、まるで暗闇のように何も分からない軍が理想という話を思い出して欲しい。知り難きこと陰のごとしだ。

仕事で考えて見よう。孫子は自軍が不利になる地形からは速やかに離れるのが良いと、様々な地形を紹介しているが、これは人間関係で言える事だ。いつも愚痴ばかりの人からは速やかに離れたほうが良いし、いつも悲観的な暗い人間とは一緒にいないほうが良い。不平不満だらけの人はどうだ?悪口が好きな人はどうだ?嘘をつく人間はどうだ?こういう人間が、孫子が言う不利な地形であろう。危うきに近寄らず、触らぬ神に祟り無しである。

では、どういう人と一緒にいたら良いか?勿論、いつも笑顔の明るい人である。考え方がポジティブな人である。愚痴など言わない人である。孫子流に言えば、地の利が得られると言えよう。

2017年10月23日月曜日

孫子の兵法 行軍編その2

2、軍は高きを好みて下きを悪む

孫子曰く。「およそ軍は高きを好みて下きを悪み、陽を貴びて陰を賎しむ。生を養いて実に処り、軍に百疾なし。是れを必勝と謂う。丘陵堤防には必ず其の陽に処りてこれを右背にす。これ兵の利、地の助けなり。上に雨ふりて水沫至らば、渉らんと欲する者は、其の定まるを待て。」



【解説】

孫子曰く。「およそ軍は高い場所に布陣するのが好ましく、低い場所での布陣は避けたほうが良い(悪)。日向に布陣するが良く(貴)、日陰での布陣は避けたほうが良い(賎)。これは兵の健康状態(生)への配慮(養)であり、軍が百の病(百疾)から守られるだろう。こうして必勝の態勢が作られる。

丘陵や堤防に布陣する場合、必ず太陽を意識し、東南の地(右背)にするのが望ましい。これは有利な作戦行動(兵の利)のためであり、地の助けを得られるためだ。川上で雨が降り水嵩が増し、水の勢いで水泡がでているならば、河を渡る(渉)のはそれが治まる(定)のを待った方が良い。」






軍の布陣に際しての、具体的な注意点を解説している。要点は単純な話だ。


  • 高い場所 > 低い場所
  • 日向   > 日陰
  • 洪水は洪水が治まってから進軍


高い場所が低い場所より好ましく、日向は日陰より良い。後は組み合わせで、優先順位を決めろという話となる。例えば、高い場所でも、日向と日陰があるだろう。日向と一言に言っても、高い場所もあれば低い場所もあるわけだ。この四通りの中で考えた時、高い場所で日向が最も良いという訳だ。丘陵や堤防に布陣する時も、この考え方に当てはめて考えれば、太陽の動きを意識し、日向を確保するように努めろと孫子が言っているのも納得がいくだろう。

そして、机上では想像しづらいのだが、戦争では敵だけが味方の兵を殺すわけではない。兵が病で死んだりだりと、戦う前に戦線離脱せざる得ない事がある。これは非常に深刻な問題となる。例えば、行軍で湿地を通らせたら、戦地に辿りついた兵の足が壊疽し戦えなかったとか、戦争がペスト菌によって断念されたとか、世界史ではままある事だ。このように、将たる者は兵の健康管理を抜きにして戦争はできないのである。だから、孫子は兵のケアをしっかりしなさいと、わざわざ日向にこだわって説明していると理解すれば良いかと思う。




画像を見れば、洪水は治まってから進軍する事が良いのは一目瞭然だろう。敵と戦う前に、水害によって兵を損なうべきでは無いという話だ。水泡という表現も画像で確認して欲しい。

仕事で考えて見よう。今回は歴史に学べという話を紹介したい。何故、昔から歴史に学べと言うのか?それは人は忘れやすいからであり、歴史の教訓を活かせない人が多いからであろう。その点、孫子はしっかり歴史の教訓を活かしているとも言えないだろうか?

何故、高い場所の日向に布陣するのが良いか?それは過去の失敗を知っているからだ。思いつきで書いているのではない。彼は過去の歴史の教訓を兵法書としてまとめたに過ぎない。そこには、歴史から学ぶという確固たる信念を感じ取れよう。人は間違いを犯す動物である。一度の間違いは致し方ないだろう。だが、二度同じ間違いをすれば、もうチャンスは回ってこないもの。努々、注意して欲しい。

なお、歴史から学ぶ上で大切なのは良く調べる事、そして、大いに反省する事である。特に注意を要するのは、年を取るほど素直さが薄れ、失敗を言い訳で取り繕うになっていく傾向だ。そういう人が陥りやすい落とし穴も予め把握し、素直さが身を助ける事を再確認したい。故・中村天風氏などは、鏡を用意し、鏡に映った自分に向けて反省していたという逸話も残っている。



----- 以下、余談 ----

孫子の文章を解釈する上で、良く分からなかった部分を書いておく。

1、生を養いて実に処り

自分は、生を兵の健康状態、養を良好に保つ事と解釈しておいたが、実の解釈で困った。自分の解説では、実は実効性のある防御策という意味で作られている。だが、他の説もあり、実を食べ物や水として解釈する人もいるようだ。どちらでも本質は変わらないが、参考までに紹介しておく。



2、丘陵堤防には必ず其の陽に処りてこれを右背にす

丘陵と堤防を右背に置けと言っているのか、丘陵や堤防に布陣すると言っているのかを迷った。自分は布陣するとして解説したが、右背後に置けとしても良いだろう。大切な事は日向である事と、相手より高い場所に布陣する事なのだから、どう解釈しても本質的問題とはならない。

右背という表現も意味を掴み兼ねるが、孫子は日向を気にしている事から、東南という事なのだろう。日は東から登り、西へ沈む。もしかしたら午前中に戦う場合は、日光が敵への目くらましになるのかも知れないと思ったりする。孫子は気力の充実している午前中は戦うのを避け、気力の下がる午後に攻めよと言っていたはずだが、敵から攻められるのは午前中が多いのかも知れない。

孫子の兵法 行軍編

1、地形に応じた4つの戦法

孫子曰く。「およそ軍を処き敵を相るに、山を絶ゆれば谷に依り、生を視て高きに処り、隆きに戦いて登ること無かれ。此れ山に処るの軍なり。水を絶てば必ず水に遠ざかり、客、水を絶ちて来たらば、これを水の内に迎うるなく、半ば済らしめてこれを撃つは利なり。戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うることなかれ。生を視て高きに処り、水流を迎うること無かれ。これ水上に処るの軍なり。

斥沢を絶ゆれば、ただ亟かに去りて留まることなかれ。もし軍を斥沢の中に交うれば、必ず水草に依りて衆樹を背にせよ。これ斥沢に処るの軍なり。平陸には易きに処りて高きを右背にし、死を前にして生を後にせよ。これ平陸に処るの軍なり。およそこの四軍の利は、黄帝の四帝に勝ちし所以なり。」



【解説】

孫子曰く。「およそ軍の配置(処)と敵状の視察(相)について、山を越(絶)える際は谷に沿(衣)いながら進み、視界が開(生)けた高い場所に布陣(処)し、高い場所から低い場所へ降りながら戦い、低い場所から登りながら戦ってはならない。これが山間部における軍の要諦である。

川(水)を渡(絶)れば必ず川(水)から遠ざかり、敵(客)が川(水)を渡り攻めて来るならば、敵が川(水)を渡りきる前(内)に迎え撃ってはならず、敵の半数が渡り切った(済)のを見て攻撃するのが有利である。戦いを望む(欲)ならば、川(水)に入(附)りながら敵(客)を向かい撃(迎)ってはならない。視界が開(生)けた高い場所に布陣し、川下で水流に逆(迎)らいながら戦ってはならない。これが川辺(水上)における軍の要諦である。

湿地(斥沢)を越(絶)えたなら、ただ速(亟)やかに去る事を心がけ、留まってはならない。もし、軍が湿地(斥沢)で交戦する他ないなら、飲料水と飼料となる草を確保(衣)し樹木(衆樹)を背にして戦わねばならない。これが湿地(斥沢)における軍の要諦である。平地(陸)ならば、平(易)らな場所に布陣し、高地を右背後にする。前方に低い土地が広がり(死)、後方に高地がある(生)のが望ましい。これが平地(陸)における軍の要諦である。およそ、この4つの軍の要諦(利)が、黄帝が四帝に勝てた所以である。」






ここでは、孫子は軍の配置を決めるにあたって敵状を良く把握しておく事をとしながら、地形ごとの軍の要諦を4つ紹介している。なお、最初に「敵を相る」という聞きなれない言葉があるが、相とは木を目で見ると書く事から、良く調べるという意味を持つ。したがって、「敵を相る」とは敵を良く調べるという意味だ。




その1、山間部における軍の要諦




中国の山はこういう山だとすれば、谷沿いを進まざるを得ないようにも見える。そして、敵は山の上からは大軍による攻撃はできないし、下からはもっとしづらいのだから、谷沿いに進めばある程度の安全が確保されるとも言える。そして、敵の姿を見て何処にいるか確認しないと戦えないのだから、視界良好な高い場所に布陣し、敵を迎え撃つのが山間部における要諦なのは自然な話だろう。

ただ、今はミサイルがあるため、視界良好な場所にまとまると数分後にミサイルの的となるかも知れない。また、「生を視て」という部分がとても分かりづらいが、視界が死ぬの逆と思えば良いのでは無いだろうか?




その2、川辺における軍の要諦




日本でも県の境が川であったりするが、国と国との境もこういう川になる事がある。そのため、川の両岸にお互いが布陣しあう事があり、その時の注意点を孫子が指摘している。ここで問題となるのは、水に足を取られるという事だろう。プールや海に言った時を想像して欲しい。水のなかではスローモーションになったように感じないだろうか?孫子はそれが戦争の邪魔になると指摘している。水嵩が胸まであれば何もできず、腰までなら上半身しか使えない。膝下まででも足を取られるだろう。

ならば、自軍は川を越えたら速やかに川から遠ざかり、敵軍が川を渡ってきたところを撃つのは自然な話だ。水で動きが遅くなるのなら、自軍は水には触らず、敵に一方的に水に触らせる。こう考えて見れば、敵が川を渡りきるまで攻めてはいけない理由も合点がいくだろう。そして、敵が水によるデメリットを最大限受けるポイントが、敵の半数が渡り切った時だと孫子は言う。

考えるに、恐らく逃げられないからでは無いだろうか?川を渡り切った敵から順次倒すというやり方もありそうだが、それでは他の敵が川を引き返して逃げてしまう。相手を一網打尽にするならば、敵の半数が渡り切って、逃げようにも逃げづらいくらい罠にかかった時にというニュアンスかと思われる。川を渡ってきた敵も引き返そうにも、川には味方が沢山いて引き返せないし、川を渡っている途中の敵は動きが遅くなっているのだから、弓兵の良い的である。

水流に逆らうように戦ってはいけないのも同じ理由で、水流に逆らうと物凄く不利となる。敵より川上に布陣し、川下にまわらない事が大切なのは当然の話となる。




その3、湿地における軍の要諦




孫子は湿地には留まってはいけないと指摘しているが、当然だろう。こういう場所で問題となるのが壊疽である。水にぬれた状態が長く続くため、兵の足が指から壊疽し始め、兵が使い物にならなくなる。留まっている場合じゃない。

それでも戦う他ないのなら、条件は敵も同じである。まずは飲料水と馬の飼料となる草を手に入れ、少しでも良い足場を確保するために樹木の根を利用する。恐らくだが、草や樹木の根を直に踏みながら戦うのでは無いだろうか?湿地はぬかるんでいるため、足を取られる。ともすると、落とし穴に落ちるように足がはまる事もあるため、それを防ぐために草や木の根を踏む。このイメージは田んぼで、もし稲くらい強く根をはっているなら、根の部分を踏めば足を取られることは少ない。そういった事を言っている気がする。また、樹木を背にするのは、逃げ道と言う意味もあるだろう。




4、平地における軍の要諦




平地では平らな場所を選んで布陣するのは良いとして、なだらかとはしても、敵に傾斜上の不利益を被らせるという発想は流石である。「前面に死、後面に生」の死と生をどう解釈するかで意味が変わってくるため、2つほど解釈を紹介しておく。

一つは低地は不利を死と言っているという解釈である。平地であるため、なだらかかも知れないが、出来る限り傾斜上も有利なポジションをとる。もう一つは、右背後に高地を逃げ道としてみて生、前面には平ではなく荒地を用意したとして死である。恐らくこの辺を総合して解釈するのが良いのでは無いだろうか?




仕事で考えて見よう。お釈迦様は人をみて法と説けと言われ、誰にでも分かるように説明できる者が知恵者であると唱えたが、孫子が地形によって軍の要諦を分けているのと被らせて把握しておきたい

今もそうかも知れないが、昔は難しく言えるほど知恵者と言われ、簡単な事を難しく言うと有難くなるという風潮があった。誰にでも分かるようでは、有難い事が無いというわけだ。この良し悪しは人によるが、商売をする者にとって此れは致命的な欠点となりえる。

最近はニーズが多用化している。例えば、昔は人気の曲と言えば、誰でも同じ曲を思い描いたが、今はみんなスマホやらで好きな曲を聞いているだけになっているため、人気曲と言っても共通のものがない。昔はヒット曲が時代を象徴したのだが、今は時代を象徴する曲はなくなってしまってるのだ。

こういったニーズが多様化し、みんな個別に好きな事をする時代にあって、難しいから有難いと言っていると極めて狭い領域でしか受けない。今こそ、人を見て法を説く事が大切なのである。商品へのニーズが多様化したとは言え、自社の製品の魅力が伝わっていないからこそ買ってもらえないのだ。ならば、この客層にはこう、この客層にはこうと、孫子の如く営業の要諦も多用化してはどうだろう?そして、勝つべくして勝つ事を狙いたい。


2017年10月21日土曜日

孫子の兵法 九変編その5

5、必死は殺され、必生は虜にさる

孫子曰く。「故に将に五危有り。必死は殺さるべきなり、必生は虜にさるべきなり、忿速は侮らるべきなり、廉潔は辱しめらるべきなり、愛民は煩さるべきなり。およそこの五者は将の過ちなり、兵を用うるの災いなり。軍を覆し将を殺すは必ず五危を以ってす。察せざるべからず。」



【解説】

(実際に抑止力を備えたとして)

孫子曰く。「そこで、将が陥る五つの危険が有る。必死になる者は殺され、必ず生きようとする者は捕虜にされ、短期(忿速)な者は侮辱され、清廉潔白な者は辱めを受け、民を愛する者は民によって煩わされる。およそこの五者が将の犯す過ちであり、兵を用いる際の妨げ(災)となる。軍が壊滅(覆)し、将が殺されるとすれば、必ずこの五つの危険からである。良く察するように。」






前回は抑止力の大切さを孫子は唱えていたが、今回は抑止力は実際に備えたとして、その運用面の問題を指摘していると思えば良い。どんなに高い防御力を誇る城であっても、実際に守りを指揮するのは将軍である。将軍が愚将であれば、勝てる戦も勝てないのだから、将軍の犯す過ちを人間性に焦点をあて紹介している。およそ軍が瓦解し、将が殺される時は以下5つの要素が絡むのだから、しっかり押さえて欲しいと孫子は言っている。



1、必死は殺される

必死になり、全体の流れを見えなくなった様を言っているのだろう。敵を目がけ諸突猛進だけでは、おおよそ戦には勝てない。戦争は勝つべくして勝つものであり、勝敗を決するのは知恵の差である。全体の動きを見て勝てるタイミングを計り、撤退すべきなら撤退する。このバランス感覚に乏しく、命がけでやれば勝てると思っている将軍では殺されるというイメージとなる。



2、必ず生きようとすれば捕虜になる

例えば、攻めろと号令をかけた将軍が、真っ先に逃げ始めた場面をイメージして欲しい。将軍が逃げているのに兵だけが戦う訳はない。兵も一緒になって逃げ出す落ちとなり、将軍は捕まって捕虜になってしまう。

死にたくないという気持ちは、人間だれしも持っている自然な感情だ。それ自体は責められる事ではない。だが、それが強すぎると攻撃自体できなくなるし、結果としてチャンスを逃す羽目にもなる。戦では心の調和が大切なのだ。



3、短気な者は侮辱される

短気な者は、相手の挑発にすぐのってしまう。馬鹿にされようものなら、言わせておけばと出ていく。短期な者は行動が読みやすいため、そこを罠で絡めとられやすい。戦争は騙し合いから始まるのだから、短気は損気なのである。具体的には、城という鉄壁の防御があるのに、挑発されたら城をでて向い撃ちにでかけるようでは、城に防壁がある意味がないというイメージだ。そんな将軍では勝てるものも勝てないだろう。



4、清廉潔白な者は辱めを受ける

清廉潔白にこだわる者というニュアンスだろう。清廉潔白にこだわりすぎると、例えばデマによって名前を貶されると怒り心頭になる。それでは敵の挑発にのって痛い目を見る事になる。清廉潔白と言う日本的には褒められた美徳も、ともすると付け入る隙となる事を知っておきたい。



5、民を愛する者は民により煩わされる

君子は民の存在あってこそ君子なのだから、君子にとって民は大切なものである。民の扱い方一つで国が栄え荒廃する。だが、民を大事にしすぎるのも問題がある。政治一つとっても全員を助けるという事は出来ない。必ず国民同士でも利害が対立するのだから、批判があるたび右往左往しては実務はできないのである。政治は妥協なのだ。

ここ数年の国内外の選挙を見ると、世界中でポッピュリズム批判が盛んに叫ばれたが、ポピュリズムも愛民に煩わされると言えるかも知れない。ポピュリズムという言葉は、大手マスコミで使われるエリート主義の意味では無く、弱者のための政治と言う意味が本来である。そのため、ポピュリズム批判には猛々しい部分もある。

実際、ポピュリズムの何がいけないのか?今、アメリカやヨーロッパでは移民問題で世論が二分されているが、これはポピュリズムの何がいけないのか?と言う人と、ポピュリズムはいけないという人が争っているのである。

そして、この話を戦争の道具として見るのが孫子の兵法である。大抵はポピュリズム批判をする側はお金持ちであり、それに反対するのは庶民である。庶民の意見を採用すれば、お金持ちはいらだちを隠せないが、お金持ちの意見を採用してばかりでは、大多数の庶民の支持を失う。ここが付け入る隙なのである。

例えば、相手の国を乱したければ、貧富の差を拡大させるよう仕向ける。貧富の差が拡大すれば、当然庶民の所得は減り鬱憤もたまるようになっていく。自国のみで物事が完結するならば、力で庶民を抑え込むことも出来るだろう。だが、外国が絡むとそう簡単では無い。つまり、外国が武器やお金を、鬱憤のたまっている庶民に渡したらどうだろう?こうして内乱が扇動される。内乱が起きた時に、外国も一緒に攻めてくれば労せず国を亡ぼす事もできるのだ。

逆も然りである。例えば、庶民の気持を満たすために、ばら撒き政策を推進させるよう仕向ける。ばら撒くと言っても財源が必要だ。では、何処を財源にするか言えば、無い袖は振れないのだから、結局はお金持ちから税金を取るという方向になる。そうすると、お金持ちと庶民の間に溝が出来る事になって行く。何故、自分たちが蓄えた財産を取られねばならないと鬱憤がたまり、庶民にその鬱憤の矛先が向き、庶民が嫌いなお金持ちが増えるのだ。

そして、財産を取られるくらいならと、外国に資産を逃がすのである。国の財産が外国に逃げてしまうのだから、これは国力の衰退を意味する。庶民の気持を満たすために、所謂ポピュリズム政策ばかりすると、国力はやはり衰退するのだ。資産のほとんどを所有するお金もちに、その資産を外国に逃がされてはたまったものでは無い。民主主義の必然とは言え、所謂ポピュリズム政策に偏ると不味いのである。

こう考えてみれば、スイス金融の情報開示から始まったタックスヘイブンへの規制の理由が分かる気がしないか?お金持ちは個人の利益のために資産を逃がすだけであっても、これに外国が絡めば、国力の衰退を計る工作にもなる。こういう駆け引きもあるのだ。

君子の話になってしまったが、将軍でも同じ事である。少数を助けるために、多数を犠牲にするようなことがあってはならない。バランスを見て、調和を重んじるようにという教えとなる。



仕事で考えて見よう。今回は五危と言う事で、こだわりが自分の首を絞める事もあるという話を紹介しよう。こだわりと言う言葉は良い意味で使われる。例えば、こだわりカレーと言われれば一度は食べてみたくもなる。しかし、リピーターが出来るかは別の問題だし、一度は食べてくれても常連になってくれるかは分からない。そして、例えリピーターが出来ても、人が欲する味も変わっていくものである。

例えば、今でこそマグロと言えばトロだが、昔は赤身だった。食事が欧米化したため、マグロと言えばトロのイメージがついたが、これを昭和初期の人間が想像できただろうか?当時の日本人は、トロは脂っこくて食べれないと捨てていた。時代によって人の求める味は変わるのである。それなのに、一度当たった料理を、俺のこだわりだと言って固持したらどうだろう?売れてるなら結構な事だが、売れなくなっても言い張るようでは、店はつぶれるてしまう。こだわりも良し悪しなのだ。

では、どうしたら良いか?勿論、こだわらない事だ。例えば、こだわりのカレーをだす店では無く、こだわった料理を出す店と考えれば、カレーが売れなくなったら他の料理を考えるだろう。靴屋で考えれば、靴屋ではなく自分は商売人と考える。商売人が今は靴を売っていると思えば良いし、自分は商売人だから儲かれば何でも売りますよと考えていれば良い。ちょっとした感覚の差だが、これが後々効いてくるので参考にして欲しい。

これからAI化が進み、企業の寿命も10年前後と短くなっていくと見られている。その中で、どうやったら生き残れるか?それはフットワーク軽く色々なものを売るしかない。あそこの会社は昔は電機屋だったけど、今は健康食品売ってるんだねと、今はコンサルタントに特化してるんだねと、そう言われるように精進するほか無いだろう。こだわりは時には身を助け、時には身を亡ぼす。すべてはバランスの中にある事を再確認したい。


2017年10月19日木曜日

孫子の兵法 九変編その4

4、吾の以って待つ有ることを恃む

孫子曰く。「故に兵を用うるの法、その来たらざるを恃むことなく、吾の以って待つ有ることを恃むなり。その攻めざるを恃むことなく、吾が攻むべからざる所有るを恃むなり。」



【解説】

孫子曰く。「故に用兵では、敵が来ない事に期待(恃む)するのではなく、敵がいつ来ても良い備え(待つ有る)をする(恃む)。敵の攻撃が無い事に期待(恃む)するのではなく、敵が攻撃できないような態勢(攻むべからざる所)を整える(恃む)。」






核による抑止力を考えて見よう。実際どうかはさておき、核保有国同士の戦争は被害が大きすぎるため、戦争にならないと言われているだろう。戦争をして、戦争する前より貧しくなるのでは命を懸けた甲斐が無い。およそ全ての人はそう考えるために、戦争したくないなら、核による抑止力を働かせるのが一番効果的と考えられてきた。そして、この理由から色々な国が核の保有を競ってきたし、これから日本で核保有の議論が再燃しそうなのである。

孫子が言っている内容も、これと同じである。敵が攻めてくるか悩むなら、敵が攻めて来れない状況を作ってしまったほうが良い。ただ、それでも攻めて来て、攻撃を仕掛けるかも知れない。それならば、敵が攻撃を仕掛けられない状況を作っておくのが良いわけだ。文字通り、備えあれば憂い無しである。

そして、これが守りだけでなく、外交上も有利に働く事も知っておきたい。外交で強くでるには、軍事力が大切である。外交上の基本言語は2つしかなく、一つはお金、もう一つは軍事力である。国ごとに文化や常識が異なるため、その中で会話するとなると、お金と軍事力しか現実の交渉の手段は無いのだ。

相手の国より軍事力が勝ると、相手は戦争になったら困ると考えるため、自然と劣位に立つ。例えば、そこをお金という利で釣っていくのである。戦っては負ける相手がお金をくれるとなれば、しょうがいと妥協したくなるのが人情であろう。このように、抑止力は交渉力を担保するのである。孫子は希望的観測を捨て、現実に対応する大切さを説いているが、実はそれが外交力にもつながる。外交力につながれば、戦わずして勝ち安くもなるのである。防御と外交力の両面から抑えて欲しい。

仕事で考えて見よう。寝る前に、明日する事をイメージしておくと良いという話がある。寝る前に明日する事を予習し、ここも大事なポイントだが、良いイメージを作ってから寝る。その日になって何したら良いか考えるくらいなら、寝る前に準備をしておく。こういう一手間が差になったりするものである。

また、午前中は結果出す時間帯で、午後は明日の準備をする時間帯という話がある。午前中は頭の動きが良いとされる時間帯だ。その時にしっかり結果を出し上司の機嫌を取る。では、午後は何をするかと言うと、明日結果を出す準備をするのである。職種によっては、午後に結果がでないと怒られるだろう。だが、すいませんと謝りながら、明日の準備をしておくのである。そういうズル賢さを身に着けると、結果がコンスタントにでるようになり、信頼される人材になるだろう。

2017年10月18日水曜日

孫子の兵法 九変編その3

3、智者の慮は必ず利害に雑う。

孫子曰く。「この故に、智者の慮は必ず利害に雑う。利に雑えて、而して務め信ぶべきなり。害に雑えて、而して患い解くべきなり。この故に、諸侯を屈するものは害を以ってし、諸侯を役するものは業を以ってし、諸侯を趨らすものは利を以ってす。」



【解説】

(臨機応変に対応するとすれば)

孫子曰く。「故に、智者の思慮には必ず利と害が混在(雑)する。利を考える時は害も合わせて考える(雑)ため、当然のように(而して)物事(務め)が上手くいく(信)。害を考える時は利も合わせて考える(雑)から、当然のように(而して)不安(患)が解かれる。この故に、諸外国(諸侯)を屈服させる時は害を強調し、諸外国(諸侯)を使役しようと思えば仕事(業)をつくり、諸外国(諸侯)を奔走(趨)させるには利を強調する。






買い物を想像して欲しい。あれを買ったら、これは買えない。これを買ったら、あれは買えない。どっちを買おうか悩む事がないだろうか?実はこれが孫子が言っている事のイメージである。一方を手に入れるという利は、一方が手に入らないという害ともなる。利害は混在するという訳だ。このイメージを、買い物以外でも当てはまるよう一般化したのが孫子である。以下、これを踏まえて読んで欲しい。

さて、一長一短という言葉の示す通り、良い所ばかりのものもなければ、悪い所ばかりのものもない。どんなものも良い所もあれば、悪い処もある。ならば、両面から物事を捉える事ができるのが智者であると、孫子は説く。

そして、物事を両面から捉えられると、例えば、将来に見込める利益だけでなく、将来に被るであろう損害も同時に考えられる。そのため、将来に損害を被ったとしても、予め想定していたのだから慌てる事は無いし、例え想定外だったとしても、損害だけを被るという事もないのだから、必ず得られた利益を探し出し不安を解消できる。一長一短という言葉を、例え悪いと感じても、必ずや良い処もあると解釈できるのが智者だと、孫子は言うのである。

また、何かをする時、利益ばかり考えたらどうなるだろうか?例えば、博打をする金を借金で賄う人を考えて見よう。彼らは博打で儲ければ良いとお金を借りるのだが、もし博打で負けたらどうなるかは考えていない。博打が必ず勝てるなら博打と言わないわけで、博打は勝てないからこその博打である。大抵は借りた金をすって終わるのが世の常であろう。そして、借金取りに追われ、家まで取られたという例がごまんとあるわけだ。

もし、彼らが金を借りる時に、借金取りに追われる姿を強く想定していたらどうだろう?恐らく自分の身の丈にあった遊び方をしたに違いない。だから、結果として大失敗する事はなく、裏返すと、物事が上手くいくとも言えるのだ。



その1、諸外国を屈服させるには害を強調

最近の例で言えば、例えば、北朝鮮へのアメリカの対話と圧力と言う姿勢も害を強調している。対話に応じなければ、分かってますよね?と迫る事で、相手に害を強く意識させているのだ。ポーカーの国らしい極めて効果的なやり方である。ポーカーでは、相手に降りろとハッタリを嚙ますだろう?ハッタリかどうかわからないからこそ、相手は降りるのだ。

諸外国への中国からの援助もそうである。いう事聞かないなら、借金を返してもらえませんか?と迫るわけだ。最近はベネズエラに、ドル決済を止めて人民元決済に移るよう求めている様子だが、これは借金という害を強調しながらベネズエラに屈服を迫ってるとも言える。



その2、諸外国を使役するには仕事を与える

ここ数年は日本で観光立国という言葉が叫ばれ、駅などの公共機関のアナウンスに英語以外の外国語も加えられているが、これも実は孫子の兵法どおりの展開とも言える。観光客として外国人が多く訪れるようになると、その観光客で商売しようと日本では商売が盛り上がる。これが孫子の言う仕事を与えるという事だ。外国からすれば、自国の民を日本に旅行させることで、日本に仕事を与えている。

しかし、外国人客を見込んで大きく設備投資などをしてしまうと、大きな問題を将来に抱える事になる。例えば、突然、外国人が来なくなったらどうだろう?設備投資をするために、銀行からお金をたくさん借りたのに、その返す当てがなくなってしまう。そうすると、企業を潰さないために、外国に強い交渉が日本から出来なくなるのである。怒らせて渡航禁止にされては観光産業が潰れてしまうからだ。こうなると、観光産業に外国の政府の意向を反映するようになり、つまり、日本の観光産業が外国に使役されたと言える。これを孫子は「諸侯を役するのは業を以ってし」と言っているのである。日本はこういう危機感も持たねばならないだろう。



その3、諸外国を奔走させるには利を強調

例えば、数年前のインドネシアの新幹線受注の話を考えて見よう。結果としては、日本が中国に敗れたわけだが、では実際にインドネシアで新幹線の工事が行われているかと言えば、行われていない。驚いた現実であるが、そもそも何故日本は敗れたのだろう?

それは、日本が数億円もかけて実地調査をしたデータが、賄賂によって中国へ横流しされていたからだ。そして、そのデータを基に中国が話を進めたため、実現性はともかく日本より良い話を提供する事ができた。しかし、これは表面的な理由で、実際は一重に賄賂の問題だろう。東南アジア諸国での取引では、例えば大統領が「で、俺に幾らくれるのか?」と聞いてくるらしい。それを中国は良く知っているため、たんまり賄賂を食わせたわけだ。

日本の常識からすれば、工事を受注しときながら、出来ませんは詐欺にあたるわけだが、何故かそれがインドネシアでは通ってしまっている。中国はインドネシアを利によって奔走させたとも言えるわけだ。勿論、インドネシア側も騙されたわけでは無く、国際情勢における中国と日本の立ち位置を鏡みて、中国に従うべきと判断したのだろう。さらに言えば、騙すことは悪いと感じている日本人が等身大で勝負し、ハッタリでも相手には大きく見せる中国文化に一本とられたと言えるかも知れない。孫子が言うように、物事は如何様にも解釈できるのである。




さて、仕事で考えて見よう。物事は両面から捉えるとはどういう事だろうか?例えば、上司に怒られたとしよう。怒られて嫌という気持ちは分からないでもない。普通はそうだろう。ただ、考えて欲しい事があるのだ。それは、怒られているという事は、まだ目をかけてもらっているという事ではないか?という事だ。目を掛けなくなったら、人は無視するもの。それが、上司はまだ怒っているでは無いか?それに気づけた時、嫌な気持ちは消える。「まだ怒ってくれるのか、有難い」と言える者は、気に入られるしストレスもない。まさに知恵者なのである。

これを孫子は言っている。害があれば、利もあるもの。どちらを見るかで、物事は見え方が変わる。愚者は害のみを意識し、知恵者は利を見て心の不安を取り除く。



2017年10月17日火曜日

孫子の兵法 九変編その2

2、九変の術を知らざる者は・・・。

孫子曰く。「故に将、九変の利に通ずれば、兵を用うるを知る。将、九変の利に通ぜざれば、地形を知るといえども、地の利を得ること能わず。兵を治めて九変の術を知らざれば、五利を知るといえども、人の用を得ること能わず。」



【解説】

孫子曰く。「故に、将が九変の利に通じているならば、兵を用いることが出来よう。逆に、将が九変の利を知らないなら、地形を良く知っていたとしても、地の利を得ることは出来ない。兵を統率(治)すれども臨機応変(九変の術)を知らないなら、五利を知るとも、兵卒の十分な働き(人の用)を得られない。」






九変の利は前回紹介した、沼地には陣は張らない、敵地深くには長く留まらない等の用兵の基本の事である。用兵のマニュアルと言っても良いだろう。つまり、孫子はマニュアルくらいは頭に入れて置けと言っている。こう考えて見れば、よくある話になっただろう。

そして、マニュアルと言う言葉につきものなのが、マニュアル人間という言葉だろう。いつもマニュアル通りにしかできなく、少しでもマニュアルから外れると途端に何もできなくなる。少しは自分で考えろと怒られるのは、新人ではよくある風景である。この事にも孫子は触れているのだ。以下、意訳を見て理解して欲しい。

孫子曰く。「マニュアルを知り、初めて兵を統率する資格がある。マニュアルすら知らぬ者では、地の利が何かすら分かるまい。地形の特性がどう有利に働くかも知らぬ者が、地形を知っていたとして何の役に立とうか。ただ、マニュアルはあくまでマニュアルだ。マニュアルを知っているだけでは、実際は対応出来ない事も多い。その時々、臨機応変に自分で考えられて初めて、兵の力を十分に発揮できると知れ。」

なお、孫子の言う五利は、前回紹介した後半の部分となる。通ってはいけない道、攻撃してはいけない敵、攻めてはならない城、奪ってはならない土地、受けてはならない君命の五つを言っている。この五利をふまえていようとも、臨機応変さが無いならば、兵は活用できないという話となる。

将棋の話を紹介しよう。最近は藤井四段の登場で、将棋をする人が増えたとも耳にする。良い事である。将棋で強くなりたかったら、どうしたら良いか?人によっては定跡を調べたりするだろう。勿論、強くなり方の王道だが、定跡には落とし穴もあるのを知っているだろうか?

定跡を調べるまでは気付かないのだが、調べた後に気づく事がある。それは実戦は全く定跡どおりに進まないという事だ。本に書いてある通りに相手は指してこない。有段者の方は経験があるだろう。誰しも通る道である。将棋で定跡を覚えても、定跡がそのまま使える事は少ない・・・。

孫子の言わんとする事は、つまりそう言う事である。九変、五利を知ろうとも、現場で自分で考えなければ全く役に立たない。九変、五利はあくまで目安なのだから、臨機応変に知恵を絞りなさいと言っているわけだ。

孫子の兵法 九変編

1、君命に受けざる所あり。

孫子曰く。「およそ兵を用いるの法は、将、命を君に受け、軍を合し衆を聚め、圮地には舎ることなく、衢地には交わり合し、絶地には留まることなく、囲地には則ち謀り、死地には則ち戦う。塗に由らざる所あり。軍に撃たざる所あり。城に攻めざる所あり。地に争わざる所あり。君命に受けざる所あり。」



【解説】

孫子曰く。「およそ戦争というものは、将が君主に命をうけ、軍を編制(合)し国民(衆)を集(聚)めるわけだが、沼地や森林などの進軍しにくい場所(圮地)には陣(舎)をはらず、様々な国が行き交う要所(衢地)では外交し、敵地深く進攻した地(絶地)に留まらず、敵に囲まれれば(囲地)謀で対応し、絶対絶命(死地)ならば勇戦する。

道(塗)には通ってはいけない道もあれば、軍には攻撃してはならない敵もいる。城には攻めてはいけない城もあれば、争って奪ってはいけない土地もある。君命とは言え、受けてはならない事もある。」






九変編という事で、まずは九編とは何かについて考えて見よう。九変は文字通り、九つに変化する状況の事を言い、孫子が戦争を大よそ9つに分けたと言う話である。だから結論を言ってしまうと、孫子は将たる者は状況に臨機応変に対応すべしと言っている。では、以下一つ一つ見ていく。



その1、森林や沼と言った進軍しづらい場所(圮地)

こういう場所では陣をはるような真似をしてはいけない。進軍しづらいのだから、攻撃しようにも速やかに攻撃できないし、攻撃されても逃げづらい。森林なれば火攻めの危険もあるし、沼地なら足を取られ弓の良い的となろう。およそ圮地に陣を張って良い事は無いのだ。



その2、様々な国が行き交う交通の要所(衢地)

二国間だけの問題なら、戦火を交えて奪うという選択肢も無いわけでは無いが、三か国以上の国が関わっている交通の要所ともなれば話はそう単純ではない。ある国に攻めた時に、他の国から攻められる事だって普通にあり得るのだ。様々な国の利害が交錯する場所では、外交にて利害を調整しなければならない。少なくとも他国が連合して攻めてくるような状況だけは、絶対に避けねばならないだろう。

およそ衢地では、戦火を交えられないのだから、選択肢は外交に限られる。ならば、外交で他国同士が離反するよう働きかけるのが上策となる。



その3、敵地に深く進攻した場合(絶地)

敵地に深く進攻した場合の、まず浮かぶ問題は補給である。軍は飯を食えている内は元気だが、飯が食えなくなると途端に士気が下がる。餓死するかも知れない不安の中、誰が強く戦えるだろうか?敵地に深く進攻すれば、その分長く伸びた補給路を狙われやすい。そのため、絶地に長くとどまるのは得策では無い。



その4、敵に囲まれた場合(囲地)

貴方が前後左右を囲まれたイメージして欲しい。貴方はどうするだろうか?孫子は、何か謀をし囲まれた状況に逃げ道を作れと言っている。敵と一言に言っても、新兵もいれば、古強者もいよう。防御の厚い場所もあれば、薄い場所もあるはず。そういった敵の状況を冷静に見て、防御網を突破できそうな場所を選び一点突破する。恐らくこういう事を謀と孫子は言ってるのでは無いだろうか?



その5、絶対絶命の場合(死地)

万策つきて絶対絶命と判断するなら、窮鼠とかし勇戦するしかない。降伏という手が無いわけでは無いが、降伏して助かるかは分からない。中国の歴史を見ると、降伏した敵兵を生き埋めにした例まであるのだ。それならば、窮鼠とかしたほうが命を拾うかも知れない。

死地にては、生より死を選んだほうが助かりやすい。こちらが絶対絶命と分かると同じく、敵も優勢または勝勢と認識している。言わば勝ち戦で命を落としたい者などいるわけもなく、そこを相手に強く反撃されると、命欲しさに逃げてしまうのが人情だ。これを武士道では、死ぬことと見つけたりと説明している。



その6、受けてはならない君命

孫子は勝利の条件に、君子が口出しをしない事をあげている。君子は将軍から見れば、軍事の素人である。その君子が口出しをすればどうなるか?およそ将軍が指揮をとったとは思えないミスをする事になる。軍事に関しては、将軍こそ第一人者なのだから、君命にも受けてはならないものはある。

将棋の話を紹介しよう。将棋で複数の棋士が合議によって将棋をさすイベントがあるが、彼らに言わせると、話し合うほど弱くなるのだそうだ。普通は話し合って指したほうが知恵が出て強くなると思うものだが、実際は手に一貫性がなくなり弱くなる。攻め好きな棋士が攻めれていたのに、守り好きの棋士が守ったほうが良いと言うので採用すれば、攻めとも守りとも、どっちともつかない中途半端な将棋になってしまう。結果として、勝率が下がる。プロの棋士同士でさえ弱くなるのに、素人の君子が口を出したらどうなるか?孫子が言わんとする事は、つまりそう言う事だろう。



このように状況に応じて、すべき事は変わってくる。そして、孫子はこう続けている。「通っていけない道もあろう。攻撃してはならない敵もあろう。攻めてはいけない城もあろう。奪ってはならない土地もあろう。受けてはならない君命もあろう。」この世に全く同じ状況など存在しないのだから、その時々の状況を自分の頭で考え、臨機応変に対応しなさいと。

仕事で考えて見よう。九変を今の言葉で言えば、要はTPOだ。髪形はいつも清潔に整っているか?服装はどうだ?靴は汚れていないか?そして、場に即しているか?一見当たり前の事だが、年を取るにつれ厚顔無恥になるもの。最初は頑張っていたけど、今ではとなるのが人間である。意識して直さなくてはならない。

と言うのも、人は見た目で判断されてしまうもの。自分は中身を見て欲しいと願っても、他人は外見でほぼ100%判断する。全身をブランド物で固めていれば、お金もってるんだなとか、社長さんかなと思うだろう?見た目が100%なのである。ただ、特に高い物を着込む必要は全くない。清潔感があれば良く、気を使ってる事が伝われば合格点である。

特に異性の評価では、これが顕著になる。例えば、イケメンだと何故か仕事ができるように見えるものなのだ。人間は結局好きか嫌いかなのだ。自分の好みだと、どうしても採点が甘くなる。中身を見て欲しいと思っても、人は中身はあまり見てくれない。それならば、見た目にこだわるのが得策と言うものだろう。

なお、ブランド物と言っても、新品もあれば中古もある。傷が少しついただけで、数十万の商品が数万になったりする。少しの傷なんて、遠目の他人は誰も気づかないわけで、傷があろうがなかろうが他人の評価は同じである。本当に新品にこだわる必要があるのだろうか?新品が良いと言うこだわりで、損している人が多い事にも触れて置く。


2017年10月16日月曜日

孫子の兵法 軍争編その7

7、窮寇には迫ることなかれ

孫子曰く。「故に兵を用いるの法は、高陵には向かうことなかれ、丘を背にするには逆うことなかれ、佯り北ぐるには従うことなかれ、鋭卒には攻むることなかれ、餌兵には食らうことなかれ、帰師には遏むることなかれ、囲師には必ず闕き、窮寇には迫ることなかれ。これ兵を用うるの法なり。」



【解説】

孫子曰く。「故に用兵に際しては、高い丘(高陵)に陣をはった敵に向かってはならない。丘を背に攻めてくる敵に逆らってはいけない。偽(佯)り逃(北)げる敵に従ってはならない。戦意旺盛な敵(鋭卒)を攻めてはいけない。囮(餌兵)を食らってはいけない。撤退する敵(帰師)を止(遏)めてはいけない。敵を囲う時は必ず逃げ道を用意(闕)し、追い詰められた敵(窮寇)に迫ってはいけない。これが用兵の基本である。」






軍争編その6では、攻めるタイミングについて言及していたが、今回はその逆だ。孫子は攻めてはいけないタイミングについても触れている。理解するポイントは2点あり、一つは如何にコストを減らすかという視点だ。戦争は終われば次の戦争が始まるだけである。永遠に続くのだから、今回の戦争に勝てば良いというだけでなく、次の戦争のためのコスト管理をしっかりしなけばならない。弱ってしまえば、そこを他の国に攻められるだけなのだ。

もう一つは、戦わずして勝つ事を最上とする孫子の兵法において、戦火を交える事は下策と考えられているという事だ。孫子は性格的に智恵によって勝つことを至上としている事を踏まえると良いだろう。以下、箇条書きで一つ一つ見て行く。



その1、高い丘に陣をはった敵に向かってはいけない。

高い丘にいる敵を攻めるには丘を登らねばならないが、登るのは体力を消耗しやすい。そして、高い所にいる敵は石や木など何か大きなものを転がすだけで攻撃できるし、弓などの飛び道具も撃ちやすい。柵などで足を止められたなら、自軍は弓の的となるだけだろう。反面、登る側は弓は届くか分からないし、登り切るまで有効な攻撃手段が無い。高い丘に陣をはった敵には、丘から降りてもらうのが上策なのである。



その2、丘を背にして攻めてくる敵に逆らってはならない。

丘を下ってくる敵と思えば良いのでは無いだろうか?丘を下ると、平地では出せない速度になる。そのスピードに乗った時に真っ向からぶつかっては分が悪いと言うもの。勢いがついた敵とは、勢いがなくなってから戦うのが良い。そのため、敵の真正面に立つのではなく、横に逃げるなり相手の勢いを殺すよう努めるのが自然であろう。勢いがつくイメージが分からない方は、坂道を自転車で走る事をイメージしてもらえればと思う。坂下のスピードの乗った地点で戦うより、止まってから戦ったほうが良いと言うイメージだ。



その3、偽り逃げる敵に従ってはならない。

相手が逃げると追いかけたくなるが、それが偽装の撤退かどうかしっかり見定めねばならないとの戒めとなる。もし偽装だったなら、敵が罠を仕掛けた場所まで追いかける事になり、罠にかかれば恐らく相当な被害を受ける。例えば、森林に敵が逃げた場合、そこには弓兵が潜んでいるかも知れないという事。もし、深く追いかけてしまったなら、無数の弓矢が飛んでくる中を撤退せざる得なくなる。



その4、戦意旺盛な敵と戦ってはいけない。

戦意旺盛な敵は、それだけ準備をしていると受け取れば良いかも知れない。戦争に向けて準備をしてきた敵と戦えば、例え勝てても被害が馬鹿にならない。敵の戦意が旺盛ならば、まずは敵の戦意を挫く事を考えるべきという事。準備している敵ならば、準備自体を全くの無駄としてしまうのが戦巧者と言うものだ。



その5、囮を食らってはいけない。

囮という事は、それ言葉自体が罠を意味するのだから、当然食らってはいけない。例えば、将軍を逃がすために配下の者が囮になる事がある。この場合、囮を食らっていては、大魚である将軍を逃す事になろう。何が囮で、何が大魚であるかを判断する目を養いたい。



その6、撤退する敵を止めてはいけない。

これは例えば、むやみに敵の命を奪っては人情味にかけると言った、孫子の優しさを感じるという解釈も見かけたが、孫子が倫理感を持ち出すとは思えない。撤退する敵の命は許すと言う部分だけを見るから、解釈を間違うのではなかろうか?

孫子が言うのは、恐らく単にコストの問題である。孫子は戦火を交える事は勝っても膨大なコストがかかるのだから、戦火を交える事を下策として捉えている。その孫子がわざわざ撤退する敵と2回戦と言うだろうか?敵が撤退するならば、新たに知恵で勝つ算段を始めるに違いない。戦争は単に勝てば良いのではない。如何にコストを掛けずに勝つかが問われているのである。



その7、敵を囲う時は必ず逃げ道を用意する。

敵の腹を決めさせてはいけない。敵が腹を決めて向かってきては、いらぬ損害をだすことになる。敵には常に逃げ道を用意し、戦うべきか、逃げるべきかを迷うように仕向けるのだ。人は迷いながら強く戦えないものである。強く戦えないのなら、それだけ損害も減ると言う話。そして、逃げ道に罠を仕掛けておくのが戦上手と言うものだ。



その8、追い詰められた敵に迫ってはいけない。

窮鼠、猫を嚙むの格言を言っている。鼠でさえ、追い詰められれば天敵である猫に嚙みつくもの。弱い者でさえ、死を感じれば異常な力を発揮する。相手を窮鼠たらしめるなと言う話となる。あるいは、コストという視点で考えても良い。コストを掛けずに勝には、敵の力を出させないようにするの大切だ。敵が力を出しやすいのが、追い詰められ選択肢が戦う一択になった時という理解でも良いだろう。



最後に、仕事で考えて見よう。何か新しい事をする時は、最初にどこで終わりにするかを決めて置くのも一つの手である。どうやったら達成できるかは、誰でも考える。だが、どうなったら見切りをつけて止めるかまでは気が回らない。孫子が予め攻撃してはならないポイントを定めているように、仕事でも将来の状況を予め想定し、止めるポイントも決めておくと良いかも知れない。

投資で言うと、勝っても負けても5%を基準として終わりにするというやり方がある。このやり方では、不確定な未来に期待してだらだら続けない。投資の失敗は損切が出来ない事による事が多い。ならば、予め資金を回収するタイミングを決めて置けば良いじゃないかという発想だ。プラスであっても、何時かは資金を回収しなければならない事を忘れてはいけない。ならば、回収してまた新たに考えれば良いのである。未来に想定外の事はたくさん起きるもの。例えば、リーマンショック、トランプ大統領の出現等、日本で予測出来ていた人がどれくらいいただろうか?未来を想定できると思うのは、ある種のおごりなのである。

もう一点、部下の怒り方にも触れておこう。部下も大人である。面子をしっかり保ってやらねば、立つ瀬がない。たまに、上司だからと、部下の逃げ道を全て潰してしまう輩がいるが、それでは部下に反感を抱かれるだけである。注意されたし。

楠正成などは、部下が失敗した時に、自分はお前がいい仕事をするのを知っていると言ったと言う。あの仕事をしたお前がどうした事か?と言って、部下を叱咤激励した逸話が残っている。参考までに。


2017年10月14日土曜日

孫子の兵法 軍争編その6

6、気、心、力、変

孫子曰く。「故に三軍は気を奪うべく、将軍は心を奪うべし。この故に朝の気は鋭、昼の気は惰、暮の気は帰。故に善く兵を用いる者は、その鋭気を避けてその惰帰を撃つ。この気を治むるものなり。治を以って乱を待ち、静を以って譁を待つ。これ心を治むるものなり。近きを以って遠きを待ち、佚を以って労を待ち、飽を以って饑を待つ。これ力を治むるものなり。正正の旗を邀うることなく、堂堂の陣を撃つことなし。これ変を治むるものなり。」



【解説】

孫子曰く。「三軍(上・中・下軍)の士気(気)を奪うために、敵将の心の隙を窺うべし。人の士気(気)は朝に鋭く、昼になれば惰れ、暮には尽(帰)きるものだ。故に戦上手は、士気の鋭い時間帯は避け、士気が低い時間帯(惰帰)をもって攻撃する。こうして敵の士気(気)を治めるのである。

万全の態勢(治)を以って敵の乱れを待ち、冷静に敵の心に隙ができる(譁)のを待つ。こうして心理戦を治めるのである。敵の遠征は引き付けて撃ち、敵が疲弊するまで待ち、敵が飢(饑)えるのを見計らう。こうして敵の力を治めるのだ。旗が正正としている軍と戦う事はなく、堂堂と布陣する軍を撃つ事はない。こうして負ける変化を治めるのである。」






結論を言えば、勝ち安きに勝つという話である。どの種の戦いを考えても、相手に全力を出させて良い事は無い。相手が持てる力を出せない時に、あっさり勝つのが勝負の鉄則である。そういう視点から、孫子の言っている事を読み返すと良い。

さて、説明に入ろう。まず考えて欲しい事がある。士気が高い軍と、士気が低い軍があったとして、どちらと戦うべきだろうか?少年漫画の世界では、士気の高い軍と正々堂々と戦うのが良いとされているが、リアルは全く逆である。士気が低い軍とこそ戦い、勝負は楽勝だったと言うのが理想である。士気が高い軍と戦っては粘り強いだろうし、その諦めなさに戦っていて嫌になるだけである。敵の士気が低い事の何と素晴らしい事か。

では、敵の士気が低いのが良いとして、どうしたら敵の士気を低く出来るだろうか?これが問題になるわけだが、孫子はこれを明快に説明している。孫子が言うには、朝昼晩で兵の士気は変わるそうだ。朝は士気が最も高い時間帯で、それが時間がたつにつれ低くなり、日が暮れる頃には士気は尽きる。ならば、士気が高いであろう朝から午前中にかけて戦うのは避け、士気が低くなる昼以降に戦うのが良かろうと言うのだ。

次は心理戦を考えて見るが、敵が冷静沈着で謙虚に構えてる時と、敵が慢心している時や、怒っている時に戦うのとどちらが良いか?勿論、後者が戦いやすい。ならば、敵の心が乱れ隙ができるのを待って戦うのが良いのは当然である。そして、遠征は疲れるのだから、敵には出来るだけ長い距離を遠征させるが良いし、敵の休息が十分では力を発揮されてしまうのだから、敵が疲れたのを見計らって戦うのが良い。食料も十分な時より、飢えている時が心理的な負担も加わり、疲労感が増す。敵の力を如何に制限して、能力を出させないようにするか?これが肝なのである。

こう考えて見れば、隊列が正正とした軍と戦うべきか?堂堂と布陣した軍と戦うべきか?答えは自ずと決まってくると孫子は言っているのである。勝負はやって見なければ分からない。勝つ変化もあれば、負ける変化もあろう。ならば、負ける変化に踏み込まないよう、細心の注意を払うのが名将と言えるのだ。

仕事で言えば、例えば、上司に怒られた時の対処方法を考えて見よう。仕事で怒られるのは致し方無い。上司は怒るのも仕事の内なわけだし、怒られない人もいないのだ。とは言え、時には納得がいかない事もあろう。絶対に自分が正しいはずなのに、上司が間違っているはずなのにと思う時はある。

だが、絶対に上司が怒ってる時に、部下側から反抗してはいけない。たまに反抗して、余計に怒られて上司の愚痴を言う輩がいるのだが、孫子の兵法からは全くなってないのだ。上司が怒ってるとは、言わば上司が刀を出しているという事だ。刀をだしている相手に戦いを挑む奴があるか。戦いを挑むなら刀を鞘に納めた時にすべきだろう。

上司が怒っている時は、ひとまず上司が正しいと素直に認める。それでも、どうしても納得がいかないなら、1週間くらい時間を置くと良い。1週間もすれば上司も怒りは収まっている。その時にあの時の件なんですがと、もう一度話をもっていくのだ。そうすれば、上司は今度は聞く耳を持ってくれる。流石に1週間ごしに同じ話をされたのだ。どうして部下はそんなにこだわるのかと考える。上司も聞く耳を持ってくれるだろう。孫子は相手が万全な態勢ならば、その態勢を避けよと繰り返し説いている。上司とのやり取りの中にも、そういった思考を取り入れると良いだろう。

2017年10月13日金曜日

孫子の兵法 軍争編その5

5、衆を用いるの法

孫子曰く。「軍政に曰く、言えども相聞えず、故に金鼓をつくる。視せども相見えず、故に旌旗をつくる、と。それ金鼓、旌旗は人の耳目を一にする所以なり。人すでに専一なれば、勇者も独り進むことを得ず、怯者も独り退くことを得ず。これ衆を用うるの法なり。故に夜戦に火鼓多く昼戦に旌旗多きは、人の耳目を変うる所以なり。」



【解説】

孫子曰く。「昔の兵法書(軍政)には、戦場では言葉が打ち消され聞こえないために、ドラ(金鼓)を作る。また、戦場ではお互いを視認する事も難しいため、軍旗(旌旗)を作るとある。その理由を考えるに、ドラ(金鼓)や軍旗(旌旗)によって軍全体の耳目が一つになるからであろう。軍全体の耳目が一つになるならば、勇者も独りで突撃する事もないし、怯える者も独り逃げる事はできない。これが大軍を動かす方法である。夜戦では火とドラ(金鼓)を多用し、昼戦では軍旗(旌旗)を多用するのは、軍全体の耳目をまとめる事を意識すればこそなのだ。」






中国の戦争は10万対10万の戦いなため、数万の軍勢を想定して欲しい。同じ軍の中でさえ、味方との距離は数百m、数kmと離れる事になる。この状況の中、遠く離れた味方に、どうしたら命令を伝達できるだろうか?こう問われて、大声を出すとか、身振り手振りで伝えると答える者はいまい。だから、昔の兵法書では、ドラをつかって大きな音をだしたり、大きな軍旗を作って目印にすると書いてあると孫子は説明している。

そして、ドラや軍旗により、指揮官の命令が離れた味方にまで伝わるなら、味方の勝手な行動を阻止する役目も担うようになると言う。命令が伝わらなければ、兵卒は何をして良いか分からない。戦場は命の失うかも知れないと言う極限の緊張感の中にあるのだ。その中、何をして良いかも分からず、ただ立っている事ができようか?憶病な者は逃げ出してしまうに違いない。

逆に功を焦る者もでてくる。戦場には皆報酬を目当てで来ている。位の高い者を倒した者ほど報酬も良いのだから、力に自信のある者は抜け駆けをしたくなる。しかし、こういった個人の勝手な行動は、軍の瓦解を意味する。そうなっては、勝てる戦も勝てぬのだから、ドラや軍旗によって命令の伝達をはっきりさせる事は、軍を瓦解させない意味でも大切なのである。こう考えて見れば、夜戦でかがり火や松明を多用しドラを鳴らす、昼戦で軍旗を掲げる理由も良く分かるのでは無いだろうか?孫子はこれを「耳目を一にする所以」と言っている。

銃火器が発達した今でこそ、10万の人間を集めるような戦いより、少数精鋭のプロフェッショナル集団が尊ばれるが、少し前までは人数こそ強さであった。今は集団をまとめると的が大きくなるため好ましくない。適当に撃っても当たってしまうようになるだけだ。今は人工衛星を目にし、人工衛星から得た情報をチームみんなが共有しながら戦う事ができるが、少し前までは一兵卒に全体の状況を把握する事は出来なかった。今は本国にいながら最前線のチームに直接命令できるが、少し前まではそれは夢のような話であった。

時代はこれからリモート・キリングと呼ばれる、AIを利用した戦争にまで発達を見せようとしている。オフィスにいながらスマホで暗殺用ロボットを動かし、相手を殺す時代になる。こういう劇的な時代変化により、孫子の時代のドラや軍旗の活用方法はそのままでは時代に合わなくなっている。だが、孫子がもたせたドラや軍旗の意義は大変参考になるはず。

命令を速やかに伝える事は、部下を何をしていいか分からない不安から解放する意味を持つ。目的がはっきりしないと、人はうまく動けないもの。だからこそ、上は速やかに状況を分析し、部下に何をして欲しいか伝えねばならない。即断即決とまでは言わないが、日々考えを巡らせ、無意識にも考えるように自分を修練する。そして、できる限り即断即決で適切な指示をだせるよう上の者は精進しなければならないだろう。下の者に不安を与えない。そういった視点で孫子の教えを捉えてはどうだろうか?

仕事で考えて見る。孫子の説くドラや軍旗には2つの意味がある。一つは、命令一下、組織が速やかに動けるように組織をつくる事の大切さ。もう一つは、命令を伝える事が、部下の不安を和らげることを知る事の重要性だ。この2つの視点から、自分のチームを顧みてはどうだろうか?今はネットを利用すれば命令の方法には困らないだろうから、即断即決できるような人間になる事がより大切かと思う。即断即決の秘訣は、常に考えるという姿勢にある。常に考えているという経験の蓄積が、即断即決に確からしさを生むのだ。日々、直観を磨きたいものである。

2017年10月6日金曜日

孫子の兵法 軍争編その4

4、疾きこと風の如し

孫子曰く。「故に疾きこと風のごとく、その徐かなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとく、知りがたきこと陰のごとく、動くこと雷霆のごとし。郷を掠むるには衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて動く。迂直の計を先知する者は勝つ。これ軍争の法なり。」



【解説】

(実際の軍の行動に関して)

孫子曰く。「故にその速度は風を思わせ、静(徐)かならば林を思わせ、侵略(掠)するならば火を思わせる。動かそうにも山のように動かず、情報を得ようにも暗闇(陰)のように分からず、動くなら激しい雷(雷霆)を思わせる。

村落を略奪(掠)する時は軍(衆)から分隊を派遣し、地を広(廓)める時は守備として残る者との間で役割分担(利を分かち)をはっきりさせ、権謀を巡らせ(権を懸けて)動かねばならない。そして、迂直の計で先んじた者が勝つ。これが軍争というものである。」




ここは武田信玄公の風林火山の旗で有名な一説だが、理想的な軍の在り方を自然現象に例えている。その移動は風のごとき速さで、待機している時の静けさと来たら林を思わせる。火が全てを燃やすように略奪したかと思えば、守りに入れば山のように動かない。スパイを送り込んでも暗闇を見るように実態が見えないし、動く時には雷のごとき存在感を見せる。軍はかくありたいものと、孫子は言うのである。

そして、村から物資を略奪し補給の負担を軽減するにも、領地を広めるにも、よく考えてから行動しなくてはならない。軍全体で、例えば10万の兵で村に行く必要はないわけで、10万も連れて行けば動きが大掛かりになるし、つけ入る隙も生じる。主力は敵の動きを牽制しつつ、村には分隊にいかせるのが良い。領地を広げにいく場合も、今持っている領地をいなくなった隙に奪われないように守備隊を置く。そして、仕事が混乱しないよう、領地を広げる役と今ある領地を守る役の役割分担をしっかりするのが良い。

こういった心配りは当然するべきで、何をするにも権謀を巡らせ慎重に判断しなくてはいけない。その上で、迂直の計で先んじる事が軍争の勝利につながる事を肝に銘じよと言うのが、後段の説明となる。

仕事で考えて見よう。武田信玄が風林火山の旗を立て自分を戒めたように、自分なりのチェックポイントを作ると良いかも知れない。会社なら会社のあるべき理想を10か条にまとめる。自分なら自分で日々みなおすべきチェックポイントを10か条にまとめて見る。数字は適当だが、そのチェックポイントを夜寝る前に見直すのは、己を成長させる良い方法である。

初心忘れるべからずと言うが、初心は意識していないと忘れてしまうもの。自分はどういう方向で進むんだったか、チェックポイントとして書き記し日々見直す事で軌道修正する。武田信玄公ですら、自らの旗印に書いていたのである。あやかると思って、常に意識できるようにしたいものである。日々、目標を目にすることで、目標が意識に残る。そうすると、自然と達成しやすくなるのだ。



一日のチェックポイント(具体例)

  1. 誠実に過ごせたか?
  2. 感謝できたか?
  3. 笑顔は忘れなかったか?
  4. 優しい言葉をかけられたか?
  5. 親切にできたか?
  6. 奉仕したか?
  7. 愚痴や、不平不満を言わなかったか?
  8. 傲慢にならなかったか?
  9. 悪口を言わなかったか?
  10. 調和を重んじたか?

孫子の兵法 軍争編その3

3、兵は詐を以って立つ

孫子曰く。「故に諸侯の謀を知らざる者は、予め交わること能わず。山林、険阻、沮沢の形を知らざる者は、軍を行ること能わず。郷導を用いざる者は、地の利を得ること能わず。故に兵は詐を以って立ち、利を以って動き、分合を以って変をなす者なり。」



【解説】

(迂直の計を用いるとして)

孫子曰く。「したがって、諸外国(侯)の謀を知らない者は、予め外交交渉をする事はできない。山林、険しい場所(険阻)、水が邪魔になる場所(阻沢)の形を知らない者は、軍を指揮する事はできない。スパイ(郷道)を用いざる者は、地の利を得る事もできない。軍と言うのは、騙し合い(詐)から始まり、利を求めて動き、分かれたり合わさったり(分合)を繰り返して変化する性質を持つのである。」






軍争を勝つためには迂直の計が大切になる事は先述したとおり。では、実際にどうしたら迂直の計ができるだろうか?こういう話だと思えば良い。結論から言えば、まずは情報を集めよと、孫子は説いている。

考えてもみて欲しい。一言にある国と戦争すると言っても、他の諸外国がその隙に攻めてこないだろうか?傍観してくれるだろうか?これは大きな問題となる。戦争には勝ったが、他の国に攻められて亡国では意味がない。軍争以前の問題として、諸外国の状況を担保しなければ戦争は出来ないのである。

では、どうしたら良いだろう?当然、戦争する前に同盟関係を含め諸外国と交渉する、若しくは諸外国を戦争している場合ではない状況に追い込むという答えになる。そのためには、諸外国の状況を良く知り、人脈も作っておく必要があるのだから、「諸侯の謀を知らぬ者に、予め交わる事は能わず」と孫子は逆で説明しているのだ。また、戦争はあくまで政治の一部なのだから、諸外国の政治上の都合を良く知る事で、相手の軍の狙いも透けて見えてくる。狙いが分かれば、相手を利で釣る事も容易くなる。迂直の計は相手を利で釣るわけだから、こういった情報はとても大切なのだ。

次の説明に入る。まず考えて欲しい事がある。自分の小さな子供が1人で遠くへ行くとき、貴方は何を言うだろうか?孫子もこれと同じ事を言っている。さて、実際に戦地に行く事をイメージして欲しい。戦地に行くのだから、戦地にいくまでの道は整備されているのか?そもそも道はあるのか?山や川はどうだ?時間はどれくらいかかりそうだ?こう言った地理上の事は気になるだろう。

山林、崖などの険しい場所の有無、湿地や川など水が行軍の邪魔となる場所の有無を知らないと、行き当たりばったりになる。遊びならそれも良いが、それで戦地に敵より早く到着するのは無理があるのだから、予め知っておけと言っているのだ。

そして、戦地で地の利を得ようにも、その土地の事に詳しい者がいなくては難しい。これも例えば、引っ越したばかりの時をイメージすれば良い。新居に入ったら、まずは何処に何の店があるのか散歩しながら見たりするはず。要はそんな右も左も分からないのに、地の利も何も無いと言う話だ。だから、戦地では郷道と呼ばれる土地に詳しい者から情報を得て、地の利を得るよう動きなさいと言っているのである。

このように、戦争とは相手を騙す事によって始まり、利を求めて動き、分かれたり合わさったり変化を繰り返す性質があるのだ。利にならない事を進んでする人間もいないのだから、利を求めて動くのは良いとして、最後に分合の部分の説明をしておく。諸外国は自分の利益のために同盟を結んだり、同盟を破棄したりするだろう。実際戦う時を見ても、一部の部隊だけ先行させたり、もしくは少なくなった部隊を他の部隊に吸収させたり、状況に応じて陣形は変化していく。これを孫子は分合と言っているのである。

仕事で考えて見よう。仕事も下準備が大切だ。どれくらい大切かと言えば、下準備が仕事の8割と思って良いのでは無いだろうか?例えば、料理だ。素人が料理でイメージするのは、強火のなか鍋を豪快に振ってる姿となるが、実際はそれで味が決まってるわけでは無い。具は何にして、大きさはどれくらいで切ったのか?下味はついているか?こういった火にくべる前の作業こそが味をきめるのである。鍋を振ると派手だが、焼く時は鍋と接する時間が多いほど焼ける。特に家庭用の弱い火力では、実際は鍋は降らないほうが良いのである。

下準備をしっかりして、誰がやってもできる状態にしてから仕事に入る。おおよそ仕事のコツはこれである。孫子は兵法書という事で、下準備を「詐によって立つ」と騙す事を焦点にして説明しているだ。仕事は下準備で決まる事を思い返したい。

2017年10月4日水曜日

孫子の兵法 軍争編その2

2、百里にして利を争えば・・・。

孫子曰く。「故に軍争は利たり、軍争は危たり。軍を挙げて利を争えば則ち及ばず、軍を委てて利を争えば輜重損てらる。故に甲を巻きて趨り、日夜処らず、道を倍して兼行し、百里にして利を争えば、則ち三将軍を擒にせらる。頸き者は先だち、疲るる者は遅れ、その法、十にして一至る。五十里にして利を争えば、則ち上将軍を蹶す。その法、半ば至る。三十里にして利を争えば、三分の二至る。故に、軍、輜重なければ則亡び、糧食なければ則ち亡び、委積なければ則亡ぶ。」



【解説】

孫子曰く。「故に軍争は利ともなり、ともすれば危ともなる。全軍を挙げて戦地に先着(利)しようとしても及ばないし、全軍は諦(委)めて行ける者だけで先着(利)を目指すなら、輸送部隊(輜重)を捨てねばならない。

故に兜(甲)を脱いで体に巻いて走り、日夜関係なく通常の倍を進み、百里の遠征をして先着(利)を競うなら、上軍、中軍、下軍の三将軍が捕縛(擒)されてしまう。強(頸)き者だけが先を行き、疲れた者から遅れていき、おおよそ到達は一割となるからだ。これが五十里の遠征になると、先鋒隊である上将軍が倒(蹶)れる事になる。この場合、到達は半分となる。三十里の遠征になると、これが三分の二だ。軍は輸送(輜重)がなければ亡ぶし、糧食がなくても亡ぶし、蓄え(委積)が無くても亡ぶのだ。」





迂直の計は、あえて不利な行為をし、利で相手を釣る。そのため、相手が罠と気づいたなら一方的に不利益を被る事となる。軍争は仕掛けた罠に相手がはまれば利益となるが、罠を回避されてしまう危険性もあるのだ。

さて、軍争を具体的に考えて見よう。まず、速度の異なる騎兵、歩兵、輸送兵を戦地に連れて行く事をイメージして欲しい。どうしたら早く戦地に到着できるだろうか?理想的なのは、全ての兵が一緒に戦地に速やかに辿りつける事だ。軍の戦力が損なわれ無いし、戦地で十分に戦う事ができる。

だた、これをすると兵ごとの行軍速度の違いが大きく響く事になる。足の速い騎兵でさえ、足の遅い輸送部隊に速度を合わせなければならないのだ。戦地への先着争いをしている最中に、輸送部隊の速度に全軍の速度を合わせるのは如何なものだろうか?おそらくは敵に先着を許す結果となる。最も遅い輸送部隊の速度で行軍しては、流石に敵の速度に及ぶまい。

では、全軍一緒はひとまず諦めて、速度重視で考えて見る。速度勝負をして、速度で負けてはしょうがない。まずは勝負に勝つ事を念頭におき、騎兵の足の速さを活かしてどうだろう?騎兵の速度なら、敵より早く戦地にたどり着ける。足の遅い輸送部隊は置いて行くしかないが、騎兵だけでも戦地に送れば速度勝負に勝ちやすいではないか。ただ、この場合も、騎兵だけで敵と戦えるのか?という根本的な問題に直面する事になる。軍争で勝っても、その後の戦いで負けてしまっては意味が無いのである。

輸送部隊は軍において非常に重要だ。おおよそ輸送部隊からの補給がない軍は亡ぶ。食料もなく、財貨もなければ、どうして軍を維持できようか?腹がへっては戦は出来ぬのだ。先着したいからと輸送部隊を犠牲にしては、辿り着いても戦えない。しかし、輸送部隊がいては足が遅くて敵の先着を許す。軍争はかくも難しい。そして、孫子はこれをより具体的に論じている。

例えば、100里の遠征をするとしよう。鎧は軽いものにし、日夜問わず通常の倍を行軍し、ひたすら戦地へ向かう。この場合、戦地には早く着くが、辿り着けるのは精々1割となる。軍の中でも強い者だけが到着し、残りは疲れた者から途中で脱落してしまう。1割の兵力で敵と対峙すれば結果は見えていて、上軍、中軍、下軍の3将軍ともに捕まってしまう事だろう。

これが50里の遠征ならば、大分改善され半分は戦地に辿り着ける。だが、半分の兵力で敵と対峙すれば、やはり結果は見えている。先発隊である上将軍は倒れる事になる。さらに30里の遠征とすれば、また改善され3分の2が戦地に辿りつけるが、それでも3分の2の兵をもって敵と対峙せねばならない。

軍争を考えれば足の遅い輸送部隊は省きたいが、輸送なしでは軍が維持できない。このジレンマを解決するのに一番良いのは、敵方に足を止めてもらう事だ。敵の足がとまるなら、此方の速度は関係ない。そして、迂直の計という発想に至るのである。迂直の計自体にも危険はあるが、成功すれば軍争の問題は解決する。よく知恵を絞られたしと、孫子は言っているのである。

将棋の話を紹介しよう。プロの将棋は基本的に定跡と呼ばれる、過去の経験上良しとされている指し方同士の戦いとなる。将棋は徳川家康の時代から家元がいて、その時代から400年あまり研究されてきたのだ。不完全とは言え、勝ちやすいとされる指し方が出来上がっている。

こういった理由からプロ同士の戦いは定跡が自然と多くなるわけだが、定跡は通常は先手良しとして作られている。先手から手番は始まるのに、先手がわざわざ後手良しの手順に踏み込まないと言ったほうが良いかも知れないが。こういった理由から、プロの対局は先手は定跡どおりに指して、後手は定跡通りでは負けるため定跡から外れて指すというパターンになりやすいのだ。

しかし、ここで迂直の計が試される事がある。定跡は絶対ではなく、あくまで過去の経験上は優勢と見られているという事だ。そのため、優勢では無く、実は劣勢なのだと発見する事が出来ると、途端に迂直の計のチャンスとなる。プロ同士の対局なのだから、お互い定跡くらいは知っている。そこで例えば、先手有利とされている形に後手から誘ったらどうだろう?素人なら定跡知らないのかと思うだろうが、プロから見れば大きな誘いに見えるはず。なんせ相手が自分に勝たせてくれるわけが無いのだ。

しかし、先手有利という過去の経験が、孫子の言う利によって鎌首をもたげるのである。先手有利が常識なのだからと、先手は不信に思いながらも踏み込む事だろう。そこで後手は新手をだして、相手をバッサリ斬り捨てるのである。(先手と後手入れ替えても同じ)

将棋の世界では羽生善治永世6冠が、こういった事をして今の地位を築いたと言われ、将棋の解明を100年は縮めたと言われる所以である。今では研究と言う言葉に集約されるこういった行為も、実は孫子の兵法で言う迂直の計なのだ。相手を利によって誘い、そして不利を有利に変える。一見有利に見える定跡どおりの展開は、プロ同士の対局では怖かったりするのである。

仕事の話も紹介しよう。ただ、迂直の計で仲間の力をそぐという話を紹介してもしょうがないので、逆の話を紹介する。昔から出すから入ってくるから出入口とか、喜ばせる者が喜ばされると言われる。情けは人の為ならずという言葉もある。実はこういった言葉は、迂直の計で説明できる。

一見不利だと思われる相手を喜ばせる行為が、最終的には貴方を助ける事になる。不利を有利に変え、そして相手に利を提供して釣っている。迂直の計そのものでは無いか?

2017年10月2日月曜日

孫子の兵法 軍争編

1、迂をもって直となす。

孫子曰く。「およそ兵を用うるの法は、将、命を君に受け、軍を合し衆を聚め、和を交えて舎するに、軍争より難しきはなし。軍争の難きは、迂をもって直となし、患をもって利となすにあり。故にその道を迂にして、これを誘うに利をもってなし、人に遅れて発し、人に先んじて至る。これ迂直の計を知る者なり。」



【解説】

孫子曰く。「およそ戦争というものは、将が君主に命令を受け、軍を編制し兵を集め、一緒に(和を交えて)戦地に向かう(舎する)が、軍争ほど難しい事は無い。軍争の難しさは、迂回をもって近道となし、不利(患)をもって有利とする事にある。故にその道を迂回しながら、利によって敵を誘い、人より遅れて出発しておきながら、人より先に到着する。これが迂直の計を知る者となる。」




およそ戦争というものは、君主から命令を受けた将軍が、軍を編制し国民を徴兵する所から始まる。軍が出来たなら戦地に向かうわけだが、この戦地に辿りつくまでの争いを軍争と言い、この軍争がとても難しい。

戦争が始まれば、先ずは戦地における地の利の奪い合いである。敵に戦地に先着されると、地の利を奪われ不利な戦いを強いられる事になるのだから、此方で地の利を確保し、その後の戦いを有利に展開したい。戦地には敵より早く着きたいのだ。

ただ、ここで問題となるのが、軍は部隊ごとに行軍速度が違うという点だ。軍と一言に言っても、騎兵隊もあれば歩兵隊もあるし、補給物資の輸送隊もある。動きの遅い輸送隊に速度を合わせては、敵に戦地に先着されてしまうが、逆に動きの速い騎兵に合わせては歩兵すらついて行けない。行軍速度の異なるこれらを、戦力を出来るだけ損なう事なく、どれだけ速やかに戦地に到着させられるか。これが将の腕の見せ所であり、軍争を巡る戦いなのだ。

軍争をめぐる戦いの大切なポイントは、行軍中に行軍速度を変えるのは限度があるという事かも知れない。歩兵が足が遅いからと休まずに行軍する事はできても、全員に馬を配れるわけいかない。どうあがいても、歩兵は騎兵にはならないのである。それに、そもそも歩兵には歩兵の利点もある。例えば、地形次第で馬が使えない場所もあろう。平原でこそ騎兵は威力を発揮するが、弓兵が潜みやすい山では大きな的となってしまう。どの部隊も一長一短だ。

では、現状のまま敵より早く着くにはどうしたら良いだろう?これを考えると、結局、敵に足を止めて貰うという発想に至る。敵のスピードが此方より遅くなれば、戦地には此方が早く到着するのだから。そこで、敵の足を遅くするための一計を案じるわけである。こうして出てくるのが迂直の計である。

軍争の難しさは、周り道を近道に変える事にあり、不利を有利に変える事にある。敵に足を止めて欲しいからと言って、そうお願いしても足は止めてくれまい。敵に足を止めて欲しければ、例えばあえて遠回りをして油断させるとか、あえて不利な状況を演出して慢心させる必要がある。ただ、それだけでは心許ないないため、出来た心の隙を利で誘うのである。であればこそ、敵より遅れて出発しておきながら、敵より先んじて着く事ができる。これを周り道(迂)を近道(直)に変えると言うのだ。

迂直の計の大切なポイントは、相手を油断させ、慢心をもって、利に食いつかせるという2段構えである。油断・慢心という心の隙ができても、敵がそのまま行軍しては意味が無い。敵にできた心の隙を利で釣るからこそ、敵は足を止めるのである。逆も同様である。利だけ用意しても、相手が冷静な状態では罠を疑い食いつかないかも知れない。しかし、慢心しているからこそ、欲目がでてくるのが人情である。「分かっていたはずが、つい」この言葉を暗に引き出すのが、迂直の計の本質なのだ。(将軍ならば、迂直の計は知っている)

例えば、政治を考えて見よう。嘘が3つ集まると政治になると言う格言どおり、基本的に政治家は本当の事を言わない。其処ら辺を不審に思う人もいるわけだが、それは何故だろう?下心もさることながら、本当のことを言うと邪魔が入るからである。そのため、政治では迂直の計が多用される。具体的な話は想像にお任せしよう。

次は仕事で考えて見る。仕事では、常に見られている意識を持つ事が大切となる。人は誰かに見られていると思っていれば、足を踏み外さないものである。人が足を踏み外すのは、誰にも見られていないと思えばこそ。誰にも見られていないと思うから、盗みを働いたり、仕事をさぼったり、普段は暴言を吐かない人が暴言を吐いたりするのだ。

一度くらいでは見つからないだろう。でも、一度目があれば2度目もあるもので、結局は癖になるものだ。そして、癖になってしまうと、何時までも隠し通すことはできない。必ず何時かは見つかり、その時、痛いしっぺ返しを受ける事になる。これを、まさかの落とし穴と言う。だから、常に見られてるという意識が大切だ。人が見ていないからではない。人が見ていないからこそである。これは迂直の計を裏から見た話だが、両面から抑えて欲しい。

誰もいない時に、仕事を一生懸命こなしていた。ある時、それを上司が偶然見かけた。それで上司の評価が変わり、チャンスを頂けた。逆も然り。誰もいないからと、仕事をさぼっていた。ある時、それを上司に見られた。こいつは人が見てない時はサボる人間と思われ、信用を失った。これが人情である。



---- 以下、余談 ----

今回は軍争を戦地に辿りつくまでの間と定義したが、文字通り軍が戦う事とする解釈もある。ただ、迂直の計は、敵の油断・慢心を誘い利で釣るという部分が核心であるため、どう定義しても言わんとする事は同じとなる。

軍争の難しさは、相手を油断・慢心させるためにあえて不利を装うが、実際に不利である事には変わりないため、ともすると一方的に不利益を被る事にあるという話に落ち着く。