2018年11月29日木曜日

八佾 第三 3

【その3】

子曰く、人にして不仁ならば、礼を如何いかんせん。

人にして不仁ならば、楽を如何いかんせん。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。

思いやりに欠けた人の礼が、礼と言えるだろうか?

思いやりに欠けた人の楽が、楽と言えるだろうか?



【解説】

形式ばかり追い求め、天子の真似事ばかりしている三桓氏を皮肉ったのだろう。


1、人を見て法を説け

人を見て法を説けと言うように、礼楽も人を見て行う事が肝要で、相手を思いやってこそ礼楽も活きる。例えば、朝の挨拶を考えて見よう。朝はおはようございますが礼儀だが、おはようございますの言い方一つで、相手の気分を良くする事も、害する事もできる。明るい笑顔でにこやかに挨拶すれば相手も気持ち良いが、面倒くさそうに明後日の方向を向きながら挨拶するなら非常に印象が悪いだろう。もし相手への思いやりがあれば後者の挨拶は選ばないし、選べない。故に、思いやりが大切となる。

例えば、朝に聞きたい音楽と言っても、その好みはそれぞれだ。音楽は聞きたくないと言う人もいれば、目を覚ましたいからアップテンポの音楽が良いという人もいる。にもかかわらず、相手の好みも把握せずに音楽を流したらどうなるだろう?音楽は聞きたくない人にはうるさいと思われるだけだし、スローテンポの曲を流すならアップテンポを好む人の好みには合わない。故に、音楽も相手への配慮があって初めて活きる。相手への思いやりが大切なのだ。



2、礼楽は心の所作

そもそも礼は、自分の敬意を相手に伝えるために作られたものだ。そして、楽は礼を引き立てるための音楽である。だから、作られた当初は相手への敬意がある事は当然だったはず。だが、礼楽がマニュアル化されるようになると、この敬意と言う部分が忘れ去られ、単なる形式としてだけ礼楽が行われるようになる。だが、相手への敬意がこもらない形式のみの礼楽では、殺風景で何ら心に訴えるものが無い。だから、心を大切にしろと孔子は言っている。言葉にださずとも、心は相手に伝わるから。

例えば、自分が相手を嫌っていれば、大概は相手も自分を嫌っている。自分が相手を好いていれば、大概は相手も自分を好いている。だから、礼楽の前に、まず自分の心を相手への敬意であふれさせねばならない。そうすると、敬意が相手に伝わり、礼楽が形式のみから本来の姿となる。そして、何故そこまで気を使えるかと言うと、相手への思いやりがあるからである。故に、思いやりに欠ける礼楽は、礼楽ではないとなる。



【参考】

楽は、祭祀で奏でられる音楽と舞の事。



【まとめ】

人は結局、心だ。



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