2018年11月11日日曜日

為政 第二 19

【その19】

哀公がお尋ねになられた。「どうしたら民は心腹してくれるだろうか」と。老先生が答えられた。「真っ直ぐな人物を曲った者達の上に据えるのです。そうすれば民は心腹します。しかし、その逆では心腹いたしません」と。




【解説】

心腹を求めるなら、真心で生きている者を上に据えるのです。そうすればその者が民の不満をよく調整してくれます。民は反抗するより従ったほうが利に適うと考えるようになるでしょう。逆に、真心のない者を上に据えては上手くいきません。下心を見透かされるからです。民は従ったふりをするようになるでしょう。



諸君、人は行為を見るのではない。行為を通して其の者の心を見るのだ。邪な思いは見抜かれるから気をつけなさい。



人は上の者の真似をするもの。しかも、悪い行いほど良く真似る。例えば、上の者が仕事もせずに昼間から女遊びばかりしているなら、下の者は一所懸命に働く事が馬鹿らしくなるだろう。そして、自分も同じ立場になれば女遊びをするのが当然と考えるし、それを咎めるならば何で俺だけと反感を抱かれる。そういう役人の姿を見た民は俺らは俺らでやらせてもらうとなり、心腹からは遠ざかる。



葬儀屋という視点で考えると、亡くなった親族を曲った者の手に任せようと思う者はいまい。当然、真っ直ぐな者のもとで送り出してもらいたいとなる。真っ直ぐな者を挙げねば、民は心腹するはずがない。



役人と言う視点で考えると、民は何かしらの事務処理であったり、陳情があるときに役人を必要とする。となるとその応対が前向きな人が好ましいし、裏表なく接してくれなくては困るし、言動に嘘偽りがあってはもっての外と想像できる。話を素直に聞いてほしいし、もし誤りがあれば謝ってくれたほうが好感が持てる。これらの条件を一言で表すと、真っ直ぐとなる。民の心腹を望むなら、民の要望に適った人物を上に据えるのが望ましい。



木の中にも真っ直ぐな木と曲った木とがある。曲った木も曲がったなりの味わいがあるものだが、使いやすいのは真っ直ぐな木である。人物も同じであろう。計算が立ちやすいほうが気苦労がない。



例えば、上の者が真っ直ぐな人物だったとする。すると、下の者はこういう人間になれば出世できるのかと考えるし、同じ立場にたてば自分も同じように振る舞うようになる。そういう空気感が民の不満を抑える。




さて、真っすぐな人を上に置くべきなのは良いとして、何をもって真っすぐと言うかという問題がある。その答えは勿論、仁義礼智信を備える人間の事となるのだろう。思いやり深く、義務は守り、礼儀を重んじ、道理に通じ、約束をたがえる事が無いような人間ならば真っすぐと言えそうだ。




曲がった人とは何かを考えるに、撃壌歌が参考になるのかも知れない。堯を尊敬していた孔子は撃壌歌にある通り、王の力を農民が感じない事こそ最高の政治と考えていただろう。曲がったという言葉からは、民に積極的に絡み、徴税や高額な賄賂で民を虐めるという意味も感じ取れる。中国には官禍という言葉もある。




真っすぐな者を上にするとしても、現実には上に据えて見なければ、その者が本当に真っすぐか分からないという難点がある。下の者には誘惑が少ないが、上になれば誘惑される事も多くなる。そこで曲がらずに真っすぐいられるかは、実際にその場になって見なければ何とも言えない。権力を持った途端に人が変わると言うのはある話だ。



哀公の哀は若くして亡くなったと言う意味で、孔子が58歳の時に即位した君主。枉は道理を無理に曲げると言う意味。錯は交えると言う意味だが、単に置くと理解する。なお、曲った木の上に、真っすぐな木を重しとしてのせ、矯正するとの説もある。





【まとめ】

役目はお預かりするもの






------  仏教の立場からの考察  ------

人間まずは腰骨を立てなくてはいけないという座禅の基本を思い出す。



直 = 無心

枉 = 思考


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