2018年12月4日火曜日

八佾 第三 4

【その4】

林放りんぽう礼の本を問う。子曰く、大いなるかな問いや。礼を其の奢らんよりは、むしろ倹せよ。そうは其のおさまらんよりは、むしいためよ、と。



【口語訳】

林放が礼の根本を尋ねた。孔子が答える。良い質問だ。儀礼は贅沢に飾るより、むしろ倹約したほうが良い。喪礼はおだやかに執り行われるより、むしろ深い悲しみがあったほうが良い。



【解説】

例えば、握手は代表的な儀礼だが、握手をする手が色とりどりの宝石で飾られていたら相手はどう思うだろう。親愛の証としての握手なのか、宝石を見せびらかすための握手なのか困惑させるかも知れない。ならば、宝石などで飾らず、むしろ素の手で握手したほうが誤解なく親愛の情が伝わる。故に、贅沢に飾るより、むしろ倹約が良いとなる。

例えば、葬式の祭、普段と変わらない調子だったらどう思われるだろう。人が死んだのに悲しんでもないのかと思われるに違いない。そして、中国では死人は地下の世界で生きている事になっているのだから、悲しまない事は死人のあらぬ誤解を招き祟られる恐れもある。故に、おだやかに行うより、むしろ悲しむが良いとなる。

林放は礼の根本を尋ねたわけだから、その答えは当然心となる。そもそも礼は、心を表現するために行われるのだから根本は心なのである。だから、孔子の言葉に、心が見えづらくなるからと言葉を足すと分かりやすい。儀礼を贅沢に飾ると、贅沢さに目がいき心が見えづらくなるから、倹約したほうが良い。喪礼がおだやかに行われれば、悲しみがあるはずの喪礼で悲しんでいないように見えるため、むしろ深い悲しみがあったほうが良い。



1、立派な官僚(君子)として

孔子の目指していた官僚の視点で考えて見る。官僚の世界で儀礼を贅沢に飾るとは、先輩官僚もしくは上役に目をつけられるという事だ。そう考えて見れば、何故孔子が儀礼は贅沢よりも倹約と言うかもスッキリする。官僚にとっての儀礼は、目上に一歩下がって合わせるべきもので、飾って自己を主張するようなものでは無い。例えば、歩く順番を間違っただけで、偉い騒ぎなのだから。

喪礼に際しては、例えば、父親の死に際して悲しむ様子が見て取れないならば孝行を疑われるだろう。孝行を疑われる事は反社会的を意味するのだから、王の謀反への猜疑心に火をつけかねない。それが他人の喪礼であれば、死を悲しんだ様子がなければ何と思われても仕方ない。悲しむべき時は悲しむが良いのである。



【参考】

1、林放は魯の人というだけで、孔子の弟子であったかは不明。

2、奢は過度に立派にする事、倹は無駄を省き倹約する事。

3、易の訳には議論があり、おだやかと訳す他に儀式が整うと訳す場合もある。この場合、葬儀が滞りなく進むより、多少の齟齬そごがあったほうが悲しんでいる様子が伝わって良いと訳す。

4、戚には親戚と言うように身うちと言う意味もあるが、今回は葬儀の話をしているので死事哀戚の戚として、深い悲しみという意味。



【まとめ】

見栄を張ると、大概は失敗する。

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