2016年3月31日木曜日

指導とは何か

あなたは指導者になっているだろうか?

管理者になっていないだろうか?

指導という文字は、指で行先を示し導くと書く。

もし、あなたがまとめ役なら、指導という文字が指針になるかも知れない。




2016年3月30日水曜日

何事も遊びの感覚で

仕事は遊び感覚でするのが良いという話がある。仕事はつまらないもの、我慢してすべきものと言ったイメージが強くあると、楽しめるわけないと考えがちだが、ちょっと考えてみて欲しい。遊びと仕事の差って何だろう?自分が思うに、遊びは自分のやりたい事をやっているから楽しい。仕事は言われた事をするだけなので楽しくない。こんな処では無いか?

もしそうなら、仕事で自分のやりたい事が出来れば、仕事は遊びになると言えよう。仕事がつまらないと感じるなら、その仕事にやりたい事を作り出せていないだけとも言える。豊臣秀吉の逸話を紹介しよう。彼は言った。草履取りなどつまらないという輩がいる。自分に言わせれば、どんな仕事でも一番を目指して打ち込めばつまらない仕事などない。つまらないと言うなら、お前が真摯に仕事してないだけだ。こんな感じの事を彼は言っている。

人はつまらないと思った時、ブレーキを踏みがちだ。つまらないから、もう辞めよう、耐えようと。しかし、それは自己コントロールの手段としてお薦め出来ない。もし、つまらないと感じてしまったなら、その時はアクセルを踏め。つまらないからこそ一生懸命を心がけるのだ。そうすると、その仕事の習熟度が上がり、自然と自分なりのやりたい事が出来てくる。やりたい事が出来れば、今度はポジティブな視点から仕事を見る事ができるはずだ。そして、いつの間にか遊びと仕事の境界線がなくなっている事に気づくだろう。

何事も遊びの感覚が良い。遊びには自由な発想がある。ストレスもない。周りから見てても楽しげで、つい近寄りたくなる。何事も遊びにするコツは、一生懸命やる事。この際、自分からブレーキを外し、アクセルのみにしてしまわないか?

2016年3月29日火曜日

掃除は心の整頓

悩みがある時や、心が悶々とする時は部屋の掃除をすると良いという話がある。実際やって見ると、確かに心が穏やかになるように思う。自己コントロールの方法の一つとして覚えておいて損は無いと言うのが個人的な見解だ。

掃除するだけなのだし、何も疑問に持たずに試してみれば良いのだが、一応自分なりにその理由を考えてみる。なぜ部屋を掃除すると、心が穏やかになるのだろう?恐らくだが、脳みそが錯覚を起こすのでは無いだろうか?脳みそ単位では1人称と2人称が判断つかないように、部屋の整理は脳みそ単位では部屋が抜け落ち整理とだけ認識され、心を整理していると錯覚を起こしている気がする。心を整理したい時に実際に部屋等を整理すると、錯覚から心にも効果があるのではないだろうか?

後は、達成感か。人間は何かを達成した時に充実感を得るように思う。部屋の掃除とは言え、部屋の掃除という目標があり、それが達成されれば心にはやり切った感がでる。その時、心は一時的とはいえポジティブになり、ネガティブにしか捉えられなかった悩みを、ポジティブな視点から捉えなおす事ができるというのはどうだろうか?

脱線したが、何はともあれ、心に悩みには部屋の掃除をどうぞ。

2016年3月28日月曜日

車が走るに必要なもの

本田宗一郎がある記者にした質問を紹介したい。彼は走るはアクセル、止まるはブレーキで良いか?と尋ねたそうだ。記者はその質問に深く考えずに、そうですと答えたそうな。そうしたら、本田宗一郎が言ったそうだ。俺の車からブレーキをはずして乗せてやるから走ってこいと。そう言われて、記者はハッとしたそうだ。車が走るにしてもブレーキがないと止まれないじゃないかと。駐車する時などを考えれば、アクセルもブレーキも必要になる。

自分の第一感はトンチだったのかだ。この質問で本田宗一郎が何を言いたかったのかは分からないが、ブレーキについて自分なりにトンチに付き合ってみる。

車が止まるに必要なものは、地面に斜度がないならアクセルである。平坦な道を想定した上で止まると表現したからには、走っている事が最低限必要であろうから、まずは走るためのアクセルが必要だ。そこで、止まるためにブレーキが必要になるかは状況次第であろう。例えば、広い空き地のような場所ならば、車が自然に止まるのを待てば良いため、必ずブレーキが必要になるとは限らない。もし、駐車場に駐車するような状況を想定するなら、ブレーキは必須と言える。住宅地を走行するのであればブレーキは必要だろうが、もし住宅自体を動かせるなら、必ずしもブレーキが必要とはならない。したがって、どの状況でも車が止まるのに必要なものと言われればアクセルと答えたい。あくまで、平坦な道でブレーキとアクセルの2つのみで比較するならばだが。

走ると言えばアクセルだけを想定してしまいがちだが、走ればその後止まる必要がでてくるまで想定しているところに彼の個性が垣間見えてるのかも知れない。本田宗一郎的には、なんと答えられれば100点だったのか興味深い。こう考えてみると、この質問は車が走るとは?という哲学的な問だったのかも知れない。

2016年3月27日日曜日

感謝というテクニック

あなたは日々の生活に感謝しているだろうか?もし、感謝していないなら、ありがとうを口癖にすることをお薦めしたい。一応断っておくが、何か怪しい宗教の勧誘をしているわけではない。単に感謝という自己コントロールのテクニックを紹介したい。この方法は、特にネガティブな時に絶大な効果を発揮するので試してほしい。

例えば、上司に怒られた。何で自分を怒るんだ?憂さ晴らしかと思うのと、自分に目をかけてくれるのか、ありがたいと思うのでは大分違う。上司から見た目線も違うし、何より自分の心が前に向いているのが大きい。気付きにくい事だが、感謝するとストレスフリーになってしまう。

例えば、何かの事故にあって大ケガをしたとしよう。その時に何で俺がこんな目に合わないといけないんだと考えれば、事故はとても憂鬱な出来事になろう。でも、事故にあったのが自分で良かった。もし家族の誰かが事故にあっていたら大変だったと考えられたら、事故は幸せな出来事になる。

分かるだろうか?どんな事であれ、自分の解釈一つで幸せにもなるし、不幸せにもできる。そこを逆用してはどうだろうか?というのが、この記事で伝えたい事だ。感謝するには、感謝に足る理由を探さざるを得ない。その理由が見つかった時、ネガティブだった心がポジティブに変わることを実感できるはずだ。生きる上でストレスとどう付き合うかという視点は欠く事ができない。そのストレスを究極的にはゼロに出来うるテクニックとして、感謝という一石を投じてみる。これは難しい事じゃない。きついと思ったら、考えようによっては有難い事なんじゃないか?と考える癖をつけるだけ。



2016年3月26日土曜日

求められるエリート像

大前研一によれば、求められるエリート像が変わったという。ひと昔前は歩く百科事典のような人がエリートだった。何でも知っていて、正確に答えられる。この人に聞けばなんでも知っている的な人だ。今、そういう人材がエリートじゃないわけでは無いと思う。ただ、インターネットの登場により、たいていの事はインターネットで検索すれば事足りる時代になってしまった。今はあの人に聞かなくても検索すれば分かる時代なのだ。

彼が孫と留学について話す機会があったそうだ。本来なら年の功が活き、孫を言いくるめられるはずだったが、逆に孫があまりに良く調べているので舌を巻いてしまったとか。今は年齢による経験値は通用しなくなったと語っていた気がする。

では、今求められるエリート像とは何か?昔のように何でも知っているという能力はインターネットにとって変わられたのだから、勿論それらの情報を活用して新しいことを創造する能力を持つ者となる。子供の個性を伸ばすのが大事と言われて久しいが、いよいよ個人のユニークさで勝負する時代になったと言えるのかも知れない。この流れはインターネットが戦争か何かで利用不可にならない限り加速するはずだ。

これからTPPで世界はよりボーダーレスになる。創造性のない仕事はより安い海外の人材に流れ、近未来ではロボットがするようになるだろう。そういう時代に生きていることを意識したい。

2016年3月25日金曜日

2度目のチャンスをあげろ

エジソンは電球を完成させるために5000回以上の失敗をしたという話がある。彼は実験失敗を、このやり方ではできない事がわかったという成功と言って有名なわけだが、注目すべきは彼の成功は数限りない失敗の上に成り立っているという点だ。

ケンタッキーで有名なカーネルサンダースも、最初から成功をおさめた訳ではない。彼が成功するのは65歳を超えてからで、若いときは職を転々とし、店の経営をすれば失敗の憂き目にあい無一文に。その時、彼に残されていたのが美味しいフライドチキンのレシピだけだったので、店の経営は他の人に任せてレシピを売ろうと思いついた。それが功を奏し成功に至ったそうだ。

この例に限らず、成功者は失敗も数多くしているようで、下手な鉄砲も数打てば当たる的なところがある。失敗から多くの事を学び、成功に至るのであろう。失敗ほど人を成長させるものは無い的な事は色々な人が言っているように思う。

さて、本題だ。一度失敗したら二度目のチャンスを上げないという話がある。真剣勝負に二度目は無いと言ったポリシーなのだろう。しかし、過去の成功者の例を見ても分かるように、成功者は基本的に失敗者でもある。無傷のまま成功に至るのは難しいため、失敗が許されない環境は、つまりは成功を放棄する環境になろう。これだけでも十分危機的だが、できる人間ほど新しい事に挑戦したがるため事態はさらに深刻だ。

二度目のチャンスを上げないと、できる人間から新しいことに挑戦し、失敗していなくなってしまう。残る人間は新しい事に挑戦できない二番手、三番手の人間になるわけだから、組織としては大きな痛手と言える。ひと昔前のように、事業の寿命が数十年と長かった時代なら良かった。言われた事だけをする人間のほうが問題にもならない。だが、今は事業の寿命は5年前後とも言われる時代だ。こういう時代にあっては、新しい事に率先して挑戦していく人材こそ求められよう。5年後には新しい事をしなければ組織は存続できないのだ。2度と言わず、何度でも挑戦させてやるくらいの度量が組織に求められているように思う。


2016年3月24日木曜日

叱る一に、褒める七

船井幸雄によれば、叱るが一に対し、褒めるが七くらいが調度良いと言う。彼の何十年にもなるコンサルタント経験からの実感だそうだ。部下を持つようになれば、どうやったら彼らが一生懸命やってくれるか悩むわけだが、この叱る一に褒める七という指針は分かりやすいように思う。

部下は褒めろとは良く言われる話だ。部下を褒めると調子に乗ってしまい、言うことを聞かなくなる恐れもあるが、そこを叱って修正していくのが上司の腕の見せ所になる。上司になったとは言え、部下が仕事しないのでは成果が上がらない。成果があがるのは部下のお陰なのだし、部下には気持よく働いてもらおうくらいの気持が大切だ。どんな部下だって上司に気に入られたいと思っている。その気持ちを汲んでやれるかどうかも上司の力量というものだ。

山本五十六の名言を紹介しよう。やって見せ、言って聞かせ、させてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ。人を動かす要諦は褒める事。今、部下に悩みを抱えているなら、最初は機械的で良い。一度叱ったら、七回褒めるを徹底すると何か変わるかも知れない。褒めて信頼関係を作らないと、叱っても五月蝿いと思われるだけだよと言っておこう。

余談だが、叱って育てないと人間が弱くなってしまう。本当に強い人間というのは、叱られても伸びてくるのだし、叱られて潰れてしまうようでは、重要なポジションを任せてもプレッシャーに負けて潰れてしまう。自然の世界をみろ。厳しい環境で育っている動物のほうがたくましい。こういう考え方も存在して、現実にはどちらが正しいかは分からないため、アンチテーゼとしてあげておく。部下の立場なら、叱られる理由をこう考えられれば可愛がられるはずだ。

2016年3月23日水曜日

何でも一番になれ

何でも一番を目指すという話がある。例えば、挨拶をする時に一番気持ちいい挨拶をしようと考える。そうすると、どう挨拶すれば一番になれるか考える必要がでてくる。本当に一番良い挨拶ができるかより、この考えるというプロセスが重要だ。普段は何でもない挨拶が、一番を目指すだけで変わるのだ。

例えば、勉強だ。テストで一番になると考えれば、わからない問題があっても、これが分からないようでは一番にはなれないとなる。普段は分からないから良いやとなるところでも、一番になると思えばそう流すわけにもいかない。結果、妥協が少なくなり、妥協癖がなくなっていく。一番になると考えるだけで、物事への取り組み方が変わる。

最後に豊臣秀吉の逸話を紹介する。草履取りの時は一番の草履取りになろうとし、侍大将の時は一番の侍大将になろうとした。そして最後は天下人となった。

2016年3月22日火曜日

挨拶を磨け

画家の村上隆は、自分の弟子、生徒等に一番最初に教えることは挨拶だと言う。彼に言わせれば、画家に大切なのは挨拶なのだそうだ。画家で重要なものと問われれば、絵のユニークさを思い浮かべがちになる。でも、いくら独創的で素晴らしい絵を書いても、それを世間様が認めてくれなければ生活の足しにはならないのだから、画家として生きていく以上は、誰かに引き立ててもらえるような技術こそ必要なのだとか。そこで大切になってくるのが挨拶だと彼は言う。

挨拶もできない奴は駄目とは良く言われる話だ。実感がわかない人は、単純に自分に挨拶してくる人間と挨拶がない人間、どちらを気に入るかと言いかえれば分かりやすいだろうか?みんなが挨拶しているから自分は挨拶しないというのもやり方だが、このやり方を面白いと思ってくれる酔狂な人は少ないと思う。それならば、みんながする挨拶にひと手間かけて目立ったほうが賢いというものだ。

人間は最終的には好きか嫌いかだ。同じ失敗をしても好きならしょうがないとなるし、嫌いならふざけるなとなる。挨拶で相手から好きを引き出せたら、どんなに素晴らしいだろう。余談だが、みんなが挨拶してるときに挨拶せず、注目を集めておきながら、素晴らしい挨拶で返すというのもたまには面白いかも知れない。

挨拶ができないのではなく、挨拶するしないを使い分けられる人間が良い。素晴らしい挨拶技術さえ持っているなら、挨拶せずも礼儀知らずではなく一つの趣向となる。逆にムッとしてしまった相手は、その後くるあなたの挨拶にまいってしまうだろう。ただ、普通の挨拶では逆効果だから気を付けてほしい。

2016年3月21日月曜日

人の見ていない時こそ見せ場

人の見ているところだけ張り切る輩が多い。だから、人の目線のある中で人物評価をすると騙されるかも知れない。人が見ていないところでは、その人本来の姿が出る。だから、熟練者は人の見ていない時に、その人が何をしているかを見るという話がある。

かの有名なオードリー・ヘプバーンはローマ休日で一躍有名になったが、ヒロインに抜擢された理由はオーディション後の笑顔が素敵だったからだそうだ。驚いた事に、オーディションを受けさせておきながら、オーディションでは合否を決定していなかったのだ。ハリウッドのプロ中のプロの映画監督からすれば、演技などというものは自分が指導すればどうとでもなる。それより、演技じゃない女優本来の素の美しさを知りたいと言ったところなのだろう。

人の見ている時を見せ場として勘違いしていまいがちだ。人の見ていない処はサボってもばれないと。しかし、人の見ていない時に何をしているかこそ見られている事を知らなければならない。いつだって見られている意識で行動せよ、人の見ていない時こそ見せ場なのだ。

2016年3月20日日曜日

自分の話を最初に聞いてくれる人

読者も悲しいとき、楽しいときに誰かに話し、その悲しみを紛らわしたり、楽しかった思い出をより鮮明にした経験があるだろう。自分などは失敗した経験や、辛かったことをネタにして話すのが好きだ。誰に話そうかと考えて思い浮かぶ人はその話の内容によって変わってしまうが、どんな話題の時だって一番最初にその話を聞いてくれる人は決まっている。そういう人を大切にしなければいけないよと話を進めても良いのだが、それはまたの機会にするとして、自分の話を最初に聞くのは自分自身という話を紹介したい。

自分の話を最初に聞くのは自分自身という話がある。人間はその構造上、話した言葉を最初に自分の耳で受け取る。これは見落としがちだが、例えば誰かに愚痴をこぼすと、それは自分に愚痴をこぼしている事となる。誰かの愚痴は聞いた経験があれば、それを聞くのが大変な事は想像つくと思うが、実は愚痴を吐いている本人は、愚痴を吐くと同時に愚痴の聞き役に回っている事になるのだ。そのため、愚痴を言えば言うほどに、自分に愚痴という暗示をかけていることになり、愚痴を言って気持を紛らわすつもりが、逆に調子が悪くなるなんてことも起きる。誰かに愚痴を言ってスッキリすると言った話も見かけるが、愚痴を聞いてるのは自分自身という話も覚えておきたい。

誰しも誰々は嫌いだと言った経験くらいはあるだろう。でも、こういうネガティブな言葉は言わないほうが良い。脳みそはその仕組み上、相手と自分の区別をつけられないのだとか。誰々が嫌いと言ったはずなのに、脳みそ単位では自分を嫌いと言っているのと同義になるそうだ。あまりに嫌いと言いすぎると、自分が相当に嫌われている人間として脳みそには認識されてしまう。ネガティブな言葉は言われたほうも、言うほうも大きなダメージを負いかねない危険な行為なのだ。

逆に、誰々がすごいとかほめる等、ポジティブな言葉を多く話すようにするとどうなるだろうか?脳みそがどう認識してくれるか懸命な読者なら想像に容易いことと思う。周りを褒めれば、周りは幸せだ。でも、実のところ、脳みそ単位では自分をほめてる事にもなる。褒めて褒めて褒めまくれ。基本的に良いことしかない。

2016年3月19日土曜日

負けに不思議の負けなし、勝ちに不思議の勝あり

この言葉は、江戸時代の松浦静山という剣術家の名言だそうだ。それを野球の野村克也がとりあげた事で有名になったとか。負けた理由を探せば必ずあり、勝てた理由は天の助けがあったとしか思えない時があると言う意味で、負けた時はそのままにせず、その理由をよく研究して次に活かせといった戒めとして紹介される。

かくありたいものだが、将棋棋士の米長邦雄によれば、それでは足りないのだとか。勝負師なら誰でも負けた対局は研究すると言う。だが、勝った対局を研究しない棋士が多い。彼に言わせれば、勝った対局も深く研究し、なぜ勝てたのかを考えるのが大切と言っていた気がする。勝負には人間の及ばない領域があり、実力が拮抗する相手ともなれば勝利の女神がほほ笑むかどうかで勝敗が決する。どうやったら女神に気に入られるか、女神の喜ばせ方を学ばねばならないと書けば、米長邦雄らしいか。

余談だが、彼によれば勝利の女神は笑いと謙虚が好物だそうだ。ここ、テストに出ます。

世界は鏡のようなものである。

世界は鏡のようなものだと言う話がある。不思議なもので、自分が悲しいときは世界は悲しく映るし、自分が楽しければ世界は晴れやかに見える。まるで世界は自分の心情をあらわす鏡だというのだ。そう言われて見れば思い当たる節くらいはあるのでは無いだろうか?

相手の顔は自分の顔。相手が怒っているなら、自分の顔が怒っている。相手の顔が強張っているなら、自分の顔が強張っている。そういう事が多いそうだ。相手が笑っていたり、リラックスしている時は気にする必要がないかも知れないが、相手に何かしら不快な色が見えるときは、自分をチェックするきっかけと心がけたい。


2016年3月18日金曜日

自然と友達になる。

自然と友達になると言えば、漫画やアニメの主人公のお約束的な印象で、所詮はフィクションの話と思っていた。だけど、今は実際に友達になろうとしてみる価値があると考えている。そもそも、何故自然と友達になれないと考えてしまうのか?その根幹を考えてみれば、おそらくは自然とは会話ができないという事につきるのでは無いだろうか?言葉を交わせないため、自然にも心があると言うことを見落としてしまうのだ。

アメリカだったか、どこの国かは忘れたが、木の葉に嘘発見器を付けた人がいたそうだ。嘘発見器は感情が刺激されたときの電気信号を図るものだったそうだが、驚いたことに木を燃やすと心の中で考えただけで、嘘発見器に反応がでたとかなんとか。さらには、心の中では燃やすと考えず、言葉でだけ燃やすぞと言った場合は嘘発見器には反応がでないとか。これは、自然には心がないわけではなく、人間がそう誤認している可能性を示唆している。人間側が自然の気持をくみ取れないだけで、自然側は人間の気持を察しているかも知れないのだ。

そこでなのだが、もし自然には人間の知覚できない力なりがあって、人間を助けてくれる場合があったとしたらどうだろう?現段階では、半信半疑をとおりこして面白半分の話だが、人間は自然に生かされているとは昔から言われている話でもあるし、自然と友達になる努力をしてみる価値もあるように思う。もし、自然にはそういう力はなかったとしても、それはそれでマイナスになる事もないだろうし、試す価値を感じている。自然が自分の友達になってくれたらワクワクしないか?


2016年3月17日木曜日

受けた恩を忘れるな、売った恩は忘れろ。

恩という言葉が適切かどうかはさておき、人はひとりでは生きていない以上、誰かとの間に恩のやりとりが生じる。そこで重要な心構えがあるなら、受けた恩を忘れずに、売った恩を忘れることだろうと思う。これは、田中角栄の借りた金を忘れるな、貸した金を忘れろを自分なりに拡張した言葉になるが、至言ではないだろうか?

受けた恩を忘れるなは特に重要だ。人間は受ける時よりも、与えたときの印象が強く残る傾向があるため、受けた恩を忘れてしまうと恩知らずという烙印を押されてしまい安い。逆に売った恩のほうは忘れないといけない。相手が恩を返してくれないと考えてしまうようだと、催促して恩着せがましいとなる。恩の押し売りは格好悪い。売った恩は言われて思い出すくらいで調度よい加減なのだ。

例えば、食事をおごってもらったという極ありふれた場面を考えてみよう。食事をおごった側は、普通は特別な見返りを求めているわけでも無いし、相手が後輩や異性ならいい格好を見せたいだけの時もあるだろう。だから、おごった側は覚えてくれてるだけで嬉しい。食事をおごってもらったら2回はありがとうを伝えるべきで、食事の会計がすんだすぐ後に1回、そして次の日にメールで、もしくは後日会ったときの最初の挨拶でありがとうと伝えるのが良いとされる。2回目のありがとうは、恩を忘れていないと相手に伝えていると解釈して良いだろう。

自分は渡世人ではないが、一宿一飯の恩という言葉は感慨深い。人間という生き物の性質を良く捉えた言葉だと思う。

利他の人

利他であることは大切らしい。

アメリカのジョンロックフェラーによると、自分のためではなく、人のためにすることが成功の秘訣と言っている。中国の客家では運は親切をした人の背中からやってくると言う。あるトップセールスの話によれば、売ろうとしてるうちは駄目だそうだ。お客のためを思って行動していれば、売らなくても買ってくれるもんさと。日本でも情けは人の為ならずと言うし、これだけを持って言うのもおこがましいのだが、古今東西、国の内外を問わず利他の重要性はおおよそ証明されているように思う。

誰かのためにしている行為は人間が満足感を得られ安い行為と言われるし、実質的な利益のほかにも精神衛生上も利他を志したほうが良いのだろう。利己的な行為は他人からはいい目では見られないし、おそらく精神的なストレスもたまりやすいのでは無いだろうか?利他は邪魔が入りづらいが、利己は邪魔が入りやすいので、自分がやりたい事もなかなか出来ないだろう。

利他は周りを明るくする。明るくなった周りは、いつかはその気持ちを返してくれる。そして、自分の満足感も高いというメカニズムが利他が尊ばれる理由ではないだろうか?利他がなぜ良いのかを考えて利他的になるのでは、利他が持つ人情的な美しさを損なうように思うが、利他は合理的な話だ。北風と太陽の逸話とも通じるところがあるだろう。

2016年3月16日水曜日

一日のチェックポイント


【人生訓】

誠実 感謝 素直 正直 調和 

最悪でも一日の終わり、できれば行為の前後には確認すること。
誠実であるか?感謝しているか?素直さは失われていないか?
正直か?その上でバランスをとっているか?


その他チェックポイント
  • 起きることは生まれること、寝ることは死ぬことと意識できているか?
  • 聞き上手を意識しているか?
  • 人のせいにしていないか?
  • 利他の人であったか?  
  • 良き質問したか?



【幸せの4条件】
  • 愛されたい。
  • 褒められたい。
  • 必要とされたい。
  • 役に立ちたい。

相手が求めているものと知れ。