2019年7月28日日曜日

里仁 第四 4

【口語訳4】

誠に仁の人となるべく志すなら、悪を行う事は無い。



【解説】

誠に仁の人となる事を志すなら、事あるごとに自分の行動が仁に相応しいものだったかを反省しなければならない。言行に恥ずる事が無かったか、と。そういう人間がどうして悪を行うだろうか?いや、無いと言うのだろう。故に悪を行う事は無いとなる。この具体的な例としては、学而編の4番が恰好の例となる。(学而編4

なお、単純な話、誠に仁の人になろうと決意した人間には、そもそも悪に興味が無いという側面もある。悪に興味が無い故に、悪を行う事は無い。意外に真理かも知れない。



1、君子として

君子と呼ばれる立派な官僚として、人民を管理するという視点で考えて見る。仁を志せば悪を行う事がないなら、人民に仁を志してもらえれば管理がしやすい。悪は行われず、世の中が安定するからだ。では、どうしたら人民に仁を誠に志してもらえるかになるが、この答えとして孔子は仁の者を重用せよと言っている。そして刑罰を以ってではなく、道徳をもって統治するのが良い、と。為政編の3番、19番、20番が参考になるだろう。(為政編3為政編19為政編20







2019年7月27日土曜日

里仁 第四 3

【口語訳3】

孔子先生がおっしゃいました。ただ仁者のみが公平に人を好み、公平に人を憎む。



【解説】

仁者、つまり思いやり深い人はどうしても公平になっていく。例えば、相手が一人の場合ならば、その相手の心に寄り添うだけで良い。だが、相手が二人の場合はどうだろう?二人の利害が対立したケースで片方に肩入れしては、もう片方の心に寄り添った事にならない。二人のどちらにも寄り添うとすると、どうしても折衷案で折り合いをつける事になり、例えばお互い半分だけ得をするようなバランスのとり方になる。二人の間の利害調整ならばまだ良いが、では百人の場合はどうなるだろう?まさか公平に1%づつ得をすれば良いじゃないかと言っても誰も納得しないだろう。流石に1%では取り分が無さすぎる。そのため、百人が利害を対立した際は、それぞれの意見を聞きながら利害を調整していては何時まで経っても折り合いはつかないし、そもそも各人の意見を聞くだけでも一苦労である。このように人数が多くなると、結局、予め基準を作っておき、その基準に百人のほうで合わせてもらう他まとめようがない。中国ではそれが例えば天子となるのだが、天子のように昔から公正とされる基準に、百人のほうで合わせてもらうのが一番争いが少ない妥当な落としどころなのである。天子というルールのもとでは、各人が公平だからだ。このように多くの人の心に寄り添おうとするにつれ、例えば天子に寄り添うような自然と公正にならざる得ない。公正が結局は公平だから。仁者は自然と公正な基準に合わせて人物を観るため、好き嫌いに私情を挟む事なく、公平に良い者は良い、悪い者は悪いとする。

逆に不仁者、つまり私利私欲の人はどうしても自分の利益が中心になるため、人の選り好みにも私情が介入する。この手の人間は自分にとって利益がある時は良くしてくれるが、利益が無いとなったらバッサリと切る事があり、長く付き合うと損をする事に注意が必要だ。学而編では、孔子はこの手の輩を友人としてはならないと説く(学而編8番)。



1、公平は長生きの秘訣

君子として考えると、公平な付き合いは処世術として大切だと思われる。と言うのも、公平な人間には無茶苦茶はしないだろう安心感がある。この周りに与える安心感がとても大切なのだ。人間を追い詰めるのは猜疑心である事が多い。猜疑心が不安を呼び、不安がさらに不安を呼んで、例えば国と国なら戦争になったりする。何を考えているか分からないと言う評判は、周りの人の敵意を誘うと知っておくべきだろう。逆に公平は敵を作りづらい。故に長生きである。



2、陥りやすい落とし穴

人間生き方が定まると、自分の価値観がはっきりするから、自然と好き嫌いもハッキリしてくる。例えば、仁を大切と思えば思うほど、不仁の者が鼻につくようになる。そうすると、不仁の者を見ると、見過ごせなくなって怒りを覚えるようにすらなる。ここら辺が人を好み、憎むと孔子は言う所以かも知れない。だが、これは落とし穴と言えば、落とし穴だ。怒って良い事は無い。そこで、抜け道を紹介しておく。仏教的な回答になるが、嫌いな相手がいたら、その嫌いな相手も何かに苦しんでいるのだと考えてみると良い。そうすると、その嫌いな相手も実は哀れな存在であると気づける。気づけば、その嫌いな相手の印象も変わってくるだろう。





【参考】

怒りへの対処法になるかも。


2019年7月23日火曜日

里仁 第四 2

【口語訳2】

孔子先生がおっしゃった。不仁な者を久しく貧乏にしておくべきでない。かと言って豊かな生活を長く続けさせるべきでもない。だが同様の状況にあっても、仁の者は仁を以って安らぎ、知ある者は仁たらんと精進するものだ。



【解説】

不仁な者は思いやりが無い者の意味で、つまり利己的の人間の事だ。利己的な人間は基本的にろくなことにならない。欲が強いためで、欲は結局自分の身をも焦がし始めるが、利己的な人間はその事に気付くことは少ない。事は貴賤の問題では無い。利己的な人間は貴賤どちらの状況に置かれても、自分の欲の強さで失敗するのである。例えば貧しい時分には、盗みを働いてはばからず恥とも思わない。例えば豊かな時分には、驕り高ぶり知らず知らずの内に周りに敵を作りながらの生活になる。盗みを働いたり、周りに敵を作り続ければどうなるか?結局は、自分の蒔いた種を自分で刈り取る時が来るのである。そうなっては可愛そうだと思えば、不仁な者を久しく貧乏にしておくべきでなく、かと言って豊かな生活を長く続けさせるべきでもない理由も納得がいく。こう考えてあげるのが人としての思いやりなのである。そして、人としての思いやりを学ばせるのだ。

では、何故思いやりが大切かになるが、端的に言えば、その者の価値観が変わるからである。欲深い時は特に金にばかり目が行きやすいが、お金よりも思いやりの方が大切だと知れば、日々を思いやりを軸にして生きるようになる。そうなると、お金にあまり意識がいかなくなるため、貴賤にとらわれる事なく日々を安らかに生きられるようになるのである。故に、仁の人は仁を以って安らぐとなる。そして、この道理に通じている事が知恵本来の意味である。お金のある無しはある程度は努力の結果だが、大金と言う意味では貴賤は天が決めるもの。要は、単なる運だ。ならばお金の事を考えて暮らしても仕方が無い。この道理を知るならば、人間がすべきことはすべからく人格を磨く事に尽きる。よって、知ある者は仁たらんと精進するとなる。



1、君子の視点

立派な官僚と言う君子の視点で見ると、人民はあまり貧しくしても反乱を起こすし、あまり富ませても反乱を起こす。だから、ほどほどにせよという教えとなる。そして、貴賤で人を判断するのではなく、仁なる人を1等、知ある人を2等として雇いなさいという事だ。理由は貴賤で人を判断すると裏切られる事が多く、結局は痛い目を見るからだ。



【参考】

1、欲が焦がす例を紹介すると、まずは因果応報で、具体的には敵を作りしっぺ返しを受ける。これだけでも大変だが、運よくしっぺ返しを受けなくてもお天道様は見ているもので、大概は病気になる。欲はストレスの裏返しで切っても切り離せない。欲深いければ、それだけストレスに溢れた生活を送る事になる。しかし、ストレスは万病のもとだ。欲が強ければ比例してストレスも強くなるから、それだけ病気になりやすいのは道理。幾らお金を稼いでも、病気になってしまっては片手落ちと考えてはどうか?自分の欲をコントロールする事は、健やかに生きる上でとても大切と思う。


2、学而編の15番との兼ね合いがあると思われる。

学而編15番


2019年7月20日土曜日

里仁 第四 1

【口語訳1】

孔子先生がおっしゃった。住む場所は仁なる処にかぎる。仁の無い場所を選んで住む者を、どうして知恵者と呼べるだろうか。



【解説】

まず語句の説明をすると、仁は人が二人いると書くように、人が二人いる時に必要な事という意味だ。つまり、思いやりとなる。今回、孔子は仁なる所、言い換えれば思いやり深い人が多い集落に住むのが良く、思いやりの無い人達ばかりの集落に住んでも何も良い事は無い。思いやり深い集落を選んで住まないで、どうして知恵者と呼べようかと言っているが、確かに周りを逆の薄情者で固めてしまっては、生きにくいかも知れない。人は一人では生きていけない。誰かの助けを借りなければという時に、その者が薄情であっては何とも心許ない。出来るなら、思いやり深い人達に囲まれて生きたいものである。

ただ、現実の問題として、周りに住む人間を選べるのかと言う疑問がある。周りにどんな人間が住んでいるかは引っ越して見ないと分からないし、まさか事前調査をしてから引っ越すわけでもあるまいし、例え事前に調査したとしても実際にどんな人間が住んでいるかは幾ら調べても住んでみなければ分からない部分がある。そこで問題になってくるのが、引っ越した先が薄情者の集まりでどうにも馬が合わない場合どうするのかという事だ。仕事等の都合で引っ越しをした場合、個人的に馬が合わないからと言って仕事を辞めて引っ越すわけにもいくまい。こう考えて見ると、中国で成功した親類を頼って尋ねる理由も分かってくる。成功した親類ならば思いやり深い人として信頼でき失敗が少ないのだろう。これぞ処世の知恵なわけだ。



1、朱に交われば赤くなる

君子として仁の徳を身に着けると言う視点で考えると、その最も良い方法は思いやり深い人に囲まれて生きる事だろう。と言うのも、誰かを思いやって得をした経験が無ければ、仁が大事だと言われても実感が沸かない。相手を思いやったのに、その相手からそっけなくされた経験ばかりでは、他人を思いやっても意味がないと刷り込まれてしまう。思いやった相手から親切にされるからこそ、仁の徳が大事だと実感できる部分がある気がする。君子として仁の徳を身に着けたいと考えた時、思いやり深い人に囲まれたほうが良いか、薄情者に囲まれて生きたほうが良いかは言わずもがなであろう。薄情者に囲まれていては、仁の徳を身に付けようにも難しいのだ。




【参考】

1、仏教に「地獄と極楽」という法話があるが、地獄ではなく、選んで極楽に住むのが知恵者と考えれば、孔子の言わんとするニュアンスに近いのではないか?






2、親族に権力者がいるなど、特権を享受できる時に大きく稼いでいくのが中国人らしいと考えれば以下の本も参考になるかも知れない。



2019年7月18日木曜日

八佾 第三 26

【口語訳26】

孔子先生がおっしゃった。人の上に立ちながら寛容でなく、礼儀に敬意がこもらない、喪礼に臨んで哀しまない様では、私は何処を観たらよいのやら。



【解説】

孔子の言う通りだと思われる。人の上に立って寛容でなければ下の者は叱られまいとばかり考えるようになって、場がギスギスして空気が悪くなる。礼儀は形式ばかりで心がこもってなければ気味が悪い。葬式に来て悲しむ様子も見えないようでは無情というものだ。このような人間では、確かに何処を評価したら良いか分からない。


1、葬儀屋として

孔子は今でいえば葬儀屋だったのだから、葬儀屋としての視点で考えて見よう。葬儀の際、上の者に寛容さがなければ周りの者は叱られない事にばかりに意識がいって、葬儀に集中できなくなる。そうなれば葬儀は台無しである。葬儀にはマナーがあるものだが、形ばかりで心がこもっていなければ、人はそこに人間性を垣間見るものだし、悲しんだ様子もないなら薄情と言われても文句は言えない。孔子は葬儀屋だったため、こういった姿に出くわす事が多かったのかも知れない。なんせ中国人は親が亡くなっても平然としているが、金が無くなったら大騒ぎすると評する者もいる。



2、君子として

君子と言う立派な官僚の視点で考える。官僚と言う視点で考えた場合、ここがきちんとできないと足を引っ張られる、もしくは逆に、ここで足を引っ張れるという教訓になる。下の者にやさしくしているか、礼儀がお座なりになっていないか、葬儀では故人を忍び心を尽くしているか。幾ら仕事ができても、このポイントを抑えておかないと評価につながらないと知ろう。




【参考】

孔子は今回、当たり前と言えば当たり前のことを言っているが、実はこの当たり前のことを言っているという事が孔子の凄さという視点を紹介しておく。孔子という2500年も前に存在したとされる人物が語った事を、現代人が聞いても分かる。孔子は難しい話をしているわけでは無い。誰にでも分かる当たり前のことを言っているに過ぎない。にも関わらず、いや、だからこそ孔子は歴史に名をとどめたと言ったら驚くだろうか?

考えて見れば不思議では無いか?歴史に名前を残すには何か特別な事をしなければならないと考えたほうが普通に思える。恐らくそう考える人の方が多いのではないか?何か特別な事をしなければ歴史には名前は残せない、と。だが、答えはその逆だ。大多数の人は特別な事をしてばかりいて、とても個性的な人間だから孔子のような評価をされないのである。孔子は当たり前の事ばかり言っていたために、後世になっても評価された。こういう視点を知っておくと、普段の生活で役に立つ事もあるだろう。頭の体操になれば幸いだ。なお、【参考】は養老猛司氏を参考に書いた。






2019年7月7日日曜日

八佾 第三 25

【口語訳25】

孔子先生が楽曲「韶」を評して言った。美を尽くし、善を尽くしている。楽曲「武」は、美を尽くしてはおるが、善を尽くしているとは言い難い。



【解説】

「韶」は神話上の名君である舜を称えた楽曲で、「武」は周王朝の始祖となる武王を称えた楽曲とされるが、どちらもすでに失われていて現在残っていないようだ。楽曲を直接聞けない以上解説のしようもないが、孔子の言葉づかいから彼の意図を察してみたい。今回、孔子は楽曲を美と善という2つのチェックポイントで評している。なかなかにユニークな評価基準ではないだろうか?と言うのも、美は分かる。曲調が美しいと感じたのだろう。ただ、善はどうだろう?楽曲を聞いて善、つまり、道徳的に優れているかを評価するのは自分には斬新に思える。この辺が孔子らしさなのであろう。

では、舜と武王の道徳的な側面を評価してみる。まず舜の逸話は孝の一字に尽きる。舜は親孝行な男だった。しかし、親はと言うと、継母だったせいだろう。我が子可愛さに実子ではない舜を疎ましく思うばかりで、舜は命を狙われる場面に度々あった。親孝行しているのに命を狙われるのだから、普通なら嫌気がさしてしまいそうな境遇だが、舜はへこたれなかった。そして、自分を殺そうとする親にすら、親には変わりないと親孝行に励むのであった。その姿に感動したのが時の天子であった堯だった。そして、舜は堯に見出され、出世し、果ては禅譲を受け次の天子になったとされる。舜の逸話は確かに善を尽くしていると言えよう。親に命を狙われながらも親孝行に励むのであるから。

次に武王だが、武王は殷王朝の紂王を破り、周王朝を建国したとされる。この建国の逸話には、助演として悪女名高い妲己が登場する。妲己は紂王の寵愛を受けている事を良い事に、酒池肉林や炮烙など好き放題していた。そうしている内に人心が殷王朝から離れてしまい、天にも見放された。そこを武王が殷王朝を攻め滅ぼすというのが武王の逸話となる。当時から3000年経った今でさえ、妲己と言えば悪女として通るくらいだから、その悪女ぶりは筆舌に尽くし難いものがある。そして、そんな悪い女に騙され世を乱した殷の紂王を倒したのだから、普通なら武王は善を尽くしていると言いたい所だ。だが、話はそう簡単ではない。と言うのも、この妲己を幼い頃から育て、紂王が気に入るように教育しあてがったのは武王の弟である周公旦だからだ。つまり、世を乱したのは妲己なれど、妲己をそういう女に育てたのは武王の弟である。この点に注目すると、世が乱れたのは殷王朝が亡ぶように仕掛けられた謀略の結果とも言え、妲己によって殺された者達は単にその犠牲者でもあるから、実情は武王一族が自分で乱した世を自分で正しただけになる。よって、孔子は善を尽くしているとは言えないと言っているのだろう。




【参考】



孔子の美なれど善を尽くしているとは言い難いという評価を理解するに、アメイジング・グレイスが調度良いのでは無いかと思って紹介する。アメリジング・グレイスは名曲なれど、作詞をしたイギリス人牧師のジョン・ニュートンには一癖ある。と言うのも、彼は黒人の奴隷貿易で財を成した人物で、アメイジング・グレイスはその奴隷貿易を悔やむ彼を神が許された事への感謝の歌である。となると、あくまで奴隷を良しとしない現代の価値観においてだが、美なれど善を尽くしているとは言い難い。好き放題に奴隷貿易をした人間が、勝手に悔い改めたら神が許されたと言うのだ。それでは黒人が困る。ただ、当時の常識では、まさにジェントルマンだったと想像する。

アメイジング・グレイスに関するウィキ

2019年7月2日火曜日

八佾 第三 24

【口語訳24】

衛国の儀に差し掛かった際、門番をしていた役人が謁見を申し出てきた。私は君子がここを通られた際、未だお目にかかれなかった事がありません、と。従者はその役人を孔子先生に会わせてあげた。謁見後、役人は言う。従者の方々、先生が職を失ったことは嘆くに値しません。天下が乱れてから久しい。天はまさに先生を木鐸に選んだのです。



【解説】

孔子の人徳が良く伝わるエピソードだと思う。門番の役人は孔子を天下の木鐸と評しているが、木鐸とは法令などを人民に知らせる際に使用した鈴の事で、転じて教育的指導者を意味する。つまり、門番の役人は孔子を天下の教育的指導者と言うのだから、大変な褒めようである。世の中には色々な人間がいるが、会った者を感動させてしまうほどの人間はそういない。孔子にはそういった魅力があったようだ。これも孔子の説く仁義礼智信の為せる技だったのだろうか?そう考えて徳器を磨くと素晴らしい教訓が得られそうだ。

ただ、中国人が崇めるのは福禄寿の現世利益と相場が決まっていると考えれば、中国人に仁義礼智信を説いても糠に釘な気もする。あくまで想像だが、孔子はひとしきり語らった後に一言、もし自分が要職に返り咲く事があるならば尋ねて来なさいと言ったか、もしくは自分の弟子に要職についている者がいるから紹介してあげようと言ったのでは無いだろうか?そうならば門番の役人にとって崇めるべき現世利益があり自然かも知れない。



1、門番の立場から

視点を変えて門番の役人に注目してみると、彼もトゲの多い門松を通ってきた人間のようだ。彼は門番なのだから孔子の従者にも単に調べると言えば良いような気もするが、きちんと孔子の面子を立てて、未だ君子にお目にかかれなかった事はないと言っている。これなら孔子も会いやすいし、従者も紹介しやすい。逆に、偽物かも知れないから一応調べると言われては、孔子達は多少なりとも歯がゆい思いをしたかも知れない。また、孔子との会話が終わってからの褒め方も琴線に触れた事だろう。孔子のような君子という立派な官僚を目指し放浪する身にとって、最も言って欲しい事を言っているでは無いか。孔子達もまんざらではなく、彼の心象を良くしたことだろう。しっかり門番の仕事をこなしつつ、敵をつくらない技術に学ぶべき点があるかも知れない。




【参考】