2019年7月18日木曜日

八佾 第三 26

【口語訳26】

孔子先生がおっしゃった。人の上に立ちながら寛容でなく、礼儀に敬意がこもらない、喪礼に臨んで哀しまない様では、私は何処を観たらよいのやら。



【解説】

孔子の言う通りだと思われる。人の上に立って寛容でなければ下の者は叱られまいとばかり考えるようになって、場がギスギスして空気が悪くなる。礼儀は形式ばかりで心がこもってなければ気味が悪い。葬式に来て悲しむ様子も見えないようでは無情というものだ。このような人間では、確かに何処を評価したら良いか分からない。


1、葬儀屋として

孔子は今でいえば葬儀屋だったのだから、葬儀屋としての視点で考えて見よう。葬儀の際、上の者に寛容さがなければ周りの者は叱られない事にばかりに意識がいって、葬儀に集中できなくなる。そうなれば葬儀は台無しである。葬儀にはマナーがあるものだが、形ばかりで心がこもっていなければ、人はそこに人間性を垣間見るものだし、悲しんだ様子もないなら薄情と言われても文句は言えない。孔子は葬儀屋だったため、こういった姿に出くわす事が多かったのかも知れない。なんせ中国人は親が亡くなっても平然としているが、金が無くなったら大騒ぎすると評する者もいる。



2、君子として

君子と言う立派な官僚の視点で考える。官僚と言う視点で考えた場合、ここがきちんとできないと足を引っ張られる、もしくは逆に、ここで足を引っ張れるという教訓になる。下の者にやさしくしているか、礼儀がお座なりになっていないか、葬儀では故人を忍び心を尽くしているか。幾ら仕事ができても、このポイントを抑えておかないと評価につながらないと知ろう。




【参考】

孔子は今回、当たり前と言えば当たり前のことを言っているが、実はこの当たり前のことを言っているという事が孔子の凄さという視点を紹介しておく。孔子という2500年も前に存在したとされる人物が語った事を、現代人が聞いても分かる。孔子は難しい話をしているわけでは無い。誰にでも分かる当たり前のことを言っているに過ぎない。にも関わらず、いや、だからこそ孔子は歴史に名をとどめたと言ったら驚くだろうか?

考えて見れば不思議では無いか?歴史に名前を残すには何か特別な事をしなければならないと考えたほうが普通に思える。恐らくそう考える人の方が多いのではないか?何か特別な事をしなければ歴史には名前は残せない、と。だが、答えはその逆だ。大多数の人は特別な事をしてばかりいて、とても個性的な人間だから孔子のような評価をされないのである。孔子は当たり前の事ばかり言っていたために、後世になっても評価された。こういう視点を知っておくと、普段の生活で役に立つ事もあるだろう。頭の体操になれば幸いだ。なお、【参考】は養老猛司氏を参考に書いた。






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