2019年7月7日日曜日

八佾 第三 25

【口語訳25】

孔子先生が楽曲「韶」を評して言った。美を尽くし、善を尽くしている。楽曲「武」は、美を尽くしてはおるが、善を尽くしているとは言い難い。



【解説】

「韶」は神話上の名君である舜を称えた楽曲で、「武」は周王朝の始祖となる武王を称えた楽曲とされるが、どちらもすでに失われていて現在残っていないようだ。楽曲を直接聞けない以上解説のしようもないが、孔子の言葉づかいから彼の意図を察してみたい。今回、孔子は楽曲を美と善という2つのチェックポイントで評している。なかなかにユニークな評価基準ではないだろうか?と言うのも、美は分かる。曲調が美しいと感じたのだろう。ただ、善はどうだろう?楽曲を聞いて善、つまり、道徳的に優れているかを評価するのは自分には斬新に思える。この辺が孔子らしさなのであろう。

では、舜と武王の道徳的な側面を評価してみる。まず舜の逸話は孝の一字に尽きる。舜は親孝行な男だった。しかし、親はと言うと、継母だったせいだろう。我が子可愛さに実子ではない舜を疎ましく思うばかりで、舜は命を狙われる場面に度々あった。親孝行しているのに命を狙われるのだから、普通なら嫌気がさしてしまいそうな境遇だが、舜はへこたれなかった。そして、自分を殺そうとする親にすら、親には変わりないと親孝行に励むのであった。その姿に感動したのが時の天子であった堯だった。そして、舜は堯に見出され、出世し、果ては禅譲を受け次の天子になったとされる。舜の逸話は確かに善を尽くしていると言えよう。親に命を狙われながらも親孝行に励むのであるから。

次に武王だが、武王は殷王朝の紂王を破り、周王朝を建国したとされる。この建国の逸話には、助演として悪女名高い妲己が登場する。妲己は紂王の寵愛を受けている事を良い事に、酒池肉林や炮烙など好き放題していた。そうしている内に人心が殷王朝から離れてしまい、天にも見放された。そこを武王が殷王朝を攻め滅ぼすというのが武王の逸話となる。当時から3000年経った今でさえ、妲己と言えば悪女として通るくらいだから、その悪女ぶりは筆舌に尽くし難いものがある。そして、そんな悪い女に騙され世を乱した殷の紂王を倒したのだから、普通なら武王は善を尽くしていると言いたい所だ。だが、話はそう簡単ではない。と言うのも、この妲己を幼い頃から育て、紂王が気に入るように教育しあてがったのは武王の弟である周公旦だからだ。つまり、世を乱したのは妲己なれど、妲己をそういう女に育てたのは武王の弟である。この点に注目すると、世が乱れたのは殷王朝が亡ぶように仕掛けられた謀略の結果とも言え、妲己によって殺された者達は単にその犠牲者でもあるから、実情は武王一族が自分で乱した世を自分で正しただけになる。よって、孔子は善を尽くしているとは言えないと言っているのだろう。




【参考】



孔子の美なれど善を尽くしているとは言い難いという評価を理解するに、アメイジング・グレイスが調度良いのでは無いかと思って紹介する。アメリジング・グレイスは名曲なれど、作詞をしたイギリス人牧師のジョン・ニュートンには一癖ある。と言うのも、彼は黒人の奴隷貿易で財を成した人物で、アメイジング・グレイスはその奴隷貿易を悔やむ彼を神が許された事への感謝の歌である。となると、あくまで奴隷を良しとしない現代の価値観においてだが、美なれど善を尽くしているとは言い難い。好き放題に奴隷貿易をした人間が、勝手に悔い改めたら神が許されたと言うのだ。それでは黒人が困る。ただ、当時の常識では、まさにジェントルマンだったと想像する。

アメイジング・グレイスに関するウィキ

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