2018年9月18日火曜日

学而 第一 15 

【その15】

子貢が尋ねた。貧にあって諂うことがなく、富にあって驕ることがない。こういった人物はいかがでしょうか?老先生が答える。悪くはないね。ただ、欲を言えば、貧にあって楽しみ、富にあって礼を好む者であって欲しい。

子貢が言う。詩経に、切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如しとあります。そうおっしゃりたいのですね。老先生が答える。賜よ、君とは一緒に詩を談じれる。過去を尋ねて未来を知る力があるようだね。





【解説】

諂いも驕りもその心の在り方に問題がある。だから、心に真心を据える。すると自然と諂う事がなくなるし、驕る事もなくなる。ただ、心に真心を据えるところに無理があると、ストレスがたまり長続きしないかも知れない。その処方箋が楽しむ事であり、好む事になる。楽しみ、好めるなら、意識せずとも自然と真心で生きていける。よって、これを上とする。好きこそ物の上手なれである。

では、どうしたらそう生きれるかとなるが、その答えが切磋琢磨となる。切磋琢磨は文字通り解釈すれば生きる上での実感となり、言葉としては仲間同志高めあうという意味で使われるが、切磋琢磨するゆえに楽しみが生まれ好めるようになるという側面がある。この3つの面のどれもが味わい深い。この感覚が詩の妙味を談じさせ、将来の教訓とさせる。



貧しさの中にあっても、どんな手を使ってでも物を求めない人間とは、どういう人間だろうか。そうしないと生きていけないのなら、それは悪い事とも言い切れない部分がある。にもかかわらず、そうしないのだから、どうも他とは違うのは分かる。では、その理由はとなるが、彼には生き方に信念らしきものが感じ取れる。この信念らしきものは、教養人がわきまえるべき道理に適うものだから、彼はすでに教養人であると見る。これを子貢の質問の含意と考えて見たい。これを受けて孔子は可と答え、その上で道を学ぶと良いと示した(好道)。



富の中にあっても物力で偉そうにしない人間は、どういう人間だろうか。富は自信につながりやすいから、偉そうにふるまいたくなるのが普通だ。しかし、そうしないと言うのだから、どうも普通ではないと分かる。では、その理由はとなるが、やはり貧の場合と同じく、生き方に信念らしきものがあるらしい。この信念らしきものは、教養人のそなえるべき道理と親和性が高く、ゆえに彼はすでに教養人であると言えるのかも知れない。これが子貢の質問の意味と考えて見たい。これを受けて孔子は可と答え、その上で道理(礼)を好むようなら本物だと示した。



我々はとかく貧富に囚われがちだが、貧富にかかわらず、己の内面の充実を目指すのが教養人のあり方として正当である。ゆえに、骨や角を切るように、象牙を磋するように、玉を琢するように、石を磨するように、己を仕上げなさいとなる。こう捉えるのが本筋である。個人的には、心を加工するという発想も面白い。



過去から未来を知るは、いわゆる歴史に学ぶと言う事だろう。そのコツは、何故そのようなことを言うのか、又はそうなったのかを、自分なりに良く考えておくことに尽きる気がする。この点、速やかに切磋琢磨を引用した子貢は素晴らしいと言え、その練度の高さが窺える。孔子も思わず言いたかったに違いない。君は詩が使えるのか、と。



諂いも善し悪しで、お世辞が言えないようでも使えないとなる。だから、諂いは悪い事かと言われると、言葉の印象こそ悪いもののそうは言いきれない。例えば、接待の場面で相手のの機嫌をとらねばといった状況の時に、私は思ってない事は言えませんでは困るかも知れない。また、偉そうにふるまうと人の感情を逆なでする部分は確かにあるが、それが悪い事かと言われると、やはりそう言いきれない部分がある。例えば、偉そうにしてくれなければ誰が偉いのかが分からなくなり、秩序が乱れる恐れがある。その状態に慣れると威厳がなくなり、言う事を聞かなくなる者もでてくる。さて、ここをどう考えるかだ。各々その答えは変わるだろうが、自分なりに調和を模索する必要はある。その際の軽いコツとしては、上手くいかなくて当たり前と思う事だろうか。もともと無理を言っているのだから、と。



実際に諂らわないようにするにはどうしたら良いだろう。現実的には自分に自信があるかが鍵ではないか。実績もあるなら尚良いが、自分は役に立つ人間であるという自信があるならば、何も諂う必要は無いし、堂々と相手と交渉して自分を売り込めば良い。この意味で、貧乏であっても諂わないのは、その人物の実力の裏返しという見方もできるかも知れない。貧にあって楽しむ者の評価が高いのは、単純にみんな明るい人が好きだからと考えてもスッキリする。自分の気苦労を吹っ飛ばしてくれるようなゲンの良い人間が有難い。実力云々はさておき、運を奪いそうな根暗な人間は御免こうむりたいのが人情だ。こう考えてみれば、貧乏であっても楽しんでいる人間の評価が高いのも自然な流れである。



実際に驕っているという評判が立たないようにするにはどうすべきだろう。現実には、周りの人間は事実関係はさておき見下されていると感じているのだから、その誤解を解くという視点も大切ではなかろうか。それには、周りの者の相談に親身になってあげたり、ご飯をご馳走して労を労ったり、相手をしっかり褒めながら、自分は運が良いだけの人間だよとへりくだらねばならない。言葉遣いにも注意が必要で、上から言ってると言われぬようにする必要がある。こういった努力の結果得られるのが、金持ちなのに驕らないという評判なのかも知れない。こう考えて見ると、富にあって驕らないのは確かに人物らしい。さらに言えば、こういう事を仕方なしに行うのではなく、好んで行うならば本物の人格者になる。







【参考】

1、孔子の生きた時代は、食べ物が無くて餓死が度々あった時代だ。飢饉ともなれば、それこそ国民の何割という単位で死んでしまう。一般人にとっては、食べ物が死活問題になるほど貴重なものだったようだ。この事は中国人の食事や挨拶に現れていると言われる。皇帝は食べきれないほどの食事をつくらせ何故それを残すのか、彼らが「飯食ったか?」と挨拶するのは何故か、食事が貴重品であることの裏返しとなる。皇帝は食べきれないほどの食事で力を誇示したし、腹いっぱい食べれないから「飯食ったか?」と挨拶するようになったとか。


2、兵は詭道と教える孫子の兵法の裏返しか、実際に騙されることが多くなると、相手に諂わない人間はどう見えるだろうか?御しやすいと見られるか、それとも信頼できると好感を持たれるか。こう考えるのも面白いかも知れない。


3、現代ではマークシートなど○×式のテストなども良くあるが、孔子の時代のテストは難易度が高く、状況に合わせて詩を引用できるレベルでなければ合格とならなかったようだ。この点からも、孔子が何故子貢の答えに満足したかが伝わってくる。孔子は、子貢は詩経が身に付いている事を確認したのである。


4、「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」の語源を辿る。この言葉は衛国の11代目君主であり、名君の誉れ高かった武公を称えた言葉だ。詩経によれば、彼は内からにじみ出る威厳を持つ人物であり、その佇まいを見ただけで只者では無い事が分かるのだが、自分の力を驕る事はなかった。それどころか臣下の諫言をよく聞き、礼によって自分を律する様を見て、民は彼の治世を大変喜んだと言う。にもかかわらず、自分に至らぬ点があったらすぐに戒めよと、向上の姿勢を崩さなかった。






【まとめ】

自分が変わると、世界が変わる。






------  仏教の立場からの考察  ----

真心は他人を思いやる心の意味で使われる言葉だが、目の前にある風景に真心があり、その感覚を他人に施せという話ではないかと思うようになった。すると、真心が思いやりという意味で使われる理由が分かる気がする。切磋琢磨に関連して言えば、一日真似すれば一日の仏、1年真似すれば1年の仏、一生真似すれば一生仏という言葉を思い出した。最近は日々嫌な感情が沸き起こったとき、いかに速やかに呼吸に戻れるかに興味がある。




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