【その8】
老先生が言われた。君子に重みがなくては威厳がなく、学問をしても堅固とはならない。忠信を主に生きることだ。友人は自分と同じ生き方をする者を選び、過ちを改める事をためらってはならない。
【解説】
①
人間を一つの木に例えるなら、知識は言わば枝葉である。立派な木にはそれに相応しい枝葉がついているように、君子になるには学問が求められる。だが、枝葉だけの木は風がふいたり地震がくれば倒れてしまう。やはり地面にしっかりと根をはっているからこそ、幹が安定するのである。人間も同じである。優れた人間性に根差した生き方をするからこそ人間としての軸が安定するし、その上に学問するからこそ立派な大木に成長するというイメージだ。大木は重みがあり、威厳があり、堅固である。君子もこうでなくてはと言う話となる。
では、優れた人間性を得るためにはどうした良いかとなるが、ここで孔子は4つほど指摘している。真心を大事にする、言ったことは守る、友達を選ぶ、過ちはすぐ改める、だ。どれも当然であるが、真心が最も根幹であることには留意したい。真心を大事にするゆえに言ったことを守るのであり、悪い影響をうける可能性の高い人間は遠ざけたほうが良いとなる。反省をためらってはいけないのも、人間は弱いもので志を立てても真心に反した行いを度々してしまうものだからだ。だから、その都度反省して、真心に自分を戻す必要がでてくる。
②
実利的な面を考えて見る。例えば、言ったことは守らない役人を考えてみよう。その状態で学問にはげむとどうなるかと言うと、人を騙すための勉強をしていると陰口をたたかれるのが関の山で、何を言ってもみんな本気にしてくれなくなる。威厳はなくなり、不信感がつのり、信頼関係が壊れる。その頃には役人生活に黄色信号がともっている。まさに堅固ではない。例えば、不誠実な者と友人になったとする。すると、朱に交われば赤くなると言うわけで、自分もだんだん不誠実になっていくし、ならなければ不誠実な者と友達ではいられない。現実にはある程度は社会勉強だが、誠実に生きると決めた以上はやはり近くにいてはいけないだろう。特に功が成ってないうちなら猶更である。
(参考)
1、「学びても則ち固ならず」の部分は、学ぶ事で頑固にならないと訳す説もある。その理由を考えるに、色々な考え方を知るからという部分もありそうだが、やはり真心に目覚めるからと考えたほうが一貫性がある。
2、「己に如かざる者」の部分は、己に及ばない者と訳す説もある。これを素直に考えるなら、人間の波長は伝染する事を嫌った対応と言う事になる。できる人と一緒にいると不思議と結果もついてくるようになるし、できない人と一緒にいるといつの間にかツキに見放される。そういうものだから、己に及ばない者と一緒にいてはいけないと考えれば一般的かと思う。ただ、真心を軸においた発想をするなら少々事情は変わってくるだろう。真心の前ではみな公平であり、できる人、できない人の区別などないからだ。したがって、「己に如かざる者」は真心の足りない者というニュアンスでとらえたほうが君子らしいのではないか。
3、余談だが、自分は「重からざれば」の訳を、単純に体重の事かとも考えた。満足に食事がとれないようでは、威厳も何もあったもので無いのか?、と。中国には皇帝の料理人が数千人いたという話があるくらい食事を大事にする歴史があるため、小人のうらやむ目線も大事にしたい。
【まとめ】
世の中で軽薄な人間ほど、信用の置けない人間はない。
by 安岡 正篤
------- 仏教の立場からの考察 ------
真心を慈悲と言い換えれば、慈悲心が自然とおきないようでは本物ではないという話になろう。ただ、友人の部分だけは違うのかも知れないと思う節もある。悪人を改心させるのも仏教の目指すべき方向であろうからだ。とは言え、衆生済度の対象でこそあれ、友人ではないか。
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