2019年7月20日土曜日

里仁 第四 1

【口語訳1】

孔子先生がおっしゃった。住む場所は仁なる処にかぎる。仁の無い場所を選んで住む者を、どうして知恵者と呼べるだろうか。



【解説】

まず語句の説明をすると、仁は人が二人いると書くように、人が二人いる時に必要な事という意味だ。つまり、思いやりとなる。今回、孔子は仁なる所、言い換えれば思いやり深い人が多い集落に住むのが良く、思いやりの無い人達ばかりの集落に住んでも何も良い事は無い。思いやり深い集落を選んで住まないで、どうして知恵者と呼べようかと言っているが、確かに周りを逆の薄情者で固めてしまっては、生きにくいかも知れない。人は一人では生きていけない。誰かの助けを借りなければという時に、その者が薄情であっては何とも心許ない。出来るなら、思いやり深い人達に囲まれて生きたいものである。

ただ、現実の問題として、周りに住む人間を選べるのかと言う疑問がある。周りにどんな人間が住んでいるかは引っ越して見ないと分からないし、まさか事前調査をしてから引っ越すわけでもあるまいし、例え事前に調査したとしても実際にどんな人間が住んでいるかは幾ら調べても住んでみなければ分からない部分がある。そこで問題になってくるのが、引っ越した先が薄情者の集まりでどうにも馬が合わない場合どうするのかという事だ。仕事等の都合で引っ越しをした場合、個人的に馬が合わないからと言って仕事を辞めて引っ越すわけにもいくまい。こう考えて見ると、中国で成功した親類を頼って尋ねる理由も分かってくる。成功した親類ならば思いやり深い人として信頼でき失敗が少ないのだろう。これぞ処世の知恵なわけだ。



1、朱に交われば赤くなる

君子として仁の徳を身に着けると言う視点で考えると、その最も良い方法は思いやり深い人に囲まれて生きる事だろう。と言うのも、誰かを思いやって得をした経験が無ければ、仁が大事だと言われても実感が沸かない。相手を思いやったのに、その相手からそっけなくされた経験ばかりでは、他人を思いやっても意味がないと刷り込まれてしまう。思いやった相手から親切にされるからこそ、仁の徳が大事だと実感できる部分がある気がする。君子として仁の徳を身に着けたいと考えた時、思いやり深い人に囲まれたほうが良いか、薄情者に囲まれて生きたほうが良いかは言わずもがなであろう。薄情者に囲まれていては、仁の徳を身に付けようにも難しいのだ。




【参考】

1、仏教に「地獄と極楽」という法話があるが、地獄ではなく、選んで極楽に住むのが知恵者と考えれば、孔子の言わんとするニュアンスに近いのではないか?






2、親族に権力者がいるなど、特権を享受できる時に大きく稼いでいくのが中国人らしいと考えれば以下の本も参考になるかも知れない。



0 件のコメント:

コメントを投稿