2018年8月11日土曜日

学而 第一 4

【その4】

曾参先生がおっしゃられた。私は日に三度、自分の行いを反省する。

他人の相談に、親身になれていただろうか?

友人に対し、嘘偽りをしなかっただろうか?

良く知りもしないのに、知ったかぶりをしなかったか?、と。





【解説】

心はコロコロ変わるため、実際に仁を実践するには、日に三省するくらいは必要と考えると良い。日に一度反省するだけでも素晴らしいと思われるが、そこを三度と言うのだから、実際は事あるたびに時間をおかずに反省していたのだろう。人間かくありたいものだ。


例えば、仕事帰りで疲れているとする。早く休もうというときに、妻に何か相談を持ち掛けられたとする。すると、今日は疲れているから休ませてくれとなるのが人情ではないだろうか。妻ならまだ理解が得られようが、これが他人だった場合どうだろう。話を親身に聞けるか、嘘を言ってごまかそうとしないか、知ったかぶりをして適当に話を合わせないか。もし仮にそういう事をしてしまったとしても、すぐ反省して次はしないように志を新たにする。その繰り返しが仁の徳を醸成していくのだという話をしている。このケースの場合、疲れがひどすぎてとても相談にのれそうもないなら、その事情を説明して、後日の約束をするくらいのことはするだろう。そしてお詫びにお酒でももって行けば良いのではないか。



孔子一向は士官先を探していたわけだから、口コミという視点でも考えて見よう。口コミで良い評判が広がれば、それを聞いた王から是非会ってみたいと言ってもらえる。逆に悪い評判がたてば、王どころか紹介すらままならない。口コミとはそういうものだろう。では、どうしたら良い口コミが広まるかとなるが、そのために彼は日に3度反省し、自分を律したのであろう。全く見事な人物である。現代人も彼に学ぶべき点は多い。後は、逆に考えれば良い。

他人の相談は親身に聞くと言うが、逆にそっけなくしてしまうと、例え士官先に心当たりがあっても紹介してはくれまい。友人に対し嘘偽りはいけないと言うが、友人の立場に立ってみれば、少なくとも言行一致の人間でなければ士官先を紹介できない。口では士官先を探していると言いながら、それらしい行動も無いのではその本気度が疑われる。知ったかぶりはいけないと言うが、もしそれが間違っていた場合相手を騙す結果となろう。士官先を紹介してもらえるはずもない。





【まとめ】

仁あるのみ





------  仏教の立場からの考察  ------

伝え聞く山本玄峰老子晩年の姿を見る思いがする。師は寝る前そう反省していたらしい。私心がなくなれば自然とそうなるはずであるが、これがなかなか難しい。

心は自由になるようで、まったく自由にならない。何を考えるかは、考えが浮かんでから分かる。そんなコロコロかわる心を律するにはどうしたら良いかという命題に思われる。結局、繰り返し繰り返し反省していくほか無いのだろう。脳には意思なるものはなく、単に反射しているだけという話がある。ならば繰り返しているうちに、反射が強化され、無意識にも自然とそうなるようにすることは可能なはず。心は自由にならないとはいえ、ある程度補正することはできる。ここに人生の妙味があるのかもしれない。


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