2019年1月2日水曜日

八佾 第三 11

【その11】

る人ていの説を問う。子曰く、知らざるなり。その説を知る者の天下にけるや、其れこれここに示すが如し、と。其のたなごころを指せり。



【口語訳】

ある人が諦についての説明を求めると、孔子先生はおっしゃった。私には分かりません。それが分かるなら、天下の事もここに示すが如きでしょう。と、手のひらを指さした。



【解説】

孔子は文献さえ十分ならば、自分の知識が確かな事を証明できたと嘆くくらいの人物だから、諦の説明ができなかったかと言われると、恐らくできただろうと思われる。だが、孔子は分らないと言っているわけだが、それは何故だろう。流石の孔子も文献が足りないのでは、細かい部分は説明できなかったかも知れないので、まずは素直に分からなかったから正直に分からないと答えたと考えて見る。人間は本を読むほどに自分の無知を知り、知らない事が多い事に気づくものだ。そうすると、自然と謙虚になるもので、賢人ほど自分の未熟も認識している。孔子は当時の賢人であったわけだから、本当は説明できたが自分の未熟な部分を思って、分からない部分もあると謙遜したと考えても自然だろう。孔子の本音はさておき、周りからはそう見えたはず。

だが、孔子は現代で言えば葬儀屋だ。葬儀屋が法要の事を聞かれて、分からないと答えるようでは商売あがったりである。そう考えて見ると、孔子が分からないと答えた事は不自然なのだが、分からないと言っている以上、相手に合わせる他なかったとも考えられる。どういう事かと言うと、例えば、秦の始皇帝のエピソードが分かりやすい。日本で馬鹿と言うと、仏教で無知を意味するサンスクリッド語のモハを音写した言葉だから、無知な人を馬鹿者と言う。だが、中国で馬鹿と言うと日本と同じ意味では無いのだ。中国における馬鹿とは、秦の始皇帝が鹿狩りに出た際、鹿と間違って馬を射ってしまった故事に由来する。ある時、始皇帝は鹿狩りで間違って馬を射ってしまった事があったと言う。鹿狩りで馬を射ってしまったとなると恥ずかしいミスだ。だから、面子が潰れると思ったのだろう。始皇帝は、射った馬を鹿と言い張った。そうすると、お付きの者達も倒れているのが馬だとしても、それが馬だとは言えない。言えば殺されるからだ。そこで、始皇帝に合わせて、馬を鹿だと言って祝ったのだ。これが中国における馬鹿である。

孔子が葬儀屋だったのにもかかわらず、法要を分からないと答えた事情を察するに、秦の始皇帝のエピソードがしっくりくるのでは無いか?また、恐らく孔子の相手は宿敵の三桓氏であろうから、単に説明したくなかったという部分もあったかも知れない。



【参考】

1、諦は、要は帝によって行われる法要。魯は特別に諦が許されていた。

2、始皇帝のエピソードは宮崎正弘氏を参考。














【まとめ】

言ってる事と、やっている事と、考えてる事が違う事もある。

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