2019年1月5日土曜日

八佾 第三 13

【その13】

王孫賈おうそんか問うて曰く、其の奥に媚びんよりは、むしそうに媚びよとは、何のいぞや、と。子曰く、しからず。罪を天にれば、 いのる所無し、と。



【口語訳】

王孫賈が訪ねた。奥の間に媚びるより、かまどに媚びよと言いますが、どう思われますか?孔子が答える。そうでしょうか?天から罰を受けるなら、祈りをささげる場所さえ無くなってしまいますよ。



【解説】

孔子が晩年、諸国を放浪していた際に立ち寄った衛での一節となる。当時の衛では、君主よりも臣下の王孫賈のほうが実質的に権勢を誇っていた。にもかからわず、孔子は君主のほうに礼をつくした挨拶をしたため、それを面白く思わなかった王孫賈が花より団子と茶々を入れた。王孫賈からすれば、力のない君主に礼を尽くすより、権勢を誇る自分に礼を尽くす方が得なのでは無いかという訳だ。

しかし、孔子はそうでは無いと答える。理由は、彼が周公の礼を復興する事こそ天命であると信じていたからであろう。孔子は礼の先生だ。言行一致の大切さも説いてきた。その孔子が花より団子と礼を無視しては、孔子は言っている事とやっている事が違うと思われ、弟子達もついてこなくなるし、孔子の話に誰も耳を貸さなくなるだろう。そうなっては、周公の礼の復興などおぼつかない。故に、花より団子が天に唾を吐くが如き行為となり、祈る場所も無くなる。あえて孔子の本音の部分を会話にするなら、花より団子と言いますが、私にとっては礼を守る事こそ団子ですよと言っていると考えても自然だろう。ただ、考えてもみて欲しい。そうストレートに言っては無粋だろう。だから、孔子は本音の部分は隠しつつ、恰好をつけて見せたのだ。天に唾を吐くような真似は出来ない、と。ピシャリである。



1、奥の間より、かまどに媚びよ

日本で言えば、花より団子と言う例えだが、歴史的に中国人が置かれてきた状況を裏返した言葉となる。中国に宗教があるとすれば、それは飯だと言うくらいに、中国人は飯にこだわる。何故そのような文化が育ったかと言うと、それは人民は常に飢えていたからに他ならない。中国では平和な時期はとても短く、戦乱が常であったため、毎日ご飯にありつけるという事が大変に稀な事だった。そのため、兎にも角にも、かまどの神に媚びて飯にありつこうと言う発想になるのである。故に、結構切実な言葉となる。

こういう背景を考えて見ると、王孫賈の花より団子と言う問いかけは、中国人ならば花より団子は当然のはずだよねって言っていると解釈できる。そこを孔子は天に唾を吐けぬといって恰好をつけるものだから、中国人にはとても不思議な人に映るのだろう。孔子の教えは、中国には残らなかった。



【参考】

竈は、かまどと読む。


下の画像は日本の奥座敷だが、信用置けない人物を奥まで案内するかと考えて欲しい。奥の間とは、そう言う意味だ。大概は奥の間に通されれば、かまども後からついてくる物だが、そう考える余裕もない事情が中国にはあったという事。












【まとめ】

何が団子かは人によって変わる。


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