2019年1月6日日曜日

八佾 第三 14

【その14】

子曰く、周は二代にくらぶれば、郁郁乎いくいくことして文なるかな。吾は周に従わん。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃた。周は夏・殷と2つの王朝に比べて、文化が秩序立ち、花が香るように盛んで美しい。私は周の礼法に従おうと思う。



【解説】

孔子が周の礼法を推奨する理由を述べた一節で、孔子が周の礼法を夏と殷の礼法が発展したものと考えていた事が分かる。花が香るようにとは、大変な褒め様だ。なお、監の訳し方によって、訳が多少異なるので触れて置く。監は監察と言う意味だが、監察した後に単に比較するのか、規範として採用するのかという問題がある。自分の口語訳では前者の比べるほうを採用して訳しているが、後者の規範として採用したと訳す訳者も多い。後者の場合、監を比べてではなく、かがみ見てと読む事になるが、これは日本人的な解釈となる気がする。

日本人は古事記の国譲りを見ても分かる通り、例え相手を屈服させたとしても、相手の顔を潰す事は好まれない。相手の面子を考えない人間は悪い評判が立つもので、キチンと相手の面子をたてる人間が好まれる。だから、日本人的な発想をすると、孔子は立派な人物だから前王朝の面子をたてたのだろうと考えて、2つの王朝より文化が発展したと前王朝を卑下するのではなく、2つの王朝の文化を引き継いだお陰で文化が発展できたと訳す。

比べて中華主義では、自分たちのみが文明を誇ると考えるから、例え前王朝であれ、周が前王朝の文化を規範とするなどあり得ない発想だろう。周から見れば、前王朝は野蛮人の国である。何故野蛮人から文化を引き継がなければならないのか?こう考えると、2つの王朝を規範とするより、比べてと訳したほうが中華主義にそっている気がする。中国では、本音はともかくとしても、周辺国は夷狄と蔑まなければ仲間内での立ち回りが難しい。



1、引く日本文化と、足す中国文化

孔子は周の文化を夏と殷に比べ華やかであるから良いと言っているが、実際にはシンプル・イズ・ベストの言葉もあるように、華やかにすれば良いとは限らない。そういった問題は言わば好みの問題であるから、華やかな事を嫌う人もいるのが現実だ。例えば、料理を例にとって考えて見よう。料理は毎日の事だけに、その民族性が現れやすい。日本料理では、素材の味を活かすために足す事よりも引く事に基本がある。下の画像を見て欲しい。




画像は日本ではお馴染みの冷奴だが、料理としてみれば、余計な物を足さずに豆腐の味を堪能してもらう事に注意が払われている。こうすると誤魔化しが効かないため、豆腐の味が不味ければ美味しくないし、豆腐の味が良ければ美味しいとなる。当たり前の話だが、実はこの事に誤魔化しを嫌う日本文化が垣間見える。それは、中国の麻婆豆腐と比べると良く分かる。





麻婆豆腐は筆者も大好物であるが、日本の豆腐料理に比べるとゴテゴテしている点に注目して欲しい。麻婆豆腐は日本のように豆腐そのもので勝負するという発想で作られた料理では無い。豆腐に美味しいソースを足して美味しくすると言う発想で作られている。これは麻婆豆腐だけではく、餡かけ料理にも顕著に表れている特徴で、例えば蕎麦一つとっても、日本は蕎麦その物の味を楽しもうとするが、中国は餡をかけて、餡かけソバとして楽しむ。善悪では無いのだ。何方も美味しい。ただ、引く日本と、足す中国と言う文化の差があると言う事を確認して欲しい。

そして、足す事で誤魔化す余地も生まれてくる。引けば胡麻化せないが、足すならば一つくらい粗悪な品があっても分からない。この相手を騙す余地を用意している所に、中国人のしたたかさを感じるのである。誤魔化す事を嫌う日本は引き、誤魔化す事が当然の中国では足す。発想の根源を感じるでは無いか。なお、長崎チャンポンでお馴染みのチャンポンと言う言葉は、色々なものを混ぜるという意味で、お酒の席でも様々なお酒を混ぜて飲むことをチャンポンと言ったりするが、その語源を辿ると中国の福建省にたどり着くと言う説がある。



【参考】

1、郁郁乎は、文化が盛んで秩序だっていると言う意味。まるで花が香るような華やかさと言うニュアンスとなる。


2、文は文化の意味で、文化とは礼楽制度を言う。文なるかなとは、何とも文化的だというニュアンスで、文化が盛んで美しい様を意味する。


3、料理の話は加瀬英明氏、石平氏を参考にした。















【まとめ】

比べると分かる事がある。

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